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彼の素顔とダークなケーキ

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「あの男、いつかの雨の夜も、律を送ろうとしてたよな。自宅に呼ばれるほどの仲になったのか」
「え、なんかそれ、見当違い……きゃっ」


 掴まれた手首に力が込められて痛い。


「お前は、律は、俺の………」
「ま、待って待って!話を聞いてよぅ……っふぁ、いた……っ」


 左の胸を鷲掴みにされて、息が止まるかと思った。目に涙が浮かぶ。


「律………」
「っもう!聞いてってば!」
「なに」
「あのねぇ、店長はねぇ………んっ。やっ、唇、邪魔ー!」
「へぇ、言うようになったね」
「やぁっ!だ、だからぁ。………ぁっ」
「何だよ」
「て、店長は、こ、子持ち……っ」
「はぁ?!コブ付きかよ!」
「や、ちが、………お、奥さんも、ちゃんといる……っふ」


 その、胸を揉み続ける手を止めて欲しいよ。


「俺の律と不倫志望か、いい度胸だ」
「だーかーらー!」
「…………なに」
「店長夫妻はラブラブなのっ!赤ちゃん産まれたから、今日はたまたま見せてもらったのっ!もう!わかった?!あと、雨の時はあれだけの豪雨だったから、あれもたまたまなの!」
「……………」
「わ、わかりましたかっ?!」
「あー。はいはい」
「“はい”は一回!………やん」
「律のくせに随分生意気だな?」


 今度は絶妙な力加減で胸の上で手のひらが円を描く。やだ。もう話は終わったのに。目がまだ怖いよ?

 ていうか、彼ってこんな性格だったっけ?なんか、付き合い始めてから違う面が見えてきたような気がする。前はもう少し掴み所がないというか、飄々としてたと思うんだけど。こっちが、本当?


「そ、それより、ねぇ。どうしてうちにいるの?」
「律を充電しに来てるに決まってるだろ」
「何ですか、それ」
「最近メールも素っ気ないし、声も聞いてないから色々心配だったんだよ」


 あれ、横向いちゃった。


「ごめんなさい。自分のことばっかりで忙しくて」
「いや、俺も忙しいっていえば忙しいんだけど、こんなに近くに住んでるのに会えないってのがさ。最近堪えるんだよ。この間もここに来てみたら、ぐっすり寝ちゃってるし」
「………え?来てた?いつ?」
「ん?先週」
「そういう時は起こしてよ!」
「うん。次からそうする。やっぱり無反応じゃ触り甲斐がないからな」
「さ、触り甲斐って………」
「うん。ちょっとだけ触って帰った」


 何やってんの!


「え、瑛士くんのヘンタイ……っ」
「折角来て、タダで帰れるかよ」


 おかしい。このひと、別人じゃないんですか?
 こんなにエロいひとだったかしら?
 


「いいじゃん。起きなかったし。下半身は触ってないし」
「あ、当たり前……っ」
「………さてと。俺も明日仕事だから、今日は帰るよ。充電がイマイチ足りないけど、ここで襲うわけにもいかないからな」


 私の頭をぽんぽん、と叩く。


「あっ!そうだよ、お腹すいた!」
「………律、お前、それは彼氏に言うことか?」
「だって、もう九時なんだよ?」
「はいはい。じゃあ、下に行くか」


 呆れたように笑うけど、おやつも食べてないんだからね。

 そうしてそのまま玄関で彼を見送り、ようやくご飯にありつけたのだった。

 ご飯の後、私は無性にケーキを焼きたくなっていた。疲れてはいるけれど、たまにはストレスを解消しなくちゃ。出来上がったらまた明日、彼に届けてあげよう。バイトの前に一度帰って、冷蔵庫にそうっと入れに行こう。喜んでくれるかな。


 『黒い森のケーキ』は、ココア味のスポンジを焼く。サワーチェリーを生クリームとともに挟み、周りは白いクリームを塗ってココアの生地を完全に隠してしまう。ケーキの一番外側にチェリーをぐるりと飾ったら、あとは真ん中に向かってセミスイートの削りチョコレートをパラパラと沢山重ねる。仕上げに削りチョコレートの上から粉砂糖をふりかけて出来上がり。


 このケーキをホールのまま届けよう。どうせ伯母がいなくても自分で切って食べるのだろう。切ったら、きっとびっくりする。中は真っ黒なんだもん。
 最近、彼がちょっと黒いような気がするから、これは私からの軽いジョーク。

 彼がケーキを切った時の顔を思い浮かべたら、疲れが嘘みたいに消えていた。今の私には、これが幸せ。

 いつか沙梨さんたちのように、幸せの形を変えていけるよう、そこに向かって出来る限りの努力をしよう。


 私は、二十一歳の誕生日を迎えようとしていた。


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