狐の記憶に触れるたび、私はあなたに恋をした

釜瑪 秋摩

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契約結婚の条件

第11話 帰宅後の違和感

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 朝霞邸の門をくぐった瞬間、玄関から華が駆け出してきた。

「お帰りなさいませ、奥様」

 その声には、明らかな安堵が込められていた。まるで私が無事に戻ってくることを、心から心配していたかのように。

「ただいま戻りました」

 私は軽く会釈しながら、華の表情を注意深く観察した。眉間にうっすらと刻まれた皺、僅かに震える手――。
 単なる使用人の気遣いを超えた、もっと切実な感情が見える気がした。

「お疲れになられたでしょう。お茶をお持ちいたします」

「ありがとうございます。華さん」

 居間に通されながら、私は華に声をかけた。

「ところで良い本はございましたか? どのような本をお求めになられたのでしょう?」

「文学書を少し。それから――」

 私は一瞬、躊躇した。古書店での出来事を話すべきだろうか。椋本という青年とのことを。

「それから?」

 華の声に、わずかな緊張が混じった。

「妖怪や怪異の本を何点か見かけました」

 その瞬間、華の表情がかすかに変わったのを私は見逃さなかった。眉がわずかに上がり、唇が薄く一線になる。

「妖怪の本、でございますか……お求めになられたのですか?」

「いえ。でも、あまり見かける機会がなかったので、少し気になりました」

 私は華の反応を見ながら、さらに続けた。

「とても古い本もたくさんありました。狐の妖怪の本なんかも」

「狐の妖怪……」

 華は小さく呟いた。その声は、ほとんど聞き取れないほど小さかった。

「それから、少し変わった方にお会いしました。椋本という方でしたが」

「椋本……?」

 今度は、華の顔から完全に血の気が引いた。湯呑みを持つ手が、小刻みに震えている。

「華さん、大丈夫ですか」

「は、はい。少し……少し疲れただけです」

 華は慌てたように笑顔を作ったが、それは明らかに作り笑いだった。
 その時、玄関から足音が聞こえた。理玖の帰宅だ。時計を見ると、まだ夕方の五時過ぎ。いつもより随分と早い。

「お帰りなさいませ、旦那様」

 華は慌てて立ち上がり、玄関へ向かった。私も後に続く。

「ただいま」

 理玖はがいとう外套を脱ぎながら、私の顔を見た。その瞳に、いつもとは違う冷たさが宿っているような気がした。

「今日は外出されていたようですね」

 私は驚いた。理玖は、私が外出していたと知っていたのか。

「はい、華さんと街を歩いてきました」

「そうですか」

 理玖はうなずいた。

「椿京の印象はいかがでしたか」

 その問いには、表面的な関心を超えた感情が込められているような気がした。まるで私の答え次第で、何かが決まるかのような。

「素敵な街ですね。明治の建物と江戸の面影が調和していて」

「他には?」

 理玖の追究は続いた。まるで特定の答えを求めているかのように。

「古書店に立ち寄りました」

 私がそう答えると、理玖と華が視線を交わすのを見た。ほんの一瞬だったが、確実に何かの意思疎通が行われた。

「古書店、ですか」

 理玖は興味深そうに答えると、私の目をじっと見つめた。

「どのような本をご覧に?」

「文学書を探していたのですが……」

 私は慎重に答える。理玖の表情を見逃さないように、その目を見つめながら。

「妖怪に関する本が多い店でした」

「そうですか。椿京は古い土地です。昔からの言い伝えが多く残っているせいでしょうね」

 理玖の表情は変わらないものの、声に微妙な変化があった。

「今でも様々な言い伝えが残っています」

「そうですね。店にいた方もそうおっしゃっていました」

 私がそう言うと、理玖の表情が一瞬、硬くなった。

「店にいた方、というのは?」

「椋本という方でした」

 その名前を口にした瞬間、空気が凍りついたような静寂が訪れた。理玖の顔から表情が完全に消え、華は息を呑んだ。

「鈴凪さん……」

 理玖が私の名前を呼んだ。その声は、今まで聞いたことがないほど真剣だった。

「はい」

「その方とは、何かお話しされましたか」

「椿京の歴史について少し。朝霞開発のことも」

 私は正直に答えた。契約の秘密保持条項はあるが、理玖に嘘をつくのは違うような気がした。

「朝霞開発のこと、ですか」

「はい。椿京の大部分を支配している、と、おっしゃっていました」

 理玖は深いため息をついた。まるで長い間恐れていた事態が、ついに現実になったかのような。

「鈴凪さん」

 理玖は私の目をまっすぐに見つめた。その瞳に、今まで見たことのない感情が宿っている。心配、というには重すぎる何かが。

「椿京は古い街です。時として、好奇心の強い人々が近づいてくることもあります」

 理玖の声は、いつもの冷静さを保っていたが、その奥に切実な響きがあった。

「そうした場合は、決して深入りせず、すぐに私に報告してください」

「はい」

 私はうなずいたが、理玖の言葉の真意を図りかねていた。椋本という青年は、そんなに危険な人物なのだろうか。

「約束していただけますか」

 理玖は一歩、私に近づいた。その距離の近さに、私の胸がぎゅっと痛んだ。

「約束します」

 私がそう答えると、理玖の表情がわずかに和らぐ。

「ありがとうございます」

 そして、理玖は私の肩にそっと手を置いた。

「あなたには危険な目に遭ってほしくありません」

 その言葉は、契約上の義務を超えた、もっと個人的な感情から発せられたもののように聞こえた。私は困惑した。理玖は、私をただの契約相手として見ているように思えない。

「あの……」

 私が何かを言おうとした時、華が口を開いた。

「旦那様、奥様、お食事の準備ができております」

「ああ、もうそんな時間でしたね」

 理玖は私から手を離した。

「今日は疲れたでしょうから、早めに夕食にしましょう」

 食卓に向かいながら、私は今日起こった出来事を整理しようとした。椋本という青年の奇妙な質問。華の動揺。そして理玖の、いつもとは違う反応。

 全てが繋がっているような気がするのに、私にはその全体像が見えない。まるでジグソーパズルの一片だけを渡されて、完成図を想像しろと言われているかのような。

「鈴凪さん」

 食事中、理玖が静かに口を開いた。

「はい」

「明日からしばらく、お一人での外出の際には、必ず行き先を華に伝えてください」

 その願いは、命令ではなく本当の「お願い」として聞こえた。

「何か危険なことでもあるのでしょうか?」

「……あるかもしれません」

 理玖は曖昧に答えた。しかし、その表情には確実な懸念があった。

「分かりました」

 私は頷いた。理玖が私の身を案じてくれているのなら、その願いに応えたいと思った。それが契約の範囲を超えたものだとしても。

 夕食後、自室に戻りながら、私は今日の出来事を反芻していた。椋本という青年。彼が残していった名刺。そして理玖の、あの心配そうな表情。私は窓から庭を見下ろした。石灯籠の周りに、うっすらと白い影が動いているような気がしたが、目を凝らすと何も見えなかった。

 きっと見間違いだろう。でも、この屋敷では見間違いと現実の境界が、時として曖昧になるような気がしてならない。

 ポケットに手を入れると、椋本からもらった名刺が指先に触れた。

 『理不尽な力から人を守る』

 ――彼の言葉が、頭の中で繰り返される。

 理玖は、その『理不尽な力』の側の存在なのだろうか。それとも、私を守ろうとしているのだろうか。理玖のさっきの話だと、椋本の方が危険なようにも感じられる。今の私には、まだその答えは分からない。でも、一つだけ確実に言えることがある。

 理玖の私を見る目が、確実に変わり始めている。それが何を意味するのか、私にはまだ分からないけれど。
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