6 / 11
穢れた少女が語る、第五章
しおりを挟む
美桜の右腕の骨折は、昨日、階段から落ちてのものだった。
羽澄旅館からは、女将がいなくなった。そんな中でも従業員は揃って優秀で、旅館の隅々までの掃除も以前と変わらず欠かすことはない。しかし美桜の怪我は磨き抜かれた階段ですべったなどという理由ではなく、意図的なものだ。
もっともあの男は、美桜の骨を折ろうとして折ったのではない。手をあげた結果、そうなった、というだけのことなのだけれど。
脱衣所でギプスの嵌った右腕をビニールで覆い、美桜は大きくため息をついた。
美桜は右利きで、今日はノートを取るのもひと苦労だった。左手では蚯蚓ののたくったような字しか書けなかったけれど、テストのときには大丈夫だろうか。しっかりと復習しておかなくては。
衣服をひととおり脱げば、美桜の体は傷だらけだ。
母がいなくてよかった、と思うべきなのかもしれない。父は、母が出ていったことで旅館のすべてを一手に引き受けることになり、美桜の身のうえに注意を払っているどころではない。旅館の従業員たちは美桜に優しくしてくれるけれど、中学生にもなる娘の体のことにまで気をまわすことはない。
これが幼稚園や小学校低学年の子供なら一緒に風呂に入ったり何なりとと気づく者もいるのかもしれないけれど、幸いなことに見てもらうのは、せいぜい食事の面倒くらいだ。小さな村の小さな旅館とはいえ、仕事はそれぞれ、さまざまにある。美桜がその気であれば、父にも従業員たちにも知られずに、清めの儀式を続けることができた。
右腕以外はすっかり裸になり、湯気のこもった風呂場に入る。左手で風呂桶のふたを取り、左手で洗面器を持って湯を掬い、肩にかける。
「……っ、……!」
声をあげかけるのを、我慢した。声など立てて、聞きつけられてはいけないから。なぜ声をあげてしまいそうになるのか、誰にも知られてはいけないから。
左手だけで、時間をかけて全身をざっと流す。右腕を濡らさないように慎重に湯船に入り、すると全身にぴりぴりと痛みがきた。
「く……ぅ、……っ!」
また声を立てそうになり、それを抑えて湯に身を浸す。その間も切り裂かれるような痛みがあったけれど、くちびるを噛んで声を堪え、澄んだ清潔な湯に肩まで体を沈める。
しばらくすると、ぴりぴりした痛みにも慣れてきた。
腕を怪我していなくても、風呂に入るときの痛みは毎日のことだ。そう、母が出て行ってしまってから。着替えるたび、風呂に入るたび、体をこするたび、美桜はこの痛みに耐えてきた。耐えることが、美桜の義務だった。
――でも、だめ。この程度じゃ、だめ。もっと、もっと。
――なぜなら、わたしは。
美桜は、じっと自分の体に目を落とした。透明な湯の中では、自分の体のすべてがはっきりと見える。裸の自分の体の状態を見つめながら、だめ、だめ、と美桜は心の中で繰り返した。
――こんなんじゃ、だめ。まだまだ、足りない。
――、――のためには、全然足りない。この程度じゃ、まだだめなの。
しかし昨日、右腕を怪我してしまった。ギプスは甲を覆うくらいまであって、ものを握るのは骨が折れる。それでも昨日は頑張って、儀式を行なったけれど。
「……あ」
美桜の浸かる湯には、赤いものがたゆたいはじめた。美桜は慌てて、ざぶりと音を立てて湯からあがった。これ以上赤いものが広がらないうちに、湯を汚さないうちに、入浴剤を入れて誤魔化さなければ。
夏のことなので、ゆっくり浸かって温める必要はない。それでも湯船に浸からないと風呂に入った気にならないし、それに全身をきれいな水に浸さないと、ちゃんと身が清められたように感じられないのだ。
――きれいにしなくちゃ。きれいにして、清めて。
――清めて、清めて、清めて、そして。
左手だけでは、スポンジを泡立てるのも体の隅々までを擦るのも大変だ。それを美桜は、丁寧に行なった。スポンジを動かすたびに、ぴりぴりと痛みが走る。
血まみれになったスポンジは、丁寧に洗う。美桜しか使わないスポンジが、ピンクでよかった。もっと淡い色だったら、血の痕が残っていることを知られてしまうかもしれないから。
痛むところは、無意識に力を抜いて擦ってしまう。しかしそれではいけない、痛みから逃げてはいけない。痛みを避けては、効果がない。清めるための効き目がない。
美桜は右手の使える指先だけで左半身の、特に傷ついたところをことさらに力を込めて擦った。肩、鎖骨のうえ、丸く膨らんだ乳房に、肋骨のうえ。下腹部、腰、尻にかけて。張りのある腿に、膝、向こう臑。ふくらはぎ。
そして、腕。二の腕、肘、手まで。続けて、手首。
すべてに美桜は、スポンジを這わせていく。赤く染まった泡が流れる。沁みて痛み、また声が洩れる。しかしその痛みこそが、清めなのだ。
顔を歪め、小さく呻きをあげながら、美桜は体をこする。左半身を洗い終わり、右に移ったときにほっとしたのは、自由になる左手を使うことになったからばかりではなかった。
右半身に傷は、ほとんどない。それは美桜にとって、不本意なことだった。しかし美桜は右利きなので、仕方がない。どうしても傷は左半身に集中する。
それでも胸や腹、腰に尻、足に走っている傷を、美桜は擦った。新しい傷からは血が流れ、泡はますます赤く染まる。排水溝に、赤い泡が流れていく。
痛みは体中を支配し、声を堪えながら美桜は清められていく体を思う。泡が清めているのではない、いくつも重なった傷が、流れる血が、美桜の清めを示しているのだ。
――でも、足りない。まだ、足りない。
ごしごしと、美桜は体を洗い続けた。女子中学生の入浴にしても長い時間、浴室にこもっての美桜の清めは、続いた。
風呂を済ませ、読みにくい字のノートに目を通しての復習を終えて。美桜はこっそりと、小さなポーチを片手に家を抜け出した。
すでに日付は変わっている。夏の夜空の星々は、しかし街灯の少ない田舎道を明るく照らすには至らない。人ひとり通らない道を美桜は歩き、十分ほどかけて、ある道の角で足をとめた。
美桜は、しゃがみ込む。目の前にあるのは、小さな地蔵だ。しゃがまないと目線があわない。その地蔵は、体中が傷だらけだ――美桜のように。
(早く……、清めてもらわないと)
地蔵を見つめながら、美桜は左手首に巻いた包帯をはずす。ギプスから出た右の指先だけではいつものように手早くほどくことはできないけれど、それでもどうにか、包帯はしゅるりと腕からはずれた。
現われたのは、横に走るいくつもの傷。肉が盛りあがり治りかけたものののうえに、まだ赤い肉の見えている傷がある。それを斜めによぎって、もうひとつ。手のひらに近いところから腕にかけて、いくつ傷があるのか、美桜は数えたことがない。
美桜は、ポーチを開けた。中から細い剃刀を取り出す。無駄毛を処理するためのものだけれど、今手にしているのはその用途ではない。
「お願いします」
小さな声でつぶやいて、美桜はきゅっと目を閉じる。剃刀の刃が星明かりを反射して光るのは、美桜の目に入らない。美桜の脳裏にはこの清め地蔵の傷だらけの姿しかなくて、ただそれに捧げる祈りのことしか考えていない。
「お願いします……!」
ぎゅ、ぢゅくっ……。
剃刀が、皮膚を走る。食い込み、肉を裂く。血管を切り裂き赤い血があふれ出す。それでもなお剃刀を押しつけ、するとぐちゅぐちゅと音を立てながら、肉が切られていく。筋が切れる。
びりびりと伝わる痛み、全身を走る重いまでの衝撃に耐えながら、呻く声で美桜はささやく。
「お願いします。わたしを、清めてください……」
低い声で、それでも吠えるように美桜は言った。聞く者は、この清め地蔵だけ。己の身を傷つける人間を清めるという地蔵は、ならばその人間が地蔵ではなく自らを傷つけることで、持つ望みの大きさのほどを理解してくれるだろう。それほど切羽詰まった願いなのだと、その傷が大きければ大きいほど、望みを叶えてくれるだろう。
「清めて……、わたしを、清めて……」
ぶつぶつとつぶやきながら、美桜は何度も剃刀の刃で手首を扱く。そのごとに傷は深く、剃刀は埋まっていき、かつん、と当たったのは、手首の骨だろうか。
だらだらと、血が流れる。血は腕を伝い地面にしたたり、美桜の足もとに血だまりを作っていく。それは広がり、アスファルトを鉄くさく染めては、小さな川になって流れていった。
「清めて、清めて清めて、清めて清めて清めて……」
夏の風が、剃刀の痕からあがる異様なにおいとともに吹いていく。圧倒的な暴力のような痛みと、鉄のにおいと、胸の奥から迫りあがる貪欲な願いは美桜の細い体を取り巻いて、まるで太く大きな蛇に締めあげられているような感覚に陥れる。
「清めて清めて清めて清めて清めて」
――清めて清めて清めて清めて清めて清めて、わたしを、清めて……。
剃刀は、なおも清めの儀式を手助けしてくれる。深く、刃を手首に食い込ませながら、ただひとつの言葉を美桜は口ずさみ続けた。
†
美桜は、自由になる左手で剃刀を握っていた。
清め地蔵の前で服を脱ぐわけにはいかないから、清めのための捧げものとして見せられるのは手首の傷くらいだ。しかしそれだけでは足りなくて、風呂あがりの清潔になった体を、美桜は傷つける。清め地蔵に捧げる傷をひとつでも多く、直接見せられるわけではなくても、仏なのだから。こうすることで美桜の激烈なまでの願いを、聞き届けてくれるだろう。
剃刀はいつものとおり無駄毛処理のためのものだけれど、ものは毎回替えている。使った剃刀は、もうずいぶんたくさんたまっていた。しかしこれがもっとたくさん、たくさんたくさんたまれば、それだけ美桜の望みの成就が近いように感じられるのだ。
しかしこのことは、誰にも気づかれてはいけない。見られてはいけない。
清め地蔵に願いを届けることは、誰にも知られてはいけない。誰にも見られてはいけない。それは、この村の者であれば誰でも知っている、掟。
だから美桜は、こっそりと清めの儀式を行なう。部屋で、真夜中に清め地蔵の前で。美桜は自らを傷つける。清め地蔵が願いを叶えてくれるように。穢れている自分が血を流すことで、より強いこの望みが聞き届けられるように。
剃刀の刃が、天井からの灯を反射してきらめく。その眩しさを自らの体に刻み込むように、美桜は剃刀を自分の右肩に当てた。
力を込めて、ぎゅちゅっ――、と引いた。
すでに塞がっている傷が、切り裂かれる。傷が治って盛り上がった肉が、再び鋭く開かれる。まだ塞がっていない傷も再びの刃を受け、真っ赤な肉を表に晒す。
傷からは、見る見る血があふれ出してくる。熱い、そして痛い。それがどうしようもなく強烈で、体の芯から爆発するような激痛だからこそ、清めの儀式は願いを強く訴えるように思う。
肉に、ぎちぎちと刃が食い込む。薄い脂肪が切り開かれ、筋肉が食いちぎられ、腱が裂ける。それでも刃は奥に進み、歯が奥底から疼くような、目の前が真っ暗になるような、さらなる凄まじい痛みとなって美桜を襲う。
「……ぐ、……っ……」
この痛みは、祈りの痛み。願いの痛み。清め地蔵に祈願が届くように、美桜はますます手に力を込める。
肉がちぎれ、刃は骨にまで至る。それでもなお、左手に力を――祈りをより、激しく強いものにするために。
「あ、っ、!」
じゃく、っ、――。
と。刃が逸れて、腕に至る筋を切った。左手から剃刀はすべり落ち、真っ赤なしたたりとともにぽとっ、と畳に転がった。
「あぁ……あ……」
祈願が途絶えてしまう――それは美桜を襲った衝撃だった。左手だから、利き手ではない手に剃刀を持ったから、このようなことになったのだ。右手が使えたら、このような失態は犯さずに祈りを届けられたのに。
美桜は慌てて血だまりに膝を突き、剃刀を拾いあげる。同時に、どんどん! と激しくドアを叩く音が鳴り響いた。
「ひっ……」
儀式が、途中で終わってしまったから。だから、清め地蔵が怒って――美桜の全身に走った恐怖は、自らを切り刻む痛みの比ではなかった。
どんどん! どんどん!
美桜は慌てて、かたわらに置いてあったガーゼを引ったくった。厚く重ねたそれを切り開いた痕に当て、手早く包帯を巻く。ギプスの嵌っていない左手だけれど、不器用なりに手際よくことを済ませられる。
はじめのころは、なによりも血の始末に手間取った。傷口からどんどんあふれてくる血をどうしていいか、わからなかった。しかし何度も何度も、何日も何日も繰り返すうちに、手際はずいぶんとよくなった。今の手早い処置でなら、美桜が今まで自分の体に剃刀を抉り込ませていたことなど、誰も気づくことはないだろう。
その間にも、どんどん! どんどん! と響く、建物が揺れてしまいそうな音は、続く。
「美桜っ!」
部屋には鍵がかかっている。美桜が中学生になったとき、中学生ならプライバシーも必要だろうと、母がつけてくれたのだ。そして今、その牙城を壊さんばかりに叩いているのは、その母に捨てられた父だった。
「美桜、いるんだろうが! 開けろ!」
きつく包帯を巻き、ジャージをまとった。ゆっくりと鍵を開ける。
「なにやってるんだ、美桜!」
ドアの向う、美桜の目の前にはだらしのない恰好で、顔を真っ赤にした父がいた。荒く吐く息が、酒くさい。
「生意気に、親の命令を無視するのか!」
「無視なんか……」
「だいたい、部屋に鍵なんかつけやがって。子供のくせに、しゃらくさい。こんなもん、明日にでもはずしてやる!」
父の呼気は、鼻をつまみたくなるほどだった。この調子では、鍵を取り外すという言葉も明日には覚えていないだろう。それよりも美桜を怖じけさせるのは、毎日の仕事で鍛えた太い腕、握った拳が飛んできて、美桜を殴ることだ。
清め地蔵に捧げる祈りゆえの痛みなら、いくらでも耐えられる。美桜自ら望むものでさえある。しかし父から受ける暴力は、ただただ美桜に痛みと苦しさを与えるものでしかない。
「バカにしやがって。親を粗末にするやつは、どうなるかわかってるだろうな!?」
父が美桜に暴力を振るうようになったのは、母が出て行ってからだ。それまでは、優しい父親だったのに。初めて殴られたときの衝撃は忘れない。それは澄みきった湖にぶちまけられた悪意の汚水で、今もじわじわと美桜を侵食している。
そして美桜の、自分の傷への処置が手際よくなってきたのは、父の酔い任せの暴力が始まったのとほぼ同時だった。
ぶん――。
父の拳が、空を切る。
「きゃ、あ、ああっ!」
父の拳を薄い腹に受けて、美桜は文字通り吹っ飛んだ。勉強机の角に後頭部をぶつけてしまい、意識が遠のきかけてしまう。
右腕の骨折は、こうやって殴られて階段を落ちての結果だった。さすがに美桜を病院に連れていった父だったけれど、救急車を呼ぶようなことはしなかった。夜陰に紛れて隣町の病院まで自動車で向かい、足をすべらせて階段から落ちのだと嘘をついて、村の者の知らないところで処置してもらったのだ。
美桜は、そんな父の行動になにも言わなかった。憐れむ医師と看護師を前に、父の言うとおりだと言い、ギプスを嵌めてもらった。
――これも、清めのひとつなのだろうか。美桜を穢れから救う、儀式の一環なのだろうか。
――ならば、耐えなければいけない。恐がって、痛がってはいけない。
診察室に、父は入ってこなかった。医師も看護師も、傷だらけの美桜の腕に眉根を寄せた。彼らはなにも言わなかったけれど、去り際に「力になれることがあったら、言ってね」と、携帯番号の書き込まれた名刺をくれたのだ。
その番号に電話をかけることは、決してないだろうけれど。
「ふん、生意気な顔、しやがって」
酔っていても顔は殴らない。それは美桜が少女だから、女の顔に傷は残せないという気遣いからなのか、それとも単に拳が当たった場所が腹だっただけなのか。
見るまでもない、みぞおちのあたりには大きな痣ができているだろう。それは美桜の背負う、自ら剃刀でつける傷以外の傷痍だった。
「知ってるぞ。おまえ、東京からの転校生とよろしくやってるってんじゃないか」
「……え」
どきり、と――。
大きく胸が鳴った。席が隣になった、城戸崎海翔のことだろう。彼が、美桜のセーラー服の袖から覗く包帯の痕を気にしていることは知っている。同級生の咲希たちが言うように、リストカットの痕ではないかと思っていることもわかっている。
しかし美桜の体には、手首だけではない、手の届くところどこもかしこも傷だらけ、包帯だらけであることを彼は知らないだろう。そもそも、軽い挨拶程度しかしたことがないのだ。知るよしもない。そして、知られてはいけない。
「母に似て、男漁りがうまいんだな。東京から来て、ちょっと見目のいいような男にはすぐに色目か。まったく、あの女にそっくりだ」
父は、汚らしい音を立てて痰を吐き捨てた。美桜の部屋の畳の上だ。わざと、美桜のいやがることをやっているとしか思えない。
「だらしのない女だ。節操も理性も、なにもない。だらけきった、穢れた女だ」
吐く痰がなくなったのか、かっ、かっ、と空咳をしながら父は続ける。
「中学生でそんなんじゃ、あの女以上だ。放っておくと、なにをしでかすかわからない。危険な女だ。頭のおかしい、いかれた女だ……」
なおも美桜を罵りながら、父は続けざまに腹への拳を叩き込んでくる。今度はよろけて、机の脚に頭をぶつけた。今度こそ、美桜の意識は薄れた。
「穢れた女だ。中学生で、もう男の誘惑の仕方を知ってる。どうしようもないくらい、おまえは穢れてる」
咲希にも、言われた言葉だ。美桜は、男の誘惑方法を知っている。だから東京から来た転校生を易々と籠絡して、早々に彼氏にしてしまったのだと。
(そんなこと、してない……)
しかし、美桜の言葉は形にならなかった。また、殴られたからだ。
(でも、してなくったって。わたしは穢れてるんだから。心の底では、きっと城戸崎くんを誘いたいと思ってたんだわ。穢れてるわたしなんだから、きっとそういうことばっかり考えているの……お父さんには、お見通しなんだわ……)
今度は、右の腋腹を。繰り返される暴力で、ガーゼと包帯で押さえている傷が開くかもしれない。傷が開いて血が流れるかもしれない。清めの儀式の血を見られでもしたら、宿願は叶わないかもしれない。
(そんなの、いや……清め地蔵さまは、わたしを救ってくださる。わたしの傷が、血が、清め地蔵さまの傷なのだから。お地蔵さまの持っている、力なのだから)
「穢れた女だ、穢れて……どうしようもない女だ。今に男で身持ちを崩す。俺が、ここまで真面目に育ててやったのに。血は争えないのか? まっとうな女に育てて、立派な男のもとに嫁がせようとしていた俺は、バカを見たってわけか?」
酔っぱらいの言葉は、しかし深く美桜の胸に突き刺さる。酔っていることで、だからこそ本当のことが表に出るということもあるだろう。
「穢れた女め、穢れた女、穢れた女……腐りきった、人間のクズ!」
正体もなく酔っぱらい、娘を殴り、悪態を吐き捨てる。
それでも彼は、美桜の父親だった。幼いころは忙しい仕事の合間を縫って、プールだ海だと連れていってもらった。泳げない美桜に、浮き輪を懸命に膨らませてくれた。どうにか美桜がバタ足だけをできるようになると、手放しで喜んでくれたものだ。
そんな父親が、美桜を悪しざまに罵っている。忌まわしい娘だと言っている。中学生でいながら男を誘惑するような、穢らわしい女だと言っている。
(わたしは、やっぱり穢れてる……)
なおも父の拳を受けながら、胸のうちで美桜はつぶやいた。
(穢れてる、穢れてる……穢れてるんだ。だから、清めないと。清めて、きれいにして)
ひゅっと、美桜は息を呑んだ。その拍子に腹に拳がまっすぐ入り、ごぼっ、と美桜は奇妙な声を口から吐いた。
(お願いします、清め地蔵さま……わたしを、清めて。清めて、清めて清めて、清めて清めて清めて清めて……、清めて、清めて清めて……)
酔った父の、すべての鬱憤を晴らすような暴力を受けながら、美桜は繰り返し、胸の奥で祈った。
また、剃刀を買わなくちゃ。新しい美しい刃で、新しい傷をつけなくちゃ。清め地蔵が自らの身に受ける傷を美桜が受けて、そうすることで願いはより強く、清め地蔵に伝わるはずなのだから。
どごぉっ……!
内臓までが直接殴りつけられたかのような衝撃を受けて、美桜はその場に倒れ込んだ。目の前は真っ暗で、ただ痛みだけが美桜のすべてを支配する。
(これも……清め、なんだから)
父に殴られながら、美桜は思った。
(こうやって、お父さんに殴られて……これも、清めの儀式なんだわ。穢れたわたしを、清める儀式……お父さんも、わたしにきれいになってもらいたいと思って、だからこんな……)
だから、耐えた。剃刀で肉を刻む儀式とはまた違う痛みは、美桜だけでは至らない部分への清めを施してくれているようで、美桜は満足感でいっぱいになる。
(清められるの……きれいになるの。穢れたわたしは、清められるの。傷をつけて、清められて……ちゃんとした、普通の女の子になるんだわ)
腹を殴られ、胃の腑から迫りあがる衝撃に耐えた。低く呻きをあげながら、美桜は父のなすがままに、床に転がり拳を受ける。
「ちっ……、反抗もしやがらねぇ」
吐き捨てるように、父は言った。
「そうやって、じっと俺のこと見て……腹の奥じゃ何を考えてるかわからないところ、あの女にそっくりだ」
浴びせられる侮蔑にも、美桜は耐えた。瞼の裏には、傷だらけの清め地蔵の姿が浮かんだ。
(お地蔵さま、あなたはどのくらいの傷を受けてきたの? どれだけの人たちを救ってきたの? わたしもあなたくらいに傷を受ければ、清めてもらうことができるのよね? こんな穢れた、おぞましいわたしでも……)
傷を受ければ、清められる。地蔵に肩代わりしてもらうのではなく、自分自身が傷を受ける。そうすることで加護はより強くなり、清めは指先の隅々にまで行き渡る。
美桜がそのことを知ったのは、なにがきっかけだっただろうか。母が、見知らぬ男と出て行ってから。彼らの潜めた足音を聞いたとき。母の出奔を知った父が怒り狂い、その血を引く娘の美桜も、同じ不埒な女だと罵ったとき。おまえは穢れた女なのだと、言われたとき。
それは、天啓のように美桜の脳裏に輝いた。まるで光を放ち鳴り響く稲光のように、顕正のごとく美桜を貫いた考えだった。
(普通の方法じゃ、だめなんだ。清め地蔵に傷をつけて清めをお願いするとか、自分に傷をつけるとか……そんな方法じゃ、だめなんだ)
呻きながら、美桜は考えた。
(もっと、もっと……わたしの祈りがこんなに強いことを、お地蔵さまに知ってもらわなくちゃだめなんだ)
なおも父に殴られながら、考える。衣服の下、ガーゼと包帯で押さえた傷から血が滲みはじめるのを感じながら、美桜は思う。
こうやって傷を受けることで、穢れた女である美桜は、清らかな娘へと生まれ変わることができるのだ――。
†
真夜中、朧月夜の空のもと。
美桜は、清め地蔵の前にしゃがみ込む。ポーチから剃刀を取り出す。今夜の月は明るくて、剃刀の鋭い刃を神々しいまでに輝かせた。
左手首の包帯をほどき、いくつもの傷が走っている手首を露出する。傷だらけの小さな清め地蔵をじっと見て、そして剃刀を走らせる。
右腕がギプスに固定されているので、剃刀を使いにくいこと甚だしい。しかし先日は左手で清めの儀式を行なったところ、うまく手を使えなくて剃刀がすべり、傷をきちんと深くすることができなかった。
不自由でも利き手を使い、ちゃんとした傷をつけなくては。深く、鋭く、傷を入れなくては、清め地蔵に祈りを伝えることができない。仏の威光を受けることができない。清めてもらうことができない。
じゅくり、ぐちゅ……ぎゅち、っ、っ。
美桜の剃刀は、骨まで抉られた傷をさらに深くした。ぎりっと引いて、傷を大きくする。白い肌を切り裂いて、中の生々しく赤い肉を、白い筋を、血管を露出させる。忌々しくもすぐに血がどぷどぷとあふれてしまうので、傷はすぐにしたたる赤になってしまう。
血がしたたって、アスファルトにたまる。美桜の靴を汚して、流れ出す。
ぐちゅ、ぐちゅ、ぐちっと音を立てながら、美桜はなおも剃刀を引いた。わずかしか残っていない傷のない部分にも刃を這わせ、そこも深く抉り、手首を真っ赤に染めていく。
「清めなきゃ……清めなきゃ……」
――わたしは、穢れた女だから。どうしようもなく、救いようのないほどに穢れているから。だからこうやって、清めないといけない。清め地蔵にお願いして、隅から隅まで清められないといけない。
――わたしは、穢れているから。清めなくちゃいけない。清めないと、すっかり清めないといけないのだから。
――もっと、もっと、もっと……!
――清めなくちゃ、清めなくちゃ。清めなくちゃ、清めなくちゃ清めなくちゃ清めなくちゃ清めなくちゃ清めなく清めなく清めなく清め清め清め清め清め清め清め清め清め清め清め清め清め清め清め清め清め清め清め清め清清清清清清清清清清清清清清清清清清――。
羽澄旅館からは、女将がいなくなった。そんな中でも従業員は揃って優秀で、旅館の隅々までの掃除も以前と変わらず欠かすことはない。しかし美桜の怪我は磨き抜かれた階段ですべったなどという理由ではなく、意図的なものだ。
もっともあの男は、美桜の骨を折ろうとして折ったのではない。手をあげた結果、そうなった、というだけのことなのだけれど。
脱衣所でギプスの嵌った右腕をビニールで覆い、美桜は大きくため息をついた。
美桜は右利きで、今日はノートを取るのもひと苦労だった。左手では蚯蚓ののたくったような字しか書けなかったけれど、テストのときには大丈夫だろうか。しっかりと復習しておかなくては。
衣服をひととおり脱げば、美桜の体は傷だらけだ。
母がいなくてよかった、と思うべきなのかもしれない。父は、母が出ていったことで旅館のすべてを一手に引き受けることになり、美桜の身のうえに注意を払っているどころではない。旅館の従業員たちは美桜に優しくしてくれるけれど、中学生にもなる娘の体のことにまで気をまわすことはない。
これが幼稚園や小学校低学年の子供なら一緒に風呂に入ったり何なりとと気づく者もいるのかもしれないけれど、幸いなことに見てもらうのは、せいぜい食事の面倒くらいだ。小さな村の小さな旅館とはいえ、仕事はそれぞれ、さまざまにある。美桜がその気であれば、父にも従業員たちにも知られずに、清めの儀式を続けることができた。
右腕以外はすっかり裸になり、湯気のこもった風呂場に入る。左手で風呂桶のふたを取り、左手で洗面器を持って湯を掬い、肩にかける。
「……っ、……!」
声をあげかけるのを、我慢した。声など立てて、聞きつけられてはいけないから。なぜ声をあげてしまいそうになるのか、誰にも知られてはいけないから。
左手だけで、時間をかけて全身をざっと流す。右腕を濡らさないように慎重に湯船に入り、すると全身にぴりぴりと痛みがきた。
「く……ぅ、……っ!」
また声を立てそうになり、それを抑えて湯に身を浸す。その間も切り裂かれるような痛みがあったけれど、くちびるを噛んで声を堪え、澄んだ清潔な湯に肩まで体を沈める。
しばらくすると、ぴりぴりした痛みにも慣れてきた。
腕を怪我していなくても、風呂に入るときの痛みは毎日のことだ。そう、母が出て行ってしまってから。着替えるたび、風呂に入るたび、体をこするたび、美桜はこの痛みに耐えてきた。耐えることが、美桜の義務だった。
――でも、だめ。この程度じゃ、だめ。もっと、もっと。
――なぜなら、わたしは。
美桜は、じっと自分の体に目を落とした。透明な湯の中では、自分の体のすべてがはっきりと見える。裸の自分の体の状態を見つめながら、だめ、だめ、と美桜は心の中で繰り返した。
――こんなんじゃ、だめ。まだまだ、足りない。
――、――のためには、全然足りない。この程度じゃ、まだだめなの。
しかし昨日、右腕を怪我してしまった。ギプスは甲を覆うくらいまであって、ものを握るのは骨が折れる。それでも昨日は頑張って、儀式を行なったけれど。
「……あ」
美桜の浸かる湯には、赤いものがたゆたいはじめた。美桜は慌てて、ざぶりと音を立てて湯からあがった。これ以上赤いものが広がらないうちに、湯を汚さないうちに、入浴剤を入れて誤魔化さなければ。
夏のことなので、ゆっくり浸かって温める必要はない。それでも湯船に浸からないと風呂に入った気にならないし、それに全身をきれいな水に浸さないと、ちゃんと身が清められたように感じられないのだ。
――きれいにしなくちゃ。きれいにして、清めて。
――清めて、清めて、清めて、そして。
左手だけでは、スポンジを泡立てるのも体の隅々までを擦るのも大変だ。それを美桜は、丁寧に行なった。スポンジを動かすたびに、ぴりぴりと痛みが走る。
血まみれになったスポンジは、丁寧に洗う。美桜しか使わないスポンジが、ピンクでよかった。もっと淡い色だったら、血の痕が残っていることを知られてしまうかもしれないから。
痛むところは、無意識に力を抜いて擦ってしまう。しかしそれではいけない、痛みから逃げてはいけない。痛みを避けては、効果がない。清めるための効き目がない。
美桜は右手の使える指先だけで左半身の、特に傷ついたところをことさらに力を込めて擦った。肩、鎖骨のうえ、丸く膨らんだ乳房に、肋骨のうえ。下腹部、腰、尻にかけて。張りのある腿に、膝、向こう臑。ふくらはぎ。
そして、腕。二の腕、肘、手まで。続けて、手首。
すべてに美桜は、スポンジを這わせていく。赤く染まった泡が流れる。沁みて痛み、また声が洩れる。しかしその痛みこそが、清めなのだ。
顔を歪め、小さく呻きをあげながら、美桜は体をこする。左半身を洗い終わり、右に移ったときにほっとしたのは、自由になる左手を使うことになったからばかりではなかった。
右半身に傷は、ほとんどない。それは美桜にとって、不本意なことだった。しかし美桜は右利きなので、仕方がない。どうしても傷は左半身に集中する。
それでも胸や腹、腰に尻、足に走っている傷を、美桜は擦った。新しい傷からは血が流れ、泡はますます赤く染まる。排水溝に、赤い泡が流れていく。
痛みは体中を支配し、声を堪えながら美桜は清められていく体を思う。泡が清めているのではない、いくつも重なった傷が、流れる血が、美桜の清めを示しているのだ。
――でも、足りない。まだ、足りない。
ごしごしと、美桜は体を洗い続けた。女子中学生の入浴にしても長い時間、浴室にこもっての美桜の清めは、続いた。
風呂を済ませ、読みにくい字のノートに目を通しての復習を終えて。美桜はこっそりと、小さなポーチを片手に家を抜け出した。
すでに日付は変わっている。夏の夜空の星々は、しかし街灯の少ない田舎道を明るく照らすには至らない。人ひとり通らない道を美桜は歩き、十分ほどかけて、ある道の角で足をとめた。
美桜は、しゃがみ込む。目の前にあるのは、小さな地蔵だ。しゃがまないと目線があわない。その地蔵は、体中が傷だらけだ――美桜のように。
(早く……、清めてもらわないと)
地蔵を見つめながら、美桜は左手首に巻いた包帯をはずす。ギプスから出た右の指先だけではいつものように手早くほどくことはできないけれど、それでもどうにか、包帯はしゅるりと腕からはずれた。
現われたのは、横に走るいくつもの傷。肉が盛りあがり治りかけたものののうえに、まだ赤い肉の見えている傷がある。それを斜めによぎって、もうひとつ。手のひらに近いところから腕にかけて、いくつ傷があるのか、美桜は数えたことがない。
美桜は、ポーチを開けた。中から細い剃刀を取り出す。無駄毛を処理するためのものだけれど、今手にしているのはその用途ではない。
「お願いします」
小さな声でつぶやいて、美桜はきゅっと目を閉じる。剃刀の刃が星明かりを反射して光るのは、美桜の目に入らない。美桜の脳裏にはこの清め地蔵の傷だらけの姿しかなくて、ただそれに捧げる祈りのことしか考えていない。
「お願いします……!」
ぎゅ、ぢゅくっ……。
剃刀が、皮膚を走る。食い込み、肉を裂く。血管を切り裂き赤い血があふれ出す。それでもなお剃刀を押しつけ、するとぐちゅぐちゅと音を立てながら、肉が切られていく。筋が切れる。
びりびりと伝わる痛み、全身を走る重いまでの衝撃に耐えながら、呻く声で美桜はささやく。
「お願いします。わたしを、清めてください……」
低い声で、それでも吠えるように美桜は言った。聞く者は、この清め地蔵だけ。己の身を傷つける人間を清めるという地蔵は、ならばその人間が地蔵ではなく自らを傷つけることで、持つ望みの大きさのほどを理解してくれるだろう。それほど切羽詰まった願いなのだと、その傷が大きければ大きいほど、望みを叶えてくれるだろう。
「清めて……、わたしを、清めて……」
ぶつぶつとつぶやきながら、美桜は何度も剃刀の刃で手首を扱く。そのごとに傷は深く、剃刀は埋まっていき、かつん、と当たったのは、手首の骨だろうか。
だらだらと、血が流れる。血は腕を伝い地面にしたたり、美桜の足もとに血だまりを作っていく。それは広がり、アスファルトを鉄くさく染めては、小さな川になって流れていった。
「清めて、清めて清めて、清めて清めて清めて……」
夏の風が、剃刀の痕からあがる異様なにおいとともに吹いていく。圧倒的な暴力のような痛みと、鉄のにおいと、胸の奥から迫りあがる貪欲な願いは美桜の細い体を取り巻いて、まるで太く大きな蛇に締めあげられているような感覚に陥れる。
「清めて清めて清めて清めて清めて」
――清めて清めて清めて清めて清めて清めて、わたしを、清めて……。
剃刀は、なおも清めの儀式を手助けしてくれる。深く、刃を手首に食い込ませながら、ただひとつの言葉を美桜は口ずさみ続けた。
†
美桜は、自由になる左手で剃刀を握っていた。
清め地蔵の前で服を脱ぐわけにはいかないから、清めのための捧げものとして見せられるのは手首の傷くらいだ。しかしそれだけでは足りなくて、風呂あがりの清潔になった体を、美桜は傷つける。清め地蔵に捧げる傷をひとつでも多く、直接見せられるわけではなくても、仏なのだから。こうすることで美桜の激烈なまでの願いを、聞き届けてくれるだろう。
剃刀はいつものとおり無駄毛処理のためのものだけれど、ものは毎回替えている。使った剃刀は、もうずいぶんたくさんたまっていた。しかしこれがもっとたくさん、たくさんたくさんたまれば、それだけ美桜の望みの成就が近いように感じられるのだ。
しかしこのことは、誰にも気づかれてはいけない。見られてはいけない。
清め地蔵に願いを届けることは、誰にも知られてはいけない。誰にも見られてはいけない。それは、この村の者であれば誰でも知っている、掟。
だから美桜は、こっそりと清めの儀式を行なう。部屋で、真夜中に清め地蔵の前で。美桜は自らを傷つける。清め地蔵が願いを叶えてくれるように。穢れている自分が血を流すことで、より強いこの望みが聞き届けられるように。
剃刀の刃が、天井からの灯を反射してきらめく。その眩しさを自らの体に刻み込むように、美桜は剃刀を自分の右肩に当てた。
力を込めて、ぎゅちゅっ――、と引いた。
すでに塞がっている傷が、切り裂かれる。傷が治って盛り上がった肉が、再び鋭く開かれる。まだ塞がっていない傷も再びの刃を受け、真っ赤な肉を表に晒す。
傷からは、見る見る血があふれ出してくる。熱い、そして痛い。それがどうしようもなく強烈で、体の芯から爆発するような激痛だからこそ、清めの儀式は願いを強く訴えるように思う。
肉に、ぎちぎちと刃が食い込む。薄い脂肪が切り開かれ、筋肉が食いちぎられ、腱が裂ける。それでも刃は奥に進み、歯が奥底から疼くような、目の前が真っ暗になるような、さらなる凄まじい痛みとなって美桜を襲う。
「……ぐ、……っ……」
この痛みは、祈りの痛み。願いの痛み。清め地蔵に祈願が届くように、美桜はますます手に力を込める。
肉がちぎれ、刃は骨にまで至る。それでもなお、左手に力を――祈りをより、激しく強いものにするために。
「あ、っ、!」
じゃく、っ、――。
と。刃が逸れて、腕に至る筋を切った。左手から剃刀はすべり落ち、真っ赤なしたたりとともにぽとっ、と畳に転がった。
「あぁ……あ……」
祈願が途絶えてしまう――それは美桜を襲った衝撃だった。左手だから、利き手ではない手に剃刀を持ったから、このようなことになったのだ。右手が使えたら、このような失態は犯さずに祈りを届けられたのに。
美桜は慌てて血だまりに膝を突き、剃刀を拾いあげる。同時に、どんどん! と激しくドアを叩く音が鳴り響いた。
「ひっ……」
儀式が、途中で終わってしまったから。だから、清め地蔵が怒って――美桜の全身に走った恐怖は、自らを切り刻む痛みの比ではなかった。
どんどん! どんどん!
美桜は慌てて、かたわらに置いてあったガーゼを引ったくった。厚く重ねたそれを切り開いた痕に当て、手早く包帯を巻く。ギプスの嵌っていない左手だけれど、不器用なりに手際よくことを済ませられる。
はじめのころは、なによりも血の始末に手間取った。傷口からどんどんあふれてくる血をどうしていいか、わからなかった。しかし何度も何度も、何日も何日も繰り返すうちに、手際はずいぶんとよくなった。今の手早い処置でなら、美桜が今まで自分の体に剃刀を抉り込ませていたことなど、誰も気づくことはないだろう。
その間にも、どんどん! どんどん! と響く、建物が揺れてしまいそうな音は、続く。
「美桜っ!」
部屋には鍵がかかっている。美桜が中学生になったとき、中学生ならプライバシーも必要だろうと、母がつけてくれたのだ。そして今、その牙城を壊さんばかりに叩いているのは、その母に捨てられた父だった。
「美桜、いるんだろうが! 開けろ!」
きつく包帯を巻き、ジャージをまとった。ゆっくりと鍵を開ける。
「なにやってるんだ、美桜!」
ドアの向う、美桜の目の前にはだらしのない恰好で、顔を真っ赤にした父がいた。荒く吐く息が、酒くさい。
「生意気に、親の命令を無視するのか!」
「無視なんか……」
「だいたい、部屋に鍵なんかつけやがって。子供のくせに、しゃらくさい。こんなもん、明日にでもはずしてやる!」
父の呼気は、鼻をつまみたくなるほどだった。この調子では、鍵を取り外すという言葉も明日には覚えていないだろう。それよりも美桜を怖じけさせるのは、毎日の仕事で鍛えた太い腕、握った拳が飛んできて、美桜を殴ることだ。
清め地蔵に捧げる祈りゆえの痛みなら、いくらでも耐えられる。美桜自ら望むものでさえある。しかし父から受ける暴力は、ただただ美桜に痛みと苦しさを与えるものでしかない。
「バカにしやがって。親を粗末にするやつは、どうなるかわかってるだろうな!?」
父が美桜に暴力を振るうようになったのは、母が出て行ってからだ。それまでは、優しい父親だったのに。初めて殴られたときの衝撃は忘れない。それは澄みきった湖にぶちまけられた悪意の汚水で、今もじわじわと美桜を侵食している。
そして美桜の、自分の傷への処置が手際よくなってきたのは、父の酔い任せの暴力が始まったのとほぼ同時だった。
ぶん――。
父の拳が、空を切る。
「きゃ、あ、ああっ!」
父の拳を薄い腹に受けて、美桜は文字通り吹っ飛んだ。勉強机の角に後頭部をぶつけてしまい、意識が遠のきかけてしまう。
右腕の骨折は、こうやって殴られて階段を落ちての結果だった。さすがに美桜を病院に連れていった父だったけれど、救急車を呼ぶようなことはしなかった。夜陰に紛れて隣町の病院まで自動車で向かい、足をすべらせて階段から落ちのだと嘘をついて、村の者の知らないところで処置してもらったのだ。
美桜は、そんな父の行動になにも言わなかった。憐れむ医師と看護師を前に、父の言うとおりだと言い、ギプスを嵌めてもらった。
――これも、清めのひとつなのだろうか。美桜を穢れから救う、儀式の一環なのだろうか。
――ならば、耐えなければいけない。恐がって、痛がってはいけない。
診察室に、父は入ってこなかった。医師も看護師も、傷だらけの美桜の腕に眉根を寄せた。彼らはなにも言わなかったけれど、去り際に「力になれることがあったら、言ってね」と、携帯番号の書き込まれた名刺をくれたのだ。
その番号に電話をかけることは、決してないだろうけれど。
「ふん、生意気な顔、しやがって」
酔っていても顔は殴らない。それは美桜が少女だから、女の顔に傷は残せないという気遣いからなのか、それとも単に拳が当たった場所が腹だっただけなのか。
見るまでもない、みぞおちのあたりには大きな痣ができているだろう。それは美桜の背負う、自ら剃刀でつける傷以外の傷痍だった。
「知ってるぞ。おまえ、東京からの転校生とよろしくやってるってんじゃないか」
「……え」
どきり、と――。
大きく胸が鳴った。席が隣になった、城戸崎海翔のことだろう。彼が、美桜のセーラー服の袖から覗く包帯の痕を気にしていることは知っている。同級生の咲希たちが言うように、リストカットの痕ではないかと思っていることもわかっている。
しかし美桜の体には、手首だけではない、手の届くところどこもかしこも傷だらけ、包帯だらけであることを彼は知らないだろう。そもそも、軽い挨拶程度しかしたことがないのだ。知るよしもない。そして、知られてはいけない。
「母に似て、男漁りがうまいんだな。東京から来て、ちょっと見目のいいような男にはすぐに色目か。まったく、あの女にそっくりだ」
父は、汚らしい音を立てて痰を吐き捨てた。美桜の部屋の畳の上だ。わざと、美桜のいやがることをやっているとしか思えない。
「だらしのない女だ。節操も理性も、なにもない。だらけきった、穢れた女だ」
吐く痰がなくなったのか、かっ、かっ、と空咳をしながら父は続ける。
「中学生でそんなんじゃ、あの女以上だ。放っておくと、なにをしでかすかわからない。危険な女だ。頭のおかしい、いかれた女だ……」
なおも美桜を罵りながら、父は続けざまに腹への拳を叩き込んでくる。今度はよろけて、机の脚に頭をぶつけた。今度こそ、美桜の意識は薄れた。
「穢れた女だ。中学生で、もう男の誘惑の仕方を知ってる。どうしようもないくらい、おまえは穢れてる」
咲希にも、言われた言葉だ。美桜は、男の誘惑方法を知っている。だから東京から来た転校生を易々と籠絡して、早々に彼氏にしてしまったのだと。
(そんなこと、してない……)
しかし、美桜の言葉は形にならなかった。また、殴られたからだ。
(でも、してなくったって。わたしは穢れてるんだから。心の底では、きっと城戸崎くんを誘いたいと思ってたんだわ。穢れてるわたしなんだから、きっとそういうことばっかり考えているの……お父さんには、お見通しなんだわ……)
今度は、右の腋腹を。繰り返される暴力で、ガーゼと包帯で押さえている傷が開くかもしれない。傷が開いて血が流れるかもしれない。清めの儀式の血を見られでもしたら、宿願は叶わないかもしれない。
(そんなの、いや……清め地蔵さまは、わたしを救ってくださる。わたしの傷が、血が、清め地蔵さまの傷なのだから。お地蔵さまの持っている、力なのだから)
「穢れた女だ、穢れて……どうしようもない女だ。今に男で身持ちを崩す。俺が、ここまで真面目に育ててやったのに。血は争えないのか? まっとうな女に育てて、立派な男のもとに嫁がせようとしていた俺は、バカを見たってわけか?」
酔っぱらいの言葉は、しかし深く美桜の胸に突き刺さる。酔っていることで、だからこそ本当のことが表に出るということもあるだろう。
「穢れた女め、穢れた女、穢れた女……腐りきった、人間のクズ!」
正体もなく酔っぱらい、娘を殴り、悪態を吐き捨てる。
それでも彼は、美桜の父親だった。幼いころは忙しい仕事の合間を縫って、プールだ海だと連れていってもらった。泳げない美桜に、浮き輪を懸命に膨らませてくれた。どうにか美桜がバタ足だけをできるようになると、手放しで喜んでくれたものだ。
そんな父親が、美桜を悪しざまに罵っている。忌まわしい娘だと言っている。中学生でいながら男を誘惑するような、穢らわしい女だと言っている。
(わたしは、やっぱり穢れてる……)
なおも父の拳を受けながら、胸のうちで美桜はつぶやいた。
(穢れてる、穢れてる……穢れてるんだ。だから、清めないと。清めて、きれいにして)
ひゅっと、美桜は息を呑んだ。その拍子に腹に拳がまっすぐ入り、ごぼっ、と美桜は奇妙な声を口から吐いた。
(お願いします、清め地蔵さま……わたしを、清めて。清めて、清めて清めて、清めて清めて清めて清めて……、清めて、清めて清めて……)
酔った父の、すべての鬱憤を晴らすような暴力を受けながら、美桜は繰り返し、胸の奥で祈った。
また、剃刀を買わなくちゃ。新しい美しい刃で、新しい傷をつけなくちゃ。清め地蔵が自らの身に受ける傷を美桜が受けて、そうすることで願いはより強く、清め地蔵に伝わるはずなのだから。
どごぉっ……!
内臓までが直接殴りつけられたかのような衝撃を受けて、美桜はその場に倒れ込んだ。目の前は真っ暗で、ただ痛みだけが美桜のすべてを支配する。
(これも……清め、なんだから)
父に殴られながら、美桜は思った。
(こうやって、お父さんに殴られて……これも、清めの儀式なんだわ。穢れたわたしを、清める儀式……お父さんも、わたしにきれいになってもらいたいと思って、だからこんな……)
だから、耐えた。剃刀で肉を刻む儀式とはまた違う痛みは、美桜だけでは至らない部分への清めを施してくれているようで、美桜は満足感でいっぱいになる。
(清められるの……きれいになるの。穢れたわたしは、清められるの。傷をつけて、清められて……ちゃんとした、普通の女の子になるんだわ)
腹を殴られ、胃の腑から迫りあがる衝撃に耐えた。低く呻きをあげながら、美桜は父のなすがままに、床に転がり拳を受ける。
「ちっ……、反抗もしやがらねぇ」
吐き捨てるように、父は言った。
「そうやって、じっと俺のこと見て……腹の奥じゃ何を考えてるかわからないところ、あの女にそっくりだ」
浴びせられる侮蔑にも、美桜は耐えた。瞼の裏には、傷だらけの清め地蔵の姿が浮かんだ。
(お地蔵さま、あなたはどのくらいの傷を受けてきたの? どれだけの人たちを救ってきたの? わたしもあなたくらいに傷を受ければ、清めてもらうことができるのよね? こんな穢れた、おぞましいわたしでも……)
傷を受ければ、清められる。地蔵に肩代わりしてもらうのではなく、自分自身が傷を受ける。そうすることで加護はより強くなり、清めは指先の隅々にまで行き渡る。
美桜がそのことを知ったのは、なにがきっかけだっただろうか。母が、見知らぬ男と出て行ってから。彼らの潜めた足音を聞いたとき。母の出奔を知った父が怒り狂い、その血を引く娘の美桜も、同じ不埒な女だと罵ったとき。おまえは穢れた女なのだと、言われたとき。
それは、天啓のように美桜の脳裏に輝いた。まるで光を放ち鳴り響く稲光のように、顕正のごとく美桜を貫いた考えだった。
(普通の方法じゃ、だめなんだ。清め地蔵に傷をつけて清めをお願いするとか、自分に傷をつけるとか……そんな方法じゃ、だめなんだ)
呻きながら、美桜は考えた。
(もっと、もっと……わたしの祈りがこんなに強いことを、お地蔵さまに知ってもらわなくちゃだめなんだ)
なおも父に殴られながら、考える。衣服の下、ガーゼと包帯で押さえた傷から血が滲みはじめるのを感じながら、美桜は思う。
こうやって傷を受けることで、穢れた女である美桜は、清らかな娘へと生まれ変わることができるのだ――。
†
真夜中、朧月夜の空のもと。
美桜は、清め地蔵の前にしゃがみ込む。ポーチから剃刀を取り出す。今夜の月は明るくて、剃刀の鋭い刃を神々しいまでに輝かせた。
左手首の包帯をほどき、いくつもの傷が走っている手首を露出する。傷だらけの小さな清め地蔵をじっと見て、そして剃刀を走らせる。
右腕がギプスに固定されているので、剃刀を使いにくいこと甚だしい。しかし先日は左手で清めの儀式を行なったところ、うまく手を使えなくて剃刀がすべり、傷をきちんと深くすることができなかった。
不自由でも利き手を使い、ちゃんとした傷をつけなくては。深く、鋭く、傷を入れなくては、清め地蔵に祈りを伝えることができない。仏の威光を受けることができない。清めてもらうことができない。
じゅくり、ぐちゅ……ぎゅち、っ、っ。
美桜の剃刀は、骨まで抉られた傷をさらに深くした。ぎりっと引いて、傷を大きくする。白い肌を切り裂いて、中の生々しく赤い肉を、白い筋を、血管を露出させる。忌々しくもすぐに血がどぷどぷとあふれてしまうので、傷はすぐにしたたる赤になってしまう。
血がしたたって、アスファルトにたまる。美桜の靴を汚して、流れ出す。
ぐちゅ、ぐちゅ、ぐちっと音を立てながら、美桜はなおも剃刀を引いた。わずかしか残っていない傷のない部分にも刃を這わせ、そこも深く抉り、手首を真っ赤に染めていく。
「清めなきゃ……清めなきゃ……」
――わたしは、穢れた女だから。どうしようもなく、救いようのないほどに穢れているから。だからこうやって、清めないといけない。清め地蔵にお願いして、隅から隅まで清められないといけない。
――わたしは、穢れているから。清めなくちゃいけない。清めないと、すっかり清めないといけないのだから。
――もっと、もっと、もっと……!
――清めなくちゃ、清めなくちゃ。清めなくちゃ、清めなくちゃ清めなくちゃ清めなくちゃ清めなくちゃ清めなく清めなく清めなく清め清め清め清め清め清め清め清め清め清め清め清め清め清め清め清め清め清め清め清め清清清清清清清清清清清清清清清清清清――。
0
あなたにおすすめの小説
意味が分かると怖い話(解説付き)
彦彦炎
ホラー
一見普通のよくある話ですが、矛盾に気づけばゾッとするはずです
読みながら話に潜む違和感を探してみてください
最後に解説も載せていますので、是非読んでみてください
実話も混ざっております
どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~
さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」
あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。
弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。
弟とは凄く仲が良いの!
それはそれはものすごく‥‥‥
「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」
そんな関係のあたしたち。
でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥
「うそっ! お腹が出て来てる!?」
お姉ちゃんの秘密の悩みです。
熟女愛好家ユウスケの青春(熟女漁り)
MisakiNonagase
恋愛
高校まで勉強一筋で大学デビューをしたユウスケは家庭教師の教え子の母親と不倫交際するが、彼にとって彼女とが初の男女交際。そこでユウスケは自分が熟女好きだと自覚する。それからユウスケは戦略と実戦を重ねて、清潔感と聞き上手を武器にたくさんの熟女と付き合うことになるストーリーです。
百合ランジェリーカフェにようこそ!
楠富 つかさ
青春
主人公、下条藍はバイトを探すちょっと胸が大きい普通の女子大生。ある日、同じサークルの先輩からバイト先を紹介してもらうのだが、そこは男子禁制のカフェ併設ランジェリーショップで!?
ちょっとハレンチなお仕事カフェライフ、始まります!!
※この物語はフィクションであり実在の人物・団体・法律とは一切関係ありません。
表紙画像はAIイラストです。下着が生成できないのでビキニで代用しています。
女子切腹同好会
しんいち
ホラー
どこにでもいるような平凡な女の子である新瀬有香は、学校説明会で出会った超絶美人生徒会長に憧れて私立の女子高に入学した。そこで彼女を待っていたのは、オゾマシイ運命。彼女も決して正常とは言えない思考に染まってゆき、流されていってしまう…。
はたして、彼女の行き着く先は・・・。
この話は、切腹場面等、流血を含む残酷シーンがあります。御注意ください。
また・・・。登場人物は、だれもかれも皆、イカレテいます。イカレタ者どものイカレタ話です。決して、マネしてはいけません。
マネしてはいけないのですが……。案外、あなたの近くにも、似たような話があるのかも。
世の中には、知らなくて良いコト…知ってはいけないコト…が、存在するのですよ。
短い怖い話 (怖い話、ホラー、短編集)
本野汐梨 Honno Siori
ホラー
あなたの身近にも訪れるかもしれない恐怖を集めました。
全て一話完結ですのでどこから読んでもらっても構いません。
短くて詳しい概要がよくわからないと思われるかもしれません。しかし、その分、なぜ本文の様な恐怖の事象が起こったのか、あなた自身で考えてみてください。
たくさんの短いお話の中から、是非お気に入りの恐怖を見つけてください。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる