暒晴-はればれ-

kamatoshi

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3章 里奈と理佐

最後の日

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「死のうと思ってるの」
家に帰ってからも理佐のその言葉が頭から離れなかった。
冗談で言ってるような目ではなかった。冗談を言う雰囲気ではなかったし。でも冗談であって欲しいと思っている私がいた。
どうして理佐はこんなに私のことを気にかけてくれているんだろうか。鬱陶しいとは全く思わない。でも、今までされなかったような事をされると思わずそわそわしてしまう。
彼女は今まで出会って来なかったような人だ。違うステージにいるような気がする。
考えていることや、話すことも。
父親に暴力を振るわれて、母親の幸せの為に自分の命を捨てようとしている。
私はまだ恵まれているのだろう。でも、私は両親の為にそこまでできるだろうか。
両親に本音で話すことすらできない私に。

ベッドに横になってそんな風に考えているといつの間にか眠ってしまった。


ついに里奈に話してしまった。
母親の幸せに死のうと考えていることを。
里奈に話すことで自分の意思を確認したかったのかもしれない。
里奈の驚いた顔が思い出される。そりゃ驚くはずだ。いきなりそんな事言われたんだから。
あの事を思いついてから、なかなか踏ん切りがつかなかった。死ぬと言っても簡単ではない。方法もたくさんある。あの屋上から飛び降りても死ぬことはできる。
私が死ぬことでお父さんの暴力がエスカレートするかもしれない。よりお母さんが不幸になってしまうかもしれない。でも私さえいなかったらお母さんは自由になる。

どうやって死のうか。

家の扉を開ける。父親が帰って来ていることに気づいてため息をつく。
ふとあることに気づいた。何かがいつもと違う。ということに。
なんと言っていいかわからない。だが、何かが違う。空気が違う。無性に嫌な予感がする。
家の中の人の気配が一つしかない。
投げるように靴を脱ぎ、中に入る。
リビングの扉を開けたとき、とんでもない光景が目に飛び込んできた。

父親が母親に馬乗りになっている。異常だがその光景は見慣れている。
父親の服はところどころ赤く染まっている。
その血はどちらの物なのだろうか。いやどちらもなのか。
声が喉から上に出て来ない。「ひっ」という空気だけが漏れる音が口から出た。
母親の手には包丁が握られている。その先は血がべっとりとついている。母親の顔は父親が上に覆い被さってこちらに背中を向けているため確認できない。父親が荒く肩で息をしている。よく見ると父親の右の横腹が1番血で赤く染まっていることに気づいた。
そこで母親が握っている包丁の血は父親の物だということに気づいた。
母親が父親を刺したのか。でも今馬乗りになっているのは父親の方だ。
父親の両手は血で真っ赤になっている。左手は手のひらに右手は拳に。
咄嗟に嫌なことが頭に浮かぶ。左手は自分の血で右の拳は母親の血なんじゃないかと。
いったいどれくらい経っただろうか。実際には数秒しか経ってないのだろうが、数分以上時が止まっていたように感じた。
父親が私がいることに気づいて振り返る。
その顔は返り血で赤く汚れていて、目が爛々としている。この世の者とは思えなかった。
徐々に嫌な予感がリアル化されていく。
父親が動いたことで横たわっている母親の顔が見えた。その顔はほとんど原型を留めていなかった。鼻は凹み、顔のパーツが全て真ん中に向かって集まって集約しているように。かろうじて見える口は歯が折れてほとんどなくなっていて、もうそれが口だと思えないほどになっていた。もと母親であったその塊はすでに息をしていない。
「こいつが悪いんだ。こいつがいきなり俺の腹を包丁で刺して殺そうとしてきたからいけないんだ」
もう目の前にいるのは父親ではない。殺人鬼だ。おそらく力が足りなく包丁も深く入らず致命症にならなかったのだろう。それで反撃をされて顔面を何度も殴られて、
「人殺し」
思わずその5文字が口から出た。
「あのままだと俺は殺されていたんだ。こうするしかなかったんだよ。お前だって俺が死んだら生活できなくなるだろ」
どの口が言ってんだこのいかれ野郎は。
「なんでお母さんがこんな目に合わないといけないのよ。死ぬのは私で良かった。私がいなかったらお母さんはあんたと離れて幸せになるはずだった!」
「父さんにむかってあんたとは何だ。お前も俺にはむかうのか?」
「もういい!さようなら」
父親であったはずの物が母親の持っていた包丁を手にしたところで私は踵を返す。靴もちゃんと履かずに家を飛び出た。
追いかけようとしていたが、浅くても腹を刺されているのだ、あいつは腹を押さえて膝から崩れた。
なにか叫ぶ声が聞こえたが私の耳にはもう入ってこなかった。
泣きながら走った。足がもつれそうになるが、体力が続く限り走った。後ろからあいつが追いかけて来るかもしれない。

あいつに殺されるくらいなら。

もう決心がついた。


意識の遠くの方で携帯の鳴る音が聞こえる。次第にその音が大きくなる。意識が覚醒していきそれが現実に部屋の中で鳴っているということに気づく。
そこで私はいつの間にか眠ってしまっていたことに気づく。アラームなんてかけていないはず。では、この鳴っているのは、電話?
そのメロディは机の上に置かれた鞄の中で鳴っている。
帰宅して部屋着に着替えてベッドに横になって考え事をしていたらいつの間にか眠ってしまったようだ。携帯を見ないと今が何時なのかわからない。窓から明かりが差してないところを見るとすでに外が暗くなっていることが分かる。
鞄の中で透けて薄く光る携帯を取り出す。すでに静かになっていた。
携帯の画面を見て今が18時だということがわかる。そこで、そろそろ夕ご飯の時間だと気づく。下に行かないと、そろそろ呼ばれる。
なんて思いながら携帯の画面を見ると着信が2件来ていたことに気づく。その相手は理佐。

着信?しかも2件も。向こうからこうやって連絡が来ることはない。それに急用じゃないならメールで済ませるはずだ。確認してもメールは何も来ていない。
嫌な予感がして、私の方から理佐に電話をかける。

プルルルという呼び鈴が鳴ったかどうかわからないくらいの速さで理佐は電話に出た。携帯の画面をずっと見ていないと出れないくらいの速さだ。

「もしもし?どうかした?」
電話に出ても何も言わない理佐に恐る恐る声をかける。
「大丈夫?何かあったの?」
電話の向こうからは車が走る音がかろうじて聞こえる。
「ねぇ、今どこにいるの?外にいるの?」
だんだん怖くなってくる。
「お父さんが、」
ようやく理佐が口を開く。
「お父さんにお母さんが殺された。殴って。家に帰ったらお父さんがお母さんに馬乗りになっていたの」
掠れた声で聞こえたのはとんでもない内容だった。
「それって、どうゆうこと?」
「もう、私、生きてる意味なくなっちゃった」
「理佐ちゃん、しっかりして!今どこにいるの?」
正気を保っているように感じなかった。今すぐにでも消えてどこかに行ってしまいそうな。
「学校の近く。里奈ちゃんと、最後にまた話がしたかったの」
「わかった。待ってて!今行くから。絶対だよ、待っててね」
待っててと言わないと今すぐにでも消えてしまいそうな気がした。

今すぐ行くと言っても、
電話を切ってから思う。時間的にすでに父親も帰って来ている頃。この時間から外に出るのは。
そう思ったが、考えている余裕はなかった。部屋着に着替えていた為、簡単な上着を上に羽織る。
バタ足で階段を駆け降りる。
意を決してリビングの扉を開ける。父親がテーブルのいつもの席に座っている後ろ姿が見える。母親もキッチンで夕飯の支度をしている。
振り返る母親は不自然に上着を来ている私を見て目を大きくさせる。
「どうしたの?里奈ちゃん、そんな格好して」
「ちょっと、、出かけてくる」
それしか言えなかった。
「こんな時間にどこに行くんだ。今から夕ご飯だぞ。せめて食べてからにしなさい」
父親はそう言うと思っていた。

唇を噛み締める。父親の言うことは絶対だ。歯向かったことはない。歯向かうなんてできない。でも、
「友達が大変なの。今じゃないといけないの」
友達ーー。両親に向けて私の口からその単語を言ったのは初めてかもしれない。いや、小学校の頃はあったか。
「何を言ってるんだ!いいから早く入りなさい!」
父親の語尾が強くなる。
「友達が大変だって言ってるでしょ!私、今行かないと一生後悔する。行かないで後悔するくらいなら、私は行って後悔する方を選ぶ」
父親に向けてこんなに強く言ったのは初めてかもしれない。いや、これは初めてだ。
父親の顔を見れない。何か言われる前に踵を返してリビングの扉を閉める。
「里奈!」
父親の私を呼ぶ声で足を止めそうになったが、歯を食いしばってそのまま家を飛び出る。
家に帰ってからが憂鬱だ。何を言われるか分からない。また小言を言われるかもしれない。でも今はそんなことどうでも良かった。
里奈が私を待っている。
たとえこの後の運命がどんな結果になったとしても行かないといけない。
少しでも早く理佐の所に行かないと。私は無意識に走っていた。

電話の向こうからは車がたくさん走る音が聞こえた。学校にいると理佐は言っていた。
学校の前にはこの時間交通量の多い大通りがある。信号もなく学生達は歩道橋を渡って反対側から学校に渡っている。
あの車の音はその歩道橋なのだろうか。

慣れないことをして肺が機能を停止したんじゃないかと思うくらい痛い。息を吸うこと忘れるくらい夢中になって走っていた。息を吸ってもその空気はちゃんと肺に入っていかない。吸える空気が細くなる。ヒューヒュー音が鳴る。階段を駆け上がり、歩道橋の上で膝に手をついて息を整える。吸えない空気はすぐに行き場を失って涎と一緒に吐かれていく。
歩道橋の上に理佐の姿はなかった。でも、近くにはいるはず。
辺りを見回していると、ポケットの中で携帯が鳴る。
相手は理佐だった。
「はぁ、はぁ、もしもし?どこに居るの?」
声を出すのもようやくと言った状態だった。
また沈黙が続いた後、理佐の声が聞こえた。
「きっと、来てくれると思ってた。ありがとう。最後に顔が見れて良かった。里奈ちゃん、これだけ最後に言わせて」
理佐の声を聞きながら辺りを見回す。見れて良かったということは見えるところにいるはず。
歩道橋の下、見下ろせる所、学校側の歩道に理佐がいることが見えた。携帯を耳に当ててこちらを見上げている。
「理佐ちゃん!今そっちに行くから」
電話を切って行こうとした時、
「里奈ちゃんは、素直に生きて欲しい。自由に私の分も。私は里奈ちゃんの中で生きてる。私の分も幸せになって」
それが最後の言葉だった。
「理佐ちゃん!!ダメ!!」
私は叫んだ。電話越しではなく直接届くように。
そこからの光景は一生私の目に頭に残ることになる。
理佐が歩道から車道に出る。全く違和感の無く躊躇いのが感じられなかった。
当然車が来る。車道から見ると歩道橋のせいで若干死角になっている。車からするといきなり車の前方に人が出て来たことになる。
ブレーキ音が響く。その後ドゴンッという鈍い音がして車と理佐が接触した。
対向車線も含めれば四車線のその道路は走る車もスピードをある程度出している。信号がないために歩道橋が用意されている。もちろん人が出て来るなんて思いもしなかったのだろう。勢い良く理佐が上に飛ばされる。車と接触した瞬間からその姿はまるで人形のようだった。ボンネットに乗り上げ、車に沿うように体が跳ね宙に浮かぶ。車もブレーキを踏みながらハンドルを右に切ったのだろう、反対車線にはみ出し対向車とぶつかりそうになったところで今度は左にスリップをしながら、左の歩道の電柱にぶつかって動きが止まった。ドサっという重い物が地面に叩きつけられる音が聞こえた。
見えた光景はほんの一瞬の出来事だったんだと思う。だが、私の目にはスローモーションにはっきりと動きが見えた。
理佐が地面に叩きつけられて辺りが騒然としたところでそのスローモーションは解除され元の意識に戻ったような感覚になった。
私は膝から崩れ落ちる。

救えなかった。

最後まで理佐は私のことを思ってくれていた。

歩行者が通報してくれたようでパトカーと救急車のサイレンが遠くから聞こえてきた。理佐と理佐を轢いた車の運転手が救急車に乗せられて行った。
運転手も飛び出した理佐を避けるためにハンドルを切ってその反動で路肩の電柱に頭から突っ込んで車の前方がへしゃげていた。ぐったりとした運転手が救急隊員によって運転席から慎重に運び出されていた。
パトカーの灯りが暗がりを赤々と照らしている。事故の一部始終を目撃していた人が警察から事情聴取を受けている。歩道橋の上にいる私のところにはまだ警察官は来ていない。全てを話すことができるが、今はまだ自分から話す気にはなれなかった。

警察には理佐の家のこと、話さないといけないよな。
そう思いながらも腰が抜けてまだ立てないでいた。

そこからの記憶は曖昧だ。私も警察から事情聴取を受けて正直に知っていることを全て話した。理佐本人が道路に飛び出したことを。理佐が直前、父親が母親のことを殴り殺したと言っていたことを。
その後知ったことだが、理佐の父親は警察に連行されたようだった。正当防衛を主張していたが、日頃から暴力をふるっていたことは近所の人からの証言ですぐに判明し、殺人の容疑で逮捕されることになりそうだということだった。

そこからの私は抜け殻のようになっていた。事情聴取を終えて、知らせを受けて迎えに来た父親と母親もさすがに私のその姿を見たら何も言えないでいた。
怒るつもりでいた父親もあまりに憔悴しきっている私を見て気の毒に思ったのかもしれない。
でも、励ましの言葉はなかった。慰めの言葉はなかった。

学校も大変な騒ぎになっていた。すぐにニュースでこの事故を取り上げられ校長が記者会見を開いていた。なぜか、校長は理佐がいじめられており、それを苦に自殺をしたという架空の話をでっち上げて謝罪をした。
校長も担任も何にも知らないのだ。理佐がどういう生徒だったかも、どういう境遇だったのかも。彼女のことを誰も知らない。
校長はとりかくすぐにこの事故のほとぼりが冷めることを望んでいたようだ。
数ヶ月後にはバスケ部の全国大会が控えていて、それまでにはこの事故をなかったことにしたいようだ。
担任に全てを任せ、学校のブランディングだけを気にしているようだった。
すぐにマスコミが道ゆく生徒にインタビューをし始めたが、理佐について詳しく知っている生徒はほとんどおらず、気難しい頭のいい生徒だったとありふれた事しか誰も言えなかった。
理佐と1番仲が良かったように見えていたであろう私が理佐のいじめに関与していたのではないかと最初噂されていたが、まずそんな事実すらでっちあげられた事なので、そんな噂もすぐに消え去った。
まず、私自身が学校内で全く目立つような人物でない為、私のことも誰も何も知らない。

学校はすぐに元の状態に戻っていた。私も母親から心配されたが、すぐに登校することを決めた。このまま腐った状態ではいけない。そんなこと理佐は望んでいない。どこかでそう思っていたのかもしれない。

ただ1つだけ、本格的に教室に私の居場所がなくなったように感じた。
誰も私のことを心配しない。気にもかけない。
いや、最初からそうだったのかもしれない。

あの事故から数日が経ったころ、この一件で担任の先生も憔悴しきっていた。無理やり責任を押し付けられて、ありもしないいじめがあったというクラスの担任というレッテルを貼られ。授業にも身が入っていないように見えた。ただでさえ数学の授業だ。難しい内容に加え教科書を読み、黒板に式を書くだけの内容になっていた。誰も先生の話を聞いていない。それぞれで雑談をしていて、最初はひそひそ声だったものがいくつもの塊となって大きな雑音となる。こんなクラス終わっている。理佐が死んでも関わりのない生徒達はなんとも思っていない。私はそれがとても悔しかった。

とある日の夜中。気持ちのモヤモヤが晴れずなかなか寝付けなかった私はリビングに水を飲みに行った。
時間は夜中の0時。
リビングの明かりは消えていて、両親共にすでに就寝していた。
手探りでスイッチを探し、明かりを点ける。
コップを手にし水を入れる。勢い良く飲もうとするが、喉を通らない。
少しずつ喉を通し胃に落としていく。

少し座ろう。
そう思い、リビングのソファーに腰掛ける。こんな時間に1人でリビングにいるなんてほとんどない。いつも両親の目を気にして部屋にこもっている。
あの事故以降、両親も私にどう接していいか悩んでいるように感じた。気のせいかもしれないけど。

何もしないで座っていても退屈なので、テレビをつけることにした。夜中の0時のテレビ番組なんてほとんど見ることもなくどんな番組がやっているのかも全くわからない。
たまに教室であの番組が面白い、あの俳優が格好いいと話している声が聞こえるが私には番組名も俳優の名前も分からなかった。
特に何か見たかった訳ではなく、一通りチャンネルを回してみる。興味のそそられる物がなかった為、テレビをつけた時にやっていたチャンネルに切り替えた。
特に見ることもなく、音を聞きながらコップを口につける。

「「人に良く見られる必要はない!自分は自分。自分がそうと決めたことは突き通すこと!まず自分に嘘をついてはいけない!」」

テレビから流れてきた言葉に水を飲む手が止まった。
どこかで聞いたことがある言葉。似たような言葉を聞いたことがある。

「「まずは言葉に出すこと!自分がなりたい自分を!こうなりたい!こういう人になりたい!」」

なりたい自分を言葉に出す、か。
私はどんな人になりたいんだろうか。
考えたことがあるようで実際にはなかった。

どんな人、か。
「素直に生きて欲しい」理佐の言葉が脳裏に浮かんだ。

私は、、私は、誰にでも優しい人間になりたい。間違ったことは正せる人間になりたい。自分がこうだと思ったことは貫き通せる人間になりたい。

「「本当に優しい人は、他人の間違いをちゃんと正してあげられる人。他人の善行をちゃんと褒めてあげられる人。見て見ぬふりをする人は優しい人ではない。それは無関心な人間だ!」」

テレビから流れてきたその言葉にいつの間にか私は涙を流していた。
テレビからは時折笑い声が聞こえてくる。真面目な番組ではないのだろう。でも今の私の心は大きく動かされた。

背後に人の気配がする。リビングの扉が開いて入ってきたのは母親だった。
「眠れないの?」
優しい声で母親は言う。
今だったら言えるかもしれない。
「辛いことがあったばっかりだから、今はまだ無理しなくていいのよ。私はあなたが生きていてくれれば」
「お母さん!」
涙を拭い、母親に向かって正面を向く。
「私、将来、歌手になりたいの」
母親の驚いた顔になる。いつもの私ならここで視線を外す。でも今は違う。
「それは自分で決めたの?」
「人前ではあまり歌ったことないけど、でも」
「あなたは昔から歌うの好きだったものね」
母は優しく言う。
「あなたが決めたことなら全力でやりなさい。大変なことがたくさんあるわ。必ずしも叶う夢ではない。でも、」

でも、、

「あなたが小さい頃からお父さんはあなたの歌が好きだったのよ。あの人絶対にそんなこと言わないけど」

視界が滲む。また涙が溢れてきた。

「お父さんにはまず私の方から言ってみるから、いつかあなたからも言ってあげなさいね。お父さん、ああ見えて、あの人が1番あなたのことを心配しているんだから。いつも娘にはどうやって接したらいいんだって嘆いているんだから」
母親はそこで笑う。
私も泣きながら笑う。

少しだけ勇気がついたかもしれない。私の心の中には理佐がいる。
理佐の分も私は強くなる。


次の日の朝は晴れやかに感じた。睡眠時間はあまりとれていない為眠かったが、心の中のわだかまりが少し取れたような気がする。
進路についてはもっと真剣に考えよう。

この日の担任の授業もいつも通り変わらずだった。生徒が何グループかに別れて雑談をしてる。その雑音は一塊になって大きな騒音のようになっている。
段々と腹が立ってきた。こいつら真面目に授業を受ける気があるのか。

バンっ!

その音に教室は静まり返る。担任が教卓を両手で叩いたのだ。
ついに怒ったのか、ヒステリックを起こしたのか。そう思った。
静かになった教室で徐々にヒソヒソ声があちらこちらで聞こえ始める。
「え?怒った感じ?」「マジで?」
と皆様子を伺っている。

「先生に子供ができた」
担任の言葉が静寂に響く。
え?え?と皆困惑している。私もまさかの事に驚いていた。

「俺は父になったんだ!このままではダメなんだ。君たちみたいな子供に負けているようでは強い父親にはなれない!」

担任のいきなりの宣言にまだ全員困惑する。
誰か何か言いなよ。と言いたげに皆それぞれ辺りを見回している。

こんなことを言う人だと思ってなかった。どちらかといえば冴えない先生で、生徒からも舐められていた方だ。
もしかしたら先生も、先生の中で何か変わったことがあったのかもしれない。
昨日の私のように。

「先生!おめでとうございます!」
気持ちよりも先に体が動いていた。立ち上がって拍手をする。
私のその一言で教室の端から「おめでとう!」の声が辺りから聞こえ始める。
それを皮切りに他の生徒達も先生に質問を投げかける。
教室が1つになったように感じた。
力が抜けて椅子にストンと座る。

これからどんなに辛いことがあってもきっと大丈夫。きっとなんとかなる。
なにせ、私には理佐がついてるから。
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