常世に捧ぐゲニタリア

きのこいもむし

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『蜂』

12、一日目

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 小一時間ほどそうしていただろうか。
 石になったみたいにじっと踞っているうちに、呼吸は落ち着き震えは収まっていた。
 なんとか混乱と恐怖をやりすごせたみたいだ。
 いつまでも玄関前で踞っているわけにはいかないので、ひとまず俺は帰宅することにした。

「おかえりなさい、朝陽ちゃん。随分遅くまでお散歩してたのねえ」

 おばあちゃん、いや、翠蛾テフが俺のことを温かく出迎えてくれる。
 ……この優しげな微笑みの裏で、俺のことを大紫麻家に引き渡す算段をしてたんだ、このひとは。
 本当に時間が巻き戻ったのであれ、今まで見ていたのがただの白昼夢であれ、どちらにせよ今の俺はこのひとを信用できるほど気持ちに余裕がない。

「お腹すいたでしょ?お夕飯できてるから、一緒に食べましょう」

 大紫麻立羽の血の原液を口にした今なら嫌でもわかる。
 彼女の身体からは、あの血と同じ甘い芳香が漂っている。
 初めて出会った時にどうにも彼女に惹き付けられたのは、彼女の匂いに食欲を刺激されたからだったんだ。
 でも、斑は今この村には至上の美肉──『大紫麻』は大紫麻立羽ひとりだけだと言っていた。
 翠蛾村の人間はおおまかに、大紫麻、翠蛾、蜂宿の三つの姓と、姓なしの不信心者、そして部外者の俺を含んだクボという立場にわけられている。
 姓なしの小宵と違って、彼女ははっきりと翠蛾と名乗っていた。
 翠蛾の香りは大紫麻に似ているけど、生け贄とはまた違うのか?
 翠蛾には大紫麻とも蜂宿ともクボとも違う、何か別の役割があるっていうことなのか?

「朝陽ちゃん?」

 黙って俯いてる俺を、老婆が訝しむ。
 俺はひくつく口の端を無理やり押し上げて笑い顔を作った。

「なんでもないよ。それより移動で疲れちゃったのかな。お腹は減ってるんだけど、今はあんまり食欲なくて」

 言いながら、卓袱台に並べられた献立を一瞥する。
 ちらし寿司に角煮にだし巻きに具沢山のお味噌汁。
 どれもすごく美味しかったのを舌が覚えていて、見ているだけで胃の底が疼いて口の中に唾がこみ上げてくる。
 でもこの料理にはすべて、大紫麻の血が混ぜられた井戸水が使われているんだ。

「折角用意してくれたのに、ごめんね」

「大丈夫かしら?調子悪いのだったら、大紫麻さんのところのお嬢さんをお呼びしようか?」

 ……大紫麻の名前を聞くだけでも吐き気がこみあげた。
 大声でその名を出すなと口汚く罵倒したいのを、必死で喉の奥に押し込める。

「ぉ、おーしまさんは外科だから内科は専門外でしょ。多分、ただの電車酔いだと思うから平気。でも今日は疲れちゃったから、顔だけ洗って先に部屋で眠らせてもらっていいかな?寝たらすぐ治ると思うから」

 心配する翠蛾テフを振り切り、動揺を悟られまいと俺は大股で居間を突っ切って洗面所に向かった。
 途中、小宵の少し戸惑ったような視線を感じた。
 小宵にあそこまで憎まれ、嫌われていた理由を知ってしまった今は顔を合わせ辛い。
 時間が巻き戻る前の失言を謝りたいけど……事情を知らない今謝ったらさすがに怪しいよな?
 あいつは母さんと一緒に村の外で暮らしていた俺を恨んでる。
 俺という存在そのものが近くにいるだけで、あいつは自分自身を惨めだと思ってしまうんだ。
 ……俺、小宵にはもう無理に関わらない方がいいのかも。
 あれこれ思い悩んだ末にそういう思考に落ち着いてしまった俺は、結局小宵と顔も合わせず洗面所に逃げ込んだ。

 
 今の状況とやるべきことをちゃんと整理しようと思う。
 まず最初に、どうやら俺はこの村では『クボ』と呼ばれる特殊な存在らしい。
 確か、翠蛾村の食人耐性は非遺伝で後天的に得られるものだけど、例外として蜂宿とクボの子どもだけは遺伝で食人耐性を引き継ぐことができると揚羽は言っていた。
 だから、斑は蜂宿の男たちに命じて俺に大紫麻の子を産ませようとしていた。
 この村に来たばっかりの『蝶野』の俺が、どうしてクボに選ばれたのかはわからない。
 俺の父さんは翠蛾村の出身だけど、母さんは普通に村の外のひとだ。
 双子の小宵が姓なしとして扱われているわけだから、遺伝でこうなったわけじゃない筈だ。
 俺だけが運悪く偶然こうなったとしか、今は上手い理由付けが思い付かない。
 大紫麻邸に監禁されてる間は、鎮静剤を打たれてたせいか朦朧としてて断片的な記憶しか残ってないけど……卵を腹に植え付けられた時の、あの不快感だけはそう簡単には忘れられない。
 俺が男だとか、そもそも合意のない性行為は犯罪だとか、もうそういう次元の問題じゃない。
 この倫理観のぶっとんだ村じゃ、クボってのはそういう家畜みたいな扱いをされる存在なんだきっと。
 酷いことをされてる時、大紫麻立羽の血の原液を何度も飲まされた。
 大紫麻の血肉は一部の人間、つまりクボにとってこの上なく美味なるもの。
 俺の舌はあの血をとても美味しいと感じてしまった。
 翠蛾テフは、俺に大紫麻の血を飲ませた反応を見てクボがどうかを確かめたんだと思う。
 今思えば、大紫麻邸での斑たちの俺を見る目も明らかに可笑しかった。
 麦茶を出された時も、大紫麻立羽に引き合わされたときも、あいつらは逐一値踏みするみたいに俺のことを観察していた。
 幸か不幸か、消毒液臭のおかげで俺の大紫麻立羽への反応はクボらしいものではなかったみたいだ。
 でも麦茶を飲んだ時の反応を見られた時点であいつらには怪しまれているかもしれないから、もう出来る限り大紫麻には近付きたくない。
 俺がクボだって誰にも気付かれないよう、今後は絶対にこの村の食事を口にしないようにしなきゃ。
 正直今もめちゃくちゃ腹は減ってて、障子の隙間から漂う料理や翠蛾テフ自身の美味しそうな匂いが俺の理性をぐらつかせてくる。
 でも、一晩くらいなら飯抜きでも我慢できる。っていうかする。
 それで今夜一晩我慢してここに泊まって、明るくなったらソッコーでこの村を出ていくんだ。
 翠蛾テフには適当に向こうの用事を思い出したと言って誤魔化せばいい。
 帰りの車の都合がつかないなら、歩いてでも山を降りるつもりだ。
 バスが走れる道があるんだから、歩いて帰ることだって不可能じゃない。
 道中翠蛾の人間に監視されてたって構うもんか。
 要は俺がクボだってばれさえしなければ、ただのよそ者を引き留める理由なんかないんだから。
 なんで時間が巻き戻ったのかなんて、今はこの際どうでもいい。
 せっかく事前に我が身にどんな不幸が起こるか分かってるんだ。
 この記憶を利用して、絶対に同じ轍は踏まないようにする。
 上手くやれば何事もなく無事に帰れるはずだ。

「大丈夫、大丈夫、大丈夫……よし!」

 そうと決まれば、俺は冷たい水で顔を濯ぎ気を引き締める。
 洗面所の鏡には濡れた俺の顔が映っていた。
 小宵と顔のパーツの配置が殆んど同じの、母さんによく似た顔だ。
 
「……」 

 ホラー映画とかで人間を食う殺人鬼が出てきたりするやつ、カニバリズムっていうんだっけ。
 俺、異常者なのかな。
 母さんが死んだ時、俺は遺体を見ても少しも悲しいって思えなかった。
 あれは死を実感してなかったんじゃなくて、単純に俺が人肉を食いたがるような異常者で、スーパーで売ってるパック肉とかと同じ感覚で母さんの死体を見ていたからってことなのかな。
 もしそうなら……自分で自分のことが嫌いになってしまいそうだ。
 ふと、シャツの胸ポケットに小さい缶のラムネが入ってることに気が付いた。
 そういえばこの五十円ジュース、お巡りさんにもらったのすっかり忘れてた。
 密閉されてるものだから異物が混入されてるってことはないと思うけど、念には念を入れて、俺は開封したラムネを排水溝に流す。


 布団に潜り込んだのは二十時を少し回ったくらいだった。
 空腹を誤魔化したかったのと、明日に備えて早く眠りたかったから。
 だけど妙に目が冴えてしまって、なかなか寝つけないでいる。
 頭から布団を被って暗闇でしばらくじっと目を瞑っていると、雨の音が聞こえ始めた。
 そういえば初日の深夜に雨が降ったんだっけ。
 結構局地的な土砂降りだったみたいで、でも明日の七時くらいには止んでたはずだから、帰宅には何も問題はないよな?
 俺の不安を煽るように、屋根を弾く音は次第に激しさを増していった。
 バチャバチャととても情緒的とは言い難い雨足にじっと耳を傾けながら、俺はいつもよりもずっと遅く過ぎる夜の時間に身を任せる。


 翌朝、この短時間の大雨のせいで土砂崩れが起こり、駅までのバス道が封鎖されたことを知った時は血の気の引く思いだった。
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