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第四章 7時から5時まで De 7 à 5
14.
しおりを挟む正直なところを白状すると、僕は彼と対峙しながら、彼がもう一度口づけてくれたらいいのに、と淡い期待を抱いていた。我ながら、その悠長さに呆れもする。が、立場が変わらなければ見えない事柄は多いものだ。
「ゆっくり呼吸をして」と彼が穏やかに言った。「少しは落ち着いた?」
同様の質問を、ナオキ先生にもされたばかりだったのを思い出す。結局、僕は落ち着けず、焦ってばかりいる。
「メイン料理が冷めるから」と僕は言い訳がましく返答した。
「ウィ、ムッシュー」と田坂さんは僕を解放し、「それは一大事」
僕は、相手を慮ることのない、無遠慮で、押しつけがましいお喋り——会話ではなく——に興じていたことに気がついて、次に何を言えばいいのか困惑し、にわかに気恥ずかしい気持に陥ってしまった。
「味付けは、塩と胡椒だけ」と、僕はさっきより小さな声で言った。
サンドイッチをスプーンとフォークに挟んで、小皿に取り分ける。フィリングのフィレ肉は、上手にレアに焼けたので、赤身の肉の色がとてもきれいだった。
十枚切りの食パンは軽くトーストし、たっぷり発酵バタを塗ったので、小麦の香りや味わいと合わさって、パンだけでも充分に美味しい。ステーキの厚さは三センチ。以前に食べに行った、鉄板焼きの店で提供しているサンドイッチの真似をした比率だ。
「このまま、手に持って食べていい?」と田坂さんが尋ねた。「せっかくのサンドイッチだから」
「うん、どうぞ」
彼はお利口さんの子どものように、真四角に四等分されたサンドイッチを、両方の手を揃えて持った。グラビアや映画の撮影では、あんな幼稚な仕草を人眼に晒すことはなかったに違いない。
僕は彼を微笑ましく眺めながら——ある種の特権意識をもって——、ナイフを使ってサンドイッチを小さく切った。口に運ぶのをためらってしまうのは、彼と食事をするのが初めてだから。
「どうかな?」と僕は、やっぱり、黙っていられなくて彼に訊いた。「いいお肉だから、どんな扱いをしても美味しいはずだけど……それに、こんなにバタの染みたトーストより、もっとパリッとしてた方が好みだった?」
「ステーキとなじんで、いいと思う。赤身肉の嚙みごたえも、好きになれそう」
「安心した」
「安心と言えば」
そう言って、田坂さんは、客間での全体周知ののちになされた、怪文書への対処の進捗状況を話してくれた。
それから、僕に何冊もの本のレジュメを頼んだのは、これから執筆する小説の準備のためだということも。題材は、シェイクスピアの四大悲劇の一つ、『マクベス』のモデルになったスコットランド王だと言った。
スコットランドの歴史や、イングランドの介入、自然、政治、魔女裁判など、色々と教えてくれたのに、その時は非常に面白く聞いていたのに、残念ながらほとんど記憶に残っていない。
実のところ、初めて二人きりで夕食を摂るからばかりでなく、僕は食べるのが遅くて、しかも上手じゃないから、よけいに緊張していたのだった——少しでも遅れないよう、食べるのに一生懸命にならないといけないから、会食は苦手なのだ——。おまけに、あいづちを打っていたから、なかなか食べ進められなかった。
「その小説の企画は、もう出版社に出してあるの?」と僕はやっとサンドイッチを片づけ、小皿を脇へ寄せて尋ねた。
田坂さんのお腹も、落ち着いたようだった。
「地方の、小さな出版社にね。僕と同年代の三人が立ち上げた会社なんだけど、出版以外の活動も発想が素晴らしくて、ぜひ一緒に仕事をしたかったんだ」
「微力ながら、お手伝いできて、光栄」と、僕はケーキ屋さんの紙のバッグから、お菓子を取り出そうとして、はっとした。ここへ運ぶ時にも、かすかな違和感はあったけれど、まさかギモーヴが全部なくなっているとは、思いもしなかった。
「しまった、泥棒にやられた!」と僕は、ほとんと叫ぶように言った。
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