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第二章 小満
(6)小満 一
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僕が日当たり良好の格安ボロ借家に引っ越してから、二週間ほどが過ぎた。
大学入学直後で新しいことだらけの毎日だったから、さすがに心身ともに限界を迎えていた。
近所のスーパーで週二日のバイトも始めた。本当はもっと増やしたいけれど、今の生活に慣れるまで当分は無理だろう。
日曜日なのに朝からだるい。
しっかり休んで夕方からバイトして、自炊も頑張って……。
目標はあるのにやる気が今ひとつで、床に寝転がって伸びをする。
窓から縁側に出られるが、先客が占拠しているのでつい遠慮してしまう。
疲労の最大の原因は彼らだろう。
僕の新生活にとって、最難関は同居人に慣れることだった。
菊の精キクは、怖くない。
庭を眺めれば目に入る、ふわふわと漂う姿は癒しそのものだ。もう、一日中見ていても飽きないと思う。
黒髪おかっぱのあんな美少女が、いつでも家にいる。信じられない。
ただ、キクを見ているとなぜか現実逃避している気分になる。まるでストーカーが覗きをするような罪悪感さえ持ってしまう。自分の家の中から庭を覗くって変だとは思うけれど。
なるべくキクを意識せずに生活したい。ストイックさを試されているみたいで、段々つらくなってくる。それでまた、癒しを求める。その繰り返しだ。そのうち慣れるだろうか。
縁側では、体格のいい爽やかなお兄さんたちが三人もくつろいでいる。なぜ作業着姿なのかはわからない。
前の借主さんが作った花壇のフリージア、ガーベラ、ビオラの精は常に一緒に行動している。三人とも同じ顔だ。
キクと違って僕と直接話すことはないし、僕を意識することなく勝手気ままに庭をふらふらしている。縁側が特にお気に入りらしく、だいたいはそこにいる。
いつもニコニコして優しそうだから見ていて飽きないけれど、どこか意思疎通できない怖さがある。
それでも最近は、僕が庭の水やりをすると学習したのか、玄関脇の水道につないだホースを持つと僕を見て体を左右に揺らすようになった。
嬉しいということかな。
懐いてくれたみたいで嬉しいが、三兄弟が動くたびにどうしても緊張してしまう。
三兄弟が左右に揺れている時に僕も目の前でやってみたけれど、なんだか無視された気がした。全然、気持ちが通じていない。
野良猫が家に居つくのと同じだと自分に言い聞かせる。
少し前に、大学で同じ学科の友人たちがうちに寄ったことがあった。縁側には三兄弟がいて、キクも庭に立っていたけれど、友人たちには全く見えていなかった。
縁側に近づいた一人は、三兄弟の体を突き抜けていることに気づきもしなかった。
僕だけの現実。この状況にも慣れることはできるのだろうか。
大家の孫の誠が除草剤の結界を張ってくれたお陰か、家の中で精霊を見たことはない。この安心感は貴重だ。
誠にも精霊が見える。僕の現実を共有してくれる唯一の人物だ。
人物、なのかはちょっと怪しい。誠はタンポポの精かもしれない。
その誠とはあれから一度も会っていない。友達ではないし会う理由もないが、具合が悪そうなのが気がかりだった。
本当にタンポポの精だったとか?
まさかね。
ピン、ポーン。
年季の入った玄関チャイムが鳴った。
「はいー。あ、マコちゃん⁉︎」
久しぶりに見る誠は、顔色も良く元気そうだった。銀色の短髪に細身の長身は、相変わらず綿毛のタンポポを連想させた。
「お前、不用心だな。いきなり開けるなよ」
「ごめん。でも、窓全開だし。……気をつけます」
「元気そうだな。あいつらとも仲良くやっているみたいだな」
誠は縁側の三兄弟を指さして言った。
三兄弟は誠の方を見ているようだ。水やりを始めると思ったのかもしれない。
「これ、婆ちゃんから。お前に持って行けって。ご飯の足しにしろ。煮物とか入っている」
「うわあ、ありがとう。でも、僕マコちゃんのお婆ちゃんにお会いしたことないけど?」
「スーパーでバイト始めたんだろ?」
「え? うん。品出し募集で行ったけど、今レジ打ちもしてる」
「なんかカワイイ子が入ったって、近所の婆ちゃんたちの間で噂になってるらしいぞ」
「そうなの? 僕、まだ慣れないから結構失敗しちゃっているんだけど」
「うーん、推しの新人アイドルの成長を温かく見守る、みたいな?」
「……頑張ります」
僕がレジに立つ時に高齢者率が高いと感じていたのは、そういう理由なのか。
まあ子連れの若いお母さんなら、僕ではなく美形モデルタイプの誠みたいなのがいいに決まっている。
僕は初めからターゲットを絞って、婆ちゃんたちのアイドルを目指そう。
「あ、せっかく来たんだし上がっていけば?」
「いや、結構」
即答だ。
「結界張ってるから入れない」
「マジ?」
「嘘」
この人、本当にタンポポじゃないのか?
真顔で言われてはぐらかされて、真偽は全くわからない。
用事は済んだと言って、誠は早々に帰ろうとした。
その足が止まった。
「なあ一郎。お前の同居人って、キクと三兄弟だけか?」
誠は後ろにいる僕は見ないで、庭を向いたまま言った。
「他は見たことないけど」
「……アガパンサスだ」
誠は、僕が初めて聞く言葉を口にした。
大学入学直後で新しいことだらけの毎日だったから、さすがに心身ともに限界を迎えていた。
近所のスーパーで週二日のバイトも始めた。本当はもっと増やしたいけれど、今の生活に慣れるまで当分は無理だろう。
日曜日なのに朝からだるい。
しっかり休んで夕方からバイトして、自炊も頑張って……。
目標はあるのにやる気が今ひとつで、床に寝転がって伸びをする。
窓から縁側に出られるが、先客が占拠しているのでつい遠慮してしまう。
疲労の最大の原因は彼らだろう。
僕の新生活にとって、最難関は同居人に慣れることだった。
菊の精キクは、怖くない。
庭を眺めれば目に入る、ふわふわと漂う姿は癒しそのものだ。もう、一日中見ていても飽きないと思う。
黒髪おかっぱのあんな美少女が、いつでも家にいる。信じられない。
ただ、キクを見ているとなぜか現実逃避している気分になる。まるでストーカーが覗きをするような罪悪感さえ持ってしまう。自分の家の中から庭を覗くって変だとは思うけれど。
なるべくキクを意識せずに生活したい。ストイックさを試されているみたいで、段々つらくなってくる。それでまた、癒しを求める。その繰り返しだ。そのうち慣れるだろうか。
縁側では、体格のいい爽やかなお兄さんたちが三人もくつろいでいる。なぜ作業着姿なのかはわからない。
前の借主さんが作った花壇のフリージア、ガーベラ、ビオラの精は常に一緒に行動している。三人とも同じ顔だ。
キクと違って僕と直接話すことはないし、僕を意識することなく勝手気ままに庭をふらふらしている。縁側が特にお気に入りらしく、だいたいはそこにいる。
いつもニコニコして優しそうだから見ていて飽きないけれど、どこか意思疎通できない怖さがある。
それでも最近は、僕が庭の水やりをすると学習したのか、玄関脇の水道につないだホースを持つと僕を見て体を左右に揺らすようになった。
嬉しいということかな。
懐いてくれたみたいで嬉しいが、三兄弟が動くたびにどうしても緊張してしまう。
三兄弟が左右に揺れている時に僕も目の前でやってみたけれど、なんだか無視された気がした。全然、気持ちが通じていない。
野良猫が家に居つくのと同じだと自分に言い聞かせる。
少し前に、大学で同じ学科の友人たちがうちに寄ったことがあった。縁側には三兄弟がいて、キクも庭に立っていたけれど、友人たちには全く見えていなかった。
縁側に近づいた一人は、三兄弟の体を突き抜けていることに気づきもしなかった。
僕だけの現実。この状況にも慣れることはできるのだろうか。
大家の孫の誠が除草剤の結界を張ってくれたお陰か、家の中で精霊を見たことはない。この安心感は貴重だ。
誠にも精霊が見える。僕の現実を共有してくれる唯一の人物だ。
人物、なのかはちょっと怪しい。誠はタンポポの精かもしれない。
その誠とはあれから一度も会っていない。友達ではないし会う理由もないが、具合が悪そうなのが気がかりだった。
本当にタンポポの精だったとか?
まさかね。
ピン、ポーン。
年季の入った玄関チャイムが鳴った。
「はいー。あ、マコちゃん⁉︎」
久しぶりに見る誠は、顔色も良く元気そうだった。銀色の短髪に細身の長身は、相変わらず綿毛のタンポポを連想させた。
「お前、不用心だな。いきなり開けるなよ」
「ごめん。でも、窓全開だし。……気をつけます」
「元気そうだな。あいつらとも仲良くやっているみたいだな」
誠は縁側の三兄弟を指さして言った。
三兄弟は誠の方を見ているようだ。水やりを始めると思ったのかもしれない。
「これ、婆ちゃんから。お前に持って行けって。ご飯の足しにしろ。煮物とか入っている」
「うわあ、ありがとう。でも、僕マコちゃんのお婆ちゃんにお会いしたことないけど?」
「スーパーでバイト始めたんだろ?」
「え? うん。品出し募集で行ったけど、今レジ打ちもしてる」
「なんかカワイイ子が入ったって、近所の婆ちゃんたちの間で噂になってるらしいぞ」
「そうなの? 僕、まだ慣れないから結構失敗しちゃっているんだけど」
「うーん、推しの新人アイドルの成長を温かく見守る、みたいな?」
「……頑張ります」
僕がレジに立つ時に高齢者率が高いと感じていたのは、そういう理由なのか。
まあ子連れの若いお母さんなら、僕ではなく美形モデルタイプの誠みたいなのがいいに決まっている。
僕は初めからターゲットを絞って、婆ちゃんたちのアイドルを目指そう。
「あ、せっかく来たんだし上がっていけば?」
「いや、結構」
即答だ。
「結界張ってるから入れない」
「マジ?」
「嘘」
この人、本当にタンポポじゃないのか?
真顔で言われてはぐらかされて、真偽は全くわからない。
用事は済んだと言って、誠は早々に帰ろうとした。
その足が止まった。
「なあ一郎。お前の同居人って、キクと三兄弟だけか?」
誠は後ろにいる僕は見ないで、庭を向いたまま言った。
「他は見たことないけど」
「……アガパンサスだ」
誠は、僕が初めて聞く言葉を口にした。
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