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第三章 偽り、過失、祈り、見えない傷

第69話 責められない過ち

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 アーサーは席を立ち、自らお茶を淹れた。
 目を丸くする辺境伯に苦笑しつつ、二人分のお茶をテーブルに並べる。

 フェリクスは扉の外で待機させている。本来なら同席させるべきなのだろうが、彼は既にアーサーの立てた仮説を聞いていた。これ以上はアーサーが本人の口から確認したいと言う、ただの自己満足のようなものだ。正式な取り調べでもないのだから。

 紅茶の香りを楽しんでから、辺境伯は喉を潤した。ずっと張り詰めていた辺境伯の表情が少しだけ和らいだようで、アーサーはほっと息を吐いた。

「原因の一つはエルトナ伯爵夫人の訪問だったと思います」

 目を伏せたまま辺境伯は口を開いた。

「ディアナが輿入れした後、当時の陛下はすぐエルトナ伯爵に婚約を勧め、伯爵はこれを受けました。けれどその実は白い結婚なのではないかと……当時はまだエルトナ伯爵がディアナと恋仲だったと疑う者も多く、伯爵夫妻の仲もそれ程芳しく無いという噂が主流でしたから」

 ディアナの為に皇都の噂にも気にかけるようにしていたらしい。アーサーは一つ頷いた。

「そんな中、伯爵夫人がディアナに会いに来たのです。私もその場にいましたが、ディアナに宣戦布告して返っていきましたね。玄関先でディアナに一言それだけ告げると、彼女は帰って行きました。ディアナは驚いて、馬に跨った彼女が見えなくなるまで呆然と見送っておりました」

 辺境伯は苦笑していたが、アーサーは絶句していた。

 リヴィアの母だ。知りたいと思って調べたのだが、なかなか破天荒な女性だったらしい。辺境伯領までのこの距離を馬を選ぶあたりその辺を物語っているように思う。

「それからしばらくディアナはどこか気もそぞろで……更にエルトナ伯爵夫人が身篭ってからは、打ちのめされたように落ち込んでおりました」

 彼女がどれ程エルトナ伯爵を好いていたのかは分からない。けれど、皇都にいた唯一の自分の味方が、結婚に向き合う姿を受け入れられなかったのかもしれない。自分はまだ何一つ手に出来ていないのに、と。

「私はディアナに全て渡す事にしました。辺境伯としての権威も役割も、領地経営も私が持っているものは全て。せめて彼女の誇りと存在意義を守りたかったのです」

 黙り込むアーサーに辺境伯は分かってます、と告げた。

「全て私の都合の良い言い訳です。私はアンリエッタとの間に子を設け、たとえ歪でも幸せを感じていたのです。だからディアナにも幸せになって欲しいと。自分勝手に彼女の願望を解釈し、押し付けました。そんなものディアナから目を背けて逃げる言い訳に過ぎないのに」

 辺境伯は深く吐いた息を追いかけるように頭を下げた。

「ディアナが身篭ったと聞いて嬉しかった」

 泣きそうな顔を上げて辺境伯は笑い事のように口を歪めた。

「これで彼女が救われると。噛み合わなかった歯車だってやっと回り始めるかもしれないと」

 けれどディアナが産んだのは伯の子どもでは無かった。

 ◇ ◇ ◇

 ゼフラーダ辺境伯領の当主は血筋で繋がなくてはならない。ディアナの産んだ子どもには継げない。けれど嬉しそうに、幸せそうに我が子を抱くディアナに、辺境伯は問い詰める事が出来なかった。

 赤子はイリスと名付けられ、嫡子として育てられた。しかし最初はイリスを可愛がっていたディアナも、ふとした瞬間に思い詰めるようにぼんやりと過ごす時が増えた。

 髪の色や目の色など、いく代か遡って遺伝する事はままある。けれど、成長していくイリスが誰の面差しに似ているのか。他ならぬディアナが一番よくわかってしまった事だろう。

 子をなした事を契機に、父が引退し辺境伯を継いだ。辺境伯領の全てはディアナのものだ。そこに迷いは無かった。ただイリスの件だけは、もうこのまま気付かぬふりはできないだろうか、と……何度も考えた。けれどそれはディアナを幸せにするのだろうか。とも……

 ディアナの相手は皇都から同行した元近衛だった。ある日彼は別邸に訪れ、床に頭を擦り付けて詫びて来た。そして罰は自分だけに与えて欲しいと。その目は夫である自分に、強い怒りをぶつけてきていたけれど。

 たった一度の事だった。けれどディアナが今まで積み上げてきた自分を、抱えられず投げ捨てる程に追い詰められ、くずおれた時に、別宅に引きこもって過ごしていた自分に何が責められるのだろう。

 誰もがディアナを誤解していた。彼女は強い女性ではなく、強がっていただけの普通の女性だった。

 私は男に顔をあげるように言い、額を打ちつけた。呆然と尻餅をつく男に馬上で木の枝にぶつかったと言うように指示した。

 侍医と口裏を合わせ、目が悪くなって眼鏡が必要になった事にするように。そう言って誰かに見咎められないように、顔を隠すのだと。彼は自分の顔一つで済むなら、幾らでも切り裂くと剣を抜いたので、慌てて止めた。

 ディアナを守って欲しいと。ゼフラーダの取り決めでイリスに継承権は持たせてやれ無い。だから領土を継げなくても生きていけるように育ててやってくれないかと。

 それに顔が傷だらけでは、辺境伯夫人の護衛や息子の教育係は任せられ無いからやめて欲しいとも。

 それを聞いて男は歯を食いしばって泣いた。
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