182年の人生

山碕田鶴

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1878ー1913 吉澤識

15-(3/3)

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 今、見知らぬ男の肉体をまとい、自分が再びこの世に在るのは事実だ。
 元の魂の気配はどこにもない。私がこの身体を乗っ取り、元の魂を追い出したと考えるのが妥当であろう。あの男は望み通りあの世へ旅立ったということだ。
 男の肉体と私の魂は繋がった。この身体はもう私自身なのだ。私はこの世で生きることができるはずなのだ。
 川岸に突っ伏したまま考える。どんな状況にも冷静であれ。不的確な判断は道を誤る。
 私は、吉澤識だった。だが識は死んだ。今からは、この男として生きていく。
 これまでだって吉澤識を演じてきたようなものではないか。
 私は何者だったのか。姿を見れば誰もが一目で私と認識するであろう。ところが内なる魂となると、いくら言葉を尽くしてもはっきりと捉えられるものではない。
 姿がそっくりであれば、人はそれだけで騙される。シキという魂の輪郭はこの男の形に変わったのだ。この男を演じるなど容易たやすいはずだ。

「社長ー!」
「小林社長、おられますかー?」

 複数の声が徐々に近づいて来る。
 ああ、この男を呼んでいるのだな。社長? 小林というのは経営者であったか。全くそうは見えなかったが。

「あっ、社長!」

 地に臥す私を見つけた若い男が、涙を浮かべて抱きついてきた。
 私は体が冷え切って動かない。黙ってされるがままだった。
 さらに男二人と駐在がやって来た。

「小林さん! あんたなんてことを……」
「社長、書き置きなんてやめて下さい! 心配したんです。生きていて本当に良かった」

 農夫らしき数人が来て手押し車に私を乗せると、すぐに全員で来た道を引き返した。
 皆が一様に安堵の表情を浮かべている。良かった良かったと、互いに言い合って肩を叩いている。
 小林社長と呼ばれるこの男は、ずいぶんと慕われている様子だ。書き置きを残してすぐに探しに来てもらえるとは。
 ……助けられたかったのだろうか。
 川のほとりで、本当は迎えを待っていたのだろうか。
 いや。これで良かったのだ。事情はわからぬが、最期に目が合った時の男の顔を思い出せ。
 諦めだ。後悔ではない。
 私が追い出した魂は、迷わずあの世へ向かったか。それとも、まだこの近くで様子を眺めているだろうか。
 私がそうであったように、きっと傍らにいるに違いない。自分の身に何が起きているのか飲み込めないままこの世を傍観しているであろう。
 ただし、私の時とは違って動く自分を見ているのだから、混乱はひとしおに違いない。お前は誰だと睨んでいるかもしれないな。
 私はまた当面監視つきの生活か。それもよかろう。
 おい、聞こえているか? 私はこれから貴方として、必ず良く生きてやる。貴方は何をすれば安心できる? この身体を引き受けたのだ。この世での貴方の責務は果たしたい。それで貴方への礼になるか? 私の隣にいるならば、答えよ。伝えよ。
 私の呟きに何を思ったか、若い男たちが次々と私の身体に触れては泣いた。

「大丈夫ですよ、社長。大丈夫。もう大丈夫ですよ」

 大丈夫、か。命は助かるということか。生きていて良かった。そういうことか。
 ……大丈夫。
 そんな言葉をかけられたのは初めてだった。守られる安心感とはこういうものか。私に触れる手が温かい。
 ずっと孤独だったせいで、余計に感じ入るのかもしれない。
 人は、温かい。
 私は生まれて初めて、いや、死後も含めて初めて、他人に全てを委ねる安心感の中で深い眠りに落ちていった。



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