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6章
サイドストーリー
入学してからのヘンリー
入学するのが、こんなにも嫌だと思ったことはなかった。
理由は単純だ。
ソフォラが、いない。
ヘンルーダ魔法学園の門を前にしても、胸にあるのは高揚ではなく、ひたすらに空虚だった。
本当は――同時期に入学したかった。
婚約者に合わせて入学時期を調整する貴族は少なくない。だから自分もそうするつもりだった。
だが、それは許されなかった。
「ヘンリー、君は次期ブラインドリー公爵だ」
父エバの声は穏やかで、けれど逃げ場がなかった。
「婚約者に合わせて入学すれば、“仲が良い”と見られるだろう。だが同時に、“婚約者にうつつを抜かしている”と見る者もいる」
「――足元をすくわれるような行いは、してはいけない」
正しい。あまりにも。
だから否定はできなかった。
もう子どもではないと、自分でも分かっている。
王侯貴族の一員として、求められる立ち居振る舞いも理解している。
それでも。
(……それでも、離れる理由にはならないだろ)
胸の奥に沈む感情を、押し殺す。
入学までに必要な当主教育はすべて叩き込まれた。
空いた時間は、すべてソフォラに使った。
――使わずにはいられなかった。
いつ消えるか分からない。
そんな不安が、ずっと付きまとっていたからだ。
幼い頃のソフォラは、よく笑った。
すぐに頬を赤くして、些細なことで揺れて、全部が可愛かった。
自分の一つ一つに反応してくれるその姿が、たまらなく愛おしかった。
だが。
白のネモフィラの一件から、何かが変わった。
触れても、反応が薄い。
額に口づけても、薬指に触れても――
赤くならない。
ただ、微笑むだけだ。
(……なんでだよ)
距離を取られているようで、
どこか、遠くへ行ってしまうようで。
不安が、じわじわと広がっていった。
会う回数を増やした。
時間を作って、何度も会いに行った。
それでも――何も変わらなかった。
ーーー
入学式の前日。
いつも通りの顔で、ソフォラは出迎えた。
三人掛けのソファに並んで座る。
「明日が入学式なのに、来てくれてありがとう」
柔らかく笑う。
――なのに。
(なんで、そんな顔するんだよ)
泣いているように見えた。
隣に座り、迷わず腕を回す。
逃がさないように、引き寄せる。
「ソフォラが入学するまでは、長期休みしか会えなくなるんだ。来ない理由がないだろ」
少しでも安心させたくて、
少しでも繋ぎ止めたくて、
額に口づける。
何度も、何度も。
「学園生活、頑張ってね」
肩にそっと頭を預けてくる。
軽い。
昔より、ずっと。
(こんなに細かったか……?)
折れてしまいそうなほどに。
思わず、腕に力がこもる。
「毎日、手紙を書く」
離れても、途切れさせないように。
「ふふ……忙しいんだから、無理しなくていいよ」
小さく笑うソフォラ。
――いつもそうだ。
自分のことは後回しで、簡単に引く。
だから。
「俺が書きたいんだ。返事はいらない」
逃げ道を与えないように、言葉を重ねる。
「忘れられないように、毎日送る」
ソフォラの目がわずかに見開かれる。
それでも、微笑む。
「……ありがとう……」
肩が震える。
静かに、泣き出す。
声を押し殺すように。
(やっぱり、我慢してる)
そう思った瞬間、
腕にさらに力が入った。
離さないように。
どこにも行かないように。
しばらくして、嗚咽が落ち着く。
わずかに腕を緩めると、
頬を伝う涙が目に入った。
それを、唇で拭う。
一度では足りない。
溢れるたびに、何度も。
「早く、ソフォラが入学してくるのを待ってる」
本音だった。
(ここに来い)
(俺のそばにいろ)
言葉にしきれないものが、喉の奥に詰まる。
「うん……行くよ。待ってて」
左手を取る。
細い指。
その薬指に、歯を当てる。
「……っ!」
わずかに力を込める。
皮膚が沈み、血が滲む。
痕を残す。
消えないように。
「待ってる」
低く囁き、
その指に口づける。
滲んだ血を、舐め取る。
――笑わない。
ただ、じっと見つめる。
逃がさない獲物を見据えるように。
ーーー
首席で入学した。
ソフォラに褒めてもらいたかった。
ただ、それだけのために。
「すごいね」
その一言が欲しくて、全部やった。
同室の先輩は物静かな人物だった。
必要以上に干渉してこない。
だが、手紙が届いた日だけは違う。
「ブラインドリー君、よかったね」
そう言って、静かに部屋を出ていく。
気を遣っているのが分かる。
ありがたいとは思う。
だが。
(邪魔しないでくれ)
一人で読みたかった。
ソフォラからの言葉を、誰にも見られずに。
ーーー
長期休暇は、すべてウァーマス辺境伯邸で過ごした。
実家よりも長く。
家族には呆れられた。
それでも、やめられなかった。
会いたかった。
触れたかった。
確かめたかった。
だが。
抱きしめても、強くは返ってこない。
手を握れば、握り返してはくれる。
けれど――
どこか、力が抜けている。
(なんでだよ)
不安が、増していく。
帰る直前、
必ず薬指に歯を立てた。
最初は軽く。
だが次第に、強く。
離れないように。
忘れないように。
(ここにいるって、分かるように)
痕を残すことで、ようやく落ち着いた。
自分のものだと、確かめるように。
そして――
ソフォラも、どこか安堵したように見えた。
それが余計に、手放せなくさせた。
二年。
耐えた。
会えない時間に、慣れることはなかった。
そして、明日。
ソフォラが入学する。
部屋のベッドの上で、
従兄弟であり王太子のディスキディアが声をかけてくる。
「良かったな、ヘンリー。やっと愛しの婚約者殿が来るな」
軽い調子の声。
「ああ」
短く返す。
「やっとだ」
それだけで十分だった。
「お前との同室生活も今日で最後だ。せいぜい自分のことは自分でやれ」
真顔で言えば、
ディスキディアは露骨に嫌そうな顔をした。
「えー、冷たくないか? 部屋変わっても勉強見てくれよ」
「時間があればな」
素っ気なく返すと、
「ちぇー」と不満げに布団に潜る。
その様子を一瞥して、
視線を窓の外へ向ける。
(やっとだ)
胸の奥が、ざわつく。
安堵と、
焦燥と、
どうしようもない執着が混ざる。
(逃がさない)
ようやく、手の届く場所に来る。
「……ソフォラ」
小さく、名前を呼ぶ。
(お前は俺のものだ)
そのために、ここまで来たのだから。
入学するのが、こんなにも嫌だと思ったことはなかった。
理由は単純だ。
ソフォラが、いない。
ヘンルーダ魔法学園の門を前にしても、胸にあるのは高揚ではなく、ひたすらに空虚だった。
本当は――同時期に入学したかった。
婚約者に合わせて入学時期を調整する貴族は少なくない。だから自分もそうするつもりだった。
だが、それは許されなかった。
「ヘンリー、君は次期ブラインドリー公爵だ」
父エバの声は穏やかで、けれど逃げ場がなかった。
「婚約者に合わせて入学すれば、“仲が良い”と見られるだろう。だが同時に、“婚約者にうつつを抜かしている”と見る者もいる」
「――足元をすくわれるような行いは、してはいけない」
正しい。あまりにも。
だから否定はできなかった。
もう子どもではないと、自分でも分かっている。
王侯貴族の一員として、求められる立ち居振る舞いも理解している。
それでも。
(……それでも、離れる理由にはならないだろ)
胸の奥に沈む感情を、押し殺す。
入学までに必要な当主教育はすべて叩き込まれた。
空いた時間は、すべてソフォラに使った。
――使わずにはいられなかった。
いつ消えるか分からない。
そんな不安が、ずっと付きまとっていたからだ。
幼い頃のソフォラは、よく笑った。
すぐに頬を赤くして、些細なことで揺れて、全部が可愛かった。
自分の一つ一つに反応してくれるその姿が、たまらなく愛おしかった。
だが。
白のネモフィラの一件から、何かが変わった。
触れても、反応が薄い。
額に口づけても、薬指に触れても――
赤くならない。
ただ、微笑むだけだ。
(……なんでだよ)
距離を取られているようで、
どこか、遠くへ行ってしまうようで。
不安が、じわじわと広がっていった。
会う回数を増やした。
時間を作って、何度も会いに行った。
それでも――何も変わらなかった。
ーーー
入学式の前日。
いつも通りの顔で、ソフォラは出迎えた。
三人掛けのソファに並んで座る。
「明日が入学式なのに、来てくれてありがとう」
柔らかく笑う。
――なのに。
(なんで、そんな顔するんだよ)
泣いているように見えた。
隣に座り、迷わず腕を回す。
逃がさないように、引き寄せる。
「ソフォラが入学するまでは、長期休みしか会えなくなるんだ。来ない理由がないだろ」
少しでも安心させたくて、
少しでも繋ぎ止めたくて、
額に口づける。
何度も、何度も。
「学園生活、頑張ってね」
肩にそっと頭を預けてくる。
軽い。
昔より、ずっと。
(こんなに細かったか……?)
折れてしまいそうなほどに。
思わず、腕に力がこもる。
「毎日、手紙を書く」
離れても、途切れさせないように。
「ふふ……忙しいんだから、無理しなくていいよ」
小さく笑うソフォラ。
――いつもそうだ。
自分のことは後回しで、簡単に引く。
だから。
「俺が書きたいんだ。返事はいらない」
逃げ道を与えないように、言葉を重ねる。
「忘れられないように、毎日送る」
ソフォラの目がわずかに見開かれる。
それでも、微笑む。
「……ありがとう……」
肩が震える。
静かに、泣き出す。
声を押し殺すように。
(やっぱり、我慢してる)
そう思った瞬間、
腕にさらに力が入った。
離さないように。
どこにも行かないように。
しばらくして、嗚咽が落ち着く。
わずかに腕を緩めると、
頬を伝う涙が目に入った。
それを、唇で拭う。
一度では足りない。
溢れるたびに、何度も。
「早く、ソフォラが入学してくるのを待ってる」
本音だった。
(ここに来い)
(俺のそばにいろ)
言葉にしきれないものが、喉の奥に詰まる。
「うん……行くよ。待ってて」
左手を取る。
細い指。
その薬指に、歯を当てる。
「……っ!」
わずかに力を込める。
皮膚が沈み、血が滲む。
痕を残す。
消えないように。
「待ってる」
低く囁き、
その指に口づける。
滲んだ血を、舐め取る。
――笑わない。
ただ、じっと見つめる。
逃がさない獲物を見据えるように。
ーーー
首席で入学した。
ソフォラに褒めてもらいたかった。
ただ、それだけのために。
「すごいね」
その一言が欲しくて、全部やった。
同室の先輩は物静かな人物だった。
必要以上に干渉してこない。
だが、手紙が届いた日だけは違う。
「ブラインドリー君、よかったね」
そう言って、静かに部屋を出ていく。
気を遣っているのが分かる。
ありがたいとは思う。
だが。
(邪魔しないでくれ)
一人で読みたかった。
ソフォラからの言葉を、誰にも見られずに。
ーーー
長期休暇は、すべてウァーマス辺境伯邸で過ごした。
実家よりも長く。
家族には呆れられた。
それでも、やめられなかった。
会いたかった。
触れたかった。
確かめたかった。
だが。
抱きしめても、強くは返ってこない。
手を握れば、握り返してはくれる。
けれど――
どこか、力が抜けている。
(なんでだよ)
不安が、増していく。
帰る直前、
必ず薬指に歯を立てた。
最初は軽く。
だが次第に、強く。
離れないように。
忘れないように。
(ここにいるって、分かるように)
痕を残すことで、ようやく落ち着いた。
自分のものだと、確かめるように。
そして――
ソフォラも、どこか安堵したように見えた。
それが余計に、手放せなくさせた。
二年。
耐えた。
会えない時間に、慣れることはなかった。
そして、明日。
ソフォラが入学する。
部屋のベッドの上で、
従兄弟であり王太子のディスキディアが声をかけてくる。
「良かったな、ヘンリー。やっと愛しの婚約者殿が来るな」
軽い調子の声。
「ああ」
短く返す。
「やっとだ」
それだけで十分だった。
「お前との同室生活も今日で最後だ。せいぜい自分のことは自分でやれ」
真顔で言えば、
ディスキディアは露骨に嫌そうな顔をした。
「えー、冷たくないか? 部屋変わっても勉強見てくれよ」
「時間があればな」
素っ気なく返すと、
「ちぇー」と不満げに布団に潜る。
その様子を一瞥して、
視線を窓の外へ向ける。
(やっとだ)
胸の奥が、ざわつく。
安堵と、
焦燥と、
どうしようもない執着が混ざる。
(逃がさない)
ようやく、手の届く場所に来る。
「……ソフォラ」
小さく、名前を呼ぶ。
(お前は俺のものだ)
そのために、ここまで来たのだから。
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