鬼人の令嬢と王子の、前途多難な日々

猫丸

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第1部 鬼人の王国《紅蓮》

7 : 理想的な腹筋です

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 十二歳になって、クロエの日常は少しばかり、変わった。
 
 ハチス公爵家のお抱え魔鬼士に習っていた魔力操作の鍛錬を、今はエンヤルトの師から正式に手ほどきを受けるようになっている。素質があると言われ、鬼人の娘としては大変喜ばしい。
 このごろは補助呪文や回復呪文の実地訓練のため、戦闘訓練にも参加もしている。
 わりと単純なクロエは煽てられると木に登るたちなので、それはもう、「いったい何者になりたいの?」と周囲がのけぞるほどグングン上達しているのだ。

「はて? なんとなく……箱庭ゲームのわたくしに能力が近づいているような?」
 と、たまに思ってみたりするが、離れた場所の相手に魔力で通信する技能にはまだまだ達していないので、日々鍛錬あるのみ。

 そんなわけで、週に二度の模擬訓練の行われている鍛錬場で、せっせと回復呪文や疲労回復呪文を怪我人にかけている。
「はい、アクラン様。もう足首は痛みませんか?」 
「うん! ばっちりだ」
 ぐるぐると足首を回して確かめると、アクランは屈伸をして見せた。
「じゃ、また頑張ってくるよ!」
 さすが戦闘バカなだけあり、さっそく敵陣へ突っ込んで行った。
 …………戦況を見てほしいなぁ、なんて、少年の安定した脳筋ぶりに遠い目となる。
「あら、イズナル様、少しお待ちくださいな」 
 ヨロヨロと全身に「疲労困憊」と掲げた
イズナルを掴まえ、疲労回復の呪文をかけてやる。鬼人として素地の強さはイズナルもある。ただ文官適性の優れる少年に、かなり本気な模擬訓練はハードすぎるようで、毎回魂が脱けたようになるのだ。
「……いつもありがとうございます、クロエ嬢」
「頑張ってくださいね」
 恥ずかしいのか頰を染めるイズナルの背をポンと軽く叩いてやる。
 その後も次から次へと患者は途絶えない。王宮近衛鬼士の模擬訓練は、実戦さながらの本気度で、戦闘大好きな選りすぐりの鬼人たちは、手加減という単語は持ち合わせていないのだ。

「───怪我した、治せ」
 仏頂面でズイッと向けられたエンヤルトの腕には、小さな裂傷がちらほら。
ですか? この程度は薬を塗れば治ります」
 本日数度目のエンヤルトへ薬壺を目で示し、面倒くさいですと意思表示するクロエに、
「───今すぐ
 エンヤルトは引く気はないのか、眉間に縦皺を刻んでまで回復呪文を強請ってくる。
「………はい」
 この俺様め、と文句を言ってもどうせこの王子様は聞く耳ないのよね。
 はぁ……と、ため息をついて手を翳せば右腕の裂傷はすぐに塞がる。
「………そう言えば、先ほどお腹のあたりを押さえてませんでした?」
「あれか、腹を少し槍で擲られたけど、たいしたことはない」
「………腕の傷なんかよりが気になります。お脱ぎになって?」
 やっぱり! 治すなら完璧を目指しませんといけませんわ。
「………クロエ、それは、その」
「お脱ぎになってくださいませ」
「───はい、くそぉっ」
 バサッと上衣を脱ぎ捨てたエンヤルトの上半身を目にしたクロエは、固まった。
 初陣前の十二歳にはとても見えない見事な腹筋に目が釘づけになったのだ。
 すごいですわ!! お腹が四、いいえ、六つに割れてます! 凄すぎますわ!
「…………なんて綺麗なお腹なの」 
 ホウッと感嘆のため息がもれてしまうほど理想的な筋肉に、クロエの中の妙なスイッチが入った瞬間だった
「クロエ?」
「六つ割れですわ。素敵ですわ、殿下!!」
「えっ? あ、ありがとう?」
 エンヤルトの視線が周囲の眼差しを避けるように彷徨っていることなど気にも止めず、クロエはひたすらに腹筋をうっとりと見つめ続ける。
 モンド先生のお持ちの人体模型のような腹筋なのでしょう……ああ、腹筋あなたの弾力性を確かめねばなりません!
「───ッ!? ク、クロエ、待って!」 
 ぴと。ぺた。ぺた、ぺた、ぺた。
 純粋に学術の徒と化して好き勝手に触りまくる。
 驚愕に目を瞠るエンヤルトも、王子が羨ましすぎて嫉妬に震えるお相手のいない近衛鬼士たちも、探究心にかられたクロエにはどうでも……というか、微塵も念頭にはない。
 ひとしきり触って、
「───傷、ないですわ……ね?」
 素晴らしい腹筋にし、その腹筋に傷がないことにするクロエは、大変満足して瞳を潤ませた。

「その、クロエ、もう指、離して?」
 このお腹は護る価値がありますね。先生と相談して部位強化の効率的な呪文を考えなければ──と野望を広げていたクロエだったが、やけにたどたどしい声にストップをかけられ、渋々顔をあげた。
 エンヤルトの褐色の肌は赤味を帯び、額から滝のような汗。目は虚ろで何故か前屈みにもじもじと──俺様王子というよりもむしろ……子鹿。
「…………も」 
「も?」
「もう、行く、から」
 エンヤルトはぎくしゃくと機敏な彼らしくもない奇妙な動作で逃げるように去っていった。

 行くというならば名残惜しいが仕方ないけれど、理想的なサンプルと離れる淋しさを隠しきれず切なさでいっぱいのクロエは、この数分後に一部始終を見てしまった師匠に叱られることなる。

「少しは男心も勉強せいっ!」と。

 さらに、翌日大量の恋愛小説を手にしたハチス公爵夫人にも呆れまじりに言われるのだった。
 
「エンヤルト様が不憫すぎます。これを全部読み終わるまでお勉強は禁止です」と。

 
 
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