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第1章 穀雨
1.二度目の引越し
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引っ越しを決意した。
この春大学生になった僕、河西一郎は不動産屋に勧められるまま大学近くの学生向けアパートを借り、念願の一人暮らしを始めた。
はずだった。
が。
右隣は毎晩酒盛り宴会、左隣は痴話喧嘩の嵐。部屋の窓から見える大家の敷地では、しばしば親子が乱闘している。
この先四年も我慢できるか。いや無理だ。
四月末にして、二度目の引っ越しを即決した。
周囲のいさかいが絶えないのも気分が滅入るのも、日当たりが悪くてジメジメ、カビカビした環境のせいに違いない。僕には日光が必要だったのだ。
「日当たり良好で格安っていうのはなかなかねえ。しかも新年度が始まったばかりの今は空きが少ないから……」
不動産屋のおばさんが申し訳なさそうに言う。
「……ですよねえ。お手数かけてすみません」
勢いで新居探しを始めたものの、この時期に優良物件を期待するのが間違いだろう。わかってはいた。けれども、のんびり待てるほど僕の神経は図太くないんだよ。
客は僕の他に誰もいない。カチャカチャと、キーボードを叩く音だけが響いている。
古いパソコンで検索をかけてくれていた不動産屋の手が止まった。
「ああ、借家でも構わなければ一件ありましたよ」
借家? ホントに?
家は、幹線道路から少し奥まった、路地の入り組んだ住宅地に建っていた。同じつくりの借家が五棟並んでいて、道を挟んだ先に大家さんの大豪邸がある。
敷地は青緑色の波板みたいな囲いで区切られ、外からは覗けない。
トタン屋根の平屋は十二分に古いが、二部屋と台所、風呂トイレ付きで申し分ない。
しかも縁側まである。ひさしのついた縁側だ。畳部屋に直接出入りできて開放感がある。昔っぽさがいい感じだ。
なにより驚いたのは、庭が建物面積の倍以上もあることだ。
これで家賃がアパートと同じくらいだというから、もう奇跡だろう。
「入学早々何やっているのよ」
息子のわがままにあきれつつ引っ越しを手伝ってくれた母は、片づけの合間に縁側でお茶を飲んでいる。
自分でも何をやっているのかとあきれるが、引っ越した甲斐はあった。
「前の借主さん、ガーデニングが趣味だったのかしらね。花壇の花が本当にきれい。ああ、でもあんたがすぐダメにしそうで可哀想だわ」
僕も縁側に座って庭を眺めた。
確かに、春っぽい黄色やピンクの花がたくさん咲いている。
花の名前は知らない。僕にそんな知識はない。ただ、前の住人が大切にしていたことは感じる。しばらく空き家だったと聞いていたけれど、ずいぶんときれいだ。
「こんなにしっかり手入れをしてあるのに、さすがに庭を持って引っ越しはできないものな……」
「置いていくって、心が残るわね。まあ、どこかで気持ちを切り替えたんでしょうけれど」
母をバス停まで送って家に戻ると、もう日が暮れかけていた。近くに街灯がないせいか、急に心細さが募る。
夜は寂しいな。
カササ……
風が吹き抜けて花壇の花が揺れる。その花の前に、ふと黒い影が見えた。
人影?
「……誰?」
僕は恐る恐る声を出した。
返事はない。動く気配もない。
よくわからないが、何かいる。いや、大きさからいって誰かだ。
脇道を通り過ぎたスクーターのヘッドライトが、一瞬影を照らした。
女の子だ。
中学生くらいだろうか。おかっぱ頭に黒いワンピースの、どこか古風な印象の少女が僕を見る。
黒目がちの整った顔は、ぞっとするほどきれいだった。黒衣は闇よりも暗く、まるで喪服のようだ。
僕は足がすくんで動けなくなった。
「誰?」
今度は少女が訊いてきた。
抑揚のない、そよ風のような声だ。
薄闇に目が慣れてきて、少女がじっと見つめてきているのがわかった。目を逸らすのも怖かった。
少女は静かな微笑みを浮かべた。
「新しい家主さんですか。今日からお住まいでしょうか」
声が出ない……。
僕はうなずくのがやっとだった。
「では、これからどうぞよろしくお願い申し上げます」
深くお辞儀をした少女に、僕もつられてお辞儀をする。
そうして顔を上げると、少女は消えていた。
「あれ?」
気配すらない。
こんな暗がりで女の子が不法侵入?
敷地のすぐ外の道にも姿はない。
混乱する頭を思い切り振って、とにかく考えた。
幽霊は、まずありえない。僕はそんなものを見たことがないからだ。
会ったら怖いから、考えない。家に憑いているなんて論外だ。
可能性があるとすれば大家さんの孫か。温厚そうな爺さんになら、あんな美少女の孫がいても絶対おかしくないはずだ。新しい住人をふらっと見に来たのかもしれない。それなら安心だ。
とりあえず納得したことにする。
明日、大家さんに孫のことを確認しよう。日曜日だから、ひょっとしたら直接あの子に会えるかもしれない。
僕は勝手にそうと決めて、今夜を乗り切ることにした。
この春大学生になった僕、河西一郎は不動産屋に勧められるまま大学近くの学生向けアパートを借り、念願の一人暮らしを始めた。
はずだった。
が。
右隣は毎晩酒盛り宴会、左隣は痴話喧嘩の嵐。部屋の窓から見える大家の敷地では、しばしば親子が乱闘している。
この先四年も我慢できるか。いや無理だ。
四月末にして、二度目の引っ越しを即決した。
周囲のいさかいが絶えないのも気分が滅入るのも、日当たりが悪くてジメジメ、カビカビした環境のせいに違いない。僕には日光が必要だったのだ。
「日当たり良好で格安っていうのはなかなかねえ。しかも新年度が始まったばかりの今は空きが少ないから……」
不動産屋のおばさんが申し訳なさそうに言う。
「……ですよねえ。お手数かけてすみません」
勢いで新居探しを始めたものの、この時期に優良物件を期待するのが間違いだろう。わかってはいた。けれども、のんびり待てるほど僕の神経は図太くないんだよ。
客は僕の他に誰もいない。カチャカチャと、キーボードを叩く音だけが響いている。
古いパソコンで検索をかけてくれていた不動産屋の手が止まった。
「ああ、借家でも構わなければ一件ありましたよ」
借家? ホントに?
家は、幹線道路から少し奥まった、路地の入り組んだ住宅地に建っていた。同じつくりの借家が五棟並んでいて、道を挟んだ先に大家さんの大豪邸がある。
敷地は青緑色の波板みたいな囲いで区切られ、外からは覗けない。
トタン屋根の平屋は十二分に古いが、二部屋と台所、風呂トイレ付きで申し分ない。
しかも縁側まである。ひさしのついた縁側だ。畳部屋に直接出入りできて開放感がある。昔っぽさがいい感じだ。
なにより驚いたのは、庭が建物面積の倍以上もあることだ。
これで家賃がアパートと同じくらいだというから、もう奇跡だろう。
「入学早々何やっているのよ」
息子のわがままにあきれつつ引っ越しを手伝ってくれた母は、片づけの合間に縁側でお茶を飲んでいる。
自分でも何をやっているのかとあきれるが、引っ越した甲斐はあった。
「前の借主さん、ガーデニングが趣味だったのかしらね。花壇の花が本当にきれい。ああ、でもあんたがすぐダメにしそうで可哀想だわ」
僕も縁側に座って庭を眺めた。
確かに、春っぽい黄色やピンクの花がたくさん咲いている。
花の名前は知らない。僕にそんな知識はない。ただ、前の住人が大切にしていたことは感じる。しばらく空き家だったと聞いていたけれど、ずいぶんときれいだ。
「こんなにしっかり手入れをしてあるのに、さすがに庭を持って引っ越しはできないものな……」
「置いていくって、心が残るわね。まあ、どこかで気持ちを切り替えたんでしょうけれど」
母をバス停まで送って家に戻ると、もう日が暮れかけていた。近くに街灯がないせいか、急に心細さが募る。
夜は寂しいな。
カササ……
風が吹き抜けて花壇の花が揺れる。その花の前に、ふと黒い影が見えた。
人影?
「……誰?」
僕は恐る恐る声を出した。
返事はない。動く気配もない。
よくわからないが、何かいる。いや、大きさからいって誰かだ。
脇道を通り過ぎたスクーターのヘッドライトが、一瞬影を照らした。
女の子だ。
中学生くらいだろうか。おかっぱ頭に黒いワンピースの、どこか古風な印象の少女が僕を見る。
黒目がちの整った顔は、ぞっとするほどきれいだった。黒衣は闇よりも暗く、まるで喪服のようだ。
僕は足がすくんで動けなくなった。
「誰?」
今度は少女が訊いてきた。
抑揚のない、そよ風のような声だ。
薄闇に目が慣れてきて、少女がじっと見つめてきているのがわかった。目を逸らすのも怖かった。
少女は静かな微笑みを浮かべた。
「新しい家主さんですか。今日からお住まいでしょうか」
声が出ない……。
僕はうなずくのがやっとだった。
「では、これからどうぞよろしくお願い申し上げます」
深くお辞儀をした少女に、僕もつられてお辞儀をする。
そうして顔を上げると、少女は消えていた。
「あれ?」
気配すらない。
こんな暗がりで女の子が不法侵入?
敷地のすぐ外の道にも姿はない。
混乱する頭を思い切り振って、とにかく考えた。
幽霊は、まずありえない。僕はそんなものを見たことがないからだ。
会ったら怖いから、考えない。家に憑いているなんて論外だ。
可能性があるとすれば大家さんの孫か。温厚そうな爺さんになら、あんな美少女の孫がいても絶対おかしくないはずだ。新しい住人をふらっと見に来たのかもしれない。それなら安心だ。
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明日、大家さんに孫のことを確認しよう。日曜日だから、ひょっとしたら直接あの子に会えるかもしれない。
僕は勝手にそうと決めて、今夜を乗り切ることにした。
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