彼女をぬらす月の滴

内山恭一

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あかさは珍しくノートを広げていた。
その行為そのものは高校生らしく勤勉な姿であり当然なのだが、最近ろくすっぽ書き留めることをしなかったあかさにとっては極めて新鮮で特異な行動なのである。
あかさの清潔感たっぷりなノートは、しかし彼女の心そのままを写していた。
シャーペンの先は文字の途中でかすれ、行き先を今も彷徨い続け、結局遊んでいた。
現国の教師の解説する声をすり抜けて耳に届く、シャーペンだか鉛筆だかのカツカツ言う音はあまり好きではなく、専らあかさの耳は朝から降り続く雨だれの音が心地よく響いていた。
「ここ、大事なところだぞ」
教師の声に呼応して、あの嫌な感じの音が増した気がした。
おそらくかつて高校受験の際には自らもあの音をさせていただろうに、今では紙が悲鳴を上げている音に聞こえてしまう。
教科書に大きく丸でポイントを記すと、
「ふぅ」
大きくため息をつくあかさだが、もちろん誰にも気づかれないように注意を払っていた。
あかさのペン先が、勉強していますとパフォーマンスよろしく動き出し、再びノートに静かに糸くずを書き足すのである。
ただ、今度は文字としての意識がそこにあった。
(彫刻を住みかとして、楽しさという感情を拠り所とする未知の存在)
我ながら語呂がいいと少し得意げに目を開いてニンマリする。
少し違うか…。
未知を二重線で消し、その隣に既知と書き直すと、ペンを置いて頬杖ついた手をもう一方に替えた。
あの奇妙な猫は、姿かたちのみならず、そもそもあかさの夢から生まれたのだから、既知どころではないのである。
まだよく知らない相手であるのに、友人であり、自分が創造主なのだ。
変な話である。
ついでに、まだよく知らない相手と言えば、これもだよねぇ、とちらりとあかさは隣で眠りこける男子の顔を覗き見て思った。
よだれを垂らしていてもおかしくない緩んだ寝顔の男子、佐村はあかさより数段上手く睡眠をとっていた。
背を伸ばし、腕を組み、首を垂れるその姿はきっと正面からは教科書に見入っているように見えるだろう。
感心するが、真似はしない。
とりわけあの緩んだ顔つきは人に見せられる類のものではないと自分に当てはめて考えていて、それゆえあかさはその気持ちよさそうな寝顔に見入ってしまうのだった。
知り合ってから二か月と少し。
隣の席という関係で、最近よく喋る間柄になっていた。
加織やひさきと過ごす休み時間は楽しいし、それなりに会話の時間は長いと思うのだが、授業中も含めると佐村との会話がぐんっと増えてきて、心の中の天秤に乗せられた錘が少し増えてきたと感じている。
といっても、佐村が話す相手はあかさだけでなく周囲にもいるので、特別に何か思うことはない。
充実した高校生活を送れていると言えた。
だが、佐村はもとより、加織やひさき以上に気が置けない間柄と言えるようになったのが、ちかやとしおんである。
彼女たちの顔はもう思い出そうと頑張らなくてもすぐに浮かんでくる。
ちかやは無垢な笑顔が印象的で、その逆にしおんは何かしらちかやに冷ややかな視線を向けている顔が特徴的だ。
思い出すと言えば…。
あかさはもう一つ、ため息をついた。
本来なら知り合って一か月でこれほどまで近しい関係になれたのだから喜んでしかるべきことなのに、あかさには両手を上げてそうできない理由があった。
ちかやのする挨拶に重大な人的欠陥があったのだ。
まぁ、本気で怒ることでもないけど、ね。
彼女なりの挨拶なのだと考えれば、理解できないこともないわけではない、かもしれない。彼女寄りの解釈をしてしまいがちなのは、やはり彼女の無邪気な笑顔を前にするとこちらも笑顔になってしまうほどに魅力があるから。
最近は反応しないように心掛けているが、なんだかそれも助長しているような気さえしてくる。
しおんがそれを見て、冷水を浴びせるような冷たい視線をちかやに投げるのだが、これもこれでその意味を測りかねていた。
ちかやを諌めるでも諭すでもなく、なんというか…、とにかくあのじとっとした目つきを見てしまうとあかさは苦笑いで誤魔化すはめになる。
ちかやが男だったら、と再び佐村の寝顔を見る。
あかさと彼が普段とる間合いがちかやとも同じだったなら、と思うのである。
男らしいさっぱりした格好よさがちかやの持ち味なのは間違いない。
一方のしおんはというと、可愛い外見から想像するしとやかさとは裏腹に、心にづけづけとやってくる。
四文字熟語なら、猪突猛進とか、単刀直入とか…。
他にもっと高校生らしいの思いつかないかね、とあかさは自分に呆れてシャーペンをトントンとノートの上で弾ませた。
良い意味で、彼女たちは対照的なのだ。
行動がストレートなちかや、物言いがストレートなしおん。
そう言い切れるほどにしおんの言葉は唐突で、答えに窮することしばし。
せめて話の流れを作ってくれれば多少ありがたいのだが、そこはお構いなしである。
ハッとして笑みを見せるあかさは、ノートにスラスラと「内弁慶」と書き加える。
漢字を間違えずに書けたことを喜んだが、これは四字熟語じゃないよね、と頬杖のまま一人うなずいていた。
「ちょっと話は変わるが、みんな、万里の長城は知ってるよな?聞いたことあるだろ」
教師の呼びかけに、あかさの頭がすばやい反応を見せた。
壁。
そう、壁が欲しい。
ちょっと躊躇う程度の、見せかけ程度の壁があればいい。
ちかやとしおん、それに自分の間にはもう壁もドアも、見えないバリアもない。
それほど夢の世界は彼女たちの壁をあっという間に取っ払い強く結びつけていて、打ち解けていく時間が早い分、現実世界で急いでそれを受容しなければならないわけで功罪も強烈だ。
加織やひさきのような、大人っぽい対応を彼女たちに望んでいるあかさだった。
「君たちもじきに漢文の勉強をすることになる。四面楚歌とかな」
ちかやとしおんに挟まれて、二面楚歌だな。
それなら内憂外患の方がぴったりか?
あかさは満足げに頷いた。
そんな彼女たちとは毎週末会っていて、明日もきっと会うのだろうと、楽しみにしていた。教師の話はあかさの耳に届かなくなる。
雨は見るのは好きだけど、振られるのは嫌なんだよね、とあかさはちらりと窓の外を気にした。
どんよりとした雲が垂れ込めて、あかさは帰り道で靴が濡れなければ良いけど、と空を恨めしく眺めた。
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