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第3章 芒種
23.夜更けに(一)
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眠れない。
目が冴えて、全く眠くならない。
今日はあまりにも色々あり過ぎた。
花壇の花、キク、そして誠。
全てがこの家で起こった、僕にとって現実味のない事実だ。
キクとフリージアたちは全くの別件なんだよな。偶然なのか? 誠の念が強過ぎて、後から入居した住人は条件がたまたま重なって誘発されたとしか思えないな。
もしここで僕が誠のように何か思いつめることがあったら、やっぱり何か出てくるのかな。怖いな。
僕が住むこの借家に、かつて誠は住んでいた。ひとりきりの夜中に、死を覚悟した子供……。
怖いな。僕だったらどうしよう。
僕は、自分が年を取って爺さんになったらいつか死ぬだろうくらいにしか考えたことがなかった。
きっと誠は常に死を意識している。深く沈んだ誠の心から生まれたキクが、今もなお存在し続けているのだから。
カーテンを少し開けて窓の外を見た。庭の隅にキクがいた。
僕は玄関のサンダルをつかむと、窓を開けて縁側から外に出た。満月を少し過ぎた月が、頭上から庭を照らしている。
キクはひっそりとたたずんでいた。夜の闇よりも黒いワンピースは、やはり喪服なのだろうか。
「こんばんは」
「こんばんは。いつもイチロウさんはお休みです」
「ん? ああ、いつもは寝ている時間だね。今日はなんだか眠れなくて。夜は草の匂いが強いね。ちょっと落ち着く」
僕は庭の真ん中で深呼吸をしてみた。草の味までわかりそうな濃い空気が肺と心に広がる。
風が庭を抜ける音がする。どこからか蛙の声も聞こえてくる。
「イチロウさんは落ち着かないのですか」
キクが僕の横に来て訊いた。
「それでしたら、菊の葉が良いです。菊の香りは人間の精神を安定させます。葉を摘むと良い香りがします。どうぞお使いください」
「え? いいの? 摘んで大丈夫なの?」
「植物は痛みません。人間の髪と同じです、と聞きました」
キクは手を伸ばすと、僕の頬に優しく触れた。そのままこめかみのあたりに指を滑らせる。
黒く大きな瞳で見つめられてぞくりとした瞬間、激痛が走った。
「イタタタッ! 髪引っ張っちゃダメだって!」
「違いましたか?」
「違わないけど違うっ。ハサミで切る時は痛くないけど、引き抜いたら頭の方は痛いの。すぐには抜けないんだよっ」
髪をまとめて掴まれるより数本引っ張られる方がかなり痛い。キクに迫られドキドキした分と合わせて、かなり鼓動が速くなっていた。
「ごめんなさい」
「いや、痛いけど平気平気。そう、キクちゃんは俺を触れるんだよね」
「イチロウさんは同じ世界にいる別の存在です」
「同じ世界で別?」
キクの禅問答。
「なら他の人間は?」
「別の世界にいる別の存在です」
「むー……難しい。マコちゃんは?」
「同じ世界にいる同じ存在です」
「わかるようなわからないような……。ごめん、後で頑張って考える」
「そうですか。では」
キクは、今度はそっと僕の指先をつかんだ。またぞくりとして反射的に手が震えたが、キクは気にすることなく僕を菊の前まで導いた。
「一番新しい葉は特に強く香ります。茎の先の、一番上の部分を摘んで下さい」
「えーと。これ、だね。わあ、本当だ。いい匂い。これは落ち着くね」
キクは僕が葉を摘み取っていくのを見守るよう微笑んでいる。
「これかな。これも。これも」
「それはヨモギです」
急に厳しい声で指摘され、僕はキクを見た。
「えっ、ごめん。でもこっちもいい匂い……かな? なんて。でもない? よね。……ごめん」
キクが一瞬ムッとしたような表情になった。明らかに不機嫌だった。
そんな気がして、あまりの可愛さに焦ってしまった。
キクに自分の感情があるのではないか。そう感じたのは今だけではない。
植物の意識でもなく、誠の念を反映したものでもない、キク個人としての感情だ。
僕はキクに触ることができるから、余計にそう思ってしまうのだろうか。
「さてと。これだけあったら、もう秒で寝られそう。……でもどうしよう」
着ているスウェットの裾を袋代わりにして、両手で持てないほどの量になっていた葉を抱えて縁側に戻った僕は、困ってしまった。
家の中に葉を持ち込むのは怖い。相手がキクでも、やはり家の中に現れることには抵抗があった。
「葉を縁側に置いて窓を少しだけ開けておけば、香りが入るのではないでしょうか」
「そうだね。ありがとうキクちゃん」
キクは優しく微笑んでいた。
窓際に布団を寄せて寝ると、菊の香りが混じったひんやりとした風が入ってきた。
気持ちいい。
一、二度深呼吸すると、僕はもう眠りに落ちていた。
目が冴えて、全く眠くならない。
今日はあまりにも色々あり過ぎた。
花壇の花、キク、そして誠。
全てがこの家で起こった、僕にとって現実味のない事実だ。
キクとフリージアたちは全くの別件なんだよな。偶然なのか? 誠の念が強過ぎて、後から入居した住人は条件がたまたま重なって誘発されたとしか思えないな。
もしここで僕が誠のように何か思いつめることがあったら、やっぱり何か出てくるのかな。怖いな。
僕が住むこの借家に、かつて誠は住んでいた。ひとりきりの夜中に、死を覚悟した子供……。
怖いな。僕だったらどうしよう。
僕は、自分が年を取って爺さんになったらいつか死ぬだろうくらいにしか考えたことがなかった。
きっと誠は常に死を意識している。深く沈んだ誠の心から生まれたキクが、今もなお存在し続けているのだから。
カーテンを少し開けて窓の外を見た。庭の隅にキクがいた。
僕は玄関のサンダルをつかむと、窓を開けて縁側から外に出た。満月を少し過ぎた月が、頭上から庭を照らしている。
キクはひっそりとたたずんでいた。夜の闇よりも黒いワンピースは、やはり喪服なのだろうか。
「こんばんは」
「こんばんは。いつもイチロウさんはお休みです」
「ん? ああ、いつもは寝ている時間だね。今日はなんだか眠れなくて。夜は草の匂いが強いね。ちょっと落ち着く」
僕は庭の真ん中で深呼吸をしてみた。草の味までわかりそうな濃い空気が肺と心に広がる。
風が庭を抜ける音がする。どこからか蛙の声も聞こえてくる。
「イチロウさんは落ち着かないのですか」
キクが僕の横に来て訊いた。
「それでしたら、菊の葉が良いです。菊の香りは人間の精神を安定させます。葉を摘むと良い香りがします。どうぞお使いください」
「え? いいの? 摘んで大丈夫なの?」
「植物は痛みません。人間の髪と同じです、と聞きました」
キクは手を伸ばすと、僕の頬に優しく触れた。そのままこめかみのあたりに指を滑らせる。
黒く大きな瞳で見つめられてぞくりとした瞬間、激痛が走った。
「イタタタッ! 髪引っ張っちゃダメだって!」
「違いましたか?」
「違わないけど違うっ。ハサミで切る時は痛くないけど、引き抜いたら頭の方は痛いの。すぐには抜けないんだよっ」
髪をまとめて掴まれるより数本引っ張られる方がかなり痛い。キクに迫られドキドキした分と合わせて、かなり鼓動が速くなっていた。
「ごめんなさい」
「いや、痛いけど平気平気。そう、キクちゃんは俺を触れるんだよね」
「イチロウさんは同じ世界にいる別の存在です」
「同じ世界で別?」
キクの禅問答。
「なら他の人間は?」
「別の世界にいる別の存在です」
「むー……難しい。マコちゃんは?」
「同じ世界にいる同じ存在です」
「わかるようなわからないような……。ごめん、後で頑張って考える」
「そうですか。では」
キクは、今度はそっと僕の指先をつかんだ。またぞくりとして反射的に手が震えたが、キクは気にすることなく僕を菊の前まで導いた。
「一番新しい葉は特に強く香ります。茎の先の、一番上の部分を摘んで下さい」
「えーと。これ、だね。わあ、本当だ。いい匂い。これは落ち着くね」
キクは僕が葉を摘み取っていくのを見守るよう微笑んでいる。
「これかな。これも。これも」
「それはヨモギです」
急に厳しい声で指摘され、僕はキクを見た。
「えっ、ごめん。でもこっちもいい匂い……かな? なんて。でもない? よね。……ごめん」
キクが一瞬ムッとしたような表情になった。明らかに不機嫌だった。
そんな気がして、あまりの可愛さに焦ってしまった。
キクに自分の感情があるのではないか。そう感じたのは今だけではない。
植物の意識でもなく、誠の念を反映したものでもない、キク個人としての感情だ。
僕はキクに触ることができるから、余計にそう思ってしまうのだろうか。
「さてと。これだけあったら、もう秒で寝られそう。……でもどうしよう」
着ているスウェットの裾を袋代わりにして、両手で持てないほどの量になっていた葉を抱えて縁側に戻った僕は、困ってしまった。
家の中に葉を持ち込むのは怖い。相手がキクでも、やはり家の中に現れることには抵抗があった。
「葉を縁側に置いて窓を少しだけ開けておけば、香りが入るのではないでしょうか」
「そうだね。ありがとうキクちゃん」
キクは優しく微笑んでいた。
窓際に布団を寄せて寝ると、菊の香りが混じったひんやりとした風が入ってきた。
気持ちいい。
一、二度深呼吸すると、僕はもう眠りに落ちていた。
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