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◆◇プロローグ◇◆
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それは、ヴァリスの離宮での記憶。
春には花が、夏には緑が、秋には枯れ葉が、そして冬には真っ白な雪が彩る庭園で、そこで遊び戯れるのはふたつの影。小さな少女と、間もなく王宮に召されようという少年。
ふたりは兄妹だった。少女はまだ七つになっておらず、風になびく髪もまだ不揃いでその幼さを示すように柔らかく薄い光を放っている。
「お兄様」
彼女の呼びかけに振り向くのは、長い髪をしっかりと結わえ、きりりとした瞳がその年を忘れさせるような少年だった。
「お兄様、王宮に行ってしまうって本当なの?」
妹の大きな瞳を、彼は優しく見つめた。
「マリエルが言っていたの、お兄様は十五歳になったから、王宮に行ってお父様のもとで暮らすのですって」
彼女は庭にしつらえられた長椅子に腰掛ける兄の膝に手を乗せて、地面に膝を立てる格好で話しかける。
「本当、なの?」
「そうだよ」
彼はそう言ったが、表情から笑みが消えることはない。
「もうすぐ、四月になるだろう? 四月になって、十五歳になったらお父様が迎えに来る。そうしたら、王宮に行くという約束なのだよ」
「クレアは?」
まだ幼い彼女は、自分を名で呼んだ。その舌足らずな声に彼はまた微笑み、彼女の頭に手を乗せる。
「お兄様がおいでになるなら、クレアも行くわ。一緒に連れて行って」
「それは、駄目なんだよ」
その笑みは崩れない。それをいささか不満にすら思いながら、彼女は駄々を捏ねる。
「どうして? お兄様がいないなんていや。お兄様がいないところになんかいたくありません。クレアも、一緒に行きたいの」
「わがままを言わないでおくれ」
髪をなでる手に限りない優しさを込めて、兄は落ち着いた声で言った。
「今は駄目だけどね、クレアも十五歳になったら王宮に来ることになるよ。そうしたら、また会える」
「クレア、いつになったら十五歳になるの?」
兄の膝に置く手に力を込めて、クレアは詰め寄った。
「教えて。クレア、早く、十五歳になるから」
くすくす笑って、彼が両手を広げて見せる。
「見てごらん」
十本の指を二本だけ折って、それを妹に数えさせる。
「いち、に、さん、し、ご、ろく、なな、はち」
「そう、その数だけ花が開くのを見たら、クレアも十五歳になる。そうしたら王宮に来られるよ」
彼女は表情を輝かせて、立ちあがると踊るようにその場で体を跳ねさせた。
「早く、八年経たないかしら。そうすればお兄様と一緒のところに行けるのね」
「ああ、そうだね」
その表情にわずかな憂いがあるのに気づくには、彼女はまだ幼すぎた。
「お兄様、王宮には何があるの? ここよりも楽しい場所なのかしら?」
「さぁ、それはね、僕にもわからないよ」
彼女は兄の傍らに座った。人形のようにそこに腰掛けて、花のような微笑みを彼に向ける。
「クレア、僕のこと、忘れないでね」
その言葉に、彼女はきょとんと首をかしげる。
「お兄様?」
「僕が王宮に行ってしまっても、クレアだけは僕のこと忘れないって、約束してくれる?」
「お兄様?」
見たこともないほど真摯に自分に迫る兄の瞳に、妹はいささか戸惑っていた。
「忘れたりするわけないわ。どうしてそんなことをおっしゃるの?」
彼は自分の感情をむき出しにすることなど、あまりない少年だった。自分の感情のままに子犬のように賑やかな妹のそばで、いつも穏やかに笑みをたたえているという印象の方が強かった。そんな彼にそんなふうに見つめられて、彼女は大きな瞳を震わせた。
「クレアが、お兄様を忘れたりするはずないわ。離れてしまっても、ずっとずっと大好きよ」
無邪気な声が無邪気な感情を語る。彼はその言葉ににっこりと微笑み、妹の顔に自分のそれを寄せた。
「八年経っても、その気持ちを忘れないでいておくれ」
妹は目を大きく見開いたまま兄のくちづけを受けた。頬や額にくちづけを与えられることは何度もあった。習慣のように、それを兄に返しもした。しかし、唇から唇に与えられるくちづけは未知のもので、彼女は兄が自分を開放してもしばらく動くことができなかった。
「お、兄様……?」
驚いたままの瞳を自分に向ける妹に、兄は少し眉尻を下げたままの笑みをこぼし、そして椅子から立ち上がると彼女に手を差し伸べた。
「さ、もう行こう。侍女たちが探しに来るよ」
「はい……」
繋ぎ慣れた兄の手が、少し熱く感じられたのは気のせいだったのだろうか。彼女は言葉少なに時折兄の顔を見上げ、それに返ってくる視線に戸惑いがちに目を伏せた。
彼女たちの父が絢爛たる馬車に乗って兄を迎えに来たのはそれから間もなくのこと。今まで見たこともないような純白の重い衣装に身を包み、兄がその馬車に足を踏み入れたとき、彼女は声を震わせて、そして叫んだ。
「お兄様、八年ね、八年、待っていてね。クレアもすぐに行くから……」
彼は振り返り、そして彼女に手を上げて、それを軽く振った。
「待っているよ」
四頭の馬が走り去っていくのを、クレアはぼんやり見ていた。八年という月日がいったいどれくらいの長さなのか、彼女にはわからない。ただ、それだけの時が流れればもう一度兄に会える、そのことだけが彼女を支えていた。
「お兄様……」
セラフィス・ナディア・シュザレーン、十五歳。
クレア・ナディ・シュザレーン、七歳。
マインラード王国の、もっとも尊い王子と姫。
八年の間、変わることのなかった兄への思慕。
春には花が、夏には緑が、秋には枯れ葉が、そして冬には真っ白な雪が彩る庭園で、そこで遊び戯れるのはふたつの影。小さな少女と、間もなく王宮に召されようという少年。
ふたりは兄妹だった。少女はまだ七つになっておらず、風になびく髪もまだ不揃いでその幼さを示すように柔らかく薄い光を放っている。
「お兄様」
彼女の呼びかけに振り向くのは、長い髪をしっかりと結わえ、きりりとした瞳がその年を忘れさせるような少年だった。
「お兄様、王宮に行ってしまうって本当なの?」
妹の大きな瞳を、彼は優しく見つめた。
「マリエルが言っていたの、お兄様は十五歳になったから、王宮に行ってお父様のもとで暮らすのですって」
彼女は庭にしつらえられた長椅子に腰掛ける兄の膝に手を乗せて、地面に膝を立てる格好で話しかける。
「本当、なの?」
「そうだよ」
彼はそう言ったが、表情から笑みが消えることはない。
「もうすぐ、四月になるだろう? 四月になって、十五歳になったらお父様が迎えに来る。そうしたら、王宮に行くという約束なのだよ」
「クレアは?」
まだ幼い彼女は、自分を名で呼んだ。その舌足らずな声に彼はまた微笑み、彼女の頭に手を乗せる。
「お兄様がおいでになるなら、クレアも行くわ。一緒に連れて行って」
「それは、駄目なんだよ」
その笑みは崩れない。それをいささか不満にすら思いながら、彼女は駄々を捏ねる。
「どうして? お兄様がいないなんていや。お兄様がいないところになんかいたくありません。クレアも、一緒に行きたいの」
「わがままを言わないでおくれ」
髪をなでる手に限りない優しさを込めて、兄は落ち着いた声で言った。
「今は駄目だけどね、クレアも十五歳になったら王宮に来ることになるよ。そうしたら、また会える」
「クレア、いつになったら十五歳になるの?」
兄の膝に置く手に力を込めて、クレアは詰め寄った。
「教えて。クレア、早く、十五歳になるから」
くすくす笑って、彼が両手を広げて見せる。
「見てごらん」
十本の指を二本だけ折って、それを妹に数えさせる。
「いち、に、さん、し、ご、ろく、なな、はち」
「そう、その数だけ花が開くのを見たら、クレアも十五歳になる。そうしたら王宮に来られるよ」
彼女は表情を輝かせて、立ちあがると踊るようにその場で体を跳ねさせた。
「早く、八年経たないかしら。そうすればお兄様と一緒のところに行けるのね」
「ああ、そうだね」
その表情にわずかな憂いがあるのに気づくには、彼女はまだ幼すぎた。
「お兄様、王宮には何があるの? ここよりも楽しい場所なのかしら?」
「さぁ、それはね、僕にもわからないよ」
彼女は兄の傍らに座った。人形のようにそこに腰掛けて、花のような微笑みを彼に向ける。
「クレア、僕のこと、忘れないでね」
その言葉に、彼女はきょとんと首をかしげる。
「お兄様?」
「僕が王宮に行ってしまっても、クレアだけは僕のこと忘れないって、約束してくれる?」
「お兄様?」
見たこともないほど真摯に自分に迫る兄の瞳に、妹はいささか戸惑っていた。
「忘れたりするわけないわ。どうしてそんなことをおっしゃるの?」
彼は自分の感情をむき出しにすることなど、あまりない少年だった。自分の感情のままに子犬のように賑やかな妹のそばで、いつも穏やかに笑みをたたえているという印象の方が強かった。そんな彼にそんなふうに見つめられて、彼女は大きな瞳を震わせた。
「クレアが、お兄様を忘れたりするはずないわ。離れてしまっても、ずっとずっと大好きよ」
無邪気な声が無邪気な感情を語る。彼はその言葉ににっこりと微笑み、妹の顔に自分のそれを寄せた。
「八年経っても、その気持ちを忘れないでいておくれ」
妹は目を大きく見開いたまま兄のくちづけを受けた。頬や額にくちづけを与えられることは何度もあった。習慣のように、それを兄に返しもした。しかし、唇から唇に与えられるくちづけは未知のもので、彼女は兄が自分を開放してもしばらく動くことができなかった。
「お、兄様……?」
驚いたままの瞳を自分に向ける妹に、兄は少し眉尻を下げたままの笑みをこぼし、そして椅子から立ち上がると彼女に手を差し伸べた。
「さ、もう行こう。侍女たちが探しに来るよ」
「はい……」
繋ぎ慣れた兄の手が、少し熱く感じられたのは気のせいだったのだろうか。彼女は言葉少なに時折兄の顔を見上げ、それに返ってくる視線に戸惑いがちに目を伏せた。
彼女たちの父が絢爛たる馬車に乗って兄を迎えに来たのはそれから間もなくのこと。今まで見たこともないような純白の重い衣装に身を包み、兄がその馬車に足を踏み入れたとき、彼女は声を震わせて、そして叫んだ。
「お兄様、八年ね、八年、待っていてね。クレアもすぐに行くから……」
彼は振り返り、そして彼女に手を上げて、それを軽く振った。
「待っているよ」
四頭の馬が走り去っていくのを、クレアはぼんやり見ていた。八年という月日がいったいどれくらいの長さなのか、彼女にはわからない。ただ、それだけの時が流れればもう一度兄に会える、そのことだけが彼女を支えていた。
「お兄様……」
セラフィス・ナディア・シュザレーン、十五歳。
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マインラード王国の、もっとも尊い王子と姫。
八年の間、変わることのなかった兄への思慕。
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