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29. 溜息

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 それは領地に行く前に父に言われた台詞。
『以前あった縁談だが、どうだ。バツイチ子無しのお前なら今度こそ釣り合うだろう。先方はお前のような年増でも構わないと仰って下さっているぞ』
 母も何も言わずに聞いていた。

 そうか、と何か得心めいた気持ちが胸に湧いた。
 私はいつまで経っても父の娘で、道具で、愛情を掛ける相手ではない。父の情はただ、ビビア一人だけに向けられているのだ。
 
 そんな胸で燻っていた思いが、すっと溶けた。
 ぎゅっと抱きしめる腕の中が温かさが、沢山のわだかまりを溶かしてくれたように思う。
「ありがとうございます」

 私は彼らを幸せにする事が出来れば、自分も幸せになれると思っていた。
 そうすれば、認めて……愛して貰えると、心のどこかで思い込んでいたから……

(何て一方的で、空回った事をしてきたんだろう)
 でも、もうそれをいらないと思えるようになった。
 差し伸べられた手に縋っても、甘えてもいいんだと。励ますように背中に添えられた手が温かくて、私は目の前にいるイーライ神官にぎゅっと縋りついた。
 
「私もずっとイーライ神官といたいです。……あなたの事が好きだから……」
 好意が嬉しい。
 自分の心を汲んでくれるこの人の気持ちが嬉しい。
 この人と、支え合いたい──
 そう思えば、自分の本心は自然と口から溢れた。

 そして目の前のイーライ神官にぴくりと反応があった後、苦しいくらい締め上げられた。けれどそれが幸せだなんて。
 おかしくて、でもまだ少しだけ悲しくて、私はイーライ神官の胸で静かに涙を流した。

 ◇

 それから、もう縁を切りたいからという理由でラッセラード男爵家は今迄の資金援助の回収を不要とした。
 これはブライアンゼ伯爵家には恥とも取れるが、返せる当てが無い以上、受け入れるしかあるまい。

 私の用意した約束のお金にも、結局男爵は首を横に振った。「弟に叱られますから」そう言われて困ったものの、既に二人の間で何らかの話し合いがあったようで。押し切るのも難しかったので、フェンリー様たちの婚姻祝いを奮発する事で帳尻を合わせようと思う。
 
 母はとにかくお金の心配をしていたが、領地に籠り慎ましく生活すれば、没落する事ない程度の領地収入があるのだ。必要とあれば王都のタウンハウスを売っても良いし、そうすれば不要な支出は減って、当面の蓄えとなる。
 今はイーライ神官が用意した私の結納金がまだ残っているから、暫く猶予がある筈だ。

 父は私にいいように言われた事に怒りに打ち震えていたが、時間が経ち、どうやら思うところがあったらしい。ほんの少しだけ変わったようだ。
 今まで甘やかしていたビビアに、自分で婚約者を見つけてこいと、新しいドレスを仕立てる事もなく母を付き添わせ夜会に参加させている。

 結局老人の後妻に行けと言わなかったのは、父にとってビビアが可愛いからか、彼の心に変化があったからなのかは分からないけれど。

 ビビアも少しは十年前の私の気持ちが分かったかもしれない。別にそんな事は望んでいなかったが……
 十年前、何も知らずに無邪気に笑いかけてきたあの子の笑顔が眼裏に浮かぶ。
 
 もしあの子が今後、人の気持ちを理解出来るようになれば、婚約者は見つかると思うのだ。小さくて可愛かった私の妹。 
 ……そんな望みを抱き、私は密かに手を合わせている。
 ビビアだけの幸せが見つかるように。私のような失敗を起こさないように、ただ祈るばかりだ。


 そんな私は今神殿でお世話になっている。
 イーライ神官は渋ったが、あのままラッセラード男爵家にいる事は出来ないと、出て行こうとしたら神殿に連れられたのだ。
 そもそも嫡子の元婚約者の姉が居座っているだなんて、どんな醜聞になるか分からないし、陞爵に響いたりしたら大変だ。そう思っての行動だったのだけれど。
 それを知ったイーライ神官は、早々に神殿の客間を用意して私を住まわせる手配をしてしまった。

「未婚の神職は異性と同棲できない決まりなのです。寂しいでしょうが、少しの間我慢して下さい」
 真っ赤になる私を他所に、エルタとマリーはてきぱきと片付けを始める。
「あと、他の神職に声を掛けられても無視していいですからね。婚約者がいるときっちり断って下さいね」
「……はい。え、婚約者?」
 疑問を口にしてもイーライ神官はどこ吹く風である。
 更に最近ぴったりと張り付いて離れないイーライ神官には思うところもある。

 何故なら彼は相当、私を美化している──
 妙な色眼鏡でも通して見ているのではないか? と疑うくらい彼は心配性だ。
 神殿に住むとなると当然神職の方と挨拶なり会話なりが発生するのだが、その辺イーライ神官は妙に神経質なのだ。

 ばちばちと音がでそうな勢いで私の周りの人達を牽制しては追い払い……そのせいか最近は皆さんに遠巻きにされている。それでいて、やりすぎだと怒れば、水をかけられた犬みたいにしょんぼりと落ち込んでしまう。

「心配しなくても大丈夫ですよ」
 そうやんわりと窘めてもさっぱり首を縦に振る様子は無い。
「嫌です、大丈夫だと高を括って何かあったら自分が許せませんから」
 だから。
「……何もありませんって」
 そう言って溜息をついても彼はやっぱり、どこ吹く風なのだ。
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