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第七話
しおりを挟む「カンパーイ!!」
グラスのぶつかる軽快な音と、若者たちの高い笑い声がダーツバーのフロアに響き渡る。
合コンは開始早々から、遅れてやってきた智也の独壇場だった。
「いやー、マジでごめん! 教授のヒストリー話が長くてさー。お詫びに俺、テキーラ飲むわ!」
「えー、高橋くんウケる!」
「ちょっと、最初から飛ばしすぎだって!」
明るく、ノリが良く、それでいて気配りもできる。智也は昔からそういう男だった。柔道部でもムードメーカーで、不器用でストイックだった幸広をいつも陽気に引っ張ってくれていた、一番の親友。
……あの日、狂った獣に成り果てて、幸広の腕を力任せに押さえつけるまでは。
(……っ、だめだ、思い出すな……っ)
幸広は顔を深く伏せ、ジンジャーエールのグラスを両手で強く握りしめた。氷がカラン、と震える音を立てる。
視界の端に映る智也は、女子たちに囲まれて楽しそうに笑っている。その姿は普通の大学生そのもので、幸広の人生を狂わせた加害者であることなど微塵も感じさせない。
「幸広、大丈夫? なんか震えてない?」
隣に座っていた杏奈が、心配そうに顔を覗き込んできた。
幸広はビクッと肩を揺らし、慌てて首から下げたホワイトボードに文字を殴り書きした。
『ごめん、ちょっと冷房が寒くて。ご飯は美味しいから平気』
「そっか、上着貸そうか? あ、でも幸広のガタイじゃ私のアウター着れないか。あはは!」
杏奈が笑ってくれたおかげで、幸広への注目はすぐに逸れた。
失語症であることが、今夜ばかりは幸いした。自己紹介も杏奈が代わりにしてくれたため、幸広が声を出す場面は一度もなく、薄暗い照明と端の席という条件も重なって、智也の視線がこちらに向くことはなかった。
(あと一時間……。あと一時間耐えれば、帰れる)
幸広はスマホの時計をチラチラと確認しながら、ただひたすらに気配を殺し続けた。
勝也から逃れるために来たはずの場所で、まさか別のトラウマに直面するとは。運命が自分を嘲笑っているとしか思えなかった。
永遠にも感じられた地獄の二時間が、ようやく終わろうとしていた。
「じゃあ最後、みんなでLINEグループ作ろっか!」
幹事の掛け声とともに、全員がスマホを取り出してQRコードを読み込み始める。
席を立ち上がり、入り乱れて連絡先を交換するこのタイミングこそが、最大のチャンスだった。
幸広はスッと立ち上がると、杏奈の肩を軽く叩き、スマホの画面を見せた。
『俺、グループには入らなくていいから、先に帰るね。誘ってくれてありがとう、楽しかったよ』
「えっ、もう帰っちゃうの? あ、そっか、寝不足だもんね。無理させてごめんね! 気をつけて帰ってね!」
杏奈の明るい声に見送られながら、幸広は誰とも目を合わせないようにして、逃げるようにバーの出口へと向かった。
背後からはまだ、智也の楽しそうな笑い声が聞こえている。
(よし、バレなかった……っ!)
重い防音扉を押し開け、外に出る。
五月の夜風が、冷や汗で濡れた幸広の頬を撫でた。
街の喧騒、車のライト、行き交う人々の話し声。普通の日常の風景に、幸広は大きく、大きく息を吐き出した。
助かった。
智也に気づかれることなく、この場をやり過ごせた。あの集団の中にいれば、今後も彼と関わることはないだろう。
緊張の糸がプツリと切れ、幸広はよろめきながら駅へと続く道を歩き始めた。早く自分のアパートに帰って、鍵を閉めて、布団を被りたかった。
――しかし。
「……ゆきひろ」
背後から、低く、押し殺したような声が鼓膜を打った。
ビクリと、幸広の足が止まる。
心臓が嫌な音を立てて跳ね上がり、全身の血液が急速に凍りついていくのがわかった。
「おい……っ、幸広だよな?」
振り返るより早く、背後から伸びてきた大きな手が、幸広の肩をガシッと力強く掴んだ。
逃げようと身を捩ったが、その指の力は万力のように強く、強引に体を反転させられる。
「っ……!!」
目の前に立っていたのは、息を切らした智也だった。
先ほどまでバーで女子たちに見せていた、あの人懐っこい笑顔はどこにもない。
血走った目、強張った顎、そして……服の上からでもわかる、185センチ・80キロの圧倒的な威圧感。
(嘘だ……なんで、気づいて……っ)
「……っはは、嘘だろ。やっぱり、お前だ」
智也の口元が、歪に吊り上がった。
彼から漂うアルファのフェロモンが、アルコールと混ざり合って、重くねっとりと幸広を包み込む。
「ずっと……ずっと探してたんだぞ、幸広! お前、なんで急に転校なんか……っ!」
智也が両手で幸広の肩を掴み、ガクガクと前後に揺さぶった。
怖い。顔が近すぎる。智也の瞳の奥に、あの体育倉庫で自分を組み伏せた時の、真っ暗な欲望の炎がチラついて見えた。
『やめろ、離してくれ』
幸広は口をパクパクと動かし、声にならない悲鳴を上げながら、智也の腕を振り解こうと胸板を突き飛ばした。
しかし、現役で柔道を続けている智也の体幹はブレることもなく、逆に幸広の手首をガッチリと捕縛した。
「……あ? お前、なんで喋んないの?」
智也が怪訝そうに眉を寄せる。
「俺の声、聞こえてんだろ? なぁ、幸広! お前がいなくなってから、俺がどれだけ……っ!」
グンッ、と腕を引かれ、幸広の体は智也の分厚い胸にドンッとぶつかった。
鼻先を掠める、アルファの匂い。
幸広の意思とは無関係に、オメガとしての身体がその強烈なフェロモンに反応し、下腹部の奥がキュッと熱く収縮してしまう。
(だめだ、やめろ、これ以上嗅がせないでくれ……っ!)
「……お前、なんか……昔より、すっげぇ甘い匂いするな」
智也の鼻先が、幸広の首筋へと滑り落ちる。
スゥッと深く息を吸い込む音が聞こえ、幸広はゾワリと全身の毛を逆立てた。
「あの時と同じ……いや、もっと濃い。お前の匂い嗅いだら、頭おかしくなりそうだ」
「っ、ん……っ!!」
幸広は力一杯智也の足の甲を踏みつけ、拘束が緩んだ隙に弾かれたように走り出した。
駅の改札はすぐそこだ。人混みに紛れれば、いくら智也でも強引なことはできないはず。
「おい、待てって! 幸広!」
背後から迫る重い足音。
改札を抜けようとパスケースを取り出した瞬間、背中から巨大な質量がのしかかってきた。
「捕まえた」
「――っ!?」
智也の腕が幸広の腰に巻きつき、そのまま軽々と持ち上げられる。
「ごめーん、ツレが酔い潰れちゃって! タクシー乗せますわ!」
周囲の通行人に向けて明るく嘘を吐きながら、智也は抵抗する幸広を抱え込んだまま、駅とは反対方向の、薄暗い路地裏へとズンズン歩き始めた。
(ちがう、助けてっ! 誰か……っ!)
声が出ない幸広のSOSは、駅前の喧騒にかき消されて誰にも届かない。
智也の腕の中で暴れれば暴れるほど、彼から漏れ出すアルファのフェロモンが濃くなり、幸広の抵抗する気力を根こそぎ奪っていく。
「こんなとこで逃がすわけないだろ。幸広、無理矢理なんてしないから、ちゃんと話そう」
路地裏の奥、ひっそりと佇む会員制の小さなバー。
智也は幸広を強引にそこへ引きずり込むと、重い扉をバタンと閉めた。
またしても、アルファという名の獣の檻に捕らえられてしまった。
幸広の絶望に満ちた夜は、まだ終わっていなかった。
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