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動き出す目
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健太はようやく母親の料理を久しぶりに食べたんだ。
俺と張り合い、小さなトレーを持ち上げておかわりしてたんだ。
きっと、次の日の幼稚園には母親が作ってくれた弁当を持って行っていたんだ。
何度も同じことを考えた。また、涙が出てくる。
(何も食ってないのに涙は出るんだな)
また同じことを思う。この繰り返し。
「ピンポーン」
インターフォンが鳴る。誰かが来たようだ。勿論俺は出ない。
「ピンポーンピンポーン」
しつこい。何度も鳴るインターフォンにイライラしたが出ない。しかし、訪ねてきた奴もかなりしつこい奴らしい。
「ピンポーンピンポーン」
と鳴らしてくる。
「くそっ」
俺は根負けしてのそのそと布団から出ると、玄関に向かった。
玄関を開けると、あの時一緒だった鈴木先生が立っていた。先生の顔を見た途端、フラッシュバックのように思いだす。風呂場でびしょぬれになり、健太の名前を呼び続ける俺を見ながら真っ青になって立ち尽くしていた先生を。
俺は黙って玄関を閉めようとした。
「待ってください!」
先生は玄関を掴んだ。
「健太君のお葬式。どうして来なかったんですか?」
(行けるわけがない)
「あなたのせいじゃないと思います」
(俺のせいだ)
「あんな不思議な事・・・・・・健太君。死因は凍死だそうです」
(凍死・・・・・・)
「私と一緒に健太君の家に行ってお線香あげに行きませんか?」
(家になんか行けるわけがない)
ずっと黙っている俺を先生はじっと見る。まるで、あんたのせいで健太君は死んだと言われているようだ。いたたまれなくなった俺は今度は力強く玄関を閉めた。
「バタン!」
と大きな音を立ててしまった玄関の所で俺は動けなかった。
「どの面下げて健太の所に行けばいいんだよ」
俺はその場に崩れ大声を出して泣いた。
玄関で大声で泣く息子を見ながら私は
「どうしたもんかね」
「何が?」
「健太の家で見た奴さ」
「ああ。あの目の事」
「あいつが健太を殺したんだよ」
「うん」
「かなり厄介だよ」
「あの後さ、健太君の家に行ってみたんだけど、近寄れなかったよ怖くて」
「そうかい」
「・・・・・・息子さん。大丈夫かな」
「分からないね。駄目になるのも立ち直るのも自分次第さ」
「自分の子供なのに冷たくない?」
「私は昔からこういう考えだからね。しょうがないよ」
「ふ~ん」
私と真理は、未だ泣き続けている息子を前に話していた。
「ちょっと、健太の家に行ってみようかね」
「え?行くの?」
「何だい?」
「私は留守番してる」
「勝手にしな」
私は二階へ上がると、久しぶりに窓を開け健太の家に向かって飛んだ。
健太の家が見えてきた。住宅がたくさん並ぶ中、健太の家だけ暗く淀んでいるように見える。
「気のせいかねぇ」
庭に降りると家の中を覗き込んだ。誰もいない。そっとサッシを動かすと開いた。
「不用心だね」
そのまま家に上がり、母親を探す。何となくあの和室は避けて探した。しかし、どこにもいない。
「いないね。やっぱりあそこか」
私はあの和室へ向かった。
いた。
健太の母親は、健太の位牌を抱いて泣いていた。自分より子供の方が先に死ぬという事はかなり辛いだろう。息子からまだ詳しい話を聞いていないから分からないが、あの時見た、嬉しそうに食卓を囲む4人は、今までの事が解決へ向かう事への嬉しさからくるものではないかと予想は出来た。その矢先にあんな事が起きたのだ。
私はあの目が合った場所を見た。今は何もない。
「あれはいったい何だったのか」
暫くその場所をじっと見ていた。
「おばさん」
突然声がしてびっくりしてみると、何と健太が私の隣に立って私を見ていた。
「なんだい?!あんた」
健太は幼稚園の服を着て、くりくりとした大きな目で私を見ながら
「おばさん。僕ね食べらちゃったんだよ」
「は?」
「あの黒い穴に食べられちゃったの。お祖母ちゃんと同じなんだ」
そう。確かに言っていた。お祖母ちゃんは真っ黒い穴に食べられちゃったって。真っ黒い穴とは目の事だったのか。
「そうかい。で、お祖母ちゃんは今一緒にいるのかい?」
「ううん。いないよ」
「いない?」
「うん」
「そりゃ駄目だね。健太と一緒にいてやらないといけないよ。・・・・・・そうだ。健太。健太の事を食べた奴と合わせてくれないかい?」
「え?あの黒い穴と?」
「そう。ここにまだいるんだろ?」
「うん。今度はお母さんを食べるんだって」
「ふん。お母さんを食べる前に私を食べないかねぇ」
「聞いてみるよ」
そう言うと健太はフッと消えた。その瞬間、私の体からどっと汗のようなものが出た。
「死んでも汗は出るのかい。厄介だね」
冷静に話していたつもりでも、私なりに驚いたらしい。
それにしても、あの目が一体何なのか。健太を食べ、今度は母親を食べるという。だいたい、食べるという事自体が理解できない。
目の前では、位牌を抱いた母親が健太の名前を呼び続けている。
「おばさん」
健太だ。
「どうだった?」
「嫌だって」
「は?何で」
「汚いって」
「はぁ?!失礼なこと言うね!全く」
「だって本当にそう言ったんだもん」
健太は私の剣幕にオドオドしながら言った。
「健太はそいつがいる場所に行けるんだろ?だったら、私を近くまで連れて行っておくれよ」
「う~ん。いいよ」
健太は私の手を取り部屋の中へ入っていった。同じ死人同士だからか、今度は健太の温もりが分かると思ったが、健太の手は氷のように冷たい。母親をすり抜けながら、カーテンの閉まっている窓の方へ歩く。
「ここにいるんだよ」
健太は、私の目の高さの場所を指さしながら言った。
「そうかい」
そう言うと私は大きく息を吸った。
「汚いとは何だい!失礼な事を言う奴だね!そう言うあんたはどうなのさ!小さい子供の命取っておきながら悲しむ母親を見て笑ってるんだろ?あんたの方がよっぽど汚いね!」
と大声で叫んだ。健太は驚いて私を見ている。
「お、おばさん」
「ふん。いけ好かない奴だよ。食べるのを選り好みする奴はろくな奴がいない」
言いたい事を言って、スッとしていた時だ。
突然、私の顔の近くに大きな黒い穴が現れた。よく見るとあの目だ。余りにも近くて穴と思ってしまったのだ。かなり驚いたが、負けん気の強い私はその目を睨んだ。相変わらずその目から感情は読み取れない。
「何か言いたいことがあるのかい?」
返事はない。
「チッ!」
私はイライラして目の前にある黒い穴に指を突っ込んだ。
「あっ!駄目だよ!」
健太が慌てて言った。その言葉は私には遠くの方で聞こえた。
「おばさん。大丈夫かな」
家で留守番している真理は心配していた。息子は玄関で大泣きした後また、自分の部屋へ戻って行った。真理は玄関に座りながらおばさんの帰りを待っていた。
「やっぱ。私も行った方がいいのかな」
カタカタ
どこからか、固い音がする。
「え?何の音?」
真理は周りをキョロキョロと見るが分からない。また同じ音がする。
カタカタカタ
音の正体が分かった。玄関の脇に置かれていた骨壺だ。
「え?動いてる!なにこれ・・・・・・壺?」
気味が悪いが、真理骨壺をよく見た。それはどうやら、家の中の方に向かっているようだ。まだ若い真理には、その壺が骨壺だとは分からなかった。カタカタと音をたてている骨壺を見ている時、二階から息子が下りてきた。息子も、この壺の音を聞きつけてきたのだろう。辺りを不思議そうに見渡している。
「ね。これよこれ。動いてるの」
真理は必死に知らせるが、もちろん聞こえない。
「もう!あ、ノート!・・・・・・駄目か。私は物に触れないんだった」
じれったい気持ちで息子の様子を見ていると、息子も骨壺に気がついたようで骨壺をじっと見ている。その間も骨壺はカタカタと家の中に向かって少しずつ動いている。
「お袋?いるのか?」
息子は気味悪そうに骨壺を見ながら声をかける。
「いないわよ。出かけてるんだもん」
代わりに真理が返事するが息子には届かない。
「でも、何でこれ家の中の方に動いてるのかしら?・・・・・・もしかして、おばさんに何かあったんじゃ」
真理は、急いで家を出ると健太の家に走った。
「ん?」
気がつくと周りは真っ暗だ。
「なんだいここは・・・・・・確か、あの目が出て・・・・・・そうだ!アイツの事を突っついてやったんだ」
状況が呑み込めた。おそらくアイツに食べられたんだろう。
「ふん。あんたの中はこんなに真っ暗なんだね。闇だ闇。陰気臭いね全く。お~い誰かいないのかい?」
私は暗闇に向かって大声で呼びかけて見た。返事はない。
「ふ~ん」
私は腕を組み考えた。
(この中に健太のお祖母ちゃんはいるんだろうか・・・・・・)
「健太のお祖母ちゃんいるかい?私はね、健太の友達なんだよ。ちょっと年が離れてるけどね。健太のおばあちゃんいるなら返事しておくれよ。健太はねこいつに食べられて死んじゃったんだよ」
その時、目で確認できたわけではないが、真っ暗な闇がグワンと動くのを体で感じた。
(反応したね)
「健太はね。とてもいい子だよ。元気で素直で・・・・・・」
また闇が反応する。真っ暗なのでどう動いているのかハッキリとは分からないが、感じるのだ。闇がグネグネと動く様子を体で感じる。
「健太のお祖母ちゃんがいたら、健太の事で話がしたいんだ。出て来れるかい?」
今まで動いていた闇がピタッと動きを止めた。
「・・・・・・」
私は静かに待った。無音の中、全神経を闇に集中した。暫くすると
「健太・・・・・・」
声がする。かなり遠くから名前を呼んでいるように聞こえる。私はじっと待つ。
「健太。健太」
声が近づいてきた。先程よりハッキリ聞こえる。
「健太」
私のすぐ前で声が聞こえた。闇をじっと見ていると闇に紛れて一人の老婆が、ゆっくりと私の前を右から左へ歩いているのが見えた。その老婆は、とても薄く。薄いと言っても厚さではない。存在が薄いのだ。油断すると闇に溶け込んでしまうぐらい薄いのだ。
「健太のお祖母ちゃんかい?」
私は声をかけた。老婆は私の声が聞こえるのかゆっくりとこちらを見る。不思議と暗闇の中でもその顔は確認することが出来た。とても穏やかな顔だ。しわくちゃな顔だが、中からにじみ出る優しさが顔に現れているようだ。腰が曲がっているせいもあるが、とても背が低い。色は分からないが、花柄の着物を着ている。
「健太のお祖母ちゃんかい?」
私はもう一度聞いた。老婆は、穏やかな顔をさらにしわくちゃにしてニコリと笑うと
「はいはい。健太のお祖母ちゃんです」
と言った。
「そうかい。ちょっと聞きたいんだけど、健太はここにいるのかい?」
「健太?」
驚いた表情をすると考え込み始めた。その様子を見ていたが、いつ消えてもおかしくない程の薄さだ。じっと目を凝らしてみるのが辛い。
「あのね。実は健太は死んだんだよ。こいつに食われたんだとさ。あんた。この目の事知ってるかい?」
「死んだ・・・・・・健太が・・・・・・目・・・・・・」
さらに考える。
「そう。目だよ。大きな目」
「大きな目・・・・・・」
またさらに考える。
「あんたもこれに食われたんだろ?真っ黒な穴に入ったって健太が言ってたよ」
「真っ黒な穴・・・・・・」
考える。
「もう、いい加減にしておくれよ。こっちの目がおかしくなっちまう」
ため息交じりにそう吐き捨てた。
「じゃあ。その目いらないだろう?おくれよ」
「え?」
咄嗟に私は逃げた。どこに向かっているかなんて考えずに逃げた。走って走って走りまくる。
(なんだい?!今のは。あのお祖母ちゃんが言ったのかい?それにしては声が別人だった。どういう事なんだろう)
追いかけてくる気配はない。しかし、何かにじっと見られている感じがいつまでも取れない。
(死んでて良かったよ。どんなに走っても疲れないからね)
そんな事を考えながら走った。
「おばさん!!」
突然どこからか真理の声がした。
「真理かい!どこにいるんだい!」
「こっちこっち」
必死に声がした方を探る。
「わからないよ。どっちだい?」
「こっちよこっち!」
「お袋!こっちだ!」
息子の声・・・・・・・
私は足を止めふと下を見た。真っ暗だった足元が次第に明るくなり、真理がこちらに手を伸ばしているのが分かる。私はしゃがむとその明かりに向かって真理の手を掴むように手を伸ばした。
「掴んだ!」
私がそう言った時、視界が急に明るくなった。眩しさを我慢して目を開けるとあの和室にいた。私の前では真理が安心したような顔で私の手をしっかり握っている。
「おばさん、やばかったんだよ!」
「ははは」
「笑い事じゃないって、私、やっぱり心配で来て見たら健太君が慌てて教えてくれたの。おばさんが食べられたって。本当焦った~!」
「ああ。やっぱり食べられたんだね」
「やっぱりって・・・・・・どういう事?」
私は先程の事を真理に話して聞かせた。。
「ふ~ん。じゃあ。アレは生きてる人間も死んだ人間も食べるんだ」
と横を向く。私も同じ方向を見ると
いる。
大きな目が一つ宙に浮いている。しかし、前に見た時とは若干異なる所がある。私を見ているのだ。前は、何を見ているのか分からなかったが、今は明らかに私を見ている。
「おばさん」
健太が隣に来た。
「健太。真理に教えてくれたんだってね。ありがとうね」
「うん。おばさんが急にす~って入っちゃったからびっくりした」
「そう。吸い込まれた感じがしたよ」
もしかしたら、吸い込まれた様子を健太は食べられたと表現したのかもしれない。
「うん。・・・・・・おばさん」
健太は悲しそうな顔をしている。
「どうした?」
「お母さんも食べられちゃうんだ。おばさん。お母さんを助けてあげて」
「え?お母さんが?」
真理は、今も仏壇の前で位牌を抱き健太の名前を言い続けている母親を見た。
「ねえ。もうこの人壊れちゃってるんじゃない?」
真理は私にそっと小声で言った。確かにそう見える。しかし、健太の母親だ。健太に助けてと言われれば助けてやりたい。
「何でお母さんが吸い込まれると思ったんだい?」
「だって、あの黒い穴が言ったんだ。今度こそこいつだって」
「今度こそ?」
「うん」
(ふ~ん。なるほどね)
大体わかってきた。
「健太。お母さんと話すことなんてできるかい?」
「出来ないよ」
「そうか。でも健太はとてもいい子だ。何かできることが一つでもあるはずだよ。探してみよう。なるべく急いでね。それと真理。息子に手紙を書くから渡して・・・・・・あ、無理か」
「ごめん」
真理はすまなそうにする。
「いや。私が悪かった。真理も何かできることあるはずだよ。色々試してみよう。時間がない」
「待っておばさん。私にも出来る事があるよ。息子さんここに連れてきたいんでしょ?私やってみる!」
そう言うと真理は壁をすり抜け家から出て行った。
「何をやってくれるんだろうね」
期待半分で待つことにした。
(私だって、何かできることがあるはず)
真理はそれだけを考えながら家に向かって走った。家に着くとそのまま壁をすり抜け二階へ上がり息子の部屋へ入る。息子はまだ布団を頭まで被ってじっとしている。
「寝てるのかしら?」
真理は息子の近くへ行き布団をめくろうとするが、案の定すり抜ける。
「だよね。でも」
真理は、布団ををすり抜けた自分の手を息子の体に伸ばした。触れる。体温は感じないが、何かに触っているという感覚は分かる。
「よし」
真理は気合を入れると、息子の体を思い切り押した。すると、息子の体が布団にめり込むように沈む。ソレに驚いた息子は飛び起き
「なんだ?なんだ?」
と、周りをキョロキョロしている。
「よし」
真理はもう一度気合を入れ、今度は息子の手を握った。
「うわ~!」
息子は手を振りほどこうと闇雲に手を振る。それに負けじと真理も力強く握る。
「わっわっわっ」
言葉にならない声を出しながら息子は必死になって、振りほどこうともがく。
「ちょ、ちょっと。あんまり暴れないでよ!」
真理も必死に手を握り、布団から引きずり降ろそうと引っ張る。息子は見えない何かに手を握られ引きずられることに、顔を真っ青にしながら抵抗する。結果。勝ったのは真理だった。何故なら、真理は疲れることはないが生きている人間は疲れが出る。ぐったりとした息子は真理に手を引かれ、家を出ると健太の家に引っ張られていった。
通り過ぎる人たちは、片腕を前に出し、青い顔で何かに引っ張られるように歩く中年の男を気味悪そうに見る。ようやく健太の家に着くと、今度は背中を押して玄関に押し付ける。真理は玄関を開けられないのだ。
「いたたた!」
と、悲鳴を上げる息子は、ここがどこなのかようやくわかった。分かった瞬間、踵を返し走り出す。
「あっ!逃げた!」
真理は急いで追いかけ、また手を引っ張り健太の家まで何とか連れてくる。
「おばさ~ん!息子さん連れて来たよ!おばさ~ん!」
真理は外から大声で叫ぶ。すると、玄関が開きおばさんが立っている。手にはメモを持っていた。そのメモを息子の顔の前に出し読ませる。
「嘘だろ・・・・・・」
そのメモに書いてあったのは
(健太がいる。今度は健太の母親が死ぬよ)
とだけ書かれていた。
息子は抵抗するのをやめ、急いで家の中には入って行った。
家に入ると真っ直ぐにあの和室に向かう。そこには位牌を抱き健太の名前を呼び続けている母親が座っている。
「お袋。いるんだろ?」
私は健太の家のメモ帳を拝借し
(あいよ。ここにいるよ)
「どういう事だよ」
(これを読みな)
私はあらかじめ書いておいたメモを息子に渡した。
(この部屋にはね。健太のお祖母ちゃんがいる。でも、そのお祖母ちゃんはもうお祖母ちゃんではなくなりつつあるんだ。鍵はやっぱりあの手紙だね。もしかしたら、健太のお祖母ちゃんはあの手紙を誰かに渡したかったんじゃないのかね。それがきっと心残りだったんだよ。未練って奴だね。成仏できなかったんだ。きっとその事を健太の母親は知ってたんじゃないかと思うんだ。だから、お祖母ちゃんは健太にその思いを託そうとしたんじゃないのかなと思う。前に健太に聞いたけど、「お願いね」ってお祖母ちゃんが言ってたらしいからね。だけど、その思いが強すぎてあらぬ方向へ行ったんだよ。憎しみと言う方向にね。憎しみという感情は、我を忘れさせてしまうものだからね。これは私の想像でしかないから断定はできないけど、勘だね)
「その憎しみが今度は母親を殺す。って事か」
(多分ね)
「健太は大きな目を描いていた。あれは何なんだ?」
(だから、お祖母ちゃんの想いが目と言う形で現れたんだよ)
「見てる・・・・・・って事か」
(そうだろうね。ちゃんと渡してくれるのか心配だったから最後まで見届けたかったんだろ。手紙の行方をさ)
「あの手紙・・・・・・確か、あの日ここに持ってきたんだよ。で、あんなことがあって。どこかにあるはずだ」
「ここにあるよ」
真理の声が離れた所から聞こえる。行ってみると茶の間のごみ箱の近くに真理は立っていた。
「捨てたのかい・・・・・・」
私は少し呆れてしまった。きっと母親だろう。手紙を取り息子の方へもっていく。
「あっ!あったのか!良かった」
俺はくしゃくしゃになった手紙を丁寧に伸ばし始めた。手紙はパリパリと音をたてながら息子に伸ばされている。本当に古い手紙だ。むやみやたらにやれば簡単に破れしまう。
(気を付けなよ)
「分かってるよ」
「おじさん何やってるの?」
健太がいつの間にか息子の隣に来て不思議そうに見ている。
(健太が、何やってるの?だってさ)
そのメモを見た息子は手を止めた。
「健太・・・・・・いるのか?」
「おじさん。僕お絵かき帳持ってるよ。あげようか?」
(・・・・・・だって)
健太は、息子が古びた紙を伸ばしてるのを見て、新しい紙をあげようと思ったのかもしれない。俺は、メモを読んでる内に目に涙が溜まってきた。
「うん。うん。必ずもらうよ」
と何度も言った。涙を拭き、手紙を頭上に持ち上げると部屋の中心に向かって
「健太のお祖母ちゃん。この手紙は俺が必ず届けます!約束します!だから・・・・・だから・・・・・・健太と・・・・・・健太と一緒に・・・・・・いてやって下さい」
最後は泣きながらだったので、言葉が詰まり上手く話せなかったが、手紙をしっかり握りながら約束した。俺はその後崩れ落ち、わ~わ~と泣いた。
「あなたは・・・・・・」
息子の泣いている声で正気に戻ったのか、健太の母親が息子に気がつく。息子はそれには気がつかずに頭を抱えわ~わ~と泣く。健太の母親はそれを黙って見ていたが、そっと健太の位牌を仏壇に置くと息子の前に正座して座った。
「もうそんなに泣かないでください」
俺は、その声でようやく健太の母親に話しかけられている事に気がついた。顔を上げた息子の顔は、親の私でも目をそむけたくなるほどの酷い顔だった。
「け、健太のお母さん・・・・・・すみません・・・・・・俺」
「あなたが悪いんじゃないですよ。むしろ、感謝しないといけないですよね。もし、あなたがあの日家に来てくれなかったら、私は健太と仲直りできないままだったかもしれないんですから」
「くっ」
俺は言葉が出ない。出るのは鼻水と涙だけだ。健太の葬式にも出ず、家に引きこもっていた自分が恥ずかしいのも、泣くことに拍車をかけた。暫くの間、止まることのない涙を一通り流すと少しだけ落ち着いてきた。
「すみません」
健太の母親はそっとティッシュを出してくれる。
「あの、健太君のお父さんは・・・・・・俺、あの場にいた者としてきちんと説明しなくちゃって思うんです。今更で申し訳ないんですが・・・・・・」
俺がそう言うと健太の母親はスッと目をそらし
「ああ。・・・・・・あの人とは別れました」
「え?」
「余りうまくいってなかったんです。あの日お伝えしましたよね?お義母さんとはうまくいってないって。それが嫌だったらしく・・・・・・ギクシャクしてました。単身赴任が決まった時はほっとしたものです。健太が死んでしまった以上、私とあの人を結ぶものはもう何もないんです」
「・・・・・・すみません」
「何であなたが謝るんですか?これは私達の問題ですから」
沈黙が流れる。
「お茶入れましょうか」
健太の母親は台所へ消えて行った。
(ほら。いつまでも座ってないで手紙の事聞くんだからね)
私は容赦なくメモを息子の前に出す。息子はそれを読むと
「分かってるよ」
と台所の方を見ながら言った。
「ね、ね、ね、おばさん、ね」
真理が私を呼ぶ。
「ん?」
「何かおかしいよ・・・・・・アレ」
見るとあの目が、ある方向を見ている。それも目を血走らせながら睨むように。明らかな憎悪を感じる。見ている方には健太の母親がいる。
「あらら。こりゃいけないね」
「うん。やばいよね」
真理も少し怯えたように言った。私はすぐにメモに走り書きをする。
(おい!健太のお祖母ちゃんは許してないよ。母親が危ない。今すぐこの家を出な)
「え!」
俺はあたふたしながらも、台所へ走った。台所ではお茶を入れている母親がいる。
「あ、あの。急いでこの家を出てください!」
「は?」
突然の事に、訳が分からない母親は動きを止めた。
「後できちんと全て説明しますから!とにかく俺と一緒に来てください!」
俺は健太の母親の手を取ると、無理やり引っ張った。健太の母親は訳が分からずにされるがままになっている。しかし、玄関に向かう途中、なぜか廊下に置いてある段ボールや棚が行く手を阻むかのように飛んでくる。
「うわっ!」
「きゃ!」
それを必死でよけながら、二人とも裸足で家を飛び出した。
家に残った私と真理は、いつまでも逃げた二人を血走った目で睨んでいる奴を見た。
「あんたは相当だね」
私はソレに話しかける。
「息子が言っただろ?ちゃんと手紙は渡すって。信じられないかい?」
{嘘つき}
どこからか低い声がした。目が喋ったんだろう。
「うわっ!喋った!」
真理が驚く。
「そうだね。頼んだのに渡してくれなかったんだ。嘘つき呼ばわりされても仕方がないね。でも、今度はちゃんと渡すはずだよ」
{許さない}
「ふん。全く。人の感情の中で憎しみと言うのは厄介なものだね。信じるという事を忘れちまう。あんたは健太のお祖母ちゃんだろ?優しかったと聞いている。少しでもその優しさが残っているのなら、ちょっとでいい。時間をおくれ」
会話ができるかわからなかったが、私は頼んでみた。すると、今まで家を飛び出した二人の方を睨んでいた目は、私をぎょろりと見ると
{時間}
と言った。
(しめた)
と思った私は話を続ける。
「そう時間。あの手紙はかなり古いものだね。書かれている文字の解読にてこずるんだよ。何なら相手を教えてくれると助かるんだけどね。あんたも早く手紙を渡してほしいだろ?」
すると目は、スッと閉じた。長いまつげ一本一本までよく見える。
寝てしまったのかと思うくらい長い時間待った。その後、ようやく開いた目は
{楠}
とそれだけ言うとフッと消えてしまった。
「楠?それだけかい。全くもっと詳しく教えてくれてもいいのに」
私は目がいた場所を睨みながら言った。
俺と張り合い、小さなトレーを持ち上げておかわりしてたんだ。
きっと、次の日の幼稚園には母親が作ってくれた弁当を持って行っていたんだ。
何度も同じことを考えた。また、涙が出てくる。
(何も食ってないのに涙は出るんだな)
また同じことを思う。この繰り返し。
「ピンポーン」
インターフォンが鳴る。誰かが来たようだ。勿論俺は出ない。
「ピンポーンピンポーン」
しつこい。何度も鳴るインターフォンにイライラしたが出ない。しかし、訪ねてきた奴もかなりしつこい奴らしい。
「ピンポーンピンポーン」
と鳴らしてくる。
「くそっ」
俺は根負けしてのそのそと布団から出ると、玄関に向かった。
玄関を開けると、あの時一緒だった鈴木先生が立っていた。先生の顔を見た途端、フラッシュバックのように思いだす。風呂場でびしょぬれになり、健太の名前を呼び続ける俺を見ながら真っ青になって立ち尽くしていた先生を。
俺は黙って玄関を閉めようとした。
「待ってください!」
先生は玄関を掴んだ。
「健太君のお葬式。どうして来なかったんですか?」
(行けるわけがない)
「あなたのせいじゃないと思います」
(俺のせいだ)
「あんな不思議な事・・・・・・健太君。死因は凍死だそうです」
(凍死・・・・・・)
「私と一緒に健太君の家に行ってお線香あげに行きませんか?」
(家になんか行けるわけがない)
ずっと黙っている俺を先生はじっと見る。まるで、あんたのせいで健太君は死んだと言われているようだ。いたたまれなくなった俺は今度は力強く玄関を閉めた。
「バタン!」
と大きな音を立ててしまった玄関の所で俺は動けなかった。
「どの面下げて健太の所に行けばいいんだよ」
俺はその場に崩れ大声を出して泣いた。
玄関で大声で泣く息子を見ながら私は
「どうしたもんかね」
「何が?」
「健太の家で見た奴さ」
「ああ。あの目の事」
「あいつが健太を殺したんだよ」
「うん」
「かなり厄介だよ」
「あの後さ、健太君の家に行ってみたんだけど、近寄れなかったよ怖くて」
「そうかい」
「・・・・・・息子さん。大丈夫かな」
「分からないね。駄目になるのも立ち直るのも自分次第さ」
「自分の子供なのに冷たくない?」
「私は昔からこういう考えだからね。しょうがないよ」
「ふ~ん」
私と真理は、未だ泣き続けている息子を前に話していた。
「ちょっと、健太の家に行ってみようかね」
「え?行くの?」
「何だい?」
「私は留守番してる」
「勝手にしな」
私は二階へ上がると、久しぶりに窓を開け健太の家に向かって飛んだ。
健太の家が見えてきた。住宅がたくさん並ぶ中、健太の家だけ暗く淀んでいるように見える。
「気のせいかねぇ」
庭に降りると家の中を覗き込んだ。誰もいない。そっとサッシを動かすと開いた。
「不用心だね」
そのまま家に上がり、母親を探す。何となくあの和室は避けて探した。しかし、どこにもいない。
「いないね。やっぱりあそこか」
私はあの和室へ向かった。
いた。
健太の母親は、健太の位牌を抱いて泣いていた。自分より子供の方が先に死ぬという事はかなり辛いだろう。息子からまだ詳しい話を聞いていないから分からないが、あの時見た、嬉しそうに食卓を囲む4人は、今までの事が解決へ向かう事への嬉しさからくるものではないかと予想は出来た。その矢先にあんな事が起きたのだ。
私はあの目が合った場所を見た。今は何もない。
「あれはいったい何だったのか」
暫くその場所をじっと見ていた。
「おばさん」
突然声がしてびっくりしてみると、何と健太が私の隣に立って私を見ていた。
「なんだい?!あんた」
健太は幼稚園の服を着て、くりくりとした大きな目で私を見ながら
「おばさん。僕ね食べらちゃったんだよ」
「は?」
「あの黒い穴に食べられちゃったの。お祖母ちゃんと同じなんだ」
そう。確かに言っていた。お祖母ちゃんは真っ黒い穴に食べられちゃったって。真っ黒い穴とは目の事だったのか。
「そうかい。で、お祖母ちゃんは今一緒にいるのかい?」
「ううん。いないよ」
「いない?」
「うん」
「そりゃ駄目だね。健太と一緒にいてやらないといけないよ。・・・・・・そうだ。健太。健太の事を食べた奴と合わせてくれないかい?」
「え?あの黒い穴と?」
「そう。ここにまだいるんだろ?」
「うん。今度はお母さんを食べるんだって」
「ふん。お母さんを食べる前に私を食べないかねぇ」
「聞いてみるよ」
そう言うと健太はフッと消えた。その瞬間、私の体からどっと汗のようなものが出た。
「死んでも汗は出るのかい。厄介だね」
冷静に話していたつもりでも、私なりに驚いたらしい。
それにしても、あの目が一体何なのか。健太を食べ、今度は母親を食べるという。だいたい、食べるという事自体が理解できない。
目の前では、位牌を抱いた母親が健太の名前を呼び続けている。
「おばさん」
健太だ。
「どうだった?」
「嫌だって」
「は?何で」
「汚いって」
「はぁ?!失礼なこと言うね!全く」
「だって本当にそう言ったんだもん」
健太は私の剣幕にオドオドしながら言った。
「健太はそいつがいる場所に行けるんだろ?だったら、私を近くまで連れて行っておくれよ」
「う~ん。いいよ」
健太は私の手を取り部屋の中へ入っていった。同じ死人同士だからか、今度は健太の温もりが分かると思ったが、健太の手は氷のように冷たい。母親をすり抜けながら、カーテンの閉まっている窓の方へ歩く。
「ここにいるんだよ」
健太は、私の目の高さの場所を指さしながら言った。
「そうかい」
そう言うと私は大きく息を吸った。
「汚いとは何だい!失礼な事を言う奴だね!そう言うあんたはどうなのさ!小さい子供の命取っておきながら悲しむ母親を見て笑ってるんだろ?あんたの方がよっぽど汚いね!」
と大声で叫んだ。健太は驚いて私を見ている。
「お、おばさん」
「ふん。いけ好かない奴だよ。食べるのを選り好みする奴はろくな奴がいない」
言いたい事を言って、スッとしていた時だ。
突然、私の顔の近くに大きな黒い穴が現れた。よく見るとあの目だ。余りにも近くて穴と思ってしまったのだ。かなり驚いたが、負けん気の強い私はその目を睨んだ。相変わらずその目から感情は読み取れない。
「何か言いたいことがあるのかい?」
返事はない。
「チッ!」
私はイライラして目の前にある黒い穴に指を突っ込んだ。
「あっ!駄目だよ!」
健太が慌てて言った。その言葉は私には遠くの方で聞こえた。
「おばさん。大丈夫かな」
家で留守番している真理は心配していた。息子は玄関で大泣きした後また、自分の部屋へ戻って行った。真理は玄関に座りながらおばさんの帰りを待っていた。
「やっぱ。私も行った方がいいのかな」
カタカタ
どこからか、固い音がする。
「え?何の音?」
真理は周りをキョロキョロと見るが分からない。また同じ音がする。
カタカタカタ
音の正体が分かった。玄関の脇に置かれていた骨壺だ。
「え?動いてる!なにこれ・・・・・・壺?」
気味が悪いが、真理骨壺をよく見た。それはどうやら、家の中の方に向かっているようだ。まだ若い真理には、その壺が骨壺だとは分からなかった。カタカタと音をたてている骨壺を見ている時、二階から息子が下りてきた。息子も、この壺の音を聞きつけてきたのだろう。辺りを不思議そうに見渡している。
「ね。これよこれ。動いてるの」
真理は必死に知らせるが、もちろん聞こえない。
「もう!あ、ノート!・・・・・・駄目か。私は物に触れないんだった」
じれったい気持ちで息子の様子を見ていると、息子も骨壺に気がついたようで骨壺をじっと見ている。その間も骨壺はカタカタと家の中に向かって少しずつ動いている。
「お袋?いるのか?」
息子は気味悪そうに骨壺を見ながら声をかける。
「いないわよ。出かけてるんだもん」
代わりに真理が返事するが息子には届かない。
「でも、何でこれ家の中の方に動いてるのかしら?・・・・・・もしかして、おばさんに何かあったんじゃ」
真理は、急いで家を出ると健太の家に走った。
「ん?」
気がつくと周りは真っ暗だ。
「なんだいここは・・・・・・確か、あの目が出て・・・・・・そうだ!アイツの事を突っついてやったんだ」
状況が呑み込めた。おそらくアイツに食べられたんだろう。
「ふん。あんたの中はこんなに真っ暗なんだね。闇だ闇。陰気臭いね全く。お~い誰かいないのかい?」
私は暗闇に向かって大声で呼びかけて見た。返事はない。
「ふ~ん」
私は腕を組み考えた。
(この中に健太のお祖母ちゃんはいるんだろうか・・・・・・)
「健太のお祖母ちゃんいるかい?私はね、健太の友達なんだよ。ちょっと年が離れてるけどね。健太のおばあちゃんいるなら返事しておくれよ。健太はねこいつに食べられて死んじゃったんだよ」
その時、目で確認できたわけではないが、真っ暗な闇がグワンと動くのを体で感じた。
(反応したね)
「健太はね。とてもいい子だよ。元気で素直で・・・・・・」
また闇が反応する。真っ暗なのでどう動いているのかハッキリとは分からないが、感じるのだ。闇がグネグネと動く様子を体で感じる。
「健太のお祖母ちゃんがいたら、健太の事で話がしたいんだ。出て来れるかい?」
今まで動いていた闇がピタッと動きを止めた。
「・・・・・・」
私は静かに待った。無音の中、全神経を闇に集中した。暫くすると
「健太・・・・・・」
声がする。かなり遠くから名前を呼んでいるように聞こえる。私はじっと待つ。
「健太。健太」
声が近づいてきた。先程よりハッキリ聞こえる。
「健太」
私のすぐ前で声が聞こえた。闇をじっと見ていると闇に紛れて一人の老婆が、ゆっくりと私の前を右から左へ歩いているのが見えた。その老婆は、とても薄く。薄いと言っても厚さではない。存在が薄いのだ。油断すると闇に溶け込んでしまうぐらい薄いのだ。
「健太のお祖母ちゃんかい?」
私は声をかけた。老婆は私の声が聞こえるのかゆっくりとこちらを見る。不思議と暗闇の中でもその顔は確認することが出来た。とても穏やかな顔だ。しわくちゃな顔だが、中からにじみ出る優しさが顔に現れているようだ。腰が曲がっているせいもあるが、とても背が低い。色は分からないが、花柄の着物を着ている。
「健太のお祖母ちゃんかい?」
私はもう一度聞いた。老婆は、穏やかな顔をさらにしわくちゃにしてニコリと笑うと
「はいはい。健太のお祖母ちゃんです」
と言った。
「そうかい。ちょっと聞きたいんだけど、健太はここにいるのかい?」
「健太?」
驚いた表情をすると考え込み始めた。その様子を見ていたが、いつ消えてもおかしくない程の薄さだ。じっと目を凝らしてみるのが辛い。
「あのね。実は健太は死んだんだよ。こいつに食われたんだとさ。あんた。この目の事知ってるかい?」
「死んだ・・・・・・健太が・・・・・・目・・・・・・」
さらに考える。
「そう。目だよ。大きな目」
「大きな目・・・・・・」
またさらに考える。
「あんたもこれに食われたんだろ?真っ黒な穴に入ったって健太が言ってたよ」
「真っ黒な穴・・・・・・」
考える。
「もう、いい加減にしておくれよ。こっちの目がおかしくなっちまう」
ため息交じりにそう吐き捨てた。
「じゃあ。その目いらないだろう?おくれよ」
「え?」
咄嗟に私は逃げた。どこに向かっているかなんて考えずに逃げた。走って走って走りまくる。
(なんだい?!今のは。あのお祖母ちゃんが言ったのかい?それにしては声が別人だった。どういう事なんだろう)
追いかけてくる気配はない。しかし、何かにじっと見られている感じがいつまでも取れない。
(死んでて良かったよ。どんなに走っても疲れないからね)
そんな事を考えながら走った。
「おばさん!!」
突然どこからか真理の声がした。
「真理かい!どこにいるんだい!」
「こっちこっち」
必死に声がした方を探る。
「わからないよ。どっちだい?」
「こっちよこっち!」
「お袋!こっちだ!」
息子の声・・・・・・・
私は足を止めふと下を見た。真っ暗だった足元が次第に明るくなり、真理がこちらに手を伸ばしているのが分かる。私はしゃがむとその明かりに向かって真理の手を掴むように手を伸ばした。
「掴んだ!」
私がそう言った時、視界が急に明るくなった。眩しさを我慢して目を開けるとあの和室にいた。私の前では真理が安心したような顔で私の手をしっかり握っている。
「おばさん、やばかったんだよ!」
「ははは」
「笑い事じゃないって、私、やっぱり心配で来て見たら健太君が慌てて教えてくれたの。おばさんが食べられたって。本当焦った~!」
「ああ。やっぱり食べられたんだね」
「やっぱりって・・・・・・どういう事?」
私は先程の事を真理に話して聞かせた。。
「ふ~ん。じゃあ。アレは生きてる人間も死んだ人間も食べるんだ」
と横を向く。私も同じ方向を見ると
いる。
大きな目が一つ宙に浮いている。しかし、前に見た時とは若干異なる所がある。私を見ているのだ。前は、何を見ているのか分からなかったが、今は明らかに私を見ている。
「おばさん」
健太が隣に来た。
「健太。真理に教えてくれたんだってね。ありがとうね」
「うん。おばさんが急にす~って入っちゃったからびっくりした」
「そう。吸い込まれた感じがしたよ」
もしかしたら、吸い込まれた様子を健太は食べられたと表現したのかもしれない。
「うん。・・・・・・おばさん」
健太は悲しそうな顔をしている。
「どうした?」
「お母さんも食べられちゃうんだ。おばさん。お母さんを助けてあげて」
「え?お母さんが?」
真理は、今も仏壇の前で位牌を抱き健太の名前を言い続けている母親を見た。
「ねえ。もうこの人壊れちゃってるんじゃない?」
真理は私にそっと小声で言った。確かにそう見える。しかし、健太の母親だ。健太に助けてと言われれば助けてやりたい。
「何でお母さんが吸い込まれると思ったんだい?」
「だって、あの黒い穴が言ったんだ。今度こそこいつだって」
「今度こそ?」
「うん」
(ふ~ん。なるほどね)
大体わかってきた。
「健太。お母さんと話すことなんてできるかい?」
「出来ないよ」
「そうか。でも健太はとてもいい子だ。何かできることが一つでもあるはずだよ。探してみよう。なるべく急いでね。それと真理。息子に手紙を書くから渡して・・・・・・あ、無理か」
「ごめん」
真理はすまなそうにする。
「いや。私が悪かった。真理も何かできることあるはずだよ。色々試してみよう。時間がない」
「待っておばさん。私にも出来る事があるよ。息子さんここに連れてきたいんでしょ?私やってみる!」
そう言うと真理は壁をすり抜け家から出て行った。
「何をやってくれるんだろうね」
期待半分で待つことにした。
(私だって、何かできることがあるはず)
真理はそれだけを考えながら家に向かって走った。家に着くとそのまま壁をすり抜け二階へ上がり息子の部屋へ入る。息子はまだ布団を頭まで被ってじっとしている。
「寝てるのかしら?」
真理は息子の近くへ行き布団をめくろうとするが、案の定すり抜ける。
「だよね。でも」
真理は、布団ををすり抜けた自分の手を息子の体に伸ばした。触れる。体温は感じないが、何かに触っているという感覚は分かる。
「よし」
真理は気合を入れると、息子の体を思い切り押した。すると、息子の体が布団にめり込むように沈む。ソレに驚いた息子は飛び起き
「なんだ?なんだ?」
と、周りをキョロキョロしている。
「よし」
真理はもう一度気合を入れ、今度は息子の手を握った。
「うわ~!」
息子は手を振りほどこうと闇雲に手を振る。それに負けじと真理も力強く握る。
「わっわっわっ」
言葉にならない声を出しながら息子は必死になって、振りほどこうともがく。
「ちょ、ちょっと。あんまり暴れないでよ!」
真理も必死に手を握り、布団から引きずり降ろそうと引っ張る。息子は見えない何かに手を握られ引きずられることに、顔を真っ青にしながら抵抗する。結果。勝ったのは真理だった。何故なら、真理は疲れることはないが生きている人間は疲れが出る。ぐったりとした息子は真理に手を引かれ、家を出ると健太の家に引っ張られていった。
通り過ぎる人たちは、片腕を前に出し、青い顔で何かに引っ張られるように歩く中年の男を気味悪そうに見る。ようやく健太の家に着くと、今度は背中を押して玄関に押し付ける。真理は玄関を開けられないのだ。
「いたたた!」
と、悲鳴を上げる息子は、ここがどこなのかようやくわかった。分かった瞬間、踵を返し走り出す。
「あっ!逃げた!」
真理は急いで追いかけ、また手を引っ張り健太の家まで何とか連れてくる。
「おばさ~ん!息子さん連れて来たよ!おばさ~ん!」
真理は外から大声で叫ぶ。すると、玄関が開きおばさんが立っている。手にはメモを持っていた。そのメモを息子の顔の前に出し読ませる。
「嘘だろ・・・・・・」
そのメモに書いてあったのは
(健太がいる。今度は健太の母親が死ぬよ)
とだけ書かれていた。
息子は抵抗するのをやめ、急いで家の中には入って行った。
家に入ると真っ直ぐにあの和室に向かう。そこには位牌を抱き健太の名前を呼び続けている母親が座っている。
「お袋。いるんだろ?」
私は健太の家のメモ帳を拝借し
(あいよ。ここにいるよ)
「どういう事だよ」
(これを読みな)
私はあらかじめ書いておいたメモを息子に渡した。
(この部屋にはね。健太のお祖母ちゃんがいる。でも、そのお祖母ちゃんはもうお祖母ちゃんではなくなりつつあるんだ。鍵はやっぱりあの手紙だね。もしかしたら、健太のお祖母ちゃんはあの手紙を誰かに渡したかったんじゃないのかね。それがきっと心残りだったんだよ。未練って奴だね。成仏できなかったんだ。きっとその事を健太の母親は知ってたんじゃないかと思うんだ。だから、お祖母ちゃんは健太にその思いを託そうとしたんじゃないのかなと思う。前に健太に聞いたけど、「お願いね」ってお祖母ちゃんが言ってたらしいからね。だけど、その思いが強すぎてあらぬ方向へ行ったんだよ。憎しみと言う方向にね。憎しみという感情は、我を忘れさせてしまうものだからね。これは私の想像でしかないから断定はできないけど、勘だね)
「その憎しみが今度は母親を殺す。って事か」
(多分ね)
「健太は大きな目を描いていた。あれは何なんだ?」
(だから、お祖母ちゃんの想いが目と言う形で現れたんだよ)
「見てる・・・・・・って事か」
(そうだろうね。ちゃんと渡してくれるのか心配だったから最後まで見届けたかったんだろ。手紙の行方をさ)
「あの手紙・・・・・・確か、あの日ここに持ってきたんだよ。で、あんなことがあって。どこかにあるはずだ」
「ここにあるよ」
真理の声が離れた所から聞こえる。行ってみると茶の間のごみ箱の近くに真理は立っていた。
「捨てたのかい・・・・・・」
私は少し呆れてしまった。きっと母親だろう。手紙を取り息子の方へもっていく。
「あっ!あったのか!良かった」
俺はくしゃくしゃになった手紙を丁寧に伸ばし始めた。手紙はパリパリと音をたてながら息子に伸ばされている。本当に古い手紙だ。むやみやたらにやれば簡単に破れしまう。
(気を付けなよ)
「分かってるよ」
「おじさん何やってるの?」
健太がいつの間にか息子の隣に来て不思議そうに見ている。
(健太が、何やってるの?だってさ)
そのメモを見た息子は手を止めた。
「健太・・・・・・いるのか?」
「おじさん。僕お絵かき帳持ってるよ。あげようか?」
(・・・・・・だって)
健太は、息子が古びた紙を伸ばしてるのを見て、新しい紙をあげようと思ったのかもしれない。俺は、メモを読んでる内に目に涙が溜まってきた。
「うん。うん。必ずもらうよ」
と何度も言った。涙を拭き、手紙を頭上に持ち上げると部屋の中心に向かって
「健太のお祖母ちゃん。この手紙は俺が必ず届けます!約束します!だから・・・・・だから・・・・・・健太と・・・・・・健太と一緒に・・・・・・いてやって下さい」
最後は泣きながらだったので、言葉が詰まり上手く話せなかったが、手紙をしっかり握りながら約束した。俺はその後崩れ落ち、わ~わ~と泣いた。
「あなたは・・・・・・」
息子の泣いている声で正気に戻ったのか、健太の母親が息子に気がつく。息子はそれには気がつかずに頭を抱えわ~わ~と泣く。健太の母親はそれを黙って見ていたが、そっと健太の位牌を仏壇に置くと息子の前に正座して座った。
「もうそんなに泣かないでください」
俺は、その声でようやく健太の母親に話しかけられている事に気がついた。顔を上げた息子の顔は、親の私でも目をそむけたくなるほどの酷い顔だった。
「け、健太のお母さん・・・・・・すみません・・・・・・俺」
「あなたが悪いんじゃないですよ。むしろ、感謝しないといけないですよね。もし、あなたがあの日家に来てくれなかったら、私は健太と仲直りできないままだったかもしれないんですから」
「くっ」
俺は言葉が出ない。出るのは鼻水と涙だけだ。健太の葬式にも出ず、家に引きこもっていた自分が恥ずかしいのも、泣くことに拍車をかけた。暫くの間、止まることのない涙を一通り流すと少しだけ落ち着いてきた。
「すみません」
健太の母親はそっとティッシュを出してくれる。
「あの、健太君のお父さんは・・・・・・俺、あの場にいた者としてきちんと説明しなくちゃって思うんです。今更で申し訳ないんですが・・・・・・」
俺がそう言うと健太の母親はスッと目をそらし
「ああ。・・・・・・あの人とは別れました」
「え?」
「余りうまくいってなかったんです。あの日お伝えしましたよね?お義母さんとはうまくいってないって。それが嫌だったらしく・・・・・・ギクシャクしてました。単身赴任が決まった時はほっとしたものです。健太が死んでしまった以上、私とあの人を結ぶものはもう何もないんです」
「・・・・・・すみません」
「何であなたが謝るんですか?これは私達の問題ですから」
沈黙が流れる。
「お茶入れましょうか」
健太の母親は台所へ消えて行った。
(ほら。いつまでも座ってないで手紙の事聞くんだからね)
私は容赦なくメモを息子の前に出す。息子はそれを読むと
「分かってるよ」
と台所の方を見ながら言った。
「ね、ね、ね、おばさん、ね」
真理が私を呼ぶ。
「ん?」
「何かおかしいよ・・・・・・アレ」
見るとあの目が、ある方向を見ている。それも目を血走らせながら睨むように。明らかな憎悪を感じる。見ている方には健太の母親がいる。
「あらら。こりゃいけないね」
「うん。やばいよね」
真理も少し怯えたように言った。私はすぐにメモに走り書きをする。
(おい!健太のお祖母ちゃんは許してないよ。母親が危ない。今すぐこの家を出な)
「え!」
俺はあたふたしながらも、台所へ走った。台所ではお茶を入れている母親がいる。
「あ、あの。急いでこの家を出てください!」
「は?」
突然の事に、訳が分からない母親は動きを止めた。
「後できちんと全て説明しますから!とにかく俺と一緒に来てください!」
俺は健太の母親の手を取ると、無理やり引っ張った。健太の母親は訳が分からずにされるがままになっている。しかし、玄関に向かう途中、なぜか廊下に置いてある段ボールや棚が行く手を阻むかのように飛んでくる。
「うわっ!」
「きゃ!」
それを必死でよけながら、二人とも裸足で家を飛び出した。
家に残った私と真理は、いつまでも逃げた二人を血走った目で睨んでいる奴を見た。
「あんたは相当だね」
私はソレに話しかける。
「息子が言っただろ?ちゃんと手紙は渡すって。信じられないかい?」
{嘘つき}
どこからか低い声がした。目が喋ったんだろう。
「うわっ!喋った!」
真理が驚く。
「そうだね。頼んだのに渡してくれなかったんだ。嘘つき呼ばわりされても仕方がないね。でも、今度はちゃんと渡すはずだよ」
{許さない}
「ふん。全く。人の感情の中で憎しみと言うのは厄介なものだね。信じるという事を忘れちまう。あんたは健太のお祖母ちゃんだろ?優しかったと聞いている。少しでもその優しさが残っているのなら、ちょっとでいい。時間をおくれ」
会話ができるかわからなかったが、私は頼んでみた。すると、今まで家を飛び出した二人の方を睨んでいた目は、私をぎょろりと見ると
{時間}
と言った。
(しめた)
と思った私は話を続ける。
「そう時間。あの手紙はかなり古いものだね。書かれている文字の解読にてこずるんだよ。何なら相手を教えてくれると助かるんだけどね。あんたも早く手紙を渡してほしいだろ?」
すると目は、スッと閉じた。長いまつげ一本一本までよく見える。
寝てしまったのかと思うくらい長い時間待った。その後、ようやく開いた目は
{楠}
とそれだけ言うとフッと消えてしまった。
「楠?それだけかい。全くもっと詳しく教えてくれてもいいのに」
私は目がいた場所を睨みながら言った。
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