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4.海線のその先
海線のその先
会社の車で七見とともに丸町へ戻った佐良は、一夜明けた晴れの佳日、再び同じ車に揺られ、野寺と港公園の間にある倉庫をめざしている。風呂敷には今日のために用意しておいた品々が納まっている。それを終始大事そうに抱え、ただ車外を見遣るばかりの佐良である。七見も自ずと口数が少なくなっていた。静かな時が流れ、車は停まった。
「じゃ、佐良さん、こちらへ」
「あら、倉庫かと思ったら、ホールになってたのね」
会場に向かう佐良の足取りはしっかりしていた。ただ、時にぎこちなく、呼吸が調わない様子が窺えた。
「あ、あぶないっ」
「大丈夫、昨日気張ったせいよ。今日はお話しするだけだし、車両動かすのも数百メートルでしょ」
運転士諸氏との顔合わせをしたり、記念撮影をしたり、言われるままに動いているうちに客席が埋まってきた。庄の車で、舞、河南、そしてすずも駆けつけた。協議会メンバーは全員が揃った。来賓の簡単な挨拶の後、プレイベントの一、『海線丘線の頃』は始まった。
「何から話しましょうかね。昔々あるところに、海線と丘線……あの正式名称で呼ぶとまどろっこしいので、通称で言いますね」
一部から笑い声が漏れる。佐良はここから一気呵成に話す。
「昔と言っても、せいぜい私が物心ついた辺りからですね。創業から戦前・戦中の話は記念館で。いや、今日はパネルをいくつか持ってきてますので、あとでご覧ください。年表はお配りした通りです。とにかく私の記憶にあるのは戦後間もなくの頃。当時は海のもの、田畑のものを担いで行き来する人、人で大賑わいでした。私なんか乗りたくてもまず乗れません。親が経営者なのに何で?と子供ながらに悔しい思いをしたものです。つながればもっと人が増え、地域も一層発展するだろうと言われてましたが、丘線と海線はずっと別々のままでした。これには、父、三ッ口助信と海線の大親分、志賀直海氏が昔から仲が悪かったから、という沿線の皆さんには本当にご迷惑様な理由があったからです」
窓の少ないホールは暗く、照明も控えめだったので、佐良にとってはいい塩梅だった。マイクを通した声がよく響くのがまた心地よかった。
「父はどちらかと言うと伝統を重んじるというか、剛健、いや強情なところがあった。方や志賀の親分さんは強面ながら大らかと言いましょうか、気さくな感じの人でした。気が合わないのはわからないでもない。ただ、お客さんに対する心意気は共通するものがあった。だから逆に張り合ってたのかも知れません。ちなみに、協議会の若杉会長は志賀家のご親戚?でいいのかしら、つまり海線の一派になります。昔だったら私とは張り合う間柄だった訳ですが、今は海も丘もありません。時代が変わった、いえ、この方が時代を変えたと言っていいでしょう」
徳久は複雑な表情で話を聞いていたが、とりあえず席を立って、頭を下げた。思いがけず拍手が起こり、さらに頭を下げる。佐良は続ける。
「さて、若かりし頃の若杉さんも何かしら働きかけてたとは思いますが、海線と丘線を何とか取り持とうとされていたのが、当時の役場の助役、小浦先生です。経済成長を見越して、早くから町全体のデザインを考えてらして、一九六〇年以降、随分と腐心されたそうです。ところが、これがなかなかうまくいきません。ハイカラとバンカラと言いましょうか、戦前からの文化の違いみたいなのもあって、折り合いがつかなかったんです。それを後目に私は会社の事務を手伝ったり、丸町駅の駅務をしたり、家事をしたり、いそがしいのにかまけてこれといったことはせず、電車にもあまり乗りませんでした。今思えば出無精でしたね」
聴衆は百数十人はいるようだ。時折起こるざわめきが適度に反響するので、実際以上の客がいるように感じられる。再びホールが静まるのを待って、佐良はこう続ける。
「ある夏の日、中社のお祭りに行こうとしていた迷える兄と妹が駅に来ました。親御さんとは現地で待ち合わせだと言います。ですが、二人はこっちに来たばかり。可愛い子には旅を、のつもりなんでしょうけど、試練ですよね。で、私が送って差し上げることにしたんです。父の手前、あまり海線には乗らないようにしてたんですが、その時に親切な運転士さんと出逢った……」
小声で河南が尋ねる。
「あの話、本当だったんだ」
「まぁ、聞いてなさいって」
舞はにこやかに応じた。
「乗車証があるばかりにうっかり財布を置いてきてしまって、海線に乗るお金がなかったんです。でも事情を話したら、無料でいいです。しかも『丘線のお嬢さんですよね』と言うんです。参りました」
気持ちを抑えるようにしながらも佐良は滔々と語る。
「特に用もないのに、海線の駅に行っては、お目当ての運転士さんが来るまで待ったものです。そのうちいろいろと話すようになって……」
出逢って半年ほどで求婚されるも、結婚までの道程は長かった。
「何せ不仲の海線の運転士ですからね。父は認めてくれません。それに私は一人娘。姓が変わるのを嫌がったんです。でも三明さんが三ッ口の姓だと三流みたいでしょ? 押し切って堀松に嫁ぐことにしました。四十年前のことです」
二人の結婚が呼び水になるかと期待されたが、相変わらず両線がつながることはなく時は過ぎた。それでも二人は仲睦まじく暮らした。住まいは徳矢と匠の間だった。
「主人は丘線で通いながら、運転士と親睦を深めたり、時には助言をしたり。それが功を奏したようで、やっと機運が高まったんです。ところが」
この年、何十年に一度かという台風が沿岸を襲った。道路がまだ発達していなかった当時、特に港地区の住民は敢然と波風と闘うのを是としていたが、その時ばかりはさすがに避難するしかなかったと言う。
「運転士有志で発起して、電車を走らせたんです。荒波が押し寄せる前に、逃げ場がなくなる前に、港町の人たちを少しでも多く金原の方に移そうと。線路が水浸しになっても動く限り往復しようと。その夜、ずぶ濡れになって帰ってきた主人は、多くを語りはしませんでしたが、いつになくいい顔、いい笑顔をしてました。今でもハッキリ覚えています」
居ても立ってもいられなかった徳久はここで前に出て、マイクを手にする。
「皆さん、その時に救われた一人が、この私です。あの時本当に堀松さんに助けてもらわなかったら、でもな、うぅ……」
佐良の口からは話しにくいだろうと代わった徳久だったが、これ以上は言葉が出なかった。
「いいの、ありがとう。主人は、堀松三明は運転士としての本分を果たし、翌朝、旅立ちました。過労と診断されましたが、天国行きの電車に乗ったんだって、私はそう思っています」
一時は危惧されたが、海線と丘線をつなぐ計画は一気に具体化した。国鉄を跨ぐ橋の工事が始まり、一年後の完成を見る。
「泣いてばかりもいられませんから、主人を継いで運転士になることを決意したのです。つながってしばらくして、晴れて運転士になりました。三十年前ですかね」
七見とすずは、目を赤くしながらも、じっと佐良を見ている。当時はお互い励まし合ったものだ。その時と同じ眼差しである。
「その頃は夢中でした。主人だったら、どう運転したんだろうとか、ふと思ったりもしましたが、ハンドル握ってるともうそれだけ。モータリゼーションだ何だってのも気にしてませんでした。海線の方々を中心に存続運動をやってもらっていたこともあって、安穏としてたんですね。ところが、役場の方でまず出てきたのが、安全確保のために道路を、であり、市街地を走る電車は危険、であり、とにかく廃止の方向性がハッキリしてきてしまった。住民を救った電車、路面と言っても一キロメートル程度だった電車、それが邪魔者扱いです。小浦助役は食い下がったんですが、逆に失脚することになってしまって……そのうちバスにお客を取られ、繊維工場の閉鎖で通勤客も大幅に減って、という始末です。この頃には三ッ口も志賀も力を合わせるようになって、集客や陳情に奔走したもんです。それでも駄目でした。大雨が続いた八月の終わり、線路が何箇所かで陥没してしまって、とうとう立ち行かなくなったんです」
佐良は目を閉じ、ひと呼吸入れる。最後に走らせた日のことが不思議と鮮明に思い出される。
「運転士生活は五年と短めでしたが、皆さんに支えられて、いい仕事をさせてもらいました。お世話になった方々にはここで改めて御礼申し上げます。ありがとうございました」
静かだった会場は一転して大きな拍手で満たされた。佐良は一息入れ、話を再開する。
「父が見栄張って立派な駅舎にしておいてくれたおかげで丸町駅はそのまま残りました。そして記念館として再出発できたことで、私も救われました。でも他は、一部の構造物を除いてほぼ撤去され、海線・丘線ともに過去のものになりました。そして廃線後の数年間で三ッ口も志賀も相次いでこの世を去りました。もう二十何年かが経ちます」
さまざまな想いがこみ上げるも、感傷に浸るつもりはない。佐良は毅然とした口調で話を転じた。
「小浦助役は先を見越していたそうです。海線丘線は必ずまた必要になる、だからせめて休止ではどうか、と。さぞご無念だったでしょう。ですが、血は争えません。ご子息が見事、ライトレールをとりまとめ、明日遂に第二の開業を迎えることになったんですから。ほら、七見ちゃん、二人ともそうそう」
小浦夫妻が一礼すると、再び拍手が沸き起こる。佐良は頃合を計って、まとめに入った。
「復活の話を聞いた当初は、いろいろと疑問もありました。また走り出せば本当に何かが変わるのか、そしてそれは皆さんの本望なのか、丸町と港が電車でつながることの意味は何なのか……昔、考えていたことの一つに、閉ざされることで守られるものがあるとするなら、開かれることで発展するものもあるだろう、というのがありました。海線と丘線がつながった時にそれを確かめたかったのですが、よくわからないうちに廃止になってしまった。でも今、これだけは言えます。つながることで地域は活発になる、魅力が増し、人をひきつける、と。皆さんが地域の魅力に気付いてもらえれば、決して廃れない。外からいろいろな要素が入ってきても流されることはない。電車もずっと走り続けることでしょう。主人も子供もいないけど、私には皆さんがいる、そう思って今日まで生きてきました。これからも丘海ライトレールともども、よろしくお願いしますね」
御礼の一言を発する手前で、割れんばかりの拍手が起こった。佐良は心の中で礼を述べつつ、深々と頭を垂れた。そして、残響が消えるまで面を上げることはなかった。
「ひと休みしたら、出発ね」
「すみません、立て続けに」
「やぁね。今日の催しはずっと楽しみにしてたんだから」
まだ余韻の中にいる庄はどこか心許ない。だが、案ずべきは佐良の方だった。
「ま、眩しい……」
暗いところから明るいところに出たその時のことである。足がふらつき、節々も急に痛み出した。
周りにいた何人かの助けを借り、佐良は何とか歩く。会社の車が近くにあったおかげで事なきを得たが、そのまま病院へ向かうことは断固として拒んだ。
「運転席に座ればあとは平気よ。医者は列車を動かしてからだっていいでしょ?」
港公園から先、レールパークの専用線までの旧式運転セレモニーはこうして予定通り行われることになった。佐良は席に着くと、風呂敷を広げ、かつて自身が使っていた鞄や制帽を取り出す。時計を改めて台にセットし、手袋を着用する。最後に窓枠にあるものを立てかけた。
「おさよさん、それは」
「覚えてるでしょ。主人よ。今日はちゃんと見ててもらわないと」
「たく、人をどこまで泣かせるつもりだい」
徳久はその遺影に合掌すると、いつもの調子で話し始めた。
「短い距離かも知れないが、これは俺達の願いでもあったんだ。もう一度、あの女性運転士の電車に乗ってみたいってな」
「電車を見切っちゃったのって、当時の男どもじゃなかったかしら?」
「そのお詫びもあっての復活さ。みんな年取ってきて、電車のありがたみがわかってきた、って言ったら怒られるかなぁ」
「じゃ、あとで先代のところに行きますか。お詫び方々ご報告」
招待客は全員乗り込んだ。庄が声をかける。
「それじゃ、佐良さん、くれぐれも無理のないよう。停車位置は走っていればわかると思います。制限十です」
「了解。出発進行」
歓声が上がると、ふと現役の頃を思い出してしまう。いつしか涙が出てきて、視界がぼやけてきた。『海線のその先……夢じゃないのね』
港は青々としながらも、昼下がりの陽光を集めて煌いている。目が潤っているおかげで幾分眩しさが抑えられているが、やはり堪える。手元も震えてきた。それでも佐良は気力を振り絞るようにして運転を続けた。
車止標識が目に入ったのは、ちょうど涙が乾いた頃だった。
「あ、そこまでね。減速」
モハは静かに停車した。佐良はハンドルに手を置いたまま目を瞑る。
「おつかれ様でした。さ、佐良さん?」
車内から人影が消え、懐かしい声が耳に入る。
「おい、佐良、何で停まってるんだ?」
「あら、いつの間に?」
佐良が目を開けると、車止はなく、線路が続いていた。
「ほら、まだ先があるだろ? 進行!」
「海岸まで電車で行ければいいって、貴方そんなこと言ってたわね」
「じゃ一緒に行くか」
「えぇ、でもハンドルは任せるわ」
枕木も線路も夏草が覆っているが、モハはかつてのように力強く、心地よい音を響かせて快走する。
「運転してる時の貴方ってやっぱり素適ね」
「あの時も一目ぼれだったもんな」
「お互い様でしょ」
昔の漁師町を思わせる家屋が建ち並ぶ。その間を縫うように線路は延びていく。やがて二人で時々訪れた海辺が見えてきた。
「海の先に線路? 不思議な景色ね」
「ここから先は宙を走る」
「海線じゃなくて空線ね」
警鈴が鳴り、大空に響く。晴天の空は海以上に青かった。
「じゃ、佐良さん、こちらへ」
「あら、倉庫かと思ったら、ホールになってたのね」
会場に向かう佐良の足取りはしっかりしていた。ただ、時にぎこちなく、呼吸が調わない様子が窺えた。
「あ、あぶないっ」
「大丈夫、昨日気張ったせいよ。今日はお話しするだけだし、車両動かすのも数百メートルでしょ」
運転士諸氏との顔合わせをしたり、記念撮影をしたり、言われるままに動いているうちに客席が埋まってきた。庄の車で、舞、河南、そしてすずも駆けつけた。協議会メンバーは全員が揃った。来賓の簡単な挨拶の後、プレイベントの一、『海線丘線の頃』は始まった。
「何から話しましょうかね。昔々あるところに、海線と丘線……あの正式名称で呼ぶとまどろっこしいので、通称で言いますね」
一部から笑い声が漏れる。佐良はここから一気呵成に話す。
「昔と言っても、せいぜい私が物心ついた辺りからですね。創業から戦前・戦中の話は記念館で。いや、今日はパネルをいくつか持ってきてますので、あとでご覧ください。年表はお配りした通りです。とにかく私の記憶にあるのは戦後間もなくの頃。当時は海のもの、田畑のものを担いで行き来する人、人で大賑わいでした。私なんか乗りたくてもまず乗れません。親が経営者なのに何で?と子供ながらに悔しい思いをしたものです。つながればもっと人が増え、地域も一層発展するだろうと言われてましたが、丘線と海線はずっと別々のままでした。これには、父、三ッ口助信と海線の大親分、志賀直海氏が昔から仲が悪かったから、という沿線の皆さんには本当にご迷惑様な理由があったからです」
窓の少ないホールは暗く、照明も控えめだったので、佐良にとってはいい塩梅だった。マイクを通した声がよく響くのがまた心地よかった。
「父はどちらかと言うと伝統を重んじるというか、剛健、いや強情なところがあった。方や志賀の親分さんは強面ながら大らかと言いましょうか、気さくな感じの人でした。気が合わないのはわからないでもない。ただ、お客さんに対する心意気は共通するものがあった。だから逆に張り合ってたのかも知れません。ちなみに、協議会の若杉会長は志賀家のご親戚?でいいのかしら、つまり海線の一派になります。昔だったら私とは張り合う間柄だった訳ですが、今は海も丘もありません。時代が変わった、いえ、この方が時代を変えたと言っていいでしょう」
徳久は複雑な表情で話を聞いていたが、とりあえず席を立って、頭を下げた。思いがけず拍手が起こり、さらに頭を下げる。佐良は続ける。
「さて、若かりし頃の若杉さんも何かしら働きかけてたとは思いますが、海線と丘線を何とか取り持とうとされていたのが、当時の役場の助役、小浦先生です。経済成長を見越して、早くから町全体のデザインを考えてらして、一九六〇年以降、随分と腐心されたそうです。ところが、これがなかなかうまくいきません。ハイカラとバンカラと言いましょうか、戦前からの文化の違いみたいなのもあって、折り合いがつかなかったんです。それを後目に私は会社の事務を手伝ったり、丸町駅の駅務をしたり、家事をしたり、いそがしいのにかまけてこれといったことはせず、電車にもあまり乗りませんでした。今思えば出無精でしたね」
聴衆は百数十人はいるようだ。時折起こるざわめきが適度に反響するので、実際以上の客がいるように感じられる。再びホールが静まるのを待って、佐良はこう続ける。
「ある夏の日、中社のお祭りに行こうとしていた迷える兄と妹が駅に来ました。親御さんとは現地で待ち合わせだと言います。ですが、二人はこっちに来たばかり。可愛い子には旅を、のつもりなんでしょうけど、試練ですよね。で、私が送って差し上げることにしたんです。父の手前、あまり海線には乗らないようにしてたんですが、その時に親切な運転士さんと出逢った……」
小声で河南が尋ねる。
「あの話、本当だったんだ」
「まぁ、聞いてなさいって」
舞はにこやかに応じた。
「乗車証があるばかりにうっかり財布を置いてきてしまって、海線に乗るお金がなかったんです。でも事情を話したら、無料でいいです。しかも『丘線のお嬢さんですよね』と言うんです。参りました」
気持ちを抑えるようにしながらも佐良は滔々と語る。
「特に用もないのに、海線の駅に行っては、お目当ての運転士さんが来るまで待ったものです。そのうちいろいろと話すようになって……」
出逢って半年ほどで求婚されるも、結婚までの道程は長かった。
「何せ不仲の海線の運転士ですからね。父は認めてくれません。それに私は一人娘。姓が変わるのを嫌がったんです。でも三明さんが三ッ口の姓だと三流みたいでしょ? 押し切って堀松に嫁ぐことにしました。四十年前のことです」
二人の結婚が呼び水になるかと期待されたが、相変わらず両線がつながることはなく時は過ぎた。それでも二人は仲睦まじく暮らした。住まいは徳矢と匠の間だった。
「主人は丘線で通いながら、運転士と親睦を深めたり、時には助言をしたり。それが功を奏したようで、やっと機運が高まったんです。ところが」
この年、何十年に一度かという台風が沿岸を襲った。道路がまだ発達していなかった当時、特に港地区の住民は敢然と波風と闘うのを是としていたが、その時ばかりはさすがに避難するしかなかったと言う。
「運転士有志で発起して、電車を走らせたんです。荒波が押し寄せる前に、逃げ場がなくなる前に、港町の人たちを少しでも多く金原の方に移そうと。線路が水浸しになっても動く限り往復しようと。その夜、ずぶ濡れになって帰ってきた主人は、多くを語りはしませんでしたが、いつになくいい顔、いい笑顔をしてました。今でもハッキリ覚えています」
居ても立ってもいられなかった徳久はここで前に出て、マイクを手にする。
「皆さん、その時に救われた一人が、この私です。あの時本当に堀松さんに助けてもらわなかったら、でもな、うぅ……」
佐良の口からは話しにくいだろうと代わった徳久だったが、これ以上は言葉が出なかった。
「いいの、ありがとう。主人は、堀松三明は運転士としての本分を果たし、翌朝、旅立ちました。過労と診断されましたが、天国行きの電車に乗ったんだって、私はそう思っています」
一時は危惧されたが、海線と丘線をつなぐ計画は一気に具体化した。国鉄を跨ぐ橋の工事が始まり、一年後の完成を見る。
「泣いてばかりもいられませんから、主人を継いで運転士になることを決意したのです。つながってしばらくして、晴れて運転士になりました。三十年前ですかね」
七見とすずは、目を赤くしながらも、じっと佐良を見ている。当時はお互い励まし合ったものだ。その時と同じ眼差しである。
「その頃は夢中でした。主人だったら、どう運転したんだろうとか、ふと思ったりもしましたが、ハンドル握ってるともうそれだけ。モータリゼーションだ何だってのも気にしてませんでした。海線の方々を中心に存続運動をやってもらっていたこともあって、安穏としてたんですね。ところが、役場の方でまず出てきたのが、安全確保のために道路を、であり、市街地を走る電車は危険、であり、とにかく廃止の方向性がハッキリしてきてしまった。住民を救った電車、路面と言っても一キロメートル程度だった電車、それが邪魔者扱いです。小浦助役は食い下がったんですが、逆に失脚することになってしまって……そのうちバスにお客を取られ、繊維工場の閉鎖で通勤客も大幅に減って、という始末です。この頃には三ッ口も志賀も力を合わせるようになって、集客や陳情に奔走したもんです。それでも駄目でした。大雨が続いた八月の終わり、線路が何箇所かで陥没してしまって、とうとう立ち行かなくなったんです」
佐良は目を閉じ、ひと呼吸入れる。最後に走らせた日のことが不思議と鮮明に思い出される。
「運転士生活は五年と短めでしたが、皆さんに支えられて、いい仕事をさせてもらいました。お世話になった方々にはここで改めて御礼申し上げます。ありがとうございました」
静かだった会場は一転して大きな拍手で満たされた。佐良は一息入れ、話を再開する。
「父が見栄張って立派な駅舎にしておいてくれたおかげで丸町駅はそのまま残りました。そして記念館として再出発できたことで、私も救われました。でも他は、一部の構造物を除いてほぼ撤去され、海線・丘線ともに過去のものになりました。そして廃線後の数年間で三ッ口も志賀も相次いでこの世を去りました。もう二十何年かが経ちます」
さまざまな想いがこみ上げるも、感傷に浸るつもりはない。佐良は毅然とした口調で話を転じた。
「小浦助役は先を見越していたそうです。海線丘線は必ずまた必要になる、だからせめて休止ではどうか、と。さぞご無念だったでしょう。ですが、血は争えません。ご子息が見事、ライトレールをとりまとめ、明日遂に第二の開業を迎えることになったんですから。ほら、七見ちゃん、二人ともそうそう」
小浦夫妻が一礼すると、再び拍手が沸き起こる。佐良は頃合を計って、まとめに入った。
「復活の話を聞いた当初は、いろいろと疑問もありました。また走り出せば本当に何かが変わるのか、そしてそれは皆さんの本望なのか、丸町と港が電車でつながることの意味は何なのか……昔、考えていたことの一つに、閉ざされることで守られるものがあるとするなら、開かれることで発展するものもあるだろう、というのがありました。海線と丘線がつながった時にそれを確かめたかったのですが、よくわからないうちに廃止になってしまった。でも今、これだけは言えます。つながることで地域は活発になる、魅力が増し、人をひきつける、と。皆さんが地域の魅力に気付いてもらえれば、決して廃れない。外からいろいろな要素が入ってきても流されることはない。電車もずっと走り続けることでしょう。主人も子供もいないけど、私には皆さんがいる、そう思って今日まで生きてきました。これからも丘海ライトレールともども、よろしくお願いしますね」
御礼の一言を発する手前で、割れんばかりの拍手が起こった。佐良は心の中で礼を述べつつ、深々と頭を垂れた。そして、残響が消えるまで面を上げることはなかった。
「ひと休みしたら、出発ね」
「すみません、立て続けに」
「やぁね。今日の催しはずっと楽しみにしてたんだから」
まだ余韻の中にいる庄はどこか心許ない。だが、案ずべきは佐良の方だった。
「ま、眩しい……」
暗いところから明るいところに出たその時のことである。足がふらつき、節々も急に痛み出した。
周りにいた何人かの助けを借り、佐良は何とか歩く。会社の車が近くにあったおかげで事なきを得たが、そのまま病院へ向かうことは断固として拒んだ。
「運転席に座ればあとは平気よ。医者は列車を動かしてからだっていいでしょ?」
港公園から先、レールパークの専用線までの旧式運転セレモニーはこうして予定通り行われることになった。佐良は席に着くと、風呂敷を広げ、かつて自身が使っていた鞄や制帽を取り出す。時計を改めて台にセットし、手袋を着用する。最後に窓枠にあるものを立てかけた。
「おさよさん、それは」
「覚えてるでしょ。主人よ。今日はちゃんと見ててもらわないと」
「たく、人をどこまで泣かせるつもりだい」
徳久はその遺影に合掌すると、いつもの調子で話し始めた。
「短い距離かも知れないが、これは俺達の願いでもあったんだ。もう一度、あの女性運転士の電車に乗ってみたいってな」
「電車を見切っちゃったのって、当時の男どもじゃなかったかしら?」
「そのお詫びもあっての復活さ。みんな年取ってきて、電車のありがたみがわかってきた、って言ったら怒られるかなぁ」
「じゃ、あとで先代のところに行きますか。お詫び方々ご報告」
招待客は全員乗り込んだ。庄が声をかける。
「それじゃ、佐良さん、くれぐれも無理のないよう。停車位置は走っていればわかると思います。制限十です」
「了解。出発進行」
歓声が上がると、ふと現役の頃を思い出してしまう。いつしか涙が出てきて、視界がぼやけてきた。『海線のその先……夢じゃないのね』
港は青々としながらも、昼下がりの陽光を集めて煌いている。目が潤っているおかげで幾分眩しさが抑えられているが、やはり堪える。手元も震えてきた。それでも佐良は気力を振り絞るようにして運転を続けた。
車止標識が目に入ったのは、ちょうど涙が乾いた頃だった。
「あ、そこまでね。減速」
モハは静かに停車した。佐良はハンドルに手を置いたまま目を瞑る。
「おつかれ様でした。さ、佐良さん?」
車内から人影が消え、懐かしい声が耳に入る。
「おい、佐良、何で停まってるんだ?」
「あら、いつの間に?」
佐良が目を開けると、車止はなく、線路が続いていた。
「ほら、まだ先があるだろ? 進行!」
「海岸まで電車で行ければいいって、貴方そんなこと言ってたわね」
「じゃ一緒に行くか」
「えぇ、でもハンドルは任せるわ」
枕木も線路も夏草が覆っているが、モハはかつてのように力強く、心地よい音を響かせて快走する。
「運転してる時の貴方ってやっぱり素適ね」
「あの時も一目ぼれだったもんな」
「お互い様でしょ」
昔の漁師町を思わせる家屋が建ち並ぶ。その間を縫うように線路は延びていく。やがて二人で時々訪れた海辺が見えてきた。
「海の先に線路? 不思議な景色ね」
「ここから先は宙を走る」
「海線じゃなくて空線ね」
警鈴が鳴り、大空に響く。晴天の空は海以上に青かった。
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