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第三話
しおりを挟むあの路地裏での再会から、三週間が経った。
幸広はあの日以来、ジムを退会しようかと本気で悩んだ。しかし、勝也のあの涙ながらの謝罪と、『関わらないでください』という自分の拒絶に対する彼の静かな頷きを思い出すと、どうしても踏ん切りがつかなかった。
何より、せっかく手に入れた体を鍛える環境を、過去のトラウマのせいで手放すのは「逃げ」のような気がして悔しかったのだ。
恐る恐るジム通いを再開した幸広だったが、予想に反して、勝也は驚くほどにあっさりと距離を保ってくれた。
フリーウエイトエリアで偶然目が合っても、勝也は軽く会釈をするだけで、決して自分から近づいてこようとはしなかった。すれ違う時も、幸広を刺激しないよう、意図的にアルファのフェロモンを完全に抑え込んでいるのがわかった。
(……本当に、反省してくれてるんだな)
更衣室で着替えながら、幸広は小さく息を吐いた。
かつての「熱血で生徒思いな鈴木先生」の姿がそこにあった。過ちを犯したとはいえ、教師を辞め、肉体労働で汗を流しながら罪を償おうとしている。そんな彼を、これ以上怯えて避けるのは自意識過剰かもしれない。
幸広の心の中で、強固に張り巡らされていた警戒の糸が、少しずつ、確実に解れ始めていた。
その日の夜は、いつもよりジムを出る時間が遅くなった。
大学の課題に追われ、到着が遅れたせいだ。時計の針はすでに午後十一時を回っている。
「ふぅ……」
夜風が火照った体に心地よい。スポーツバッグを肩に掛け、イヤホンを取り出そうとした時だった。
「――佐藤。遅かったな」
ビクッと肩を揺らし、幸広が振り返る。
ジムのエントランスの軒下で、スポーツドリンクの缶を片手に立っていたのは、勝也だった。黒いTシャツにスウェットというラフな格好だが、その下にある分厚い筋肉の鎧は隠しきれていない。
幸広は一瞬身構えたが、勝也からアルファ特有の威圧感は全く感じられなかった。
「……あ、いや、待ち伏せしてたわけじゃないんだ。俺も今終わったところで。……帰る方向、同じだったよな。駅まで、一緒にどうだ?」
勝也は困ったように眉を下げ、少し距離を空けたまま提案してきた。
断ることもできた。だが、この三週間、彼が完璧に距離を保ってくれていたことへの安心感と、どこか不器用な気遣いに、幸広はポケットの中でスマホを握りしめ、小さく頷いた。
「……ありがとう。暗いから、少し心配だったんだ。お前、その……目立つから」
勝也の言葉に、幸広は首を傾げた。男である自分が夜道で目立つとはどういう意味だろうか。オメガだからか? しかし、今は発情抑制剤もしっかり飲んでいるし、フェロモンなど出ているはずがない。
疑問に思いつつも、幸広はスマホを取り出し、歩きながらメッセージアプリの画面を勝也に向けた。
『先生も、仕事の後で疲れてるのに遅くまでトレーニングしてるんですね』
「ああ。鳶の仕事は高いところに登るからな。体幹と握力が落ちたら、命に関わる。それに……体をいじめてないと、色々と余計なことを考えちまうからな」
勝也は自嘲気味に笑った。その横顔はひどく大人びていて、かつての「先生」としての威厳と、何かを諦めたような哀愁が漂っていた。
『怪我には気をつけてくださいね』
「……優しいな、お前は。あんな目に遭わせた俺にまで」
勝也が立ち止まり、幸広を見下ろした。その瞳の奥に、一瞬だけ泥のような暗い光がよぎった気がしたが、街灯の逆光のせいですぐに見えなくなった。
二人は、駅から少し離れた再開発エリアの横を歩いていた。周囲には巨大な防音シートに囲まれた建設現場が連なり、人通りは完全に途絶えている。
重機が眠る無骨な鉄骨の骨組みが、夜空に黒々と浮かび上がっていた。
「俺が今入ってる現場、ここなんだ」
勝也が顎で、ひときわ高い防音壁に囲まれた現場をしゃくった。
『そうなんですね。こんな大きなビルを……』
幸広がスマホに文字を打ち込もうと下を向いた、その瞬間だった。
――ぞくり。
背筋を、氷の塊が滑り落ちるような悪寒が走った。
鼻の奥を、ドロリとした重く甘い匂いが唐突に支配する。脳髄を直接殴られたような、強烈な『アルファ』のフェロモン。
「……っ!?」
スマホを取り落としそうになり、幸広は慌てて顔を上げた。
隣を歩いていたはずの勝也の空気が、完全に変わっていた。先ほどまでの
「悔い改めた元教師」の気配など微塵もない。
目を血走らせ、荒い息を吐きながら、獲物を品定めするようなねっとりとした視線で幸広を舐め回している。
「…………?」
声にならない息が漏れる。
逃げなければ。本能が最大級の警鐘を鳴らしているのに、勝也の強烈なフェロモンに当てられた幸広の体は、まるで蛇に睨まれた蛙のように硬直し、指先一つ動かすことができなかった。
「……やっぱり、ダメだ。無理だったよ」
勝也の低い声が、夜の静寂を切り裂いた。
「この三週間、お前に嫌われないように、必死で『聞き分けのいい大人』を演じてきた。遠くからお前がマシンで汗を流すのを見てるだけで我慢しようとした。……でもな、佐藤」
一歩、勝也が距離を詰める。
幸広は後ずさりしようとしたが、足がもつれてアスファルトに座り込みそうになった。それを、勝也の丸太のように太い腕がガシッと抱き留める。
「っ……!!」
「お前が俺に向けるその無防備な顔を見るたびに、俺の中のアルファが暴れ出して、頭がおかしくなりそうだった。あんなに酷いことをした男に、どうしてそんな優しい顔ができる? どうして俺を拒絶しきれない? ……お前がそんな態度をとるから、俺は勘違いしちまうんだよ」
(違うっ、やめろ、離せっ!)
幸広は腕を振り解こうと必死でもがいた。しかし、勝也の腕は万力のように幸広の腰を抱き寄せ、逃げ道を完全に塞いでいる。
勝也の顔が首筋に近づき、熱い吐息が耳を撫でた。
「あの日の匂いが、忘れられない。……佐藤、お前も本当は、俺を待ってたんじゃないのか?」
(ふざけるなっ……!)
怒りと恐怖で涙腺が熱くなる。両手で勝也の分厚い胸板を力一杯押し返すが、鳶職で鍛え抜かれた83キロの巨岩は、微動だにしなかった。
「ここは俺の現場だ。夜は誰も来ないし、防音壁のおかげで外には声一つ漏れない」
勝也の手が、幸広の腰からゆっくりと滑り降り、トレーニングで引き締まった尻の肉を衣服の上から生々しく撫で上げた。
「ひっ……!」
「声が出せないお前には、ちょうどいい場所だろ?」
耳元で囁かれたその言葉は、死刑宣告にも等しかった。
勝也は片腕で幸広の体を軽々と持ち上げると、現場を囲う防音壁の重い鉄扉を蹴り開けた。
「はっ、ふあぁっ……!」
声なき悲鳴が闇に吸い込まれる。
ガシャン、と重苦しい音を立てて鉄扉が閉ざされた瞬間、幸広の視界は完全な絶望の暗闇に包まれた。
外界から完全に隔離された建設現場。
そこは、獣に堕ちたアルファと、抵抗する術を持たないオメガだけが残された、逃げ場のない檻だった。
「さあ、続きをしようか。佐藤……俺の可愛い、オメガ」
暗闇の中で光る勝也の目が、完全に理性を失い、欲情にギラギラと飢えていた。
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