サーベイランスA

淀川 大

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第2部

2038年5月25日(火) 6

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 和風作りの庭は広く、隅々までよく手入れが行き届いている。金銀の装飾や大理石の彫刻などは置かれていない。木々の緑と石の鈍色。固定された無彩色で作られた美の中に四季に応じて植物が色の変化を伝えている。自然を人為によって定着させた景色には、中央に広い池が広がっていて、水面の波紋だけが時の流れ自覚させた。その池の辺に和装姿の老人が立ち、鯉に餌を与えている。
 掃き整えられた玉砂利を踏んで、神作真哉と重成直人が現れた。有働武雄は振り向きもせず、水辺の岩肌で黙って餌を撒いている。厚みのある岩の上に立っている彼は、元々長身であるせいもあり、神作の視線よりも上の位置に肩があった。その高い位置にある肩と目の前の背中は独特の強い威圧感を放っている。
 神作真哉は少し緊張した面持ちで姿勢を正すと、有働の背中に向けて一礼して、挨拶の口上を述べ始めた。
「おはようございます。新日ネット新聞社の神作と申します。この度は、ご多忙中にもかかわらず、こうしてご拝謁を……」
 神作が挨拶を終えないうちに、有働武雄は二人に背を向けたまま口を開いた。
「重成君。元気だったかね」
 重成直人は有働の背中をにらみながら答えた。
「ええ。お蔭様で。先生も御健勝のようで」
「どうかね。――見ての通りだよ」
 そう言って再び静かに餌を撒き始めた有働の背中は、どこか寂しげでもあった。静かなままの水面に餌を撒きながら、彼は背後の重成に尋ねた。
「それで、何の用だ。重成君」
 重成直人は答える。
「彼が、先生に二、三、ご教授願いたいことがあるそうですので、連れて参りました。ウチの社会部でトップ記事を担当する記者チームのキャップをしている男です」
 有働武雄は少し振り向くと、岩の上から流し目で神作を見下ろした。
 神作真哉は少し不機嫌そうに浅く頭を下げると、今度は挑戦的な態度で言った。
「どうも。神作です」
「うん」
 表情一つ変えずにそう一言だけ発した有働武雄は、再び背を向けると、また黙って餌を撒き始めた。
 神作真哉は重成に視線を送る。重成直人は黙って頷いた。
 有働武雄が言う。
「で、話は」
 神作真哉は単刀直入に質問した。
「司時空庁のタイムマシンのことです。このまま続けさせるべきか、そろそろやめさせるべきか」
「……」
 一瞬、有働武雄は餌を撒く手を止めたが、再び撒き始めると、神作に問い返した。
「君は、どう思う」
 神作真哉は即答した。
「やめるべきかと。一刻も早く」
 再び餌を撒く手を止めた有働武雄は、少しだけ横顔を見せて、さらに尋ねてきた。
「――うん。何故だ」
 神作真哉は率直に意見を述べた。
「犠牲が多過ぎます。もう十分でしょう」
 有働武雄はゆっくりとこちらを向いた。その顔は厳しかった。彼は岩の上から鋭い眼光で神作をにらんで、言った。
「十分? 犠牲と言うものに、許容できる分量があると言うのかね、君は」
「――いえ、それは……」
 その意外な問いかけに、神作真哉は答えに窮した。
 岩の上に立つ有働武雄は暫らく黙って神作をにらみ付けていたが、やがて業を煮やして彼に言った。
「神作君と言ったかな」
「はい」
「君は、国が為すべきまつりごととは、何だと思う」
 神作真哉は有働から視線を外した。少し考えて、彼は答えた。
「国民の幸福の実現……ですかね」
 確認するように神作真哉が視線を有働に戻すと、その老人は眉も瞼も瞳も鼻も動かさずに、岩の上から神作の顔をじっとにらんで言った。
「違うな。調整と対策、そして経済だ。内外の調整が治安と外交、対策が国防だ。では経済とは何か。経国済民。最終的には民を救うことだ。貧困と苦痛から国民を救うこと、それが経済だ。理財とは違う。そして、この経済とは、畢竟、広い意味での調整であり、対策でもある。だから、そのためには、なるべくなら犠牲を出さない方がいい。国民に犠牲を強いるようなら、本末転倒だ」
 彼は暫らく岩の上から神作に鋭い視線を向け続けた。そして、黙っている神作に呆れたように鼻から息を吐くと、後ろを向いて再び背を見せた。
 神作真哉は有働の背中に向けて言葉を投げた。
「先生も、あの事業はやめるべきだと」
 有働武雄は黙っている。再び一度だけ餌を撒いた彼は、少し間を空けてから答えた。
「一般論を述べているだけだ。だが、あの事業の実施は私が許可した。煮るも焼くも、私が決断すべきだとは思う。しかし、私は今、権力の外に居る人間でね。こうして池の鯉に餌をやるくらいしか出来ん」
 神作真哉は冷静に問い質した。
「ですが、いまだに先生の影響力は大きいのでは。事業を推進するために必要な部分を、しっかりと押さえていらっしゃる」
 一瞬だけ口角を上げた横顔を見せた有働武雄は、再び前を向いてから答えた。
「何のことだね。まさか、朝から私を、からかいに来た訳ではあるまい」
 神作真哉は核心に触れた。
「とぼけないで下さい。ご存知なのでしょう。あの発射管の中で何が起こっているか」
「神作」
 横に居た重成直人が神作を制止した。それは叱咤に近かった。
 有働武雄は二人に背中を向けたまま、二人に聞こえるように呟いた。
「今朝は撒き過ぎたな。鯉も腹を空かしていないようだ。まったく餌を食わん」
 有働武雄は横へゆっくりと歩き出し、踏み台代わりの小さな岩に慎重に足を掛けると、玉砂利の上に降りてきた。
 神作真哉は自分の前を通り過ぎようとする有働に、必死に食い下がった。
「津田長官は、田爪瑠香まで消し去ろうとしているかもしれないのですよ。あなたなら、止められるはずだ」
 重成直人は神作の腕を掴んで引き戻すと、彼に言った。
「やめろ神作。ここは編集フロアじゃない。政治の場だ。考えろ」
 神作真哉は重成の腕を振り払うと、有働を指差しながら言った。
「そうですよ。この人は政治家でしょう。だから言っているんですよ。だが、この人には事業を止める気は無い。何が国民に犠牲を強いるなら本末転倒だ」
 有働武雄は足を止めて、背中を向けたまま彼に言った。
「その政治家の力を削いでいるのは、常に君らマスコミではないのかね。にも関わらず、都合が悪くなると、今度はすがってくる。随分と虫がいい話だな」
 神作真哉は真剣な顔で述べた。
「何と思われようが構いません。人の命を助けたい、それだけです」
 そこへ、何処からともなく現れた背広姿の中年の男が、頭を垂れて有働に言った。
「先生。朝食の準備が整いました」
「ん。そうか。今行く」
「先生!」
 呼び止めた神作真哉の方に顔を向けた有働武雄は、淡々とした表情で神作に言った。
「すまんね。私は朝食を取るのか遅くてね。朝はやることが多くて、つい後回しになってしまう。いつも、この時間だ」
 再び背中を向けて歩いて行く有働に、神作真哉は必死に訴えた。
「このままでいいんですか。家族の転送まで始まったのですよ。このままでは、どんどんエスカレートしていきます。早く事業を停止して、あの施設は封鎖しなければ……」
 また立ち止まった有働武雄は、前を向いたまま少し大きな声で神作の発言を遮った。
「神作君。あの施設は、あの事業だけが目的の施設ではないのだよ。現に、各国首脳や要人の宿泊施設として利用されることもある。敷地の滑走路は、各国の政府専用機の専用滑走路だけでなく、緊急用や臨時便の一般飛行機の発着にも使用している。隣の総合空港の補助としてな。便利がいい。それに、多くの業者も出入りし、雇用も創出している。記者なら、こういった点も視野に入れておくんだな。そうすれば、無駄な動きをせんで済む」
 神作真哉は納得しない。彼は最後の切り札を切った。
「田爪瑠香が殺されたら、真実を証言できる人間はいなくなるのですよ。何としても彼女を救い出さないと」
 振り向いた有働武雄は刃のような冷たい視線を神作に向けながら、ゆっくりとした口調で言った。
「一つ忠告しておこう。あの施設に入ろうと思っても無駄だ。君らの実力では、どうにもならん。無理をして失敗すれば、その男のようになるぞ」
 有働武雄は重成を指差す。
 神作真哉はすぐに言い返した。
「本望ですね」
 有働武雄は一度小さく鼻で笑うと、説き伏せるように神作に言った。
「そうか。だが、未来ある若者はどうかな。君らとは違って、苦痛に耐えなければならない期間が長いだろう。酷過ぎるとは思わんかね」
 重成直人が険しい顔で口を挿んだ。
「部下は関係ありませんよ。それに、過去の因縁は、俺とアンタの間の問題だ。この件とは関係ない」
 笑みを浮かべて下を向いた有働武雄は、重成に言った。
「今更、気にはしとらんよ。ならば、こんな見当違いはせん」
「見当違い?」
 聞き返した神作を無視して、有働武雄は秘書からメモを受け取り、言った。
「重成君、君はそろそろ定年退職だったな。私はてっきり、昔咬みついて来た男が再就職先の紹介を頼みに来たのかと思ってね。私はこう見えて、実は情け深い人間だから、こうして準備してやったのだが……。いやあ、どうやら私も、随分と焼きが回ったようだ」
 有働武雄は重成にメモを手渡した。メモを広げて読んでいる重成に有働武雄は言う。
「そこは、都内の一流ホテルや料亭に料理人の派遣をしている会社だ。ウチにも料理人を何人か入れている。君は料理をするんだったかな」
「いいえ。不器用でして」
 有働武雄は鼻で笑ってから、言った。
「独り身なら簡単な炊事くらいするだろう。ちょうど調理補助の人手が足りないらしい。芋の皮剥きくらいならできるんじゃないか。一度、訪ねてみるといい。話はしてある」
 神作真哉は握った拳を腿の横で振るわせて言った。
「あんたって人は……」
「神作」
 彼に注意した重成直人は、有働の顔をにらみ付けながら、冷静に対応した。
「お気遣いいただき感謝します。ですが、私も歳が歳ですので、よく考えさせて下さい」
「シゲさん」
「いいんだ」
 神作に言い聞かせた重成直人は、受け取ったメモ用紙を黙って折りたたむと、上着のポケットに仕舞った。
 再び二人に背を向けた有働武雄は、去り際にこう言った。
「ま、自分の分を知るいい機会だ。よく考えて、挑戦してみる気になったら、やれるだけやってみたまえ。ただ、腰を痛めても私のせいにはせんでくれよ。そこまでは請負えん」
 彼は横顔で軽く笑って見せると、秘書と共に屋敷の方へと去っていった。
 神作真哉は有働の背中をにらみ付けながら、顔を紅潮させて歯軋りする。
「あの野郎、何が芋の皮剥きだ、馬鹿にしやがって……」
 重成直人は苦笑いしながら神作の背中を一度だけ軽く叩くと、玉砂利の音を鳴らしながら、通用口の扉の方へと歩いていった。
 神作真哉は申し訳無さそうに重成の背中を見つめていた。
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