切り裂き語り 少女の鮮血と清らなる魂

月森あいら

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〈唐傘亭〉店主が語る、第四章

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 羽澄美桜は、旅館の娘だという。
 確か、咲希がそう言っていた。旅館だから、料理は賄いさんがやってくれると。それが家族の食事に関してもなら少し羨ましいと思いながら、海翔は帰宅後、小さな伊江田村を歩きまわってみた。
 伊江田村に一軒だけあった、小さな旅館。〈羽澄旅館〉とそのものずばりの名称の宿は、果たしてこのような片田舎の村に旅人など来るのだろうか、と心配する海翔をよそに、知る人ぞ知る場所であるらしい。というのは、帰途で慶太に訊いた話だ。
 温泉が出るわけでもない、近くに名所があるわけでもない。しかし村のほとんどを占める田圃が今は青々と稲を茂らせ、見晴らした向こうには複雑な稜線を描く白雲山。その景色は画家や写真家の創作意欲をくすぐるらしく、少ないながらも客が絶えることはないという話だ。
 こっそりとそこに向かってみた海翔は、伊江田村の小ささに助けられ、すぐに旅館を見つけ出すことができた。
 海翔の家とは逆の、村の南に位置している羽澄旅館は、一軒の家にしては大きく、旅館にしては小さい、純然たる日本家屋だった。同じ日本式の家でも祖父母から受け継ぎ、たいしたリフォームもしないまま住んでいる海翔の家とは大違いに、見栄えよく手入れしてある。
 瓦は夕陽を受けて輝き、生け垣はきっちりと剪定が行き届き、ちらりと覗いた門は磨かれた白木で、飛び石も砂砂利も手入れを欠かさないのだろう、雑草の一本も生えておらず、確かに客を迎えるための建物なのだ、と海翔を納得させた。
「お客かね?」
 〈羽澄旅館〉との縦長い木材の看板を、見るとはなしに見ていた。流麗な文字で描かれた旅館の名を指先でなぞっていた海翔は、かけられた声に飛びあがるほどに驚いた。
 髪が乱れる勢いで、振り返った。そこにいたのは、海翔が少し見あげるくらいの身長の人物だった。
『人物だった』と遠まわしな表現が浮かんだのは、その人物が男なのか女なのか、どのくらいの歳なのか、まったく読み取ることができなかったからだ。
 大人であることはわかったけれど、二十代なのか、三十代なのか、四十代なのか。東京にいたころ近所で、ときどき『秘蔵の本やDVD』を貸してくれていた大学生の男に雰囲気が似ているような気もするし、母くらいの年代で薄化粧とスーツが似合うような気もする。
 その彼、もしくは彼女は、理知的な鋭い瞳を、海翔に向けた。
「中学生が、旅館を覗いている。その理由を知りたくて、あたしはわくわくだよ」
 あたし、と言った以上は女なのだろうか。しかし声は低い、ハスキーヴォイス。耳に心地よく入ってくる穏やかな声は、その人物が男であろうが女であろうがどうでもいいと思わせる。
 もっと聞いていたい声だと思ったけれど、とりあえず自分には無関係の場所を覗きこんでいた理由は、説明しなければ不審者扱いになってしまうだろう。
「あの、同級生の家らしくて、ここ」
「ああ、中学校の子か。美桜ちゃんの友達?」
「友達ってほどじゃないんですが……。あの、旅館の子だって聞いたので、どんな旅館なのか、見たくなって」
 ふぅん、とその人物は首をかしげた。顔は笑顔のままだけれど、美桜の名に確かに反応した。美桜の関係者なのか。ならば、彼女の長袖のセーラー服の理由――リストカットではないと彼女の言い張る、手首の包帯の理由を知っているだろうか。
 そんな海翔の心中を知るよしもないその人物は、きょろ、と目を動かして旅館の建物と海翔を交互に見やった。
「じゃ、美桜ちゃん呼んで案内してもらえばいいじゃないか。もう帰ってるだろう?」
 美桜ちゃん、と旅館の玄関に向かって呼びかけそうになった彼女(と、海翔は判断した)を、海翔は慌てて遮る。
「いい、いいんです、ちらっと見たかっただけで。それに俺、羽澄さんと仲がいいわけでもないし。呼んでもらっても、困ります」
「そうなんだ?」
 海翔は、首をかしげるその人物を改めて観察した。
 軽く脱色したぱさぱさの髪を、髪を無雑作に後ろで束ねている。ざっくりとしたTシャツを着て、ややくたびれたジーンズと藁の草履を履いた彼女は何者なのか。勤め人の帰宅時にしてはあまりにもラフな恰好だし、おまけに確かに年上だという以上、はっきりとした年齢さえも不可解な『彼女』がどういう人物なのか、乏しい海翔の知識ではまったく思いつくこともできなかった。
 ちなみに、海翔が目の前の人物を『彼女』だと断定したのは、Tシャツの胸もとが微かに膨らんでいたのを目にとめたからだ。鍛えた男性の胸筋とはまったく違う膨らみは、女性のものでしかあり得ない。
 昼間、教室で見た咲希の胸、彼女が少し跳ねるだけで悩ましい揺れかたをしたアレと比べてはまったく違うものだと言ってしまいたくなるが、とりあえず男性にはない膨らみが、彼女を女性だと判断させた。
(どこ見てんだろ……俺)
 それにしても、いろいろな大きさの胸があるものだと思う。中学生にしてすでに弾むような豊かな胸を持っている者があると思えば、目の前の女性のように、一見して男か女かわからない者もある。
 ブラジャーにはAから順に乳房の大きさを示すアルファベットがついているけれど、仮にそれが男の場合――『下』のサイズを示す基準があった場合、アルファベット順に大きさを知らしめられるなどたまったものではない。そういう点、女性はつくづくすごいと思う。
 目の前の女性の胸はきっとアルファベットの最初のほうのサイズだろうけれど、それをどう思っているのだろうか。
「なぁ、少年」
 声をかけられて、はっとした。
(なに考えてるんだ、俺……)
 どうにも、自分が女性の胸ばかり見ているような気がして恥ずかしくなった。思わずうつむいてしまったのを、彼女は旅館を覗きこんでいたところを見つかった恥じらいだととらえたらしかった。
「君、城戸崎さんのとこの子だろう? あそこのおじいちゃんとおばあちゃん、亡くなって。娘さんが戻ってきてるって話だったけど、君、その息子さん?」
「あ、はい」
 妙なことばかり考えていた海翔は、その考えを振り払うように大きく頷いた。
 女性は、ふぅん、とそのハスキーヴォイスで物珍しそうな声とともに、海翔を見ている。あまりにじっと見つめられるものだからいたたまれなくなり、立ち去ろうかと考えはじめた海翔は、羽澄旅館の玄関ががらりと開いたのに思わずびくりとしてしまった。
「わぁ、ああっ!」
「なんだ、そんなに驚かなくても」
「あの、行きましょう! ここ、いても仕方がない!」
 出てきたのが誰だったのかは見なかったけれど、美桜であったらなんと言えばいいのか。今さらながらに、自分の行動がストーカーまがいであったことに気がついた。
「じゃあ、行くかい?」
 女性は、海翔に背を押されながら楽しそうに言った。
「羽澄さんとこに用があったんだけど、少年がいやなんじゃ仕方ないね」
「あ、用があったんですか」
 それなら、立ち去るのは申し訳ない。しかし女性は、にやりと笑って首を振った。
「でも、今は君のほうに用があるな。というか、美桜ちゃん目当てにじっと玄関、覗きこんでる少年には、お仕置きのひとつもしてやらないと」
「ええ、え、え!」
 思わず顔を引きつらせた海翔に笑い、女性は海翔の手首を取った。手のひらが荒れている。指の節も大きくて、手を使って働く人物なのだということがわかった。その白さと繊細さがなければ、男性のものだと思ったかもしれない。
 乱れた髪、あまりにも気づかわなすぎる着こなし。ハスキーヴォイスに、荒れて固い手。女性だと認識したあとでも自分の判断を疑ってしまう彼女だけれど、背中を向けて見えた結んだ髪に結ばれているのが赤い模様の入ったリボン――和服に使われるような布をリボン状にしたものであったことに、自分の判断は正しかった、と海翔はなぜだか胸を撫でおろした。


 海翔が連れていかれたのは、海翔の家よりも少し大きな、しかし羽澄旅館ほどの規模はない、こぢんまりとした日本家屋だった。もっとも伊江田村には日本式の家しかない。マンションはもちろん、鉄筋コンクリートの建物も見たことがない。
 建物の前には、羽澄旅館のように木材の看板があった。材木の自然な形を利用して作られた看板には、〈唐傘亭
からかさてい
〉。看板の上には、朱色の和傘が広げて差してある。なるほど、これがこの屋舎の名前の由来だというわけか。
 流麗な筆文字で〈唐傘亭〉と書いてあるその下には、「ご自由にお入りください」と、小さなポップが飾られていた。矢印があって、その先は古めかしい木戸になっている。
「なんなんですか、ここ……?」
 村にこのような場所があったことにも気づかなかったし、連れてこられた意味もわからない。女性は海翔の質問を無視してがらがらと木戸を開け、すると中からは、ぱしゃり、とバケツで墨汁を投げつけたような闇が飛び出してきた。
 夕方とはいえ、まだ陽はある。太陽を裏切るようにあふれ出てきた闇に、海翔はぎょっとした。しかし女性は、そのようなことを意にも介さずにすたすたと中に入っていく。海翔は恐る恐る、彼女に従った。
「……お邪魔、します……」
 中は、案の定暗かった。あまりの暗さに目が利かず、どこになにがあるのかもわからずうろうろしてしまい、女性の背中にぶつかった。
「わ、ぷっ!」
「悪い悪い、暗いよね。でも、あんまり明るくすると、みんながいやがるんでね」
「みんな……?」
 暗い中で目が利かないだけ、海翔は感覚をうごめかせた。しかし、人の気配はしない。海翔は特に感覚が鋭いというわけではないけれど、それでも人がいれば――しかも女性は「みんな」と言った――その動く気配を感じることができるものではないだろうか。しかし屋内はしん、と、なんの物音もしない。
 かちり、と音がして電灯がつく。いきなり明るくなって、海翔は目をしばたたかせた。少しすると目が慣れてきて、そして目に入ったものに文字通り飛びあがった。
「わぁ、ああ、ああっ!」
「なんだ、失礼だな。わたしのかわいい子たちに」
 目の前に、少女がいた。赤い和服――女性が髪につけている布によく似た着物を着ていて、黒い髪はぱっつりとまっすぐに調えられている。肩を隠すくらいの長さの艶やかな髪は、羽澄美桜を思い起こさせた。
「……人形?」
 気配を感じなかったのも無理はない。そして目の前の市松人形は、大きな黒い瞳を見開いたままぴくりとも身じろぎしない。当然だ、身動きなどされれば海翔はこの謎の家屋から飛び出して、逃げ出していただろう。
「そ、人形。ここは、人形工房〈唐傘亭〉。ようこそ、あたしの城に」
 誇らしげに、女性は言った。城、というにはここは彼女の家なのだろう。趣味で〈唐傘亭〉などという名をつけ、出入り口に人形を飾る変わり者? いや、工房、と言った。ということは、この女性は人形を作る仕事をしているのだろうか。そういえば、手は荒れて固かった。人形を作る者は、ああいう手をしているのだろうか。
 ただでさえ謎だった女性の身のうえがますます気になりだした海翔に、女性は問う。
「城戸崎……なにくん、だったっけ?」
 市松人形の頭を撫でながら、女性は言った。ぼんやりと闇が晴れていくと、まわりにはますます海翔を驚かせるものがあった。
 椅子の上、棚の上、磨かれた黒木の廊下、ところ狭しと人形が並んでいる。美桜に似た市松人形はもちろんのこと、フリルとレースをふんだんに使ったドレスをまとった金髪の人形、髪を両耳のうえで結いあげチャイナドレスをまとった人形。インドのサリーのようなドレスの人形。絵本に出てくる『王子さま』のような恰好をした少年の人形もある。
 一見しては数えきれないほどにたくさんの人形が、ここにはいた。
「城戸崎くん、じゃ味気ないじゃないか。下の名前を教えてよ」
「あ、海翔、です」
 そ、海翔くん。女性は満足げにうなずいてそう言い、そして顔をあげてじっと海翔を見た。
「あたしは、鶴目
つるめ
歩。歩くって書いて、あゆむ」
 名前までもが中性的だ。そしてその名は、彼女にぴったりだと思った。本名なのか、と思ったくらいだ。彼女が本当に人形師なのなら、芸名? ペンネーム? 雅号? そのようなものを持っていてもおかしくないと思ったからだ。
「親は、あたしがこんなふうになるってわかっててこういう名前をつけたんだかね。同じ字でも、あゆみ、じゃ全然印象が違うもんね」
 本名だったらしい。海翔は、恐る恐る声をかけようとする。別段びくびくする必要はないのだけれど、ここが見知らぬ相手のテリトリーとなれば、どこからなにが出てくるかもわからない。未知のマップに迷い込んだゲーマーの気分を味わいながら、海翔は言った。
「あの、鶴目さんは……」
「歩でいいよ」
 歩は、にやりと笑ってそう言った。きれいに掃いてある玄関を、草履を脱いであがる。促されて海翔もあがった。
 ところ構わず人形が置いてあるので、電灯がついたとはいえ足もとには気をつけなくてはいけないと思った。彼女が工房を持つ人形師ならこれは売りものなのだろうし、そのような大切なものを汚してはいけない。
「どうして、俺を連れてきたんですか?」
「ん? ちょっち、訊きたいこととかあってね」
 奥に入って行きながら、なんとも脱力する口調で歩は言った。訊きたいことがあるからといって、中学生とはいえ名も知らぬ男を家に連れてくるなんて。
 もっとも彼女の雰囲気からして、そのような気まぐれな行動は、確かにふさわしいと思えるのだけれど。
「新参者に対する好奇心だよ。東京から来たんだったっけ? お母さんと一緒に」
 また、芸能人に会ったことがあるかとか、イベントやショーに行けて羨ましいと言われるのだろうか。中学生と同じような質問がこの心地いいハスキーヴォイスで綴られると思うと、それはいささかげんなりすることではあった。
「美桜ちゃんと、同じクラスだろう?」
 歩について奥に入っていくと、そこは台所だった。あちこちに人形が飾ってあること以外は、海翔の家の台所と大差なかった。
 そこ、座って。そう言われて台所のテーブルの隅に腰掛けた。初めて入る家で遠慮したということもあるが、なんとなくまわりの人形の目が気になったのだ。歩に対して不作法なことをしては、この人形たちに叱られてしまう。海翔は、そのような感覚に陥っていた。
「え、あ……はい。羽澄さんは、隣の席です」
 海翔の返事には黙ったまま、奥に入った歩は抽斗を開け茶筒を出し電子ポットから湯を注ぎ、手早く茶の準備をしている。
 もてなしてくれるつもりなのだと思うと、意外だった。歩の中性的な印象からも、ちらりと見えた高級そうな茶器を音も立てずに扱っているというのも意外だった。毎日白米を炊いて弁当を温めるだけの海翔の手の、何倍も器用だ。
 それも、人形師なのなら当然だろう。人形をどうやって作るのかなど海翔は知らないけれど、まわりに飾っている人形たちを見まわすだけで、すべてに手が込んで繊細な作りだというのが見て取れるから。
 茶の味などわからない、ペットボトルの茶で充分の海翔にも、いいものだとわかる茶の香りが漂ってきた。振り返った歩は黒塗りの木の盆に白地の茶器をふたつ、載せていた。茶器には淡く細かい梅の模様が描かれている。
「美桜ちゃんと、隣の席か」
 茶器のひとつを海翔の前に置きながら、歩は言った。そして海翔の前に席を取ると、じっと覗きこんできた。
 歩は、きれいな目をしていた。形はやや細めで吊りあがっていて、少し狐の玲奈を思い出させる。しかし彼女よりも数倍の――そういえば、歩は本当に何歳なのだろう――人生経験と、その中での悲喜こもごもを味わってきたうえでの清純さがあって、つい見とれてしまう。
 歩もじっと海翔を見るものだから、ふたりはテーブルを挟んで見つめあうことになった。
 脱色したばさばさの髪に、くたびれたTシャツ。しかしそれでも、歩は美しかった。その真っ黒な、宝石のような瞳がそう思わせるのだろうか。
 透きとおって、純粋な――人形師という、海翔とは縁遠い、想像もしたことのない職業の人物だけれど、これだけの美しい人形を作ることができるのだから、本人もやはり美しい――単純な外見、若さやスタイルといったものではない、内面からの美しさを、歩は内包していると思った。
「あたしはね、美桜ちゃんの母親に世話になったんだよ」
 歩の言葉に、はっとした。言われた言葉の意味を理解するのに時間がかかり、そうか、と納得した。同時に歩の年齢にも見当がつく。それでも、二十代とも四十代とも取れる印象はそのままなのだけれど。
「だから、美桜ちゃんがどう思ってるか……あんなことになって」
「あんなこと?」
 海翔は首をかしげた。目をしばたたかせ、すると歩はその目を大きく見開く。
「知らないのか? てっきり、知ってて訪ねていってたんだとばかり……」
「知りません。なんですか、あんなことって」
 とたん、歩の口は重くなった。今までじっと海翔を見つめていた視線をさまよわせ、茶器を手にするとひと口飲み、そのまま手の中でもてあそぶ。
「教えてください。だって、羽澄さん……」
 言いかけて、海翔は口をつぐんだ。ふたりの間に、奇妙な沈黙が流れる。
 美桜の手首の傷のことを、言っていいものなのだろうか。歩もなにか美桜のことについて隠しごとをしていて、どちらが先に口火を切るか、互いの出かたを待っているといった空気が、台所に流れる。
「……その、ね」
 先に口を開いたのは、歩だった。言いにくそうな中にも、大人として話の主導権を取らなくてはいけないという責任感が見えた。
「美桜ちゃんの母親、出て行っちゃったんだよ」
「出ていった?」
 首をかしげながらも、海翔の脳裏にはその言葉につながるひらめきがあった。
 出ていった――父。海翔の見知らぬ女と浮気し、最終的には家から去った父。母を差し置いて浮気などする男を父と呼ぶ気はもうないけれど、そのとき大きなショックを受けたのも確かなのだ。
「浮気、とかですか?」
 万が一違えば、ずいぶんな名誉毀損だ。しかし歩は海翔を指差し、ビンゴ、と言った。
「東京から来た、お客さんとね。写真家とか言ってたけど、あたしにはホストのほうが適職だと思ったよ」
 眉をひそめて、歩は言った。
「ホストって言いかたは、真面目なホストさんたちに悪いね。人の奥さんを誘惑して、奪って逃げちゃう男は、なんて言うのか……とにかく、サイテーな人種だよ」
 歩の眉間の皺は深くなった。ため息まで洩れて、歩が美桜の母の件についてずいぶん心を痛めていたのだということがわかる。
「羽澄さんのお母さんとは、仲よかったんですか?」
 これだけ心配しているのだ、親友だったといってもおかしくない。しかし歩は、首を横に振ったのだ。
「ううん、よくも悪くも……単に、知りあいだったってだけ。友達、っていうほどでもなかった。本当に、知りあい」
「それだけ? それなのに?」
 それほど心配するのだ。どうしてだろう、と海翔の眉根にも皺が寄った。
「……なんか、危ういところのある子だったんだよね」
 再びのため息とともに、歩は言った。
「思い込みが激しいっていうか、決めたことに猪突猛進っていうか」
 そういう性格は、理解できないでもない。東京からやってきた写真家とやらに誘惑されたのか、彼のことを一途に思い込み、夫も娘もなにもかも、見えなくなってしまったのだろう。
 それが正しいことだとは、海翔にも思えない。しかし美桜の母親が、以前からそういう性格だったということは確かであるようだ。
「今ごろ、どうしてるのか……あの子も心配だけど、残された旦那さんと、美桜ちゃんのほうがねぇ」
 はぁ、と何度目かになるため息が洩れる。その心配で、歩は羽澄旅館に足を向けたのだろう。きっと様子を見るために、何度も出向いているのだと思われた。出ていったという母と相手の男がどうしているのかということも心配だろうけれど、なによりも、残された者だ。海翔も父に捨てられたといえば、同じ立場だ。懸念する歩の心もわかる。
 美桜のことを、海翔は思った。母に捨てられた彼女の心中は、どのようなものなのだろうか。
 海翔自身といえば、父の不貞をおぞましいと思い、すでに心は父にない。仮に父が戻ってきたとしても、海翔は受け入れられないだろう。もう見たくもない、考えたくもない存在だ。自分に父がいたということ自体、もうほぼ忘れかけている。
 それは母が父のことを話すこともなく、母子家庭の厳しさも感じさせない充分な生活をさせてくれているからだ。海翔は、今の境遇に不満はない。
 しかし美桜はどうなのだろうか。母が新しい男を作って出ていき、父とともに残された。残った親の性別、子の性別、またそれぞれの性格で、環境は大きく変わってくるはずだ。
 そんな思いに心を馳せる海翔は、思考を歩の声に遮られた。
「あの子が、思い込み激しかったから。それに、羽澄旅館のご主人もねぇ……」
 また、ため息。
「嫁が出ていったときの愁嘆場は、いまだに語りぐさだよ。あのご主人、美桜ちゃんに当たったりとかしてないかとか、なにかと心配なんだけど」
 海翔は顔を歪めてしまう。歩の話は、充分考えられることだ。妻に裏切られた夫が、その鬱憤を娘に当たることで晴らす。仮にそういうことが行なわれていた場合、美桜はどのように受けとめるのだろうか。
「わざとじゃなくても、仕方がないことで間違いが起こったりとかして、それを自分のせいとか思っちゃうような子だったからね、あの子は」
 歩の言う、あの子――美桜の母のことを海翔は思い、そこから連想されることを懸念している歩に向かって口にしてみる。
「それが、娘の羽澄さんにも受け継がれてるって……?」
 海翔の言葉に、歩はちらりと彼を見た。そして、うなずく。
「母親が出ていったのが、自分のせいだとか。残された父親の孤独が自分のせいだとか。そんなふうに思っちゃうんじゃないかって、だから心配なんだ」
「そして、羽澄さんとクラスメイトの俺に……?」
 うん、と歩はうなずいた。
「あんなところに立ってるくらいだからね、美桜ちゃんと関係ないわけはないと思って声、かけたんだけど」
「すみません……」
 美桜のことを知っているどころか、なにも話せることがない。あまりに悲惨な、それでいて自分の境遇と重なる美桜の事情を聴いて、彼女に寄せる心は大きくなったのだけれど。だからこそ。
「……あ、れ……」
 それを言っていいものか、迷った。しかし言い淀んだ海翔を前に、歩は身を乗り出さんばかりだ。大きく目を見開き、じっと見つめてくる。
「なに? やっぱり、なのかあるの?」
「……羽澄さんは、否定してるんですけど」
 口ごもりながら、海翔は言った。歩の目の前には、もう逃げられない。うつむきながら、海翔は小さく早口に言った。
「羽澄さん、もう夏服の時期なのに、合い服なんです。長袖で。で、左の手首に……包帯を、巻いてて……」
 歩の表情が、険しくなった。それ以上言う必要はないだろう。歩が、きゅっとくちびるを噛んだ。
「羽澄さんは、怪我したんだって。単に、それだけなんだって。でも……それを。……リスカ、って言うクラスの子もいて」
 リスカ、という言葉を口にするには勇気が必要だった。しかし歩は気づいているだろうし、ここまで言って遠まわしにする必要もないと、海翔はそうはっきりと口にした。
「でも、美桜ちゃんは否定してるんだね?」
「はい。女の子たちが、怪我だったら隠す必要なんかないって……あの子たち、羽澄さんの怪我をリスカだと思って冷やかすっていうか、そんな感じで……。そうしたら羽澄さん、ものすごく恐がってるっていうか、脅えてるっていうか。何だか……すごくかわいそうな感じになっちゃって」
 仔馬の咲希――彼女の目に浮かんでいた意地の悪い色を思い出した。こうして口にしてみると、あのとき美桜をかばえなかった自分を情けないと思う。しかし同時に、仔馬に猟犬、狐に兎の少女たちの集団の中では、新参者の自分は何も言えなかった、とも考えてしまうのだ。
「……羽澄さんがただの怪我だって言うんなら、俺もそうだって言えばよかったんですけど。でも、まわりの子が……。って、こんなの、言い訳ですけど」
「ま、女子中学生なんて、口が立つからね。あたしくらいならともかく、同学年の男子が口で勝とうなんて、無理無理」
 どこか戯けた口調で歩が言うのに、少しだけ救われたような気になった。もっとも海翔が救われても、美桜にはなんの助けにもなっていないのだけれど。
「手首に、包帯?」
 そのままの表情で、歩は言った。彼女があまりにさらりと言ったので、なにを言ったのか一瞬理解できなかったくらいだ。
「怪我にしろ、自傷にしろ……穏やかじゃ、ないね」
「……はい」
 そう、仮に怪我だとして、手首に怪我をするなんて不自然すぎる。どう考えても、海翔には手首にうっかり怪我をするというシチュエーションが思い浮かばない。
「ありがと、少年」
 笑み半分、真剣な表情半分で、歩は言った。
「君をつかまえた甲斐があった。美桜ちゃんのこと、聞けてよかった」
「いえ……たいしたこと、言えなくて」
 口の中でもごもごとそう言う海翔を見やりながら、歩は目を細めた。
「君も、なんかいろいろ抱えてるみたいだけどね?」
 どきりとした。それは浮気して出ていった親を持つという、美桜と同じ環境のことを言っているのだろうか。しかし海翔にとって父のことは過去だ。もちろん美桜の怪我と両親の事情が関係していると決まったわけではないが、少なくとも海翔とは表面は似ていても内情が違う。
「知ってるよ。君も、お父さんと離れて暮らしてるんだろう? お母さんと、別れたの?」
 単刀直入に、歩は尋ねてきた。腫れものに触れるように訊かれるよりも、そっちのほうが何倍も心地よかった。海翔は笑みを作り、うなずいて答える。
「そのことは、俺はいいんです。父のことは、もう忘れてますから」
「それはいい」
 声をあげて、歩は笑った。聞いていて気持ちのいい、ハスキーヴォイスの笑い声。しかしその笑いの最後に、ある言葉が絡まった。
「なにか、脅えてるね?」
「……な、にが?」
 突然の歩の言葉に、海翔は戸惑ってしまう。いきなりなにを言い出すのか。歩の言うことにはまったく心当たりがなくて、うろたえてどぎまぎしてしまった。
「君だよ。女子たちに圧倒されたってだけじゃない。学校……いやなんじゃないのか?」
 胸の奥で、心臓が大きな音を立てる。海翔は大きく目を見開いて歩を見、彼女はじっと海翔を見つめた。
「そういう君だからこそ、美桜ちゃんに気がついたんだと思ったけどね。確かに、今になっても長袖着てたり、手首に包帯巻いてたり……そこが気になるってのもあるけど、それ以上に、君は美桜ちゃんになにかを感じたんじゃないのか?」
「…………」
 海翔は、なにも言えなかった。それは、そのとおりだったからだ。彼女がひとりで長袖を着ているとか、手首に包帯が覗いているとかいうことは、近づいてから感じたことだ。それよりも前に、海翔をとらえた彼女の印象。その異様さ。彼女の異質。まるで教室の中、ひとり浮いているような異端が、海翔をとらえたのだ。
「美桜ちゃんは、普通の子だよ。勉強もスポーツも、趣味も生活も、なにもかもが普通の、どこにでもいる女の子」
 うたうように、歩は言った。
「君の目に、美桜ちゃんがどう映ったのか、あたしは知らない。けど、君がわざわざ羽澄旅館に足を運んでしまうほど美桜ちゃんが気になったというんなら」
 そこで言葉を切り、歩はじっと、海翔を見た。
「それは、なにか……君自身が、美桜ちゃんと引きあうものがあったからじゃないのかって思うんだよ」
「引きあう……?」
 初めて彼女を見たときの、印象。その美しさが目を惹いたのは確かだけれど、歩の繰り返す『普通』との言葉に思い返してみれば、たとえばテレビに映る女優やアイドルのような華やかさが美桜にあるわけではないのだ。
 髪も顔貌も、目も鼻も、くちびるも美しかった。美桜の美貌を否定はしない。しかしマンガやアニメでそうであるように、絶世の美少女に出会って背に電流が走った――それほどのショックを受けるほどの婉美かと言われると、そうではない。美桜はあくまでも普通の女の子だ。
 それなのに、歩の言わせると美桜と海翔が引きあった――なにゆえに? しかし彼女から感じた異様を思うと、決して肯定的な理由の引力ではないように思う。
「なんで、俺と……羽澄さんが、引きあう……って……?」
「それを断言できるほど、あたしは君のことを知らないからねぇ」
 海翔の動揺を玩弄するように、歩は言った。
「君のほうが、よくわかるんじゃないか? たとえば、同じ体験をしたから。同じようなことを感じてきたから。そんなところじゃないのかね」
「俺も羽澄さんも、親が浮気して出ていって、親ひとり子ひとりだから? だからだって、言うんですか?」
「そう、それもあるだろうけど」
 でも、それだけ? 歩の目は、そう言っている。じっと、見つめてくる黒い瞳。まるで海翔の心の底を探り出さんとでもいうように。奥に押し込め、封じた感情を解き放とうとでもいうように。
 どくん、どくん、と海翔の胸の奥で、心臓が大きく音を立てた。
『やめろよ』
 しきりに海翔をせっつき、それでいて声にならなかった言葉。あのときのことを思い出す。リスカだなんだとからかわれていた美桜をかばうことができなかった情けなさ、悔しさも相まっている。
 しかし海翔がその言葉を懸命に綴ろうとしていたのは、過去の自分に向けていた言葉だったのかもしれない。
「……帰ります」
 結局、いい香りのする茶には口をつけなかった。そのことに気を悪くするでもなく、歩はうなずくと、ぱたぱたと手を振った。
「また、来てくれよ。今度は、人形作ってるところ、見せるよ。そういうの、興味あるんじゃないのか?」
「あります。それに、ここにある人形たちも、もっとよく見てみたいし」
「そりゃあ、光栄だ」
 がたん、と音を立てて海翔は席を立った。歩も立ち、ところ狭しと人形の飾られている廊下を歩く。脱ぎ揃えた靴に足を差し入れていると、後ろから声がかかった。
「社交辞令じゃないよ」
 歩は、ざっくりとまとめた髪を指先に絡めながら、言った。
「また、来て。人形も見てもらいたいし、話も聞きたいし。君は、聞き上手だ」
「そうですか?」
 思わず苦笑してしまう。聞き上手、なんて言われたことはなかったのに。そんな海翔にぱたぱたと手を振りながら、歩は人懐っこい笑顔を浮かべている。
「じゃ、またお邪魔します。勝手に来ても、いいんですか?」
「構わないよ。あたしは、たいていここに籠もって仕事してるから」
 ふと視線を落とすと、美桜に似ていると思った市松人形が、こちらを見ていた。否、ガラスの瞳がこちらを見るはずがないのだから、単にこちらを向いていたというだけだろう。それでも思わずどきりとしてしまい、すると美桜に見つめられているような気がして、慌てて逃れるように〈唐傘亭〉を出た。
 夕暮れの茜は血のように赤い。それを覆い隠すように、空はほとんどを濃い濃い群青に染められていた。街灯の少ない伊江田村では、あまり遅くなると懐中電灯でも持っていないと足もともおぼつかない。引っ越してきたばかりの海翔となれば、なおさらだ。
 海翔は、早足に家路に就く。うっかり道に迷いでもすれば、へたすれば自分の住んでいる村で、遭難だ。


 夕食と風呂を済ませたあと、ふと思い立ってノートパソコンを立ち上げた。検索エンジンで『唐傘亭』と検索してみると、歩が運営しているらしい本家のサイトには、あの家で見たような人形の写真が何枚もアップされていた。作者は『唐傘』と名乗っているところから、やはりペンネームか雅号のようなものはあるらしい。
 本職のカメラマンが撮ったのか、アップされている写真はあの人形たちの美しさを充分に表現しているというのが、実物を見ているからこそ海翔にも充分にわかった。人形は、ネットを通じて通販もするらしい。
 それ以外にも〈唐傘亭〉の唐傘の作る人形のファンだという人物が作ったファンサイトが、いくつも見つかった。
 買った人形をさまざまに着替えさせ、まるで初孫の写真でも公開するかのように、何十枚、へたをすると何百枚も画像がアップしてあって、少々海翔を引かせたサイトもある。
 もちろん、肯定的なものばかりではない。新進気鋭の人形作家〈唐傘〉をやり玉にあげ、人形作成の技術からプライベートにまで至ってあることないこと(海翔には、ないことないことばかり、火のないところに無理やり煙を立たせているように思えた)誹謗中傷するサイトなども、あるにはあった。
 しかし、そんな陰口は単なるやっかみにしか思えない。それ以上に彼女の腕を褒め称え、人形を我が子のようにかわいがっている人たちの多いことに、海翔は驚いた。
 そのような人物に会うことができたことに、少し誇らしくなった。海翔が少しでも人形に詳しければ、その感動はもっと大きかったに違いない。
(ここ、東京じゃないのに)
 クラスで、東京に住んでいたら芸能人だのに会えるのではないかと羨ましがられたことを思い出した。しかし海翔は東京ではひとりも有名人になど会わなかったのに、この伊江田村でこそ有名人に遭遇したのだ。その皮肉に笑いながら、パソコンの電源を落とす。
 ふと、歩の言葉を思い出した。美桜と海翔には引かれあうものがあり、それが海翔が初めて彼女を見たときの衝撃の理由だと。
 引かれあうもの――それはいったい何だろう――。ぱたん、とノートパソコンが閉じる音を聞きながら、海翔は大きく目を見開いた。

(……あ、……っ……、……)

 かちりと音を立てて、海翔の胸の奥が開いた。同時に、ヘドロのように黒くてどろりとして、くさいものがあふれ出してくる。
(う……く、っ……)
 胸を押さえて、海翔は呻いた。
 歩の言葉に、蘇らせられた。今までずっと懸命に封じ込めていたのに。まるで、本当にコールタールが体中を駆け巡ったように感じ、胸を押さえて海翔はベッドに転がり込んだ。
 それに懸命に耐えながら、海翔はベッドの上でうつ伏せになる。ぐっと全身に力を込めながら、懸命に記憶を再びふたしてしまおうと努める。
(あんなやつ……、あんなやつらの、こと)
 東京の学校で、海翔はいじめられていた。
 いじめといっても、ニュースで自殺したと報道される少年少女たちが受けていたような凄惨なものに比べれば、まったくたいしたことはない。他愛のない、いたずらのようなものばかりだ。少なくとも海翔は、そう思い込もうとしていた。
 痛いまでにプロレスの技をかけられて、関節をはずれそうなくらい決められたり、冗談めかして殴られたり蹴られたり。悲鳴をあげると笑われたり。机を引っ繰り返されて、中をぶちまけられたりもした。弁当の中身も、おかずを奪われてしまうことなどしょっちゅうだった。
 そんな光景を見ているまわりの者たちは、彼らと海翔が仲がよくてじゃれあっているのだと思っていただろう。少しばかり度が過ぎているとは思ったとしても、誰も海翔に声をかけることはなかったから。いじめていた本人たちも、単なる遊び。友達同士のふざけ。そう思っていたかもしれない。
 しかし海翔は、傷ついていたのだ。朝がいやだった。登校が憂鬱だった。引っ越すことになったときは、密かに快哉を叫んだ。浮気をして出ていってくれた父に、感謝したくらいだ。それもあって、海翔は母との暮らしに不満など持たず、性格のあう母との田舎村での生活が心地いいのかもしれない。

 美桜のこと――。

 単なる怪我なのに、リストカットの痕ではないのに、そうだと言いつのられて笑われる。自分の家の事情を、言外に揶揄される。
 それは、いじめではないだろうか。その証拠に美桜は脅え、か細い声で反論しようとした。しかしそれは小鳥のさえずりにも満たず、大きな象の足で踏みつぶされてしまったも同様だった。
 そんな彼女と、海翔が引きあう――それは二重に、彼女と人生を共有しているからゆえではないだろうか。そのことを見抜いて、歩はあのようなことを言ったに違いない。
 ごろり、と海翔はベッドのうえで転がった。
 忌まわしい思い出も、美桜と共有していると思うとその苦しさが少しは和らげられるように思った。彼女のことを考えると、心が軽くなったからだ。蘇ったおぞましい思い出が、ふっと淡雪のように消えていくように感じられたのだ。
 もちろん、凶事でつながるなどいいことではないのだけれど。あの美しい少女となにかを共有しているということが、海翔を喜ばせた。もっともその美しさが、彼女が教諭にも訴えることのできないいじめに耐えているからこそ生まれているものであるとなれば、手放しで喜んでいるわけにもいかない。
 それでも、あの美しい少女――たとえ悲嘆が彼女の美を形作っているのだとしても、それでも美には代わりはない。単に姿形が整っているというよりも、内面から湧き出すものがその美しさを作っているというほうが、よほどに『美』と呼ぶにふさわしいではないか。
「羽澄……美桜、さん」
 小さな声で、つぶやいてみた。それだけでかっと頬が熱くなるような気がして、先ほどとは違う意味で、海翔はベッドに突っ伏した。
 震えていた美桜。微かな声で反論をしていた美桜。
 美桜とは、話したことはない。小さくありきたりの挨拶をかわすだけのことは、話したうちには入らないだろう。
 一度、ちゃんと話してみたい。互いの胸のうちを語りあってみたい。家族のこと、いじめのこと。それぞれが、どう思っているのか。何を考えているのか。
 ふたりで頭を突きあわせれば、そこからの逃避方法が見つかるかもしれない。海翔は引っ越すことで逃げられたわけだけれど、美桜はまさにその渦の中にいるのだから。
 何かできるかもしれない、かばうことができるかもしれない。助けられるかもしれない。重ねた手を小刻みに振るわせる、人形のように美しいあの少女を――。
 いじめられていた辛い日々を思い出していたはずなのに、海翔の考えはいつの間にか美桜との近接、彼女と親しくなることに移っていて、そんな自分にがっかりとした。
(結局、かわいい女の子と仲よくすることしか考えてないんじゃないのか……?)
 仔馬の咲希、猟犬の咲良、狐の玲奈に兎の優芽も、個性は違えど揃いの美少女たちだった。それでも海翔は、歩曰くの『普通の女の子』、美桜が気になって仕方がないのだ。その圧倒的な存在感は海翔の胸の中で大きな位置を占めていて、このままでは夢にまで出てきそうだ。
 それでもいい、むしろそれを願う。まずは夢の中で、そして現実も。歩の言葉が正しければ、ふたりは引きあっているはずなのだから。
(誰にも理解されない、いじめ。いじめてる本人でさえ、いじめてるって思っていないような、いじめ……)
 大人が聞けば「気にするな」と言うような、人生経験を積んだ大人にとっては、「そういうこともあるよ」と言ってしまうような、それでも本人は傷ついて深い悩みを抱える。だからこそ性質の悪い、陰湿ないじめ。
 美桜も、同じような思いをしているのだろう。いじめと断言するには証拠不足のいじめ。美桜のことを心配する素振りを見せながら、からかって喜ぶ陰険さ。
 胸に押し込めときおり蘇る海翔の苦悶も、美桜となら共有できるはずなのだから。



 朝、登校した海翔は驚愕した。
 美桜が、右手を三角巾で吊っていたのだ。明らかに骨折だ。痛々しい美桜の姿を、クラスの皆が目を見開いて見ていた。当の美桜は、そうやって注視されることを恥じらうように小さくなって教室の隅に座り、不自由な右手をかばいながら、授業の準備を始める。
「あ……」
 美桜は、右利きなのだろう。バッグを開ける左手は、使いづらそうだ。海翔は気づけば自分の席を通り越し、隣の美桜の前に立っていた。
「怪我、大変だろう。手伝うから」
「あり……、がと……」
 思いもしない申し出だったのだろう。美桜は、唖然としている。海翔は美桜のバッグを取りあげ、ジッパーを開けた。教科書、ノート、筆箱を取り出す。
(……あ)
 機械的に作業をしながら、ふと思い至ったことに海翔は体中が熱くなった。
 これは、女子生徒のバッグの中だ。男にはわからない、無縁の、女性だけが持つ――なものなどが入っていたらどうしよう。しかし今さら引っ込みもつかず、ただバッグの中身を空けると、空になったそれを机のホルダーにかける。
「あの、……城戸崎、くん……」
 戸惑う美桜の声に、作業に専念していた海翔は、はっと顔をあげる。痛々しく腕を吊りさげた美桜は、困惑しきった顔で海翔を見ていた。
「ありがと……、でも、いい、から……」
「あ、っ……」
 よけいなことをしてしまったか、と海翔は慌てる。髪が乱れる勢いで会釈をし、美桜の前から去ろうとしたそこに、声が聞こえた。
「わぁ、城戸崎くん面倒見、いいんだぁ」
 声をかけてきたのは、仔馬の咲希だ。後ろには猟犬の咲良、狐の玲奈、兎の優芽も一緒に覗きこんでいる。
「世話してあげちゃってるの。いつの間に、そんなに仲よくなかったのぉ?」
 にやにやと、咲希は笑いながら近づいてくる。美桜と海翔は四人の作った檻の中に閉じこめられているかのようで、逃げ場もない。
「なんだか、つきあってるみたいね? それとも、いつの間にかそんなことになってたの?」
 なおも笑う咲希は、その顔、スタイルの部分部分は整っているのに、やたらに醜く見えた。近所の噂話で欲求不満を解消する以外の趣味がない中年女のような、下世話な好奇心でいっぱいであるように見えるのだ。
「ねぇ、羽澄さん。さっそく、東京からの転校生をゲットしたわけ? それとも、もしかして使用人扱い? 城戸崎くん、優しいし。何でも言うこと聞いてもらえるとか、そんなの?」
 むっとした。海翔は眉をしかめたが、咲希はそんな海翔には気がついていないようだ。それよりも、美桜をからかうことが楽しくて仕方がないらしい。
「人を顎で使うの、慣れてるもんね。お嬢さまは、やっぱ違うなぁ」
 感心した口調だけれど、明らかに美桜をバカにしているというのがわかる。しかも始末の悪いことに、咲希は自分が美桜を侮っているということに気がついていないのだ。それはその口調からも、明らかだった。
「玲奈のお嬢さまとは、全然違う種類だよね。顎で使うの。声なんか出さないでね、目だけでこれやっといてって命令して、それで思い通りにならないとキレるんだよ」
 くすくすと、咲希は笑った。ほかの三人も笑う。海翔は美桜の前に立ちはだかり咲希たちと向きあっていたから、美桜の表情はわからない。
 ただ、ここで――クラスの者たちには友達同士のじゃれあいに見えているだろう今の場――しかし明らかないじめの現場で、恐らく今の美桜の気持ちが一番わかるのは、海翔だ。
 あのときは言えなかったこと、自分の心にふたをして押さえ込んできたこと。ここでいじめの当本人たちに自分のしていることを知らしめることで、あのとき臆病に過ぎた自分を越えることができるような気がした。
 歩が言った、海翔は脅えている――そう、海翔は脅えているのだ。自分には関係ないことと無視してもいい。しかしそうすれば、以前の学校での二の舞になる――ことは美桜の身に起きていることながら、海翔には人ごとではなかった。
 海翔は、口を開いた。
「そういうこと、言うなよ」
 低い声でそう言った海翔に、咲希たちはぽかんとした顔をした。
 そのように言われるなど、思っていなかったのかもしれない。自分の言っていることが人を傷つけるものであると、自覚していなかったのかもしれない。なぜ海翔がそう言ったのかまるでわからないといった、きょとんとした様子だった。
「おまえら、自分の言ってること、意味わかってる? おまえ、羽澄さんのことすっごくバカにしてんだぞ? 違う種類、とか言って。それはもう、差別だ」
「別に、あたしたち。そんな……」
 もじり、と居心地悪そうに咲希が言った。
「差別なんて、大袈裟な。それに、バカになんかしてない」
「いや、してる」
 苛立って荒らげられてしまう声を押えながら、海翔は懸命に落ち着こうとする。
「逆に考えてみ? 自分が同じこと言われて、そしたらどう思う? 人を顎で使ってるとか、キレるとか、してもいないこと変に憶測されて、好き放題言われて。嬉しいか? そういうの、楽しい?」
 でも、と咲希がくちびるを尖らせる。
「だって、あたしは旅館の子じゃないし」
「人、使ったことなんかないし」
「怪我もしてないし」
「だいたい、城戸崎くんに関係ないじゃん」
 四匹の動物少女たちが口々に、声高に言う。海翔は思わず、舌打ちをしそうになった。見かけは皆かわいい女の子ばかりだけれど、どれほどに思考の巡りが悪いのか。想像力のかけらさえ持っていないだなんて。
 そのことは、海翔にどうしようもない苛立ちを抱かせた。なにを言っているんだ、そういうことじゃない。そう言って暴れたいような気分を懸命に堪え、海翔はできるだけ落ち着いた口調で言った。
「相手とまったく同じ立場に立たないと、わからないのか? 自分は怪我してないから人の気持ちがわからないとか、意味不明すぎる。人の気持ちを考えてみるとか、そういうこと、できないわけ?」
 ちらり、と美桜のほうを見た。彼女はどう感じているのだろうか、この場をどのように思っているのだろうか――そして、山と積まれた教科書の前、机についている美桜がうつむき、その目は垂れた前髪に隠れてしまっていることに、また苛立ちがつのった。
「あ、わかったぁ」
 にやにやと笑いながら、咲希が言った。
「やっぱり、つきあってるんだぁ。そうでしょ、そうなんでしょ? いいなぁ、羽澄さん。東京から来た、彼氏」
 咲希は笑いながらそう言ったけれど、目が笑っていない。東京から来た転校生を、あわよくば自分の彼氏に、と思っていたのかもしれない(ここでポイントなのは、あくまでも『東京から来た』、だ)。
「彼女のことだから、そんなにムキになるんでしょ? だから、そんなにかばうんでしょ?」
「な……」
 海翔の勢いは、途切れてしまった。いきなり豆鉄砲を喰らった鳩の気持ちだ。
 動物少女たちは、くすくすと笑う。思いもしないことを言われて不意を突かれた海翔の表情が、よほどにおかしかったのかもしれない。
「そんな、わけわかんないかばいかたしなくていいんだよ。羽澄……美桜は、俺のだ! 俺の美桜に構うなぁ! そう言えばいいだけなのに」
 海翔の口真似をして、咲希は言った。
 くすくす、くすくす。彼女たちは、笑う。先ほど海翔の言うことにぽかんとしていたのは、本当に海翔の言葉の意味がわからなかったからなのだろう。だから自分たちに理解できる範疇に話を持っていき、そこでの納得のうえで話しているのだ。
「羨ましいなぁ、東京からの男の子をゲットできるなんてさぁ。城戸崎くんは、あたしたちが先に目、つけてたのに」
 大袈裟なため息とともに、咲希は言った。海翔はといえば、目の前の彼女たちが本当に異種族の生きものに見えてきた。言葉が通じない。感覚が、まったく違う。生きている次元が、どう考えても異なっているのだ。
「さすがに、あのおばさんの娘だよね。誘惑の仕方とかって、遺伝するのかな? それとも、教えてもらったの?」
 彼女たちは、美桜に返事を求めていない。くすくす、くすくす。海翔の言葉の意味も理解できず、自分たちがさらなる美桜への侮蔑を投げかけていることにも気づかないで、なおも笑い、下世話な想像ばかりを話し続けるのだ。
「ねぇ、教えてよ。どうやったら、彼氏できるの? あ、でもこの村の男なんか、ごめんだからね。もっと今風で、かっこよくて、話も面白い人じゃないといや」
 話も面白い、と言いながら咲希はちらりと海翔を見た。
 海翔の話は、彼女のお気に召さなかったのだろう。当然だ、咲希たちの話が異種族のもののものにしか聞こえないということは、咲希たちにとってもそうだったのだろう。海翔の言ったことなど、英語のヒアリング以上に謎だったはずだ。それを無理やりねじ曲げて、自分の理解できるよう、したいように話をすり替えて、そして不可解なことを言う海翔を無視して、美桜を侮っている。
「羽澄さん、お母さんの遺伝じゃなかったら、どこでそんなテクニック身につけたの? 教えて、マジで。あたし、かっこいい彼氏ほしいんだぁ」
「咲希に彼氏できたら、お父さんうるさいよ? 娘はやらーん、とかって卓袱台引っ繰り返しそう」
「うち、卓袱台なんかないって」
 くすくす、くすくす。少女たちの笑いは、予鈴の音と重なった。
 あ、授業始まる。そう言って咲希たちは、なにもなかったかのように美桜のもとから離れる。取り残され、海翔は唖然と、予鈴の残響を聞いていた。
「……あ」
 かわいらしい女の子たちだと思ったのに。彼女たちは、仔馬に猟犬に、狐に兎。まさにその外見通り、異種族の、生きる場所の違うものだったのだ。
 そんな彼女たちに、つけいる隙を与えたのは、海翔だ。申し訳なさに海翔は振り返り、ずっとうつむいたままの美桜に、恐る恐る声をかけた。
「あの……ごめん。俺、よけいなこと言ったみたいで」
 美桜は、少しうなずいた。さらさらとした髪が微かに動いたので、うなずいたのだろう。彼女の表情は見えない。傷ついているのか、怒っているのか。それとも咲希たちの虐げは日常茶飯事で、もうすっかり慣れきっているのか。
「ごめん……」
「別に」
 微かに、声が聞こえた。海翔は思わずはっとして、じっと美桜を見る。彼女はやはりうつむいたまま、小さく、とても小さくつぶやいた。
「わたしは……穢れてる、から」
 確かに、そう聞こえた。



 ――わたしは、穢れているから。どうしようもなく穢れているから。だから、清められないといけない。清めないといけない。
 ――穢れているから、清めなくちゃ。清めなくちゃ、清めなくちゃ、清めなくちゃ、清めなくちゃ、清めなくちゃ、清めなくちゃ清めなくちゃ清めなくちゃ清めなくちゃ清めなく清めなく清めなく清め清め清め清め清め清め清め清め清め清め清め清め清め清め清め清め清め清め清清清清清清清清清清清清清清清清清清清清清清清清清清清清清清清清清清清。

 ――、……、――、……。
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