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第三話
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男はチェーンソーを持っていた。にやにやと笑っていて、店の中にいる人間たちを見渡していた。そのとき、正和は男と目が合ったような気がしていた。
チェーンソーの稼働音が鳴り響く。女の人の甲高い悲鳴が聞こえた。正和はその時、自分が逃げなければならないことに思い至った。正和は床を這って移動し始めた。床を移動している時、悲鳴がより激しさを増したような気がするとともに、チェーンソーの音がくぐもったものになったような気がした。
正和は棚の向こう側まで行きつくと、いったん止まった。それというのも、これより先どこへ行ったものか決めかねたからであった。男に逃げているところを見つかれば男がこっちに来るかもしれない。かといって、このままここに残っていればいつか男がここへ来るのは間違いなかった。
しかしどちらへ行くかどうか迷う必要はなかった。
正和のいる、菓子パンコーナーの方に人が押し寄せてきた。人々は正和のいるほうへと向かってくる。正和は来る人々を見て、踏みつぶされると思った。それですぐさま立ち上がった。立ち上がりざま、誰かの腕にぶつかって突き飛ばされた。
奥の方にチェーンソーを持った男が姿を見せていた。チェーンソーで茶髪の男の人の腹を切り裂いていた。血が噴水のように飛び散っている。茶髪の人はおにぎりのコーナーに背中を押し付けていた。口から正和の耳がつぶれそうなくらいの悲鳴を出していた。それでもチェーンソーのはげ男は一向にその悲鳴を気にしていない様子だった。
正和は棚の向こうを右へと曲がっていった。そして窓の方へ突き当たるまで走った。突き当たると、右へ曲がった。
あともう少しでコンビニから出られるところまで来た。前の人たちが次々とコンビニのドアから出て行っているのも見える。
正和のすぐ目の前の女の人が出て行こうとした。その背中に銀色のものが振り下ろされた。悲鳴が女性の口からほとばしる。女性の背中からも血がほとばしる。女性は膝を曲げて、地面へと崩れ落ちた。女性の背中はペンキでもぶちまけたみたいに大量の赤いもので濡れていた。しかしそれはペンキによるものではない。すべてこの女性の血なのだ。この大量の赤いものすべてが、女性の体から出てきたのだと思うと、正和は信じられない思いがした。
女性の背中を、さらに禿げ頭の男は切りつけた。女性はまたもや悲鳴をあげた。女性が切りつけられて漸く、正和は逃げなくてはならないということを思い出した。正和は体をひるがえした。
正和が身をひるがえすと、女性の背中が見えた。もともと正和の後ろにいたであろう女性が、今は前に居るのである。女性は目の前のドアを開いて駆け込んだ。ドアの前には赤い、女性のシンボルがあった。トイレだった。
正和はそこへ逃げ込みたいという猛烈な欲求を感じた。しかしかろうじてそれを振り払った。理由はトイレの中はもうすでに満員になっている恐れがあるから。もし本当にそうなっていたなら、正和はトイレに入れない。そしてドアの外ではげ男に切り刻まれて殺されるのみだ。
棚の奥のところまで行きついたところで、後ろを振り返った。後ろからは禿げ頭の男がこちらへ来ていた。正和と男の目が合う。正和は向き直り、左の方へと走っていった。
壁に突き当たると、また正和は左へと曲がった。そしてまっすぐに走っていった。
正和は又左へ曲がる。そしてカウンターとカウンターの間にある、店員用の入り口をくぐった。
正和はいつも店員が引っ込んでいく奥の部屋へと突き進む。正和が目指すものはただ一つ、裏口のみだった。正和は禿げ頭の男と追いかけっこで勝負するつもりでいた。
正和は脚に自信があった。正和は学校で一番早い男だった。正和は学校の持久走大会で一位よりほかの順位をとったことがなかった。そもそも走ることにかけて、負けることなどまずなかった。正和が足で負ける人間は、走ることを正和に教えた張本人である、父よりほかにいなかった。
正和は気が付いたら、父と一緒にはしっていた。初めは心もとない足付きでばたばたと、ジョギングをする父を追いかける程度だった。少し差が開くと、父は止まってくれた。正和が追い付くと、また父は走り始めた。そうしたことを繰り返して、正和は大きくなっていった。
そうした繰り返しは、いつしかなくなっていった。その代わりに今度は、走り続ける父をランニングして追いかける日々へと変わった。正和が小学校一年生にもなると、父は正和に走ることを教え始めた。毎日正和を連れて運動場へとやってきた。そして正和を後につかせて、ジョギングを続けた。その距離たるや、正和にとっては途方もない距離だった。走り終えたころには、正和は地面に倒れ伏すほどだった。そして正和が倒れている横で背をぴんと伸ばして立っている父を見て、正和は父の圧倒的な大きさを知るのだった。
倒れるほどまでに走ることになっても、正和は走ることをやめなかった。正和は父から、走ることの理由についてこう説明されていた。
「いいか正和、おまえは翼を手に入れるんだ。この翼はな、手に入れたものを誰よりも速く走らせ、そしてお前の生きたいところへ連れて行ってくれる。この翼を欲しがるものはこの世にごまんといる。だが持っているものはほとんどいない。この翼は誰にでも手に入れられるものなんだ。でもな、正和、翼は本当に頑張った人にしか手に入らないんだ。子供の頃からずっと、ほしいほしいと願いながら走り続ける。すると徐々に体は翼が必要なんだとわかってくるんだ。そして翼を生やそうと努力し始める。お前が走るたびに、翼はその分伸びていく。そして何年も何十年も努力したある日、翼はお前の背中に授けられるんだ」
正和は翼がほしくて走り続けた。誰よりも速く走ることができ、行きたいところへと行ける翼。正和の場合、行きたいところはオリンピックだった。翼を手に入れたなら、オリンピックへと飛び立って、その中で誰よりも早くゴールテープを切ってみせるのが夢だった。だから正和はきつくても走り続けた。
その正和にとって、走ることで父以外に撒けるということなどありえなかった。正和ほど走ることにかけて努力した小学生はいないし、走ることで父以外に撒けたことがないという実績もあった。十一年の人生の中で、大人と競争する機会もあったが、小学生の翼が大人を打ち負かすということも知っていた。だから正和は走ることで男に勝負を挑むことを決断した。
自動ドアではドアの前に立った時と開くまでにタイムラグがある。それは致命的な問題だ。ともすれば、ドアが開く前に自分が死ぬ恐れがあった。その点、裏口は自分で開けるものだからタイムラグもそれほどなくて済むわけだ。また、裏口から逃げた店員がいるとして、果たしてわざわざ一回止まって、後ろを向いて、ドアを閉めたりするものだろうか。もしかしたらドアは開いているかも知れない。そうしたらただ走り抜けるだけで済む。
狭い通路を通り抜けると、すぐにドアは見つかった。ドアは開けっ放しになっていた。正和はドアを潜り抜ける。
正和はコンビニの外へと走り抜けた。あとははげ男との追いかけっこになる。追いかけっことなれば大丈夫。大人にだって負けない。なぜなら、正和は学校で一番早い小学生なのだから。
正和は走る。走り続ける。体が風になる。重さはなくなる。正和には翼があった。
こうして正和が走っている一方、正和とはげ男との差はぐんぐんと広がっていった。もちろん、正和の足が並外れて速いことも原因の一つだったが、チェーンソーの存在もその差を生むことに加担していた。はげ男の持っているチェーンソーの重さは約六キログラム。とても軽いと言える代物ではない。そのうえ、チェーンソーという大きなものを持った状態というのは、この上なく走る動作を阻害するものだった。
よって、正和とはげ男の差は広がりを見せた。そしていつしか、正和ははげ男の前から消えていた。正和ははげ男から逃げおおせることができたのだ。
取り残されたはげ男はその後、コンビニへとやってきた警察に逮捕された。禿げ頭の男はひとまず留置所に監禁された。しかし男はそこで死亡した。留置所のトイレに顔を突っ込んだ状態で。
チェーンソーの稼働音が鳴り響く。女の人の甲高い悲鳴が聞こえた。正和はその時、自分が逃げなければならないことに思い至った。正和は床を這って移動し始めた。床を移動している時、悲鳴がより激しさを増したような気がするとともに、チェーンソーの音がくぐもったものになったような気がした。
正和は棚の向こう側まで行きつくと、いったん止まった。それというのも、これより先どこへ行ったものか決めかねたからであった。男に逃げているところを見つかれば男がこっちに来るかもしれない。かといって、このままここに残っていればいつか男がここへ来るのは間違いなかった。
しかしどちらへ行くかどうか迷う必要はなかった。
正和のいる、菓子パンコーナーの方に人が押し寄せてきた。人々は正和のいるほうへと向かってくる。正和は来る人々を見て、踏みつぶされると思った。それですぐさま立ち上がった。立ち上がりざま、誰かの腕にぶつかって突き飛ばされた。
奥の方にチェーンソーを持った男が姿を見せていた。チェーンソーで茶髪の男の人の腹を切り裂いていた。血が噴水のように飛び散っている。茶髪の人はおにぎりのコーナーに背中を押し付けていた。口から正和の耳がつぶれそうなくらいの悲鳴を出していた。それでもチェーンソーのはげ男は一向にその悲鳴を気にしていない様子だった。
正和は棚の向こうを右へと曲がっていった。そして窓の方へ突き当たるまで走った。突き当たると、右へ曲がった。
あともう少しでコンビニから出られるところまで来た。前の人たちが次々とコンビニのドアから出て行っているのも見える。
正和のすぐ目の前の女の人が出て行こうとした。その背中に銀色のものが振り下ろされた。悲鳴が女性の口からほとばしる。女性の背中からも血がほとばしる。女性は膝を曲げて、地面へと崩れ落ちた。女性の背中はペンキでもぶちまけたみたいに大量の赤いもので濡れていた。しかしそれはペンキによるものではない。すべてこの女性の血なのだ。この大量の赤いものすべてが、女性の体から出てきたのだと思うと、正和は信じられない思いがした。
女性の背中を、さらに禿げ頭の男は切りつけた。女性はまたもや悲鳴をあげた。女性が切りつけられて漸く、正和は逃げなくてはならないということを思い出した。正和は体をひるがえした。
正和が身をひるがえすと、女性の背中が見えた。もともと正和の後ろにいたであろう女性が、今は前に居るのである。女性は目の前のドアを開いて駆け込んだ。ドアの前には赤い、女性のシンボルがあった。トイレだった。
正和はそこへ逃げ込みたいという猛烈な欲求を感じた。しかしかろうじてそれを振り払った。理由はトイレの中はもうすでに満員になっている恐れがあるから。もし本当にそうなっていたなら、正和はトイレに入れない。そしてドアの外ではげ男に切り刻まれて殺されるのみだ。
棚の奥のところまで行きついたところで、後ろを振り返った。後ろからは禿げ頭の男がこちらへ来ていた。正和と男の目が合う。正和は向き直り、左の方へと走っていった。
壁に突き当たると、また正和は左へと曲がった。そしてまっすぐに走っていった。
正和は又左へ曲がる。そしてカウンターとカウンターの間にある、店員用の入り口をくぐった。
正和はいつも店員が引っ込んでいく奥の部屋へと突き進む。正和が目指すものはただ一つ、裏口のみだった。正和は禿げ頭の男と追いかけっこで勝負するつもりでいた。
正和は脚に自信があった。正和は学校で一番早い男だった。正和は学校の持久走大会で一位よりほかの順位をとったことがなかった。そもそも走ることにかけて、負けることなどまずなかった。正和が足で負ける人間は、走ることを正和に教えた張本人である、父よりほかにいなかった。
正和は気が付いたら、父と一緒にはしっていた。初めは心もとない足付きでばたばたと、ジョギングをする父を追いかける程度だった。少し差が開くと、父は止まってくれた。正和が追い付くと、また父は走り始めた。そうしたことを繰り返して、正和は大きくなっていった。
そうした繰り返しは、いつしかなくなっていった。その代わりに今度は、走り続ける父をランニングして追いかける日々へと変わった。正和が小学校一年生にもなると、父は正和に走ることを教え始めた。毎日正和を連れて運動場へとやってきた。そして正和を後につかせて、ジョギングを続けた。その距離たるや、正和にとっては途方もない距離だった。走り終えたころには、正和は地面に倒れ伏すほどだった。そして正和が倒れている横で背をぴんと伸ばして立っている父を見て、正和は父の圧倒的な大きさを知るのだった。
倒れるほどまでに走ることになっても、正和は走ることをやめなかった。正和は父から、走ることの理由についてこう説明されていた。
「いいか正和、おまえは翼を手に入れるんだ。この翼はな、手に入れたものを誰よりも速く走らせ、そしてお前の生きたいところへ連れて行ってくれる。この翼を欲しがるものはこの世にごまんといる。だが持っているものはほとんどいない。この翼は誰にでも手に入れられるものなんだ。でもな、正和、翼は本当に頑張った人にしか手に入らないんだ。子供の頃からずっと、ほしいほしいと願いながら走り続ける。すると徐々に体は翼が必要なんだとわかってくるんだ。そして翼を生やそうと努力し始める。お前が走るたびに、翼はその分伸びていく。そして何年も何十年も努力したある日、翼はお前の背中に授けられるんだ」
正和は翼がほしくて走り続けた。誰よりも速く走ることができ、行きたいところへと行ける翼。正和の場合、行きたいところはオリンピックだった。翼を手に入れたなら、オリンピックへと飛び立って、その中で誰よりも早くゴールテープを切ってみせるのが夢だった。だから正和はきつくても走り続けた。
その正和にとって、走ることで父以外に撒けるということなどありえなかった。正和ほど走ることにかけて努力した小学生はいないし、走ることで父以外に撒けたことがないという実績もあった。十一年の人生の中で、大人と競争する機会もあったが、小学生の翼が大人を打ち負かすということも知っていた。だから正和は走ることで男に勝負を挑むことを決断した。
自動ドアではドアの前に立った時と開くまでにタイムラグがある。それは致命的な問題だ。ともすれば、ドアが開く前に自分が死ぬ恐れがあった。その点、裏口は自分で開けるものだからタイムラグもそれほどなくて済むわけだ。また、裏口から逃げた店員がいるとして、果たしてわざわざ一回止まって、後ろを向いて、ドアを閉めたりするものだろうか。もしかしたらドアは開いているかも知れない。そうしたらただ走り抜けるだけで済む。
狭い通路を通り抜けると、すぐにドアは見つかった。ドアは開けっ放しになっていた。正和はドアを潜り抜ける。
正和はコンビニの外へと走り抜けた。あとははげ男との追いかけっこになる。追いかけっことなれば大丈夫。大人にだって負けない。なぜなら、正和は学校で一番早い小学生なのだから。
正和は走る。走り続ける。体が風になる。重さはなくなる。正和には翼があった。
こうして正和が走っている一方、正和とはげ男との差はぐんぐんと広がっていった。もちろん、正和の足が並外れて速いことも原因の一つだったが、チェーンソーの存在もその差を生むことに加担していた。はげ男の持っているチェーンソーの重さは約六キログラム。とても軽いと言える代物ではない。そのうえ、チェーンソーという大きなものを持った状態というのは、この上なく走る動作を阻害するものだった。
よって、正和とはげ男の差は広がりを見せた。そしていつしか、正和ははげ男の前から消えていた。正和ははげ男から逃げおおせることができたのだ。
取り残されたはげ男はその後、コンビニへとやってきた警察に逮捕された。禿げ頭の男はひとまず留置所に監禁された。しかし男はそこで死亡した。留置所のトイレに顔を突っ込んだ状態で。
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