失語オメガと4人のアルファ

Aki

文字の大きさ
2 / 9

第二話

しおりを挟む


「なあ、佐藤。なんで黙っていなくなったんだ? 俺は、お前に謝りたくて……」


勝也の分厚い掌が、ゆっくりと幸広の肩へと伸びてくる。
その手首に刻まれた太い血管と、無骨な指先が視界に入った瞬間――幸広の脳内で、封印していたはずの記憶がフラッシュバックした。


『やめろっ! 離せ! 先生っ、やめ……あぁあっ!!』
『佐藤……いい匂いだ……もっと鳴け……っ』


埃っぽい体育倉庫の匂い。暗闇。引き裂かれる柔道着の音。
そして、抗えない力で押さえつけられ、無理やりこじ開けられた激痛と、それに反比例して脳髄を溶かしていく恐ろしい快楽――。


(……っ、ひ、ぁ……っ!)
「佐藤……?」


勝也の手が肩に触れる直前。
幸広は弾かれたように身を翻し、勝也の腕を乱暴に振り払った。喉からヒュッ、と引き攣った呼吸音が漏れる。


そのまま弾かれたようにフリーウエイトエリアから飛び出し、幸広は狂ったように走り出した。


「おい、待て! 佐藤!」


背後から追ってくる重い足音。それがさらに幸広の恐怖を煽った。


(逃げないと。捕まったら、また……っ!)


心臓が肋骨を突き破りそうなほど激しく打ち鳴っている。マシンの間を縫うように駆け抜け、驚いて振り返る他の会員たちやスタッフの制止も振り切り、幸広はジムのエントランスを飛び出した。


外はすでに日が落ち、街のネオンがアスファルトを毒々しく照らしている。
五月の夜風が汗ばんだ体に冷たかったが、立ち止まることなどできなかった。ただひたすらに、あの甘く重いアルファの匂いから遠ざかりたくて、幸広は人混みを避け、薄暗い路地裏へと駆け込んだ。
これだけ走れば、いくらなんでも撒けただろう。
そう思って荒い息を吐きながら立ち止まり、膝に手をついた瞬間だった。


「……待ってくれ、佐藤!」
(嘘だろ……っ!?)


振り返るより早く、背後から伸びてきた太い腕にガシッと手首を掴まれた。
万力のような恐ろしい握力。幸広は反射的に、柔道の癖で相手の力を利用して背負い投げを打とうと体を沈め、手首を捻った。
しかし、背後の男はそれよりも早く幸広の重心の移動を読み切り、いとも簡単にその動きを封じ込めてみせた。


「っ……!」


ドンッ、と背中が路地裏の冷たいコンクリート壁に叩きつけられる。
目の前には、息一つ乱していない勝也が立っていた。


極限まで鍛え上げられ、今もなお柔道で磨かれ続けている勝也の体躯は、幸広がジムのウエイトトレーニングで手に入れた見せかけの筋肉など、小枝のようにへし折れるほどの凄まじい質量を持っていた。


(離せっ! 触るな……っ!)


声にならない叫びを上げながら、幸広は咄嗟に両手で自分の首の後ろ――『うなじ』を庇うようにうずくまった。
オメガにとって、うなじを噛まれることは「番(つがい)」となることを意味する。あの日、最後まで必死に守り抜いた場所。それだけは絶対に明け渡すものかと、幸広はガタガタと震えながら目を強く瞑った。
暴力が降ってくる。あるいは、無理やり顎を掴まれてフェロモンを流し込まれる。
そう覚悟した。しかし――。


「……すまないっ!!」


頭上から降ってきたのは、予想に反して、悲痛なまでの謝罪の言葉だった。
恐る恐る目を開けると、勝也は幸広の手首からパッと手を離し、三歩ほど大きく後ろへ下がっていた。まるで、自分自身が汚らわしい猛獣であるかのように、両手を顔の横に上げて「もう何もしない」という降伏のポーズをとっている。


「怖がらせるつもりはなかったんだ。ただ……お前に、どうしても謝りたくて。あの日のことを」


勝也の表情は、獲物を追い詰めた捕食者のそれではなく、深い悔恨に歪んでいた。
幸広は壁を背にしたまま、警戒心を露わにして勝也を睨みつける。ポケットに入っていたスマホを握りしめたが、震える指では文字を打つこともままならない。


「……お前が転校したあと、学校側はあの事件を俺たちアルファの『一時的な本能の暴走』として処理し、内密に済ませようとした。お前の人生をめちゃくちゃにしておきながら、俺はそのまま教壇に立ち、柔道を教え続けることになっていたんだ」


勝也は自嘲するように唇を噛んだ。


「でも、俺にはそんなことできなかった。生徒を守るべき教師が、あんな……獣みたいな真似をして、お前を傷つけた。自分の中のアルファの本能が恐ろしくなった。だから、俺は自ら辞表を出したんだ。教師なんて、偉そうな口を叩ける人間じゃないってな」


幸広は目を見開いた。
事件後、幸広はすべてをシャットアウトして逃げ出したため、あの四人がどうなったのかは全く知らなかったのだ。まさか、あの柔道一筋で熱血漢だった鈴木先生が、自ら教師を辞めていたなんて。


「今は、知り合いの伝手で鳶職をやらせてもらってる。毎日体をいじめて、高いところで命綱一つで仕事をして……そうでもしないと、お前に犯した罪の意識で頭がおかしくなりそうだった。……本当に、すまなかった」


深く、深く、頭を下げる勝也。
その声には一片の嘘も混じっていないように聞こえた。幸広の知っている「生徒思いで真っ直ぐな鈴木先生」の姿がそこにあった。


(……本気で、もう……?)


幸広の中で、張り詰めていた緊張の糸がほんの少しだけ緩んだ。
勝也から漂っていた攻撃的なアルファのフェロモンも、今は綺麗に鳴りを潜めている。
顔を上げた勝也は、幸広が壁にもたれかかったまま一言も発しないことに気づき、怪訝そうに眉を寄せた。


「……佐藤? なぜ、何も言わないんだ。罵ってくれていい。殴ってくれてもいい。俺はお前にそれだけのことを……」


幸広は痛ましそうに顔を歪めると、スマホの画面をタップし、メモ帳アプリに震える指で短い文章を打ち込んだ。そして、それを勝也の目の前に突きつけた。


『声が、出ないんです』
「え……?」
『あの事件の後、失語症になりました。だから、先生を罵ることもできません』


画面の文字を読んだ瞬間、勝也の顔からサァッと血の気が引いていくのがわかった。
強靭な肉体を持つ大男が、まるで致命傷を負ったかのようにふらりとよろめき、その場に膝をついた。


「……本当に?……喋れなくなっていたのか……っ」


勝也の大きな両手が、自身の顔を覆う。


「あぁ……っ!」


嗚咽のような声が、夜の路地裏に響いた。その姿はあまりにも痛々しく、幸広の胸の奥にチクリと奇妙な痛みを走らせた。


憎い。許せるはずがない。


けれど、本気で涙を流し、罪の意識に苛まれているこの男を、これ以上責める気にはなれなかった。
幸広は小さくため息をつくと、再びスマホに文字を打ち、勝也の足元にそっと見せた。


『もう、いいです。先生が教師を辞めてまで反省してるのはわかりました。でも、昔のことは思い出したくない。だから、ジムで会っても、もう俺に関わらないでください』


それだけを見せ、幸広はその場から立ち去ろうと背を向けた。
これで終わりだ。誠実な謝罪は受け取った。過去は過去として、また明日から普通の生活に戻ればいい。そう信じて。
しかし、幸広は気づいていなかった。
背中を向けた瞬間、うずくまっていた勝也の瞳の奥に、暗く、ねっとりとした『執着』の炎が再び燃え上がったことに。


「……関わらないなんて、無理だ」


低く呟かれたその声は、幸広の耳には届かなかった。


(あんなに怯えて、声を失うほど傷ついたのに……俺の謝罪を聞いて、最後には優しい目をした。昔と変わらない、素直で、誰よりも可愛い俺の生徒……俺だけの、オメガ)


勝也の鼻腔に、幸広から微かに漂う甘い匂いがこびりついて離れない。
誠実な謝罪と後悔は本物だった。だがそれ以上に――数年ぶりに再会した幸広のフェロモンは、勝也の中で眠っていたアルファの狂気を、完全に呼び覚ましてしまっていたのだ。
しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

4人の兄に溺愛されてます

まつも☆きらら
BL
中学1年生の梨夢は5人兄弟の末っ子。4人の兄にとにかく溺愛されている。兄たちが大好きな梨夢だが、心配性な兄たちは時に過保護になりすぎて。

冤罪で堕とされた最強騎士、狂信的な男たちに包囲される

マンスーン
BL
​王国最強の聖騎士団長から一転、冤罪で生存率0%の懲罰部隊へと叩き落とされたレオン。 泥にまみれてもなお気高く、圧倒的な強さを振るう彼に、狂った執着を抱く男たちが集結する。

たとえば、俺が幸せになってもいいのなら

夜月るな
BL
全てを1人で抱え込む高校生の少年が、誰かに頼り甘えることを覚えていくまでの物語――― 父を目の前で亡くし、母に突き放され、たった一人寄り添ってくれた兄もいなくなっていまった。 弟を守り、罪悪感も自責の念もたった1人で抱える新谷 律の心が、少しずつほぐれていく。 助けてほしいと言葉にする権利すらないと笑う少年が、救われるまでのお話。

君に望むは僕の弔辞

爺誤
BL
僕は生まれつき身体が弱かった。父の期待に応えられなかった僕は屋敷のなかで打ち捨てられて、早く死んでしまいたいばかりだった。姉の成人で賑わう屋敷のなか、鍵のかけられた部屋で悲しみに押しつぶされかけた僕は、迷い込んだ客人に外に出してもらった。そこで自分の可能性を知り、希望を抱いた……。 全9話 匂わせBL(エ◻︎なし)。死ネタ注意 表紙はあいえだ様!! 小説家になろうにも投稿

キサラギムツキ
BL
長い間アプローチし続け恋人同士になれたのはよかったが…………… 攻め視点から最後受け視点。 残酷な描写があります。気になる方はお気をつけください。

甘々彼氏

すずかけあおい
BL
15歳の年の差のせいか、敦朗さんは俺をやたら甘やかす。 攻めに甘やかされる受けの話です。 〔攻め〕敦朗(あつろう)34歳・社会人 〔受け〕多希(たき)19歳・大学一年

イケメンダブルセンターとアンチ>ファンな平凡な俺

スノウマン(ユッキー)
BL
アイドルグループ【オーバーウェルミング】は圧倒的な歌唱力の深山影月、圧倒的なパフォーマンス力の漣陽太、そして圧倒的な平凡力な俺間桐真緒の3人で結成されている。  大人気の二人と違いアンチしかいない俺だが、メンバーからもファンからも愛される日が果たしてくるのか!?

後宮の男妃

紅林
BL
碧凌帝国には年老いた名君がいた。 もう間もなくその命尽きると噂される宮殿で皇帝の寵愛を一身に受けていると噂される男妃のお話。

処理中です...