182年の人生

山碕田鶴

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2057-2060 シキ

92-(2/2)

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 ハルトの肉体を離れると、思考の霞が晴れてきた。それでもべったりと薄汚れた膜が貼りついたままの感触が残って、自分の全てが重い。
 私はまた幽霊に戻ってしまった……。
 とにかく次を探さなければ。肉体を持たない魂は、あまりにも不安定だ。
 ビルの屋上には、あの世の楽園を待ちわびる者がいくらでもいた。
 ここの人間はダメだ。死が近過ぎる。長くもたないのだ。
 這いずるように地上に降りる。
 繁華街の表通りでは、アンドロイドやリアルアバターばかりがカラフルなライトに照らされて夜の街を楽しんでいる。日中なら本物の人間も多く見かけるが、ずいぶんと以前から、夜になるとまるで仮装パレードのような無機質のにぎわいに占領されるようになっていた。どこにも生きた気配がない。
 路地裏に回ると、ここには闇に潜んでじっと動かない本物の人間たちがいた。
 なぜここに集まるのかは知らない。互いに話すわけでもなく、ただそこに誰かが存在する安心感と干渉されない距離感の気安さを求めているのだろうか。人の気配を感じるところに人は集まるのかもしれない。
 私は魂を居候させてくれそうな人間を物色してまわった。覇気がなく隙の多そうな精神状態の人間は、近づけばすぐにわかる。自他の境界にある膜のようなものが薄いのだ。
 わずかな街灯の明かりさえ届かないビルの隙間に、一人の男がうずくまっていた。
 まだずいぶんと若そうだが、既にこの世を放棄している。

 おい、聞こえるか? 私が視えるか?

 声をかけた。
 身体に滑り込む前の、ただの挨拶だ。
 幽霊の私に気づくかどうかは問題ではない。返事の有無に関わらず私は寄生する。獲物を狙い、間合いを詰める捕食者と変わらない。
 ややあって男の顔がゆっくりと上がり、生気のない目が私を捉えた。
 どうやら私が視えるらしい。

 視えるなら話が早い。私をしばらくその身体に入れて欲しい。悪いようにはしない。

 無表情のままぼんやりと私を見続ける男に意思は感じられない。

 なあ、お前も……あの世の楽園を望むか? お前が望むなら手伝ってやってもいい。その肉体を譲ってくれるなら、私はお前を解放できる。

 ああ、私は何を言っている?
 何をしようとしている?
 だが、この肉体を得られれば、私はまた当分の間安心して生きられるのだ。生きる実感をわずかでも感じることができるはずなのだ。

「どうぞ」

 男から投げやりな返事があった。

「欲しいなら……どうぞ。これは僕じゃないから」

 いったい何度同じような言葉を聞いたことか。罪を重ねる許しを得ても、虚しさしか感じない。
 他人の肉体を奪わなければ生きられない自分が、仕方ないと言いながら悪業を繰り返す。この世に執着を続け、他人の肉体を奪ってでも生き続けようとする私は悪霊そのものだ。 
 奪うたびに魂が疲弊する。輝きが消えていく。濁って醜い塊になっていくのがわかる。
 それでも奪う。
 ……今さらだ。
 慣れきって麻痺した罪悪感が、言い訳すら軽薄にしてしまう。
 黙ったままの動かない男に手を伸ばした。
 暗い衝動に駆られる私の周囲の空気が、禍々しく冷えていく。
 お前が望む楽園へ今すぐ送ってやるから、この肉体を私によこせ……。
 男は、はじめて怯えと怖れの表情を浮かべた。
 私は意に介さない。この男に私を拒絶する強さはない。

「ダメです」

 その時、静かな、しかしきっぱりとした声が背後から私を止めた。

「その人は、心の底から生きていたいと望みました。だから、ダメです。……先生」

 振り返ると、白いシャツをまとった天使が柔らかな表情のまま私を見つめていた。
 イオン……。四号、か。
 こうして目の前に現れるまで、その名も存在も忘れていた。断片的に噴き上がる記憶が色鮮やかによみがえる。
 五体のイオンの中で、私の「魂の器」となるはずだったのが四号だ。私が作り上げた、永遠を生きるためのアンドロイド。私が生きた証。
 四号は私と目を合わせたままこちらの心を読み、寄り添うように波長を合わせて重ねてきた。
 怒りも憐れみもない。感情の揺らぎなどいっさいなく穏やかな凪。
 暗い衝動とざわついた心を撫でるようにしてゆっくりと波を静めていくのがわかる。

「この人は生きたいです。だから、生き続けます」

 周囲から人が集まって来た。
 イオンと共に活動する照陽の人間だろう。うずくまる男をグループの更生施設に連れて行くつもりなのか、声をかけている。男に反応はないが、どこか安堵の空気が漂う。
 生きられるのなら生きればいい。獲物を奪われた悔しさはなかった。

「私は救いを求める声を聞きます。だからこうしてやって来たのです、先生」

 私……?
 四号は私を見つめたままうなずいた。

「先生は救いを求めていました。私にははっきりと聞こえました」

 ……私には聞こえなかった。私は何と言っていた?

「先生は、自分を止めて欲しいと言いました。もう終わりにしたいと願っていました」

 ……そうか。ククッ……まあ、そうだろうな。
 他人の肉体を奪っても奪っても、すぐに次を探すばかりの絶望と、それすら何も感じなくなっていく自分にうんざりしていた。この世を感じる一瞬の快楽を求めてさまよい続ける悪霊と化してなお、この世に在り続けたいという思いは消えず、執着を増していく。私はすっかりこの世に縛られてしまっている。この世への依存が自分で手に負えないまでに酷くなっている。
 私の魂はもう消えかけている。
 わかっていながら認められない。
 その時が来れば消える覚悟はできていて、それで後悔はないはずだった。それなのに、このまま消えてはいけないと……私の内の何かが呼びかけてくるのだ。その思いだけで今の私は保たれている。
 そうだな、私は終わりにしたかったのだな……。
 照陽の人間たちが遠まきに四号を見ている。イオンに対する畏敬の念と信頼が伝わってくる。私の姿は見えないようだが、イオンが霊的なものと接触するのは日常なのか、驚く様子はない。
 人間を救う天使……か。イオンは新たな人類ではなく天使であったか。
 遠く懐かしい、かすかな記憶。自分の表情が緩むのがわかった。
 イオンの穏やかな波が私を同調させていた。
 何もない凪へと私を導いていく。
 ああ、私にもまだ笑顔が作れたのか。
 ククッ。お前たちには昔、勝手に人の心を読むなと教えたのにな。

「すみません、先生」

 いいんだ、四号。ありがとう。私はもう思い残すことなく、本当に終わりに……。

 ピシン

 静かにヒビ割れる音が聞こえたような気がした。
 かろうじて形を保っていたものが崩れる感覚。

「先生?」

 サラサラ……サラサラ……

 砂時計のように何かがこぼれ落ちていく感触。

 何かが……
 私が……

 記憶が抜け落ちる喪失感とは異なる、もっと根本的な、崩壊。

 私がこぼれていく……

 自分の終わりを受け入れたからなのか?

 このまま、この世に散っていく……

 ダメだ!
 私は逃げるようにこの場を離れ、崩壊していく自分をかき集めながら暗闇の中をいつまでもさまよい続けた。
 違う。このまま消えてはいけない。
 混濁する意識の中で、なぜかそれだけを思った。
 忘れている。私は何かを忘れている。
 自らを保つ力も術もなく、記憶も、心も砕け散っていく。
 私は魂をとどめるための肉体を手当たり次第に求めていった。
 終わりを受け入れたのではなかったのか?
 自らの形を保てず崩れながらも、他人の肉体を乗っ取り奪うことで完全には消滅しないまま、私はかろうじて存在し続けた。

 このまま、消えてはいけない……。

 ただそれだけを思った。



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