182年の人生

山碕田鶴

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1913ー1940 小林建夫

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 小林建夫たけお。信州の山奥の村にある小さな製糸工場の社長だ。
 農家の出ながら、村を少しでも富ませたいとの思いで製糸に活路を見出し、一代で製糸工場を軌道に乗せる。ちょうど政府が外貨獲得目的の国策として製糸業を後押ししはじめた時期だ。製糸事業に必要な資金を供給し、経営を指導、支援する製糸金融専門の銀行が発展した時期でもある。小林は時代の波に乗ったのだろう。この村を含め、周辺地域には小さな製糸工場がいくつもあるようだ。
 この地域は、国内有数の蚕種製造地帯らしい。どの農家も養蚕に従事している。問題は交通の便が悪いことで、蚕繭さんけんを売ろうにも時間がかかって蛾になられては元も子もないから、生糸製造までの工程を村内で進める需要があったのだ。
 工場といっても木造平屋、間口六メートルほどの箱で、窓に面して繰糸器械が二列並んでいるだけである。従業員は四十人。
 小林に元手などなかったろう。小さな工場でも設備投資の借金は相当になる。生糸が高値取引されるとはいえ、経営は当初から苦しかったはずだ。
 両親は既にない。独り身で親戚もいない。借金を重ねた末に自宅もわずかな畑も手放し、最後は工場で寝泊まりしていたらしい。
 さらに、製糸の発展に目をつけた企業がこんな山奥にも進出して、小林のような個人経営工場を圧迫する。生糸の原材料となる繭の仲買人がどんどん企業に卸していくことで、周囲の弱小工場は繭の取引競合に負けて次々倒産していったのだ。

「ボテフリに苦労したのを小林さんは助けてくれた」

 村の人間が口々に感謝の言葉を述べる。
 私にはさっぱりわからぬ業界用語だったが、天秤棒を担いで大きなボテと称するザルを背負った繭の仲買人のことらしい。農家が出す繭に質が悪いと難癖をつけて、口八丁に買い叩いて回るので農家は売り買いに悩まされていたという。
 小林は不当な値引きはしなかった。村のために己を犠牲にして働き続けた。
 明治末期に生糸価格が暴落したことを契機に、もはや立ち行かなくなり入水。
 享年五十三歳のはずが、こうして生き長らえ、とりあえず村の寺で看病されている。
 村全体が貧しいというのに、小林のために食糧を届ける者が後を絶たず、給金未払いの社員たちも次々と見舞いにやって来る。
 小林は本当に村人から慕われているのだ。
 しばらく養生したお陰で、私もようやくこの身体に馴染んできた。精神衰弱と入水の影響で記憶混濁が激しいことにして、今は人格変化をやり過ごしている。小林のような聖人君子と私とではあまりにも人間が違いすぎるだろう。
 小林の人生を詳細に知りたく、見舞いの社員にこと細かに小林の人となりを訊いている次第だ。
 そうして日を送るうちに、日頃の習慣やクセは自然に出ることを私は発見した。これは肉体の記憶だ。性格やら好みやら、より本能的なものは身体が覚えているらしい。小林が誰を信頼しているのかについても、いわば直感に頼るのが一番自然だと気づいた。
 小林の身体と対話を続けて半月あまりが過ぎた頃、私はすっかり親しくなった寺の僧侶にひとつ頼みごとをした。
 小林が最も信頼していたのはこの男だ。幼馴染みだったようで、小林を最も知るのもこの男だ。
 堅物で無骨な見た目に反して、話せば柔和で冗談も通じる気さくな人柄が村の人望を集めている。そろそろ還暦くらいであろうか。

「なあ、僧侶殿。村に、死者と対話できる者はいないだろうか」
「小林さん、急になんだね?」

 驚くのも無理はない。世に霊媒師とやらが存在するのは事実だが、嘘とも誠ともわからない連中だ。真面目に訊く方がどうかしている。
 そもそも、死者と対話し、死者と生者を繋ぐのが僧侶の役割りではないのか?
 我ながら不躾な頼みごとをするものだと苦笑した。
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