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清め地蔵を語る、第二章

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 城戸崎海翔がクラスで初日早々に仲よくなったのは、宇崎うざき慶太けいたという席の近い男子生徒だった。
 海翔の家は、村の北側にある。伊江田村の家々は逆方面にあるものが多く、やはり北に建つ家に住む慶太との帰り道すがら、あまり人にはすれ違わない。たまに会う人には老若男女、慶太が明るく挨拶をする。自然「そっちの子は?」と訊かれ、早々に海翔にも顔見知りができつつある。
 それは、木々の生い茂る木陰、真昼でも薄暗がりの、曲がり角に来たときだった。

「……なに、あれ?」

 転校してきて、一週間ほど。毎日そこを通っていたはずなのに、それに気がついたのは、この夕方が初めてだった。
「ああ……、あれ、な」
 いたずらめいた表情、笑顔、子供のような笑いかた。そんな慶太の表情しか見てこなかった海翔は、初めて目にした彼の顔つきに驚いた。
 苦々しいものを見たような、忌まわしいものについて語るような。眉を潜めると、慶太は大人の顔をした。
「清め地蔵、だよ」
「清め……?」
 それは、地蔵だった。曲がり角、海翔の膝までもないような、小さな地蔵。色の褪せた赤い前掛けをし、両手は、どこにでも見る地蔵のように右手を立てて手のひらを見せ、左手は下げてやはり手のひらを見せている。
 前にはカップ酒の空のガラス瓶と、花が供えられていた――瑞々しく、今切ったばかりとでもいうような小ぶりの花は、やはりガラス瓶に満たされたきれいな水に、根もとをつけられている。
 海翔は、地蔵に近づいた。膝をかがめて見入る海翔の後ろ、慶太はいかにも気が進まないというように、つま先で地面を叩きながら立っている。
「なに……この、お地蔵」
 触れるのも恐いような、古びた地蔵だ。誰からもすっかり忘れられているような小さな地蔵は、しかし一見して、異様だった。なぜ今まで気がつかなかったのか、自分自身に驚くほどだ。
「これ……、なんで、こんなんなんだ?」
 慶太は答えない。早くここを立ち去りたいというように、なおも足先で地面を叩いている。しかし海翔は、地蔵から目が離せなかった。
「こんな、傷だらけで」
 地蔵は、大小さまざまの傷でいっぱいだった。体だけではなく顔にも、幾筋も走った削り痕。しかし顔の傷などまだ浅いほう、体、両腕、手、そして足。特に足につけられた傷は幾筋も深く、思わず眉を潜めてしまうほどだ。
「なんで、こんな? いくら古いからって、自然についた傷じゃないよな?」
 見るからに古びた地蔵だ、年月を経るごとに傷がつくこともあるだろう。しかし目の前の地蔵についた傷は、明らかに人為的なものだ。鑿やナイフや彫刻刀で、誰かが意図的に地蔵に傷をつけたのだ。
「……ん?」
 地蔵の傷を見つめながら、ふと視線を下に落とした海翔は、奇妙なものを見つけた。
「なに、これ……」
 地面が、黒く染まっている。黒、いや、濃い赤と表現したほうがいいかもしれない。夏の陽射しにすっかり乾いているけれど、古びたアスファルトの黒とは明らかに違う大きなしみは、そこに何か赤い液体をこぼしたかのようだ。
 範囲は広く、こぼれたものは流れて小さな川を作ったらしい。足をあげると、靴の裏にべとりと濃いものがこびりついている。
「げぇ……、なんだこれ……」
「行こう、海翔」
 慶太が促した。異様で、それでいて目を惹く地蔵と地面の痕から視線をはずし、海翔は振り返る。慶太の苦虫を噛み潰したような顔は、海翔を驚かせた。
「早く。こんなとこ、いつまでもいるんじゃねぇ」
「慶太……」
 海翔の肩に手を置き、慶太は引き寄せる。無理やりに立たせられ、清め地蔵とやらから引き離された。早足になった慶太に追いつくには、少し駆けなければいけなかったほどだ。
「なぁ、慶太……」
「清めんだよ」
 投げやりな調子で、慶太は言った。一瞬、なんのことかわからなかった。清める、という言葉で、慶太が〈清め地蔵〉の説明をしてくれているのだということに気がついたのだ。
「あの地蔵の体を傷つけたら、傷つけたやつの罪を、身代わりになって引き受けて、清めてくれるんだと」
「傷つけて、清める……?」
 海翔は首を傾げた。慶太はなおも渋い顔のまま、うなずく。
「戦前とか、大正とか明治とか……へたすりゃ江戸時代くらいからあるって話だけど、俺はよく知らね。なんかキモいし、そーゆーもんのこと、よく知りたくもないし」
 声を潜めて、慶太は言った。まわりに人影はなく、見晴らしがいいので誰かがいきなり現われるようなこともなさそうで。しかし慶太は、地蔵自身に聞かれたくない、とでも思っているかのようだ。
 慶太はあの地蔵を忌まわしく思うよりも、むしろ恐れている。畏れている、と言ってもいいのかもしれない。早足で歩く慶太を、海翔は追いながら小さくつぶやいた。
「傷つけられて、罪も背負って、って。なんか、かわいそうすぎない?」
 そのような慶太を前に、なおも清め地蔵の話を続けるのは酷かとは思う。しかし海翔の脳裏には立ち去ったばかりの清め地蔵のことが焼きついていて、離れないのだ。
「お地蔵さんって、お釈迦さまが死んだあと人間を救ってくれる弥勒菩薩が現われる……五十六億年くらい? だっけ。その間、人間を救うためにいてくれるんだよな」
「お前、よく知ってんな」
 すたすたと先を行っていた慶太は、足を止めて振り返った。彼の左頬に、眩しい茜の夕陽が照りつける。
「いや、知ってるというか……、そういうの出てくるマンガ、読んだ」
「はは、マンガか」
 慶太は安心したような笑顔を見せた。彼の八重歯の目立つ笑顔を前に、海翔もほっとする。慶太の歩みはゆるまって、海翔と肩を並べて道を行く。
「どゆマンガ読むの? なんかそういうマンガ知ってるって、手塚治虫とかいっぱい読んでそうな感じだけど」
「手塚治虫も好きだけど、そういうんばっかじゃないよ。だいたい、本屋行って平たく積んであるやつ。あんなの買って、面白かったら全部揃えるとか」
 ひとしきり、好きなマンガの話題で盛り上がった。慶太は清め地蔵の話から逃れられてほっとしているようだったし、海翔も地蔵のことは気になるけれど、マンガの話をしているほうが楽しい。
 慶太の家の方向にわかれる四つ辻で、ふたりはまた明日、と挨拶をした。そこから百メートルもない家路を、海翔は歩く。



 海翔の家族は、母だけだ。
 両親の離婚が成立したのは、この春のことだった。原因は、父の浮気。一度ならず二度三度、繰り返される不貞に母は嘆き、呆れ、最後には無表情で自分の判をついた離婚届を父に渡した。
 自分で浮気をしておきながら未練があったのか、父はひとしきり騒いだけれど、母は意に介さなかった。やがてもうひとつの判が押され、役所に受理され、そして海翔は母と、この伊江田村に引っ越してきたのだ。
「帰りましたよ、っと……」
 返ってくる言葉のないつぶやきとともに、海翔は靴を脱ぐ。きれいに掃き清められた玄関は、しかしその古さだけはどうしようもなかった。
 伊江田村は、母の故郷だ。母はこの家で生まれ育ち、中学卒業とともに上京した。そこで証券会社の事務職をしているところ、父に出会い、結婚し、海翔が生まれた。
 母はめったに里帰りをせず、だから海翔も伊江田村に思い入れはなかった。里帰りをしなかった理由は母の両親――つまり海翔の祖父母との仲が悪かったというわけではなく、単に淡泊な親子関係だったというだけだったようだ。
 祖父母は、海翔が中学生のときに亡くなっている。この家と土地はひとりっ子だった母の相続したもので、離婚ののち家賃や物価の高い東京に住み続けるだけの経済的余裕はない母は、故郷に戻ることを選んだ。
 仕事は、幼馴染みに紹介してもらったという。毎日自動車で三十分の隣町に出かけ、やはり証券関係の仕事をしているらしい。しかし多くの子供がそうであるように海翔も母の仕事の詳しいことは知らず、何かのときの連絡先として会社の名称と住所に母の名の印刷された名刺を持っているだけだ。それも互いが携帯電話を持っている以上、本当に万が一のときのためのものでしかないのだけれど。
 部屋に入って制服を着替え、台所に顔を覗かせると、冷蔵庫から麦茶を出して飲む。食事は、親子ともどもあまり食に興味がなく、栄養さえ摂ることができれば形式にはこだわらないという共通認識のうえ、宅配の弁当を取っている。
 過疎の進みつつある伊江田村では、高齢者にはなかなかの重労働である調理の手間を省きたいと宅配弁当の需要は多く、日に二回、宅配弁当業者のトラックが村中をまわる。朝に夕に、村の多くの者が同じ食事をしているのかと思うと奇妙な思いに囚われることもあるけれど、海翔にとってはたいしたことではない。
 ただメニューの基準が高齢者向けなので、中学生の海翔には圧倒的に量が足りない。テレビをつけ、見るともなく眺めながら空腹を補うための買い置きの菓子パンを囓っているところに、自動車の音がした。母の帰宅だ。
「ま、三つも食べたの? 夕ご飯、入る?」
「平気」
 ただいま、も、おかえり、もない。これも海翔母子の関係が悪いからではなく、単にふたりがそういう性格なのだ。礼儀作法は大事だとは思うが、こういうところで淡泊な性質の母には、助かっている。母も、祖父母とはこういう関係だったのだろうか、と思うこともあった。
「今日は、鶏のあんかけ。ひじきと煮豆と、ほうれん草のおひたし」
 宅配弁当の包みを台所のテーブルに置きながら、母は言った。すっと家の奥に消えていったのは、洗顔と着替えのためだろう。案の定、しばらくすると水音が聞こえてきた。
「もう、食う?」
 弁当のふたを開けると、母の言ったとおりのメニューだった。母や、同じ食事を囲む村の高齢者たちにはこれでよくても、海翔には量が足りない。やはり、菓子パンの買い置きは欠かせないところだ。
「食べる。あっためといて」
 くぐもった声で、返事があった。母が化粧を落とし、部屋着に着替えるまでに簡易すぎる食事の用意はできるだろう。台所で働くふたつの機械、電子レンジと炊飯器に向かいながら、海翔はふと考えた。
(母さんだったら……清め地蔵のこと、知ってるかな)
 弁当が温まるの待ちながら、唯一この家で調理される白米を茶碗によそう海翔は、そのようなことを思う。
(この村で生まれ育ったんだもんな。知ってるよな、きっと)
 いつもは母が戻ってくるのを待たずに、食べ始める。しかし今日の海翔は、湯気を立てる食事を前に母を待った。台所に入ってきた母は、何度かまばたきをしている。
「なに、なにかおねだりでもあるの?」
「どういう意味だよ」
「だって、いつもはさっさと食べてるのに。居住まい正して、お小遣いの値上げ要求?」
「俺は、下心なしには動かないのか……」
 母に、そのように思われていたとは。わざとらしくがっかりとした様子を見せると、母は声をあげて笑った。離婚、転居、続いた変化にあまり笑うことのなくなっていた母の笑顔に、海翔は中学生らしからぬ、母への慕情を抱いた。
「いただきます」
 ふたり揃って、手をあわせる。こうするのも久しぶりだ。とはいえふたりとも口数の多いほうではなく、食事は黙々と、ただテレビに映るニュースキャスターが賑わいを添えている。
「なぁ、母さん」
 煮豆をつつきながら、海翔は言った。
「清め地蔵って、知ってる?」
「……ああ」
 母は、少し考えた。そしてうなずく。
「清め地蔵が、どうしたの?」
 思い出したように、母は言った。うん、と海翔はうなずく。
「あの、清め地蔵さ。友達に訊いたら、キモいっていやな顔されて、あんまり教えてもらえなかったから。母さんだったら知ってるかなって」
「ああ……キモい、ねぇ……」
 納得したようにうなずきながら、母は箸を進める。
「そうでしょうね、それが、中学生の男の子の反応としては正常だわ」
「どゆこと?」
「こういう話に興味津々とか、めちゃくちゃ詳しいとか、健全じゃないもの」
「健全じゃなくて、すみませんね」
 むくれた顔を作ってみせると、母はまた笑う。いつもそれぞれに食事をし、自分のぶんの弁当箱と食器は洗い、あとは部屋に籠もってしまうふたりとしては、めったにないコミュニケーションの場だった。母がこのように笑うのなら、たまにはこうやって一緒に食卓を囲むのもいいかもしれない、と思う。
「あんたが健全なのは知ってるわよ。ベッドの下のいけない本とかね。中学生男子らしく、品揃えも豊富じゃないの」
「……!」
 掃除もめいめいの部屋は自分で、それ以外の場所は担当を決めてやっている。とはいえ、十四年間一緒に暮らしている母親だ。秘蔵の本やDVDのことを知っていてもおかしくはないけれど、こうもあからさまに言われると身の置きどころがない。
「で、健全中学生の海翔は、どうして清め地蔵に興味を?」
 秘蔵のさまざまにはそれ以上突っ込むことをせず、話題を戻してくれたのでほっとした。母が再び海翔の秘密に話を持っていくことのないように、口早に海翔は言った。
「いや……だって、あんなに傷だらけだろ?」
 話題がまた藪蛇にならないように、慎重に海翔は話す。
「傷つけたやつの罪を、身代わりになって清めてくれるとかいう話だったけど、ずいぶん心の広いお地蔵さんなんだなって。傷なんかつけられたら、普通怒らね?」
「まぁ、そういうお地蔵さんだからねぇ」
 ひじきを口に運びながら、母は言う。
「わたしも、くわしくは知らないわよ。お父さんやお母さんは知ってたかもだけど……ああ、あんたのおじいちゃんとおばあちゃんね」
「わかってるよ」
 海翔は、ほかり、と食欲をそそる湯気を立てる白米に箸を伸ばす。
「この村が、もっともっと小さくて、伊江田村って名前がつく前からあったらしいけどね」
 慶太も、同じようなことを言っていた。大正だか明治だか、へたすると江戸時だからあるような地蔵なのだと。
「罪を背負った人が、自分の罪がなくなりますようにって願いながら鑿とかの刃物で傷をつけたら、お地蔵さんが罪を清めてくれるって。だから、清め地蔵」
 母は、それ以上のことは知らないようだった。これでは、慶太に聞いた話と大差ない。やや落胆しつつも母のせいではないので、そう、と言ったきり海翔は黙々と食事を進めた。
「あ、そうそう」
 行儀悪く指し箸をしながら、母は言った。
「お地蔵さんに傷をつけるときにはね、人に見られちゃだめなの。人に見られちゃうと、罪が清められるどころか、もっと重くなるんだって」
 そう言って、母はあんのかかった鶏を囓った。
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