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三章
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梅雨になると、私の毛皮も湿気を帯びてくる。毛にぬめりが出てきたような気がして、重みを増したようにも感じられる。
私の毛皮だけの話ではない。洗濯ものとて、その被害を免れることはない。連日の雨ともなると洗濯物を外に干すわけにはいかない。家の中に干さざるを得なくなる。家の中と言っても、干すところは限られている。高橋家ではカーテンのそばにS字フックを使って、洗濯ばさみハンガーをかけて、洗濯ものを干している。それも子供の部屋、自分たちの寝室すべての部屋を占領している。そのため窓は服で埋もれてしまっている。
しかしそこまでしても、洗濯籠の中に洗濯物が入りきらない有様である。その前はどうだったかなど、想像したくもない。
それだけではない。洗濯ものがこうも部屋の中にあると、部屋が狭苦しくてしょうがない。さらにただでさえ湿気の高い季節なのに、洗濯物の水気のせいでなおのこと湿気が増え、じめじめとしていやだ。湿気が高くなると、洗濯物が乾きづらくなり、いつまでも洗濯物は乾かない。
このような事態になると、美知子もイライラし始める。洗濯ものをこれ以上増やされまいとそこいらじゅうに目を光らせている。
私がそんな美知子を見つめていると、美知子の目線が私の方に向けられた。
「犬、そこいらでおもらしなんかしたら、家からおっぽり出すからね」
美知子が脅しをかけてくる。いらぬことである。もとより一度もそんなことはしたことがない、この体になってからは。
それにしてもあんまり美知子の目がギラギラとしていて怖い。恐怖のあまり催してしまいそうだ。しかしそれはならぬ。美知子にたたき殺されかねぬ。
「ただいまぁ」
「ただいまぁ」
俊哉と香織の声である。
入ってきた二人を見て私は戦慄した。俊哉はズボンを泥だらけにしている。香織の白いシャツは黒っぽいしみがいくつもついていて、まるでダルメシアンである。
「何それ?」
「車がさー、水をはねかけてきてさぁ。こんななっちゃったんだよ。しかも一言も謝んないの。ひどいと思わない」
「びしょぬれで冷たい、ママ」
「さっさと着替えてきなさい!それから後でこっちに来なさい!」
「え、うん」
二人は美知子の剣幕に気おされている。二人してすごすごと着替えに行った。
二人が新しい服に着替えて帰ってきてから、美知子は二人に言った。
「ねえ、今洗濯物がすごくたまってるのわかるわよね?」
「うん。山盛りだった」
「で、今家じゅう一杯に干してあるから、もうこれ以上洗濯物も干せないの。つまりねあそこに洗濯物を入れられても、もう洗えないの。だからこれ以上洗濯物を増やさないでちょうだい、絶対に!」
「わかった」
二人はうなずいた。
「なるべく外には出ないで。家の中でも、できる限り危険は避けて。いい?」
「うん」
「なら行ってよし」
美知子は二人を行かせると、美知子は立ち上がった。そして冷蔵庫の扉を開けた。それから
「牛乳がない」
とつぶやいた。
「俊哉、香織。ちょっと来て」
「なぁに、ママ?」
二人が降りてくる。
「今、困ったことが起きているの」
「だから何?」
「今日の夕飯をシチューにしようと思っていたの。だけど牛乳がないのよ」
「嘘でしょ」
香織が言った。
「牛乳なしのシチューでもいい?」
「駄目よ」
「そんなの、ご飯抜きのカレーみたいなもんじゃないか」
「そうだよ」
香織が俊哉の言葉に同意する。
「ほかになんか食べられるものはないの?」
「ないわ。ここずっと買い物には行っていないもの。雨だったから」
「なんでそんな」
「知っているでしょう?私は車を持ってないの」
「ああ、そういえば」
「だから、牛乳を買いに行くにしても、歩いて行くしかないの。傘を差して」
「でも、服を汚したりできないんじゃ」
「一応、ほかにも選択肢はあるわ。シチューを牛乳なしで作るか」
「それはないね」
俊哉がすかさずいう。
「それかおかずなしで、ご飯だけを食べるか」
「やだ」
「そうしたら買いに行くしかないわね」
「うん」
「でね、私は料理を作らなくちゃならないから家を離れられないの。そこで、誰か一人牛乳を買いに行ってもらわなくちゃならないの」
「それなら俊哉が最適ね。男の子だから運動神経がいいでしょ?」
「は?何勝手に決めてんの?お前が行けよ」
「どうやら新しいみみずばれがほしいようね、俊哉?」
「上等だ、やってやるよ、ごみ女」
「今、喧嘩すんな」
美知子が言った。二人はすっかり怯え切って、座り込んだ。
「これには、俊哉に行ってもらうわ」
「どうして」
「香織は駄目よ。きれい好きではないもの。あの部屋を見ても、そうだとわかるわ」
「だってさ。ごみ女には任せられないってよ」
香織は俊哉をにらんだ。
「俊哉、あなたはきれい好きよ、少なくとも香織よりは。だから少しは服をきれいに保てると思うの」
「でも、無理だよ。レインマンがいるもの」
「レインマン?」
美知子がけげんな顔をする。レインマンと聞いて、映画の方を思い浮かべているに違いない。
「雨の日に外をうろついている子供がいると、『雨の日は危ないよ、レインマンがいるからね』って言って近づいてくる男がいるんだ。そいつが実はレインマンで、レインマンの話をして子供の気をそらしているうちに人気のないところに連れて行って、さらってしまうんだ」
「そんなことあるわけないじゃない」
「あるんだよ、本当に。ほら、前に掛巣小学校で行方不明になった子がいるっていうだろ?あれがレインマンの仕業だよ」
「あ、聞いたことがある、私も」
「香織まで何言ってるの」
「とにかく僕は行かないよ。レインマンにさらわれるくらいなら、白米だけ食ったほうがましだ」
「レインマンが怖いの?」
「うん」
「だったら、犬を連れていきなさい」
何を言っているんだ、美知子。
「わんこを?」
「ええ。犬がボディーガードになれば文句ないでしょう?レインマンなんか来てもかみついて追い払ってくれるわ」
私は目で訴えたが、美知子はこちらが見ていることさえ気づいていない様子である。
「俊哉、牛乳なしのシチューなんか食べたくないでしょ?おかずがほしいでしょ。なら買い物に行かなくちゃ。大丈夫よ。わんこがついていってくれるから」
「うん。それならいいや」
勝手に決めるな、と言いたいところだが、悲しいかな私に拒否権はない。私はこの家の飼い犬なのだから。
私は俊哉についていく。
「いい?くれぐれも服を汚さないでね」
「うん。レインマンにさえ会わなければね」
会うこともないだろう。そもそも実在するわけないのだから。なんだ、レインマンとは。そんなくだらない噂ごときでよくも私を連れまわす気になったものだな。
俊哉が大通りの方へと出る。すると早速、車が前の方からやってきた。私はこの時、車が俊哉に水を跳ねかける様を想像した。
車が俊哉の水たまりに車輪を入れた。車輪が水しぶきをあげる。さながら海の波のごとく大きな奴である。その波が来るか来ないかのうちに、俊哉は傘を車に向ける。水の塊は傘に当たり、落ちた。
これは美知子の人選が成功したものと思ってもいいかもしれぬ。香織ではこうはいかない。
俊哉は車が来るたび、水たまりから水がはねるたびに傘でブロックした。一度も仕損じることはなかった。
そうして十五分ほど歩いたころだろうか。私は全く思いもよらないものに出会ったのである。
「君、こんな遅くに何をしているんだい?」
後ろから声がかかってきた。大人の男の声であった。男は片手に風船を持ち、もう片方の手に傘を持っていた。
雨の日になぜ風船を持っているのだろうと、その時いぶかったのを覚えている。
「買い物。牛乳を買ってこいって頼まれたから」
「牛乳を買いにか。あそこのコンビニへかい?」
「はい」
「あと十五分は歩かなくちゃならないじゃないか。大変だねえ」
「そんなことないです」
「ちょっと、そこのコンビニまで一緒に行こうじゃないか。退屈だろうし。ほら、お菓子をあげよう」
そういって男は菓子を取り出し、俊哉に上げた。
「ありがとうございます」
「それと風船も」
「ありがとうございます」
こいつは危険かもしれない、私はそう思った。しかしまだ吠えることをしなかった。本当にただ親切なだけの人かもしれなかったし、ただコンビニまで一緒に行って終わるだけだという可能性もなくはなかったからである。
「しかし君も偉いね。こんな遅くに家の人のために買い物に出かけたんだろう?」
「はい」
「君はこのあたりに住んでいるのかい?」
「じゃあ、掛巣小学校の子かな?」
「いいえ、尋常小学校の生徒です」
「そうか。尋常小学校か。いい学校だよね、あそこは。クワガタなんかがよく採れるだろう」
「はい」
「君はなんか採ったかい?」
「去年はカブトムシをとりました。ブランコの近くのクヌギについていたやつがいて。その時、カブトムシに小便を引っかけられたけど、でも網で捕まえました」
「へえ、そりゃ災難だったねえ」
「はい。カブトムシをとった後にはすぐ顔を洗いに行きましたよ」
俊哉は男が自分の武勇伝を聞いてくれるのがうれしいと見えて、饒舌になり始めた。
「そのカブトムシなんですけど、一度喧嘩させようとしたことがあって。でも、闘わせようとして放した後すぐに飛んで逃げちゃったんです」
「そりゃついてなかったね」
「でもたいしたことないです。それからも五匹だっけ、確か六匹ぐらい採りましたから」
そんなことを話しているうちに男が道を曲がろうとした。そこは確か、人気のない道へと続いているはずであった。コンビニは無論ない。
いよいよこれは危ない。ここぞとばかりに私は吠えた。腹の底から、喉を震わせて精いっぱい恐ろしく聞こえるような咆哮を浴びせた。
「どうしたんだろうね、この子は?」
「こらっ、静かにしてよ」
頼まれたって静かにしてやるものか。この男がレインマンに違いないのだ。この男が消えるまで、私は吠え続ける所存である。
「まあいいさ。それより、その六匹のカブトムシはどういう経緯で採ったんだい?」
「ああ。えっとですね……」
俊哉は疑いもなく男へついて行こうとする。無理もない。もとより俊哉はコンビニの居場所に詳しくない。歩いて三十分もかかるようなコンビニなど、あまり行くものではないからだ。車で連れて行ってもらうだけだから、道のことも曖昧にしか覚えていない。
言葉を話すことができれば。レインマンと一言、つぶやくことさえできれば俊哉も気が付くだろうに。しかし犬の声帯ではレの字も言えやしない。
私は俊哉の裾を口でくわえて引っ張った。しかし俊哉は邪険にそれを振り払った。振り払った際、足が私の顔に当たった。私は痛みに顔をゆがめ、しばしそこに立ちすくんだ。
俊哉はその間にもどんどん歩いて行ってしまう。レインマンと話しながら。
私はその時、ある情景を浮かべた。それはテレビでやっていた犬の様子で、犬が話すのだということで飼い主が動画に撮影したものだった。なんでもお母さんと言っているというのが飼い主の言だったが、なるほどそう聞こうと思えば聞こえないこともない。
犬が本来お母さんなどと言えるはずはない。確かにそのとおりである。しかし音程は理解できる。むしろ耳に関しては人間よりはるかに優れている。犬のほとんどは絶対音感を持っている。私もまた、例外ではない。この体になってから知った。
また人間は、耳こそよくないが、言語能力に関しては著しい発達を遂げている。たとえその言葉を明瞭に発していなくとも、それと理解することができる。外国の言葉なのにもかかわらず日本語のように聞こえたり、川の音をさらさらと表現できたりするのは、その発達した言語能力のおかげなのである。
とすれば、私がレインマン、という音程を鳴けば俊哉にもレインマンと通じるのではないか。
私はか細い、哀切を誘うような鳴き声と鳴いた。レインマンという音程を繊細に表現するにはこの寂しそうな鳴き声しかないのだ。
一度目は通じなかった。三度やっても振り向かなかったとき、やはりだめだ、到底レインマンとは言えないと思った。しかしそれでも続けて、五度目くらいに俊哉がぴたりと止まった。
それから俊哉は脱兎のごとく駆けだした。礼儀も何もない走り方だった。隣にいる男がレインマンだと気が付いたのである。
俊哉は私のそばを通り抜けた。そのあとを私は追いかけていった。
そのまま俊哉は自分の家の前まで逃げてきた。レインマンは追いかけては来なかった。多分、捕まえられる見込みはないと判断されたのだろう。
それから俊哉は家に帰った。とても外にもう一回出る気にはなれなかったのだろう。私もまた、その気にはなれなかった。
「お帰り。牛乳は?」
「買ってない」
「どうしたの?何かあったの?」
「不審者に声かけられた」
俊哉はレインマンに、とは言わなかった。それは正解だったろう。不審者に、と言った。方がよほど説得力がある。
美知子もさすがにこれには心配したらしい。これ以上俊哉に買い物に行けとは言わなかった。結局、その日は牛乳なしのシチューを食べた。
その翌日だった。尋常小学校で一人、行方不明になった女子生徒がいるという話がニュースで報道された。私はこの少女が、俊哉の代わりに誘拐されたのだと今でも信じて疑わない。
私の毛皮だけの話ではない。洗濯ものとて、その被害を免れることはない。連日の雨ともなると洗濯物を外に干すわけにはいかない。家の中に干さざるを得なくなる。家の中と言っても、干すところは限られている。高橋家ではカーテンのそばにS字フックを使って、洗濯ばさみハンガーをかけて、洗濯ものを干している。それも子供の部屋、自分たちの寝室すべての部屋を占領している。そのため窓は服で埋もれてしまっている。
しかしそこまでしても、洗濯籠の中に洗濯物が入りきらない有様である。その前はどうだったかなど、想像したくもない。
それだけではない。洗濯ものがこうも部屋の中にあると、部屋が狭苦しくてしょうがない。さらにただでさえ湿気の高い季節なのに、洗濯物の水気のせいでなおのこと湿気が増え、じめじめとしていやだ。湿気が高くなると、洗濯物が乾きづらくなり、いつまでも洗濯物は乾かない。
このような事態になると、美知子もイライラし始める。洗濯ものをこれ以上増やされまいとそこいらじゅうに目を光らせている。
私がそんな美知子を見つめていると、美知子の目線が私の方に向けられた。
「犬、そこいらでおもらしなんかしたら、家からおっぽり出すからね」
美知子が脅しをかけてくる。いらぬことである。もとより一度もそんなことはしたことがない、この体になってからは。
それにしてもあんまり美知子の目がギラギラとしていて怖い。恐怖のあまり催してしまいそうだ。しかしそれはならぬ。美知子にたたき殺されかねぬ。
「ただいまぁ」
「ただいまぁ」
俊哉と香織の声である。
入ってきた二人を見て私は戦慄した。俊哉はズボンを泥だらけにしている。香織の白いシャツは黒っぽいしみがいくつもついていて、まるでダルメシアンである。
「何それ?」
「車がさー、水をはねかけてきてさぁ。こんななっちゃったんだよ。しかも一言も謝んないの。ひどいと思わない」
「びしょぬれで冷たい、ママ」
「さっさと着替えてきなさい!それから後でこっちに来なさい!」
「え、うん」
二人は美知子の剣幕に気おされている。二人してすごすごと着替えに行った。
二人が新しい服に着替えて帰ってきてから、美知子は二人に言った。
「ねえ、今洗濯物がすごくたまってるのわかるわよね?」
「うん。山盛りだった」
「で、今家じゅう一杯に干してあるから、もうこれ以上洗濯物も干せないの。つまりねあそこに洗濯物を入れられても、もう洗えないの。だからこれ以上洗濯物を増やさないでちょうだい、絶対に!」
「わかった」
二人はうなずいた。
「なるべく外には出ないで。家の中でも、できる限り危険は避けて。いい?」
「うん」
「なら行ってよし」
美知子は二人を行かせると、美知子は立ち上がった。そして冷蔵庫の扉を開けた。それから
「牛乳がない」
とつぶやいた。
「俊哉、香織。ちょっと来て」
「なぁに、ママ?」
二人が降りてくる。
「今、困ったことが起きているの」
「だから何?」
「今日の夕飯をシチューにしようと思っていたの。だけど牛乳がないのよ」
「嘘でしょ」
香織が言った。
「牛乳なしのシチューでもいい?」
「駄目よ」
「そんなの、ご飯抜きのカレーみたいなもんじゃないか」
「そうだよ」
香織が俊哉の言葉に同意する。
「ほかになんか食べられるものはないの?」
「ないわ。ここずっと買い物には行っていないもの。雨だったから」
「なんでそんな」
「知っているでしょう?私は車を持ってないの」
「ああ、そういえば」
「だから、牛乳を買いに行くにしても、歩いて行くしかないの。傘を差して」
「でも、服を汚したりできないんじゃ」
「一応、ほかにも選択肢はあるわ。シチューを牛乳なしで作るか」
「それはないね」
俊哉がすかさずいう。
「それかおかずなしで、ご飯だけを食べるか」
「やだ」
「そうしたら買いに行くしかないわね」
「うん」
「でね、私は料理を作らなくちゃならないから家を離れられないの。そこで、誰か一人牛乳を買いに行ってもらわなくちゃならないの」
「それなら俊哉が最適ね。男の子だから運動神経がいいでしょ?」
「は?何勝手に決めてんの?お前が行けよ」
「どうやら新しいみみずばれがほしいようね、俊哉?」
「上等だ、やってやるよ、ごみ女」
「今、喧嘩すんな」
美知子が言った。二人はすっかり怯え切って、座り込んだ。
「これには、俊哉に行ってもらうわ」
「どうして」
「香織は駄目よ。きれい好きではないもの。あの部屋を見ても、そうだとわかるわ」
「だってさ。ごみ女には任せられないってよ」
香織は俊哉をにらんだ。
「俊哉、あなたはきれい好きよ、少なくとも香織よりは。だから少しは服をきれいに保てると思うの」
「でも、無理だよ。レインマンがいるもの」
「レインマン?」
美知子がけげんな顔をする。レインマンと聞いて、映画の方を思い浮かべているに違いない。
「雨の日に外をうろついている子供がいると、『雨の日は危ないよ、レインマンがいるからね』って言って近づいてくる男がいるんだ。そいつが実はレインマンで、レインマンの話をして子供の気をそらしているうちに人気のないところに連れて行って、さらってしまうんだ」
「そんなことあるわけないじゃない」
「あるんだよ、本当に。ほら、前に掛巣小学校で行方不明になった子がいるっていうだろ?あれがレインマンの仕業だよ」
「あ、聞いたことがある、私も」
「香織まで何言ってるの」
「とにかく僕は行かないよ。レインマンにさらわれるくらいなら、白米だけ食ったほうがましだ」
「レインマンが怖いの?」
「うん」
「だったら、犬を連れていきなさい」
何を言っているんだ、美知子。
「わんこを?」
「ええ。犬がボディーガードになれば文句ないでしょう?レインマンなんか来てもかみついて追い払ってくれるわ」
私は目で訴えたが、美知子はこちらが見ていることさえ気づいていない様子である。
「俊哉、牛乳なしのシチューなんか食べたくないでしょ?おかずがほしいでしょ。なら買い物に行かなくちゃ。大丈夫よ。わんこがついていってくれるから」
「うん。それならいいや」
勝手に決めるな、と言いたいところだが、悲しいかな私に拒否権はない。私はこの家の飼い犬なのだから。
私は俊哉についていく。
「いい?くれぐれも服を汚さないでね」
「うん。レインマンにさえ会わなければね」
会うこともないだろう。そもそも実在するわけないのだから。なんだ、レインマンとは。そんなくだらない噂ごときでよくも私を連れまわす気になったものだな。
俊哉が大通りの方へと出る。すると早速、車が前の方からやってきた。私はこの時、車が俊哉に水を跳ねかける様を想像した。
車が俊哉の水たまりに車輪を入れた。車輪が水しぶきをあげる。さながら海の波のごとく大きな奴である。その波が来るか来ないかのうちに、俊哉は傘を車に向ける。水の塊は傘に当たり、落ちた。
これは美知子の人選が成功したものと思ってもいいかもしれぬ。香織ではこうはいかない。
俊哉は車が来るたび、水たまりから水がはねるたびに傘でブロックした。一度も仕損じることはなかった。
そうして十五分ほど歩いたころだろうか。私は全く思いもよらないものに出会ったのである。
「君、こんな遅くに何をしているんだい?」
後ろから声がかかってきた。大人の男の声であった。男は片手に風船を持ち、もう片方の手に傘を持っていた。
雨の日になぜ風船を持っているのだろうと、その時いぶかったのを覚えている。
「買い物。牛乳を買ってこいって頼まれたから」
「牛乳を買いにか。あそこのコンビニへかい?」
「はい」
「あと十五分は歩かなくちゃならないじゃないか。大変だねえ」
「そんなことないです」
「ちょっと、そこのコンビニまで一緒に行こうじゃないか。退屈だろうし。ほら、お菓子をあげよう」
そういって男は菓子を取り出し、俊哉に上げた。
「ありがとうございます」
「それと風船も」
「ありがとうございます」
こいつは危険かもしれない、私はそう思った。しかしまだ吠えることをしなかった。本当にただ親切なだけの人かもしれなかったし、ただコンビニまで一緒に行って終わるだけだという可能性もなくはなかったからである。
「しかし君も偉いね。こんな遅くに家の人のために買い物に出かけたんだろう?」
「はい」
「君はこのあたりに住んでいるのかい?」
「じゃあ、掛巣小学校の子かな?」
「いいえ、尋常小学校の生徒です」
「そうか。尋常小学校か。いい学校だよね、あそこは。クワガタなんかがよく採れるだろう」
「はい」
「君はなんか採ったかい?」
「去年はカブトムシをとりました。ブランコの近くのクヌギについていたやつがいて。その時、カブトムシに小便を引っかけられたけど、でも網で捕まえました」
「へえ、そりゃ災難だったねえ」
「はい。カブトムシをとった後にはすぐ顔を洗いに行きましたよ」
俊哉は男が自分の武勇伝を聞いてくれるのがうれしいと見えて、饒舌になり始めた。
「そのカブトムシなんですけど、一度喧嘩させようとしたことがあって。でも、闘わせようとして放した後すぐに飛んで逃げちゃったんです」
「そりゃついてなかったね」
「でもたいしたことないです。それからも五匹だっけ、確か六匹ぐらい採りましたから」
そんなことを話しているうちに男が道を曲がろうとした。そこは確か、人気のない道へと続いているはずであった。コンビニは無論ない。
いよいよこれは危ない。ここぞとばかりに私は吠えた。腹の底から、喉を震わせて精いっぱい恐ろしく聞こえるような咆哮を浴びせた。
「どうしたんだろうね、この子は?」
「こらっ、静かにしてよ」
頼まれたって静かにしてやるものか。この男がレインマンに違いないのだ。この男が消えるまで、私は吠え続ける所存である。
「まあいいさ。それより、その六匹のカブトムシはどういう経緯で採ったんだい?」
「ああ。えっとですね……」
俊哉は疑いもなく男へついて行こうとする。無理もない。もとより俊哉はコンビニの居場所に詳しくない。歩いて三十分もかかるようなコンビニなど、あまり行くものではないからだ。車で連れて行ってもらうだけだから、道のことも曖昧にしか覚えていない。
言葉を話すことができれば。レインマンと一言、つぶやくことさえできれば俊哉も気が付くだろうに。しかし犬の声帯ではレの字も言えやしない。
私は俊哉の裾を口でくわえて引っ張った。しかし俊哉は邪険にそれを振り払った。振り払った際、足が私の顔に当たった。私は痛みに顔をゆがめ、しばしそこに立ちすくんだ。
俊哉はその間にもどんどん歩いて行ってしまう。レインマンと話しながら。
私はその時、ある情景を浮かべた。それはテレビでやっていた犬の様子で、犬が話すのだということで飼い主が動画に撮影したものだった。なんでもお母さんと言っているというのが飼い主の言だったが、なるほどそう聞こうと思えば聞こえないこともない。
犬が本来お母さんなどと言えるはずはない。確かにそのとおりである。しかし音程は理解できる。むしろ耳に関しては人間よりはるかに優れている。犬のほとんどは絶対音感を持っている。私もまた、例外ではない。この体になってから知った。
また人間は、耳こそよくないが、言語能力に関しては著しい発達を遂げている。たとえその言葉を明瞭に発していなくとも、それと理解することができる。外国の言葉なのにもかかわらず日本語のように聞こえたり、川の音をさらさらと表現できたりするのは、その発達した言語能力のおかげなのである。
とすれば、私がレインマン、という音程を鳴けば俊哉にもレインマンと通じるのではないか。
私はか細い、哀切を誘うような鳴き声と鳴いた。レインマンという音程を繊細に表現するにはこの寂しそうな鳴き声しかないのだ。
一度目は通じなかった。三度やっても振り向かなかったとき、やはりだめだ、到底レインマンとは言えないと思った。しかしそれでも続けて、五度目くらいに俊哉がぴたりと止まった。
それから俊哉は脱兎のごとく駆けだした。礼儀も何もない走り方だった。隣にいる男がレインマンだと気が付いたのである。
俊哉は私のそばを通り抜けた。そのあとを私は追いかけていった。
そのまま俊哉は自分の家の前まで逃げてきた。レインマンは追いかけては来なかった。多分、捕まえられる見込みはないと判断されたのだろう。
それから俊哉は家に帰った。とても外にもう一回出る気にはなれなかったのだろう。私もまた、その気にはなれなかった。
「お帰り。牛乳は?」
「買ってない」
「どうしたの?何かあったの?」
「不審者に声かけられた」
俊哉はレインマンに、とは言わなかった。それは正解だったろう。不審者に、と言った。方がよほど説得力がある。
美知子もさすがにこれには心配したらしい。これ以上俊哉に買い物に行けとは言わなかった。結局、その日は牛乳なしのシチューを食べた。
その翌日だった。尋常小学校で一人、行方不明になった女子生徒がいるという話がニュースで報道された。私はこの少女が、俊哉の代わりに誘拐されたのだと今でも信じて疑わない。
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