オルゴールを鳴らして

みちまさ

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何度もオルゴールを鳴らして -2

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それから数年が過ぎた。もうトニーさんのことも思い出さなくなって久しい。
その間に父親が倒れ、伯父を見送った。義父母が健在なのは幸い。娘は中学に入学した。子育てもひと段落かな。

夫が最近落ち着かず、寂しそうな顔をしている。可愛がっていた部下の女の子がとうとう結婚するから。何度も会話に出てくれば、いくら鈍い私でもわかる。仕事の良くできる利発な女の子。社内報で顔を見たことがある。夫の好みの顔で思わず笑ってしまった。
一度くらいは寝たのかしら?そんな事を考えても全く嫉妬の感情も湧かない自分がおかしくて、また笑ってしまう。
「どうしたの、突然笑って」
訝し気に夫が私を見る。
「ううん、思い出し笑いよ、フフフフ」
真面目な顔して、私が妊娠中に同僚の女の子と飲みに行って、平気な顔して今〇〇と飲んでる、って写真付きでメッセしてくる人だもの、何やってるか分かったものじゃない。
三十路前の子とはいえ、四十代になって二十代のの女の子に恋ができるなんて、まだ夫も男だったんだなあ、なんて思いながら、夫が結婚式に着ていくスーツをクリーニングに出した。

別れたい、な。
子供が成人したら。
最近そんな事をよく思う。

私が大好きなアーティストが亡くなってしまって、人生をやり過ごしいくらか頑張る励みにしていた、その人の新譜がもう出ないんだ、ライブもしないんだ、ということにも打ちのめされていた。
それにかこつけて、私は家族にも憚らず泣いて過ごした。
私が側にいてほしいと思う人は、皆いなくなってしまう。



夫は友達と釣りに出かけ、娘は習い事に行ったある日曜の昼下がり、珍しい人から電話が掛かった。
「晶、久しぶり!今いい?」
「久しぶり、真衣、元気?今大丈夫よ」
真衣は大学の時からの友達で、私が地元を離れたから随分会っていないけれど、それでも近況報告をたまにして繋がっていた。
「今度、そっちに行くから、飲みに行かない?」
「え?仕事で?」
「ううん。晶に会いたくて」
「真衣、有給取るよ!観光していってよ、案内するから!」
久しぶりに友達に会える。溜め込んでいた有休を今使わなくていつ使うの。旧友との再会に心が弾んだ。


新幹線の改札口。真衣を探す。
「晶!」
「真衣!」
何年ぶりだろう、真衣に会うのは。十年以上前に会ったきりな気がする。
「変わんないね、真衣」
「晶は雰囲気ちょっと変わったね」
「そうかなー?ほら多分髪が伸びたから」
十年経てば、人は変わらないわけはないけれど、お互いの変わらない部分を確認して安堵している部分があった。良くも悪くも、人は変わってしまうことがあるから。
観光地を案内し、楽しんでもらったと思う。私も楽しかった。
「ねえ晶、個室で美味しいお店、ある?」
私は予約していた店に個室がいいと再度連絡を入れた。
夫と娘には今夜は特別な日だから、とたっぷりシチューとお惣菜を作って置いてきた。心置きなく友達と語り合おう。

「積もる話があってさ……」
おしぼりで手を拭きながら真衣は言った。長い髪が自慢だったのに、今はすっきりショートカットにしている。ピアスが揺れて、彼女にとても似合っている。
「カンパーイ!」
ビールのジョッキを合わせた。大学生の時は安い居酒屋で粘ってたっけ。
「真衣、何かあるんでしょ?わざわざ会いに来るって言うなんて」
真衣は何かを言いに来た。そんな予感がしたから、私から切り出した。
「あー、やっぱり晶には隠せないねえ」
笑って真衣が答える。
「料理が来てから話すね。そうだ、晶は子供何歳になったんだっけ?」
「中一。やっと少し手が離れた気がする。真衣の所はもう大学生だっけ?」
「うん。今年からね。県外だからもうこっちには帰ってこないと思う」
「そうなんだ……」
「二十歳が成人って言うけど、実際には十八だね。いつからか十八歳成人になるんでしょう?唯花ちゃんそうじゃない?」
「そうだっけ?」
私は慌ててスマホで調べてみた。
”成年年齢が、2022年4月から、現行の20歳から18歳に引き下げられます”
政府広報のページにそう書いてある。
「あ、唯花は十八で成人するんだ……」
「ほら、あと五年だよ?あっという間。晶、それからの人生考えてる?」
「……ううん」
料理がやって来た。以上でご注文の品はお揃いでしょうか?という定型文にはい、と答えると、店員さんはごゆっくりどうぞ、と個室の襖を閉めた。

「私ね、離婚するんだ」
「え……?」
「子供が巣立ったでしょ?もし八十歳過ぎまで生きるとしたらどうする?あと四十年生きるって考えたら、夫と暮らすのは無理だって思ったんだ」
「でも旦那さんがあんなに好きで結婚したのに……?」
真衣は友達の中で一番早く結婚した。一番ラブラブで、恥ずかしくなるくらい夫への愛を表していた真衣が?
「あの人、一杯愛してくれたの。確かに。でもそれはずっと一人の人にじゃなかった。次々と浮気されて、好きでいられる?」
真衣は寂しそうに言った後、ビールを飲んで言葉を継いだ。
「三回目までは許した。でももうあれはそういう質なんだなと思ったら、腹も立たなくなったの」
その諦め方は少し私に似ていると思った。
「だからね、私もやってみたの」
「どういうこと?」
「知らない男の人と寝てみた」
真衣が知らない人に見える。恋愛してもいつも一途な子だったのに。
「何よそれ!」
思わず声が大きくなってうわずった。
「ほら今アプリとかで簡単に出会えるでしょ?だからそれで」
淡々と話す真衣が恐ろしかった。知らない人とその日に?寝てしまうの?
「でね、やってみたら……こんなもんか、って思ったの」
そういうことをしたことの無い私は意味が分からない。そのまま真衣の話の続きを聞いた。
「知らない男と散々セックスしたって、何も変わらないの。普通に晩御飯作って、当たり前に子供も夫も帰って来て、テレビばっかり見てないでお風呂入ってよ、って。普通に言えるの。……こんなもんか、って思うようなことで、私は結婚生活の殆どを悩まされてきたんだと思うと、本当に、馬鹿らしくて……」
真衣は目の縁に涙を溜めて、ジョッキを持つ手は震えていた。
「真衣……」
「……だからね、私、またちゃんと好きな人見つけて、その人と抱き合いたいって思ったの。もうあの人と一緒にいることが、耐えられない……!」
真衣が個室にしてほしいと言った意味が分かった。この話をしたら泣いてしまうとわかってたんだ。
「もう、旦那さんと話は終わったの……?」
私はそっと尋ねた。
「うん。浮気ばかりしてたから、いつもお願いしてる弁護士さんに頼んだ。やっと踏ん切りがついたんですね、って言われちゃった……」
泣き崩れる真衣の横に座り、抱きしめた。震える身体を撫でると、私にまで震えが伝わって来て、一緒に泣きそうになった。

少し落ち着いてきて、真衣が口を開いた。
「……だから、晶も無理しちゃダメだよ。時間は有限なんだから、自分のために使わないと。あの男友達とは、どうなったの?」
昔、うっすらとトミーさんのことを話していたことがあった。音楽の話ができる友達ができた、と。
「もう、何年も昔の話だよ~?全然会ってないし、連絡も取ってない」
「どうして?好きだったでしょ、その人のこと」
「えー?真衣、そんなこと無いって、好きなんかじゃ無かったよ?友達!」
「ウソ!惚れっぽくない晶が男の人のこと話すなんて珍しかったもん」
でも今さら彼を好きだったと言って何になるだろう。
「浮気はしないって決めてるから」
「そっか、晶は好きになったら本気だもんね」
友達の言葉で、自分の性格を思う。真衣の言う通り、私は好きになったらその人だけだから、味見してまた戻るとかはできない性分だ。
お互いに割り切って遊べてたら、もっといい思い出になってたのかな?
浮気はいけないことだと思う。だけどもう、夫への愛情は枯渇してしまった。無くなったというより涸れ果てた。心底好きでは無かったけど、一緒に生きていけると思っていたのに。
「うん。私が器用じゃないの知ってるでしょ?」
「お互いにね」
真衣が笑顔を見せてくれた。良かった。
私は自分の席に戻って、もう一度真衣と乾杯した。



真衣の言ったことが、最近何度も頭にこだまする。
”あと四十年、今まで生きたのと同じくらいの長さ、生きるかもしれないんだよ?”
職場でパソコンの手を止めた。
私はもう、十数年、誰からも抱き締めてもらっていない。
抱き締めることは、あっても。

その事実を意識してしまってからは、ますます夫と同じ空間で息をするのが辛くなった。夫の部下の女の子は産休に入り育休はそこそこで復帰すると聞いた。そんな事を嬉しそうに話す夫。
「へえ、仕事ができる子だったから、職場的には良かったねぇ」
私もそうだった。突然仕事を辞めてきた夫の為に、産後八週で私は働きに出た。元々身体の強くなかった私は、未だに体の不調が続いている。
多分その子も働かないといけない事情があるか、子供と二人でいたらおかしくなりそうなのかどちらかだ。
「そんなに早く復帰して身体は大丈夫かな」
他所の気に入っている女性にはそういうことが言えるんだ。私には一言もそんな言葉は無かったのに。私は買い物に行ってくるからとその場を立ち去った。
スーパーへの道のりを歩きながら思う。
唯花が大人になったら、成人したら、一人になろう。
今を耐えるために、自分へのニンジンをぶら下げて、私は生きることにした。



だから、その二年後に、オルゴールを見つけた時は胸が高鳴った。
私にご褒美が来たんだと思った。
トニーさんに渡せなくても、そう思って彼を思い出したことが何となく嬉しかった。
「晶さん、えらくご機嫌ですけど、何かいいことありました?」
五歳下の同僚だった松永君は、正社員だったからあっという間に私の上司になっていたけれど、変わらずに私を晶さんと呼んでくれていた。
「んー?オルゴールを買ったの」
「オルゴール?晶さんそういうの好きでしたっけ?」
「好きな曲がたまたまあったから。奥さん連れて行ったら喜ぶかもよ?」
「そうですね、行ってみようかな」
三年前に松永君は結婚した。子供は早い方がいいよって言ってるけど、まだ要らない、んだそうだ。奥さんがいくら年下と言っても三十代だから、女性としては早い方が体に負担が無いのにな。まあ、余計なことよね。他所のご家庭のことだもの。
私はその理由に少しも気付いていなかった。


職場の納涼会。こういう日は夫が早く帰って来てくれる。普段が残業しているのか遊んでるのか分からないから、たまには娘とこういう日に会話してくれたらいいな。
ビヤガーデンでの会だから、最初は並んでいるけれど、飲み物と食べ物を取りに行っているうちに、あちこちに仲良しのメンバーで輪ができる。私は、移動をする気にもなれず、ずっと同じ場所で食べていた。
「晶さん、どうしたんです?食べに徹してるの?」
ビールジョッキを持ってきたのは、女性社員に囲まれていたはずの松永君だった。
「ああ、松永君……じゃなくて主任、だったね。ゴメン。昔の癖で」
「久しぶりですね、そう呼んでくれるの。あ、唐揚げもーらい」
私の紙皿から松永君が大きな唐揚げを摘まんで、一口で食べた。
「最後の一つだったのにー!」
「珍しいですね、そんな風に言うの。酔ってる?」
松永君がジョッキを持って私を覗きこんで来た。いつもよりビールが美味しくて、少しピッチが早かったかもしれない。
「うん。ビールと唐揚げが美味しくて」
「ここより美味しいとこ知ってるから、行きません?もうお開きだし」
所長が「では皆さん一本締めで締めたいと思います」と締めの挨拶を始めたから、私と松永君も立ち上がった。
「みんなに二次会捕まる前に行こう」
何を言ってるんだろう?松永君?ボーっとしている間に私は松永君に腕を掴まれてエレベータに飛び乗った。まだ同じ職場の人たちは乗っていなくて、知らない人たちと乗り合わせた。
「私、帰るよ……?」
「降りてから話しましょう」
丁寧な口調とは裏腹に、混み合ったエレベータで私は、後ろから回された松永君の腕に包まれていた。あ、松永君の匂いだ。私は瞼が重たくて目を閉じた。

「着いたよ。降りよう」
エレベータが着いたことを教えてくれた声で、目が覚めた。聞いたことのない低い声。
「え……あ……ありがと」
「行くよ」
腕を引かれて、私と松永君は夜の雑踏に紛れた。
「唐揚げは、また今度で」
「え?」
けれど松永君はどう見ても駅の方には歩いていない。
「どこ行くの?」
夜の繁華街をずんずん歩いていく。
「この辺りのには行ったこと無いの?それとも行くの初めて?」
何のことだかわからない。
「何のこと?」
ラーメン屋とかクラブとかスナックとかが乱雑に並ぶ道を歩く。
急に横に腕を引っ張られてどこかの建物に入った。
「きゃ……⁈」
液晶画面に並ぶ部屋の様子を見て、やっと私はここがどこか、何を言われているのかを理解した。
「松永君、私帰る!」
「やだ。いい加減俺の気持ち、わかってよ」
振り払おうとしても腕を強く掴まれた手は緩まない。
「いい年して、どうして晶さんはいつまでもそんな風に俺を煽るわけ?」
「ね、松永君酔ってる、放して」
「そうだよ、酔ってる!」

どんどん彼は私を連れて奥に進み、部屋に私を放り込んだ。
「晶さん、どうしてそんなに無防備なの?どの男の前でもそうなの?ねえ、男を知らないにも程があるよ」
そう言いながら松永君は私を抱きしめた。しっかりと筋肉の乗った腕と体の温かさに驚く。それは私がずっと忘れていた、男の人の身体が自分に触れる感覚だった。
「……人一人産んだ人間掴まえて、何言ってるのよ……」
自分を落ち着かせるためにも、敢えて年齢をかさに着た言い回しをした。
「じゃあどうして、ずっと見てる男の気持ちに気付かないの?鈍くない?」
耳元で低い声が響く、こんな声を出すなんて知らなかった。これは私が聞いていい声じゃない。女を欲しがっている男の人の声……身体が震える。
「待って……松永君結婚したじゃない、可愛い奥さんいるでしょ?それにほら私随分年上だし……」
冷静になってもらわなくちゃ。私は現実を差し出したけど、彼の行動を止めるには、何の意味も持たなかった。
「晶さん、今あなたをこうしてて、俺が好きで結婚したと思う?俺、十年近く好きなんだよ?それに、三十八はもう子供じゃないけど?いつまでも子供扱いするなよ」
そんなの知らない。けれど松永君の顔はとても辛そうだった。左腕で腰を抱いたまま、彼の熱い右手が私の頬を撫でる。
「周りがうるさいから結婚したって言ったら怒るの?人の気も知らないでさ、何が子供早く作れだよ!」
松永君は私の顎を掴んで口づけた。閉じていた唇に指を差し込まれ、開かされると同時に舌が入って来る。
頭では抵抗しているのに、身体が言うことを聞かない。
キスすらずっとしていなかった私の身体は、急な出来事に全く対応できなかった。唇の感触や舌を、そのまま感じてしまう。勝手に身体が反応する。
「んっ……ん……」
誰か助けて、私、松永君としたいわけじゃないのに!
けれど彼は長いキスを止めない。身体の力が抜ける。
「晶さん……ゴメンもう無理、我慢できない」
松永君の吐息の混じった声は私の体温を上げる。彼はベッドに私を横たえた。
「ずっと好きだった。俺のものになってよ」
倫理的にダメだと思うことよりも、身体の反応を止める方が無理だった。
頭で考えても止められない。
もっと、して欲しい。
二度目のキスを、私は素直に受け入れた。
「――こんな声出すなんて、煽りすぎだよ、晶さん」
触れられるたびに、自分でも出したことのない声が上がってしまう。手の甲を噛んで耐えると、ゆっくりをそれを外して彼は言った。
「もっと、イイ声聞かせて……」
ずっとしていないことは言わなかった。別に松永君の為にしなかったわけでも取っておいたわけでもないから。
なのに、彼は私の中に入ってしまうと動かずに言った。
「するの久しぶり?どう?中の感覚」
恥ずかしくて言葉が出ない。何でそんなこと聞くの?いっぱいで苦しい。
「あ……」
「ほら、俺の形にしかならないもん」
それってどういうことだろう、と考える隙を与えずに、松永君は動き出した。
「――っあ、もっと、ゆっくり、して」
どうしていいかわからなくて私はシーツを掴む。その手を松永君はゆっくりと外した。捕まるものが無くて、思わず彼にしがみつく。
「いいよ。ちゃんと俺の下の名前呼んでくれたら、ゆっくりしてあげる」
綺麗な顔で笑いながら、松永君は交換条件を出した。
ああホントだ、いつの間に大人の顔になってたんだろう。子供扱いしてた私が間違ってた。
「あ……誡人かいと……かいと……おねがい、ゆっくり、して……」
「うん、晶、これが、俺だから、じっくり、感じて……」
耳元に途切れ途切れの言葉が届く。松永君が一番奥まで深く入った。
息が、できない。なのにふわふわして、どこかに飛んでしまいそう。
後はもう、されるがままだった。
泣いてもどれだけお願いしても、私が声を上げている間はずっと。
その日、私は結婚後飲みに行って、初めて外泊をした。


「ねえ、晶さん……」
松永君の手が私の髪を優しく撫でる。私の頭は彼の腕の上だ。
「ん……なに……?」
「俺、晶さんが離婚するまで待つから」
深く深く眠って、目が覚めて言われた言葉はそれだった。
「奥さんだって、松永君のこと好きなんでしょう?裏切りだよ、もうこれっきり……」
腕で頭を挟まれて、動けないようにされたまま唇を塞がれる。何度も気持ち良くなった身体は、簡単に唇と舌と口内から快楽を探し出してしまう。
「無理だよ。俺は晶さんのだから。こんなに気持ちいいなんて、思ってなかった」
私は、身体の相性というのはよくわからなかったけれど、松永君とこうなって、そういうのがあるんだ、と知った。
キスだけでこんなに蕩けてしまう。
夫とはこんな風にならなかった。感じたふりをして、終わるまで待つのが身体を重ねることだと思っていた。
私はおかしくなってしまった。昨日あんなにしたのに、松永君を好きな訳でも無かったのに、まだ身体が欲しがっている。
「ほら、そんな顔するくせに……晶さん、好きだよ……離さないから」
首筋を這う彼の唇に、また私は声を上げた。


「池田さんにお礼言わないとな」
「そうね、すっかり話し込んじゃって」
朝帰りをした私に、起きてきた夫がそう言った。私は同僚の独身女性である池田さんの家に泊まらせてもらう、と夫に嘘を吐いていた。

私は帰ってすぐにシャワーを浴び、家族のものと一緒に洗濯物を回した。松永君が残した跡を見ながら。
「晶さんは、俺の……」
と言いながら、松永君は私の腰の骨の所に赤い跡を残した。
「何でそんなことするの……!」
「ここなら打ったって言えばわかんないよ。寝てないんでしょ?旦那と」
笑いながら言ってたけどそんなの見つかったら誤魔化しがきかない。現に、私の右腕には彼が強く掴んだ跡が残っていたし、ほんの二時間前まで掴まれていたお尻にはうっすら指の跡がついている。
やっぱり全部本当のことなんだ。
私は松永君と寝たんだ。

「たまにならいいけど、事前に言ってくれよ?心配するから」
「うん、ゴメンね」
どういう心配なんだろう。定時で仕事を上がっても真っ直ぐ帰ってこない人が。
罪悪感は無かったけれど、バレるのが怖くて、私はいつも通りに振る舞うことに腐心した。
「お母さん、今朝のご飯なにー?」
目をこすりながら娘も起きてきた。いつかこの子も男の人に抱かれる日が来る。どうか、私みたいにならないで。
「クロックムッシュよー」
「やった!」
冷凍保存しておいたホワイトソースが数分でレンジの中で沸騰する。
凍らせる前よりも急激に熱くなったホワイトソース。
でもそれはゆっくりガスコンロで温めたものよりは味が落ちる。
私は、松永君を嫌いじゃないけど、男性として好きかと言われたら首を縦に振れない。
けれど、今私を抱き締めてくれるのは彼しかいない。
多分また私は彼に抱かれるだろう。



その後も、松永君は隙を見ては私の身体を求めた。
「晶さん、これに関する資料、古いやつなんで倉庫の方にしかないと思うんですけど、探してきてもらってきていいでしょうか?」
「……わかりました」
メモ用紙をもらって、その資料を探した。資料室は二つあって、ファイルが並んでいる資料室は社内にあるけれど、古くなった資料は奥の倉庫にしまうようになっている。古い案件で今頃問題が出てきたので、昔はどうしていたのかを確認する必要がある。ダンボールを運び、下ろして、その年の書いてある箱を探す。
「積み上がってるなあ……困る……」
最近のは手前にあるけど、五年前の案件で、脚立を準備しないと無理そうだった。
「晶さん」
「あ、主任、すみません、時間が掛かってて」
松永君が様子を見に来た。時計を見るともう三十分が過ぎている。私はすぐに見つけられないことを謝罪した。
「今は誡人って呼んで」
気付けば彼の腕が私を包んでいた。当たり前のようにお互いの唇が重なる。
「ん……ダメ、会社……」
「じゃあ、今週中に抱かせてくれる?……そうじゃなきゃここで抱くよ」
吐息交じりの低い声でそんなこと言わないで。
「どうしてそんな聞き訳が無いこと言うの……」
「……好きだから」
彼の名前は”いましめる”という意味の漢字が入っているはずなのに。どうしてそんなに自制が利かないの……。
身体が熱くなる。深いキスに立っていられなくなって、松永君にしがみついた。
「八年分だからね。俺、三十代全部晶さんのことだけ考えて生きてきたんだから、しつこいよ」
彼の手が私の頬や髪を撫でる。私の何が、どこがいいのかわからない。
「じゃあ、木曜日の昼間なら……」
その日はPTAの用事があるけれど、朝で終わってしまう。午後から出勤が面倒で有休を取った日だった。
「わかった。また連絡する。名前は?呼んでくれないの?」
どうやって時間を作るつもりなんだろう。簡単に休みなんて取れないだろうに。
「……誡人かいと……」
ロボットのように命令されて私は彼の名前を呼んだ。
「ありがと。その顔戻してからおいでよ?やらしいから」
松永君は私にまた軽くキスをすると、私の腰を抱いていた腕をほどき、資料の入った段ボールをすぐに見つけた。
「この中に入ってるから」
知ってて、私に頼んだんだ。この倉庫に私を連れてくるために。
「……意地悪ね」
「単なる上司の指示だよ。じゃあ後はダンボールを積み直して、該当資料を持ってきてください、林田さん」
私の結婚後の姓を松永君が呼ぶ。いつまでも慣れない夫の苗字。
「……わかりました」
松永君を好きな訳じゃない。なのに身体は勝手に熱を持って、彼に抱かれた感覚を思い出して反芻する。



木曜日、呼び出されたのは、地元からも会社周辺からも少し離れた地域の小さな無人駅だった。
”黒い車で待ってる”
ひなびた改札を出るとすぐ黒い車が停まっている。ドキッと心臓が跳ねた。これは、昔トニーさんが私を乗せてくれたのと同じ車種だった。覗くと松永君が乗っている。
”乗って”と彼の口の形がそう言った。
「晶……」
すぐに彼の手が私の顔に伸びて、私は目を閉じた。彼の唇は厚くて私の口なんてすぐに食べてしまうみたいにおし包む。

ああ、これが、トニーさんだったら。あの日、キスしてくれていたら。
私はどうして逃げるみたいに車を降りたんだろう。

松永君は少し車を走らせると、お洒落な建物に車を入れた。そういう目的のホテルに。
「いろんなところ知ってるのね」
「口コミとか調べたんだ。いつも行ってるわけじゃない」
それをけなげだ、可愛いと思えたならいいのに。最後の一言が余計ね。彼は綺麗な顔をしているから、誰だって相手はいるだろうに、どうして私なのだろう。
彼と寝た後に、混乱しながらネットを見ていたらこんな意見があった。
”四十代の女は飢えてるから、後腐れなく抱くにはお手頃”
”身体もいい感じに熟れてるしな”
もしそうだったとしても、それの何がいけないんだろう。
今私を抱きしめてくれるのはこの人しかいない。
「晶、一緒にシャワー浴びようよ」
ベッドまで彼が我慢できるはずもなく、私は浴室で抱かれた。

松永君と会うたびに、したことがないことをして、触れられて感じる場所が増えていく。
「もっと気持ち良くなって、晶」
「か、いと、そこ、好き……もっと……」
私は脚の間にある頭を見つめ、彼の髪を掴んだ。腰が跳ねるのを止めることができない。
私は初めて男の人に、そうされると好きだと言い、もっとして欲しいと強請った。
そしてその度に思った。
トニーさんはどう抱いてくれるんだろう、抱かれたらどんな気持ちになるだろう、と。


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