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第八話
しおりを挟む「いらっしゃいませ。……あら、高橋くん。今日はお連れ様と?」
「マスター、悪い。一番奥の個室、空いてる?」
会員制の静かなバー。クラシックが静かに流れる落ち着いた空間に、智也の声が低く響く。
幸広は智也の太い腕に肩を抱き寄せられたまま、逃げ出す隙を窺っていた。しかし、腰に回された腕の力は強固で、柔道特待生である智也のグリップを外すことは不可能だった。
奥の個室に通され、重厚なドアが閉められる。
智也は幸広を革張りのソファに乱暴に座らせると、自分もその隣にどっかりと腰を下ろし、幸広の退路を完全に塞いだ。
「……さて。逃げられないからな、幸広」
智也の目が、獲物を追い詰めた猛禽類のように鋭く光る。
幸広は体を強張らせ、バッグからスマホを取り出してメモ帳アプリを開いた。震える指で、必死に文字を打ち込む。
『離せ。帰りたい』
それを智也の顔の前に突きつけると、智也は怪訝そうに眉をひそめた。
「は? なんだよこれ。お前、なんでさっきから一言も喋んないんだよ。俺の声、聞こえてんだろ?」
「……」
『声が、出ないんだ』
画面の文字を見た瞬間、智也の表情がスッと消えた。
「……声が出ない? なんで」
『高校二年の、あの事件の後、失語症になった』
智也の息を呑む音が聞こえた。
「……お前、今一言も話せないのか……?」
ショックを受けたように呟く智也。その反応は、勝也が真実を知った時と似ていた。
もしかしたら、智也も心から反省していて、自分がどれほど酷いことをしたか理解してくれるかもしれない。そう思った幸広は、続けて文字を打ち込んだ。
『だから、昔のことはもう忘れたい。俺に関わらないでくれ。頼むから、帰して』
しかし、その文字を読んだ智也の反応は、幸広の期待を無残に裏切るものだった。
「……ははっ。なんだよ、それ」
智也の口から漏れたのは、乾いた笑い声だった。
彼は額に手を当て、肩を揺らして笑い始めた。その声には、深い絶望と、歪んだ歓喜が混ざり合っていた。
「……お前は、俺たちのせいで喋れなくなった。そっか。……じゃあ、俺が一生かけて責任とらなきゃな」
「――っ!?」
智也が顔を上げた。その瞳は、完全に常軌を逸していた。
「お前が黙って転校してから、俺がどれだけお前を探したと思ってんだよ。毎日毎日、お前のことばっかり考えてた。一番仲が良かった俺にすら何も言わずに消えやがって……。柔道だって、俺はお前と一緒に全国行きたかったのに」
智也はテーブルの上のウイスキーのボトルを掴むと、グラスにも注がず、直接ラッパ飲みで煽り始めた。
喉を鳴らして強い酒を飲み下すたび、彼から放たれるアルファのフェロモンが濃く、攻撃的になっていく。
「お前がいなくなってから、俺は誰を抱いても満たされなかった。お前のあの甘い匂い、俺の下で泣いてたあの顔が頭から離れなくて……頭がおかしくなりそうだったんだよ!」
ドンッ、と空になったボトルがテーブルに叩きつけられる。
テーブル越しの智也が身を乗り出した。
「俺だけがお前の声を聞けないんじゃない。誰もお前の声を聞けないんだろ? なぁ、幸広。それって最高じゃん。お前の声も、お前の匂いも、全部俺だけが知ってる。……なぁ、お前、俺だけのオメガになれよ」
「……っ!!」
(狂ってる……!)
幸広は恐怖で全身の血の気が引いた。
智也は反省などしていない。ただ、幸広に対する執着と独占欲を、都合のいい解釈で正当化しているだけだ。
恐怖で抵抗できずにいる
智也はさらに酒を煽り、アルコールのせいか饒舌になっていくが、呂律が怪しくなっていた。
自分が1番の親友だと思っていた。転校してしまったことが本気でショックだった。なんとかして幸広の居場所を探した。見つからなくてもどかしかった。たくさんの智也の過去が語られていく。
「……ゆきひろぉ……なんで逃げるんだよぉ……。俺、お前のこと、こんなに好きなのに……っ」
ガクン、と智也の大きな頭が、テーブルに伏せていった。
見れば、智也は完全に泥酔しているようだ。合コンでテキーラを大量に飲んでいた上に、ウイスキーをボトルで煽ったのだ。いくら体が大きくても、限界を超えている。
「……おれ、お前のこと……誰にも……渡さねぇ……」
ズシリと重い言葉が幸広にのしかかり、智也の意識が完全に飛んだ。
(……寝た、のか?)
幸広は恐る恐る智也の肩を揺すってみたが、智也は「んぅ……」と寝言を漏らすだけで、目を覚ます気配はない。
今だ。今なら逃げられる。
幸広はそっとソファから立ち上がろうとした。
しかし、その時。
智也のポケットから、彼のアパートの鍵と、定期券が滑り落ちた。
定期券には、ここから二駅先の見覚えのある駅名が書かれている。
(このまま置いていったら……)
ここは個室のバーだ。泥酔した巨体の男を放置すれば、店にも迷惑がかかるし、智也がどうなるかわからない。
それに、幸広の心の中には、まだ「親友だった頃の智也」の記憶が微かに残っていた。いつも陽気で、不器用な自分を引っ張ってくれた彼を、こんな状態で冷たく見捨てることは、どうしてもできなかった。
(……家まで送って、玄関に寝かせて帰ろう。それなら、もう顔を合わせることもない)
幸広は小さくため息をつくと、重い智也の体を抱え起こし、彼の腕を自分の肩に回した。
これが、決定的な間違いだったとも知らずに。
(はぁ……っ、重い……)
タクシーを使い、なんとか智也のアパートにたどり着いた頃には、幸広は汗だくになっていた。
智也のポケットから拝借した鍵でドアを開け、薄暗い部屋の中に彼を引きずり込む。ベッドに智也を乱暴に寝かせ、幸広は肩で息をした。
「……よし。これで終わりだ」
幸広は智也の鍵をテーブルの上に置き、すぐに部屋を出ようと背を向けた。
もう二度と、この男と関わることはない。そう思い、ドアノブに手をかけた、その瞬間。
「……どこ行くんだよ」
背後から、ひどく冷たく、醒めた声が聞こえた。
心臓が跳ね上がり、幸広が恐る恐る振り返る。
ベッドに寝転がっていたはずの智也が、上半身を起こし、暗い瞳で幸広をじっと見つめていた。
先ほどまでの泥酔した様子はどこにもない。アルコールは残っているだろうが、その目には確かな理性が――いや、恐ろしいほどの『捕食者の本能』が宿っていた。
「俺の部屋まで来て、ただで帰れると思ってたのか?」
「……っ!!」
智也がベッドから立ち上がり、ゆっくりと幸広に近づいてくる。
狭いワンルームのアパート。逃げ場はない。
「お前は昔から、そういう甘いところがあるよな。俺を放っておけなくて、わざわざ家まで送ってくれる。……そういうお前の人の良さが、俺をどれだけ狂わせてるか、まだわかんねぇの?」
智也の腕が伸び、ドアノブにかけていた幸広の腕を乱暴に引き剥がした。
そのまま、ドンッ、と冷たいドアに背中を押し付けられる。
「今夜は帰さない。お前の身体に、俺の匂いをドロドロに刻み込んでやる」
智也の背後で、ベッドが黒い口を開けて獲物を待っていた。
幸広の絶望の夜は、ここからが本当の始まりだった。
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