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1章 王弟殿下の婚約者
17. ドタバタ
しおりを挟むマリュアンゼは夜会の帰りにジェラシルに家に送って貰った事は無い……そもそも片手で数える程しか参加した事が無いけれど。
理由は概ねマリュアンゼが先に帰ってしまう為だ。
常にどこかに行ったまま戻って来ない婚約者。
問い詰めないのは、その理由を知っていたから。けれど決定的なそれを本人から聞く気にはなれなかった。
帰宅時の出迎えや家族には、マリュアンゼから断ったと話していた。
マリュアンゼは強い。
だから送迎は無いのだと本人が主張したと言えば誰も疑わなかった。
母からはその度に窘められ、謝っていた。
少なくとも今日は、あんな思いはしなくて良いのだと思うと少しばかりホッとした。けれど……
「申し訳ありません」
向かいに座るフォリムに、マリュアンゼはついそう口にする。けれどマリュアンゼの言葉にフォリムは不機嫌そうに眉根を寄せた。
「何故謝る」
「……何かご用があったのではありませんか?」
マリュアンゼの拙い情報網でもフォリムが女性に人気がある事くらい知っている。それこそジェラシルなど目では無いのではないだろうか。舞踏会場にも美しい女性が沢山いたのを思い出し、申し訳ない気持ちが込み上げてくる。
「……下らない心配をするな」
そんなマリュアンゼの心境を見透かしたようにフォリムは溜息混じりに息を吐き、マリュアンゼを真っ直ぐに見つめた。
「それとも、あなたは私に送って欲しく無かったか?」
「違います!」
勢い込んで答えればフォリムは少しだけ目元を和らげた。
「恐縮しなくとも私は一般的なマナー通りの事しかしていない。何も気に病む必要は無い」
「そうですか……」
人によるのだろうな、とも思う。
今フォリムに、『それでもご都合が悪い時はおっしゃって下さいね』と続けるのは場違いな気がする。
「婚約者として」
呟くマリュアンゼにフォリムは瞳を瞬かせた。
「私も公爵様に礼を尽くして参ります」
「……そうだな」
何故だかフォリムは脱力して馬車のソファに凭れる。
「だがまずは名前だ」
そしてポツリと零すフォリムの言葉にマリュアンゼは頬を引き攣らせた。
「名前……ですか……」
何故か気恥ずかしくて、つい避けてしまうのだ。
「も、申し訳ありませんフ、フォリム様。でも人前じゃなくても必要ですか? 舞踏会では気をつけていたつもりですが……」
「そうか? 咄嗟に出た呼び名は『公爵様』だっただろう。あてにならないな。やはり普段から呼んで貰わねば」
にやりと笑うフォリムに思わず赤面してしまう。
慣れるまでの時間を今この向かい合った空間で過ごせと? くっと奥歯を噛み締め、蚊の鳴くような声でフォリムの名を呼ぶ。
「聞こえないぞ」
「っというかこれは何の罰ゲームですか?!」
「では隣に座って指導する事にしようか」
「ごめんなさいフォリム様! フォリム様のお名前を呼ぶ栄誉を与えられとにかく嬉しい限りです! 噛み倒さないように今のうちに練習しておきますね! フォリム様フォリム様フォリム様!」
「……色気の欠片も無いな」
「そんなもの生まれた時からありませんよ!」
「生まれた時から出るようなものでも無いとは思うが、まだ出ないというなら私が協力すると言う話をしているんだが」
そう言って身を乗り出すフォリムに、
ぎゃー!
という口の形をしても声は出さないように喉を閉め背中を逸らせる。
必死で頭と視線を巡らせるマリュアンゼは、いつの間にやら見えてきたアッセム伯爵邸に気付き、内心咽び泣きながらも、はたと思い出す。
(今日はもうこれでフォリム様とお別れじゃない! いけない、忘れるところだったわ)
「あの、フォリム様、それよりですね!」
多少強引だがこちらの用を優先させて貰う。
ぐりんと首を巡らせ仕切り直すマリュアンゼを訝しむフォリムを、愛想笑いでやりすごす。
「……何だ」
マリュアンゼの勢いに気勢を削がれたフォリムは不機嫌そうだ。その空気を何とかいなし、ポケットに手を伸ばす。
……こういう時どうしたら良いのやら、今更ながらよく分からないもので……掴み取った物を勢いよくフォリムの前に突き出した。
「今日のお礼です!」
ぱちくりと目を瞬かせるフォリムに、簡単にラッピングしただけのハンカチを押し付ける。
(予備を作っておいて良かったー!)
頑張った自分を褒めてあげたい。
まさか落としたりはしないだろうと思っていたが、万が一渡せなかったら嫌だからと、余計に一つ作っておいたそれ。
準備万端な自分、偉すぎる!
勿論シモンズも知っている。
彼には予備の話をしたところ、呆れられてしまったが。
「さあ、着きましたよ!」
ぶん! と首を振りフォリムから顔を逸らす。そして恥ずかしさから逃げるように、そのまま従者がドアを開けるのも待たずに馬車を飛び降りた。
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