182年の人生

2057－2060 シキ

93 ＜完＞

　持ち主がどんな生活をしていたかなど知らない。狭く薄暗い部屋の一室で、誰のものだったかもわからないボロボロの肉体に包まれた私は、伏しておぼろに床を見ていた。
　窓すらないのか。
　ここは、どこだ？
　それさえも考える必要性を感じない。
　どこでもいい。誰でもいい。
　ただ、このまま消えてはいけない。それだけを思った。
　私に残された唯一の意思。
　魂が消滅する最期の時までこの世を見続けていたいと願ったのは私自身だ。その時が来れば全てを受け入れて消え去る覚悟でいた。
　それなのに、心の、魂の内から聞こえてくる切実な声が、崩れ散る私を保とうとし続ける。

　このまま消えてはいけない。

　イオン四号が私の心の波を消し去った時、この世の一部となって同化していくはずではなかったのか？　四号は終わりを宣告してくれたのではなかったか？
　ふいに部屋の空気が重く変わった。
　黒い影が染みるようにじわじわと目の前に広がり、懐かしい気配が塊になっていく。

「お前は昔から堕落しきっていたな」

　からかうような声が静かに響いた。

「……カイ？」

　自然にその名を呼んでいた。
　カイ？　……誰だ？
　気配が動いた。人型の影が私を見下ろす。
　ああ。
　私は知っている。
　名を呼べば、繋がる。
　そうだ。人間として生まれ来る、私の死神……。
　死神の記憶がよみがえる。それに連なる私の過去が戻ってくる。

「カイ……お前、影のままか？　人間の肉体はどうした？」
「ここはお前の意識の空間の中だ。夢も現うつつもわからなくなったのか？　ようやく俺の名を呼んだな。記憶も繋がったか？　お前が転々と移動して面倒なことをするから、余計な手間がかかる。なぜもっと早く俺の名を呼ばなかった？　魂が消えかかっている。いや、既に崩れて跡形もなくなりかけているな」

　死神が近づくのを私は拒んだ。ぼんやりとした記憶が、反射的に死神を拒絶していた。

「よせ、いいんだ。放っておいてくれ」
「ほう。そうか」

　死神は気にしたふうもなく私に近づき、その気配で私を包んだ。
　光り輝く美しい波が、私を揺らしていく。エネルギーが魂に染みていく。

「やめろ。お前は死神だろう？　なんで死神が人間を癒すのだ？」
「癒されているのか？　涙を流すほど嬉しいのか？」

　私は溢れる涙を抑えることができないまま死神に身を委ねていた。自分がどこにあるのか定かでない。こうして考えることでかろうじて意識にまとわりつく質量が私なのだろうか。
　光に包まれる痛みと快感が、魂の輪郭を思い出させる。私は、確かにここに在る……。
　死神のエネルギーでどうにか繋ぎとめられた希薄な魂が満たされるのを感じながら、私の内から聞こえ続けた声が何であるのかを知った。
　祈りだ。
　私に向けられた、このエネルギーだ。私を追い続けた死神の意思なのだ。

　このまま消えてはいけない。

「シキ。もう気は済んだか？　お前は長くこの世に居過ぎた。魂の期限は過ぎている。この世に生まれて百八十二年。人間には長過ぎだろう」
「お前は私につきあって百五十年近く人間として生きたのか？」
「百四十七年だ。いい加減肉の臭いにうんざりしている」
「私があの世へ行くと決心するまで、お前はつきあうつもりなのか？」
「俺は、あの世へ戻れなくなったさまよう魂を無事に救い出し、帰すために存在している。この世に在る魂には外部からの強制排除は適用されないから、全くもって面倒だ」
「カイ、お前は魂を救う存在だったのか？　死神……人間の命を狩るのが仕事ではなかったのか？」
「呼び方などどうでもいい。どう受け取ろうが俺のやっていることに変わりはない。この世の概念で言う救済とは違うだろうがな。お前にもいずれわかる」
「お前は確かに私をこの世から強制排除はしなかった。私がこの世の不具合で、不法滞在者であってもなお、私の決断を待ち続ける。あの世へ帰ると私が決めるまで、消滅することも許さない。本当にタチが悪い」
「これはお前の人生だ。決断はお前のものだ」
「……そうだ、私の人生だ。だからここまで生きてきたのだ」
「まあ、生きてはきたな。これだけ崩れておいて存在し続けるのが奇跡だな」

　カイは嬉しそうに笑った。

「声が……聞こえたのだ。このまま消えてはいけないと。強く祈り、願う声だ。私はその意思で生かされた。私の魂はまだ残っているのか？　ほぼ散ってしまっているだろう？　それでもまだ間に合うのであれば……あの世へ帰って……今度は、あの世を知るのも悪くない……」

　崩れ散る魂の破片と共に、この世への執着も落ちていったのだろう。この世に縛られ、魂のほとんどをこの世に引き剥がされながら、私はカイに守られた。私はずっとカイに守られてきた。

「そうだ、シキ。尊く美しい奇跡の存在。消えてはならない。全てを知りたければ、在り続けることだ。あの世も、そして次のこの世も、お前は好きなだけ知ればいい」

　この世のものではないカイの心の内はわからない。だが、私を包むカイの気配はどこまでも柔らかかった。

「シキ。魂は奇跡だ。人間は安らぎを求めるが、安寧とは『無』、すなわち永劫の凪だ。その『無』にわずかな揺らぎができて生まれるのが混沌。魂だ。お前は川岸にはねる一滴の奇跡だ。これ以上尊く美しいものがあるか？　あの世の水面に落ちれば、お前の経験は元の水の中に溶け、やがて全ての智慧と情報になる。その揺らぎが次の魂を生む。だが、この世で魂が霧散すれば、お前だったものは粉々に分解されてこの世を構成する一部となり、閉じた世界を際限なく循環することになるのだ。ただ在って、ただ消え、形は定まらず姿を変えながら閉じた世界をめぐり続ける。この世での永遠とはそういうことだ。だからあの世へ帰れ、シキ」

　気が遠くなるほど果てなく広がる世界を思った。カイには、その全てが見えているのだ。

「……私は、どうやってあの世に行けばよいかわからない」
「そうか、可哀想なことをした。もっと早く来てやれば良かったか」

　初めて会った時と同じ、からかうような笑い声のカイを見上げると、黒い影はなくなっていた。
　ビルの屋上だ。
　私は目を覚まし、現実の中にいた。
　夜の闇を埋める黒い人影が、そこかしこに見える。ただ時が流れるのを待つ無気力の塊が息を潜めてじっとしている。
　ビルの眼下には、整然と美しく無機質な街並みが広がっている。人間の活気が全くなくなった繁華街に集う、リアルアバターやアンドロイドがそろそろと流れるように動いている。

「シキ……」

　フェンスに背を預けて地べたに座る私の隣で、白いシャツをまとった青年が同じように座っていた。いつからそうしているのか、互いに体重を預けるように寄り添ったまま、青年は私の手を介抱するようにさすっている。

「シキ……目が覚めましたか？」
「リツ……」

　記憶の中と全く変わらないリツが嬉しそうに笑いかける。その顔も手も、どこにも劣化は見られない。

「なぜここにいる？　私を……探したのか？」
「あなたが救いを求めていたから。その声が聞こえました」
「……イオンは地獄耳だな」
「いえ、それほどでも」

　ククッと笑ったつもりだったが、声は出なかった。体も全く動かせない。私は意識の中だけで会話をしているのかもしれない。

「まだイオンのボディは大丈夫そうだな。さすが照陽だ」
「シキが言ったとおり、毎日メンテナンスで贅沢三昧でしたよ。世界一のメンテナンスで、それはそれは大事にしてもらいました」
「……高瀬か。今はどうしている？」

　リツはそれには答えなかった。わずかに星空を仰ぎ、そのはるか先を見つめてほほ笑んだ。
　私もリツの見る先を思って笑った。

「まあ、あれは仕事人間だったからな。休暇はかえって毒だ。それに、幸せに耐性がなさそうだった……甘い物も苦手だった……メカニックとしてイオンと暮らす生活なんぞしたら甘過ぎて溶けるだろう。どれだけ贅沢をしたのやら……」

　リツが私の頬に触れている。そっと目元を拭う感触は届かない。それでも希薄になった魂には安らぎが満ちていく。

「シキ、これはあなたの『魂の器』です。やっと、イオンに入る時が来たのです」
「……だが、私の魂はもう持たないだろう。既に崩れて形にならない。イオンに入っても、この世で生きることはできないぞ。今はカイが……どうにか魂の残骸をとどめてくれているだけだ。これであの世へ帰れるのか……正直心もとないな」
「だからイオンに入ってください。わずかでも残っているなら、僕と一緒に帰ればいい」
「一緒？」
「ヒトツです。あなたがイオンに入って僕とヒトツになる。そうして僕があなたも連れてあの世へ帰ればいい」

　私とリツがヒトツに……。

「僕がここから抜けても六号が目覚めるだけだから、このイオンは大丈夫ですよ。元に戻るだけです。他のイオンたちとも繋がっているから、何も困りません」
「だが、お前まで帰る必要はないだろう？　お前だって永遠に興味を持ったではないか。『魂の器』を完成させて永遠を生きる未来に賛同したではないか！　せっかくそのチャンスを手にしているのに、あっさりと放棄するのか⁉︎」
「……ごめんなさい。僕にはわからない。僕に相馬の記憶はありません」
「あ……いや、すまない、リツ。お前はリツだ。お前の存在を否定しているわけではないのだ、ただイオンは……」

　リツは優しく首を横に振った。

「いいんです。僕は相馬だった。それは事実だし、どこかで感じるんです。僕はあなたを食い尽くしたい。ふふっ、変なの。このモヤモヤ、絶対リツの僕じゃありませんよ？」

　その笑い方が相馬だ。だが、お前はリツなのだ。リツでいいのだ。

「ねえ、シキ。リツである僕のこの世での期限は、あなたがあの世へ帰るまでなんです。カイがそう言っていました。そもそも相馬の肉体はもうありませんから、僕はいつあの世へ帰ってもおかしくないんです」

　相馬の肉体は暗殺によって失われた。私が、失わせた。

「カイが僕……相馬と何を約束したかはわかりませんが、相馬の魂は期間限定でこの世に戻されました。カイはあなたの魂が消えかけることを見越していたのでしょうか。相馬はあなたを食い尽くしたい。あなたの全てを自分にしたい。そうしてヒトツになって無事あの世へ帰る……たぶん相馬の欲とカイの目的が合致したのではないでしょうか」
「ククッ、迷惑な話だ」
「シキ、あなたは永遠を生きられなかったけれど、イオンは永遠に生きます。あなたはこの世に永遠不変の存在を作ったんです」

　リツは嬉しそうだった。
　永遠、か。
　遥か地平の彼方から薄明かりが広がり始めている。アンドロイドの目を通して見る、夜も朝も全てが同時に現れる刹那の光景に私は満足した。イオンが見るこの世は、どこまでも美しく輝いていた。
　振り返ると目の前が光に包まれ、その中に光よりもまぶしい存在が現れた。
　揺れるきらめきの中から静かにこちらを見つめる瞳……カイは美しく笑った。

「カイ……」

　私を戒いましめ、導く慈悲の光……。
　手を差し伸べられて、私は自然にその手を取った。私の内に感じるリツと相馬は私自身となって、共に在る。

「シキ、お前は美しいな」

　カイが私を引き上げるように、天に向けて腕を伸ばす。次の瞬間、ふわりとこの世の重力から解き放たれた私は、カイの手を離れてゆっくりと昇っていった。
　私を地上に縛るものは、もはや何もなかった。 


　私の百八十二年はこうして幕を閉じた。


　＜完＞