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第一章 お腹の中の蝶 Avoir des papillons dans le ventre
10.
しおりを挟む眉の上で切りそろえた前髪、太い黒色の縁の眼鏡、面長の野比のび太くんと言った風情の顔立ちに、天才少年めいた冴えた雰囲気を漂わせている。
「ごめんなさい」と僕は急いで扉を閉めようとした。
「葉くん、待って。紹介するよ」と田坂さんは表情をゆるめ、立ちあがった。「この子が、さっき話してた花ちゃんの従弟の、葉くん」
田坂さんは僕に近寄り、まるで転校生を励まして挨拶を促す教師みたいに、僕の両肩を掴んで自分のほうへ引き寄せるようにした。
「これが、漫画家の夛利ナオキ」と彼は僕の肩に手をのせたまま、右手の指で正面のひとを差す。
「これって」と漫画家は呆れたように言い、「はじめまして。ナオキーツ夛利の名前で、漫画家やらせてもらってます。よろしくお願いします。夛利ナオキは本名です」
腰をあげ、関西風の柔らかな抑揚で言う。Tシャツの前身頃には、顔の輪郭線のない『のらくろ』の眼鼻が大写しでプリントされている。
「はじめまして、一ノ瀬葉と申します。先生の作品はかねがね……大祖父の邸で撮影していただけて、光栄です」
僕の口元に、こらえても微笑がほころぶのは、田坂さんが僕を身内として扱ってくれたように思えたからだ。
「少しだけでも、お話を伺わせてもらえませんか。ただの興味本位で、差し支えがなければ、なんですけれども」とナオキーツ先生は、デレクターズチェアに掛けるよう僕に勧めた。
つまり彼が聞きたがったのは、古い洋館での暮らしぶりだった。僕がここで過ごしたのはせいぜい小学生までの休暇で、家政的な事柄については無能力なことを断ってから、階下の客間で自転車の練習をしたことや、夏の夜にはバルコンに寝台を並べてもらって、花といっしょに星を眺めながら眠ったこととか、クリスマスの日は、ツリーは立派だったけれど、お客を呼んでふるまった晩餐は、猪だとか鹿だとか狩猟肉の鍋料理で、とてもがっかりしたことなどを喋った。
田坂さんは、ナオキーツ先生との会話を遮らないよう相槌をうち、短く質問をし、機嫌のいい様子をしていた。どこかと連絡を取り合っているらしく、ときどきラップトップの画面を斜めに見て、キーボードを叩く。
たまに眉根をくもらせもしたので、さっきの重苦しい空気は、夛利ナオキとの情緒的な問題のせいではないと察せられて、僕は大いに安心したのだった。二人の仕事にまつわる案件で、僕には関係がないとさえ、考えもしなかった。その時は。
後になって、僕まで巻き込まれるはめに陥るなんて、想像すらできなかった。
ナオキーツ先生が携帯電話を取って、「ごめん、ちょっと」と席をはずした。
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