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あかさはちかやの挨拶に当然怒っていて、しかし場所をわきまえないことにだけ腹を立てていた。
顔から火が出そう。
バスを降りるところを狙ってくるかも、という万に一つ、億に一つの予測はしたものの流石にそんな所でしないだろうと、そう思い込んでいた自分自身にも怒っていた。
いくらなんでも、恥ずかしい。
あかさはちかやを叱るよりもまずはバス停から離れることを優先して走り、その姿はきっと逃げるようだったに違いない。
そして今、こうして雨が降る中傘もささずにちかやに説教しているのである。
昼過ぎでバスを利用している客が少なかったのが不幸中の幸いだが、もう自然とそう考えている時点でちかやに負けているとあかさは気づいていない。
傘を差そうと手を上げた矢先だった。
手を上げた途端、
「うにぃ!」
と耳にする人たちも表現に困る声を上げるあかさ。
背後から伸びる両手が脇をすり抜け、あかさの胸を揉みしだく。
こんな突飛な「挨拶」をするのはちかやしかおらず、くすぐったさに身もだえし、脇に力が籠ってしまうとますます彼女の思う壺だった。
あの声、あのタイミング、ホントに恥ずかしい…。
だから、どんなにちかやの進撃を防ぐ確率を上げようと努力しても、一撃でもくらわされるとその威力は強大なわけで、撃退率を上げようとちかやの声を聞けば脇を締めるとか、待ち合わせでは壁を背にしておくとか、様々に奮闘しようが、ちかやが「挨拶」を成し遂げれば彼女は満足し、逆にあかさは徒労に力が抜けてしまう。
結果、完全防備は幻想に過ぎないのだと悟り、ちかやの好きにさせるというのも一つの対抗手段でもあるが、どうしても反応を見せてしまうのは女の性である。
もちろん、鼻から好きにさせるつもりは毛頭ない。
「ごめんって」
あかさが濡れないようにちかやが傘をかしげて後をついて行く。
声だけでちかやが楽しそうだというのがわかる。
もしかして、ちかやの性って男のそれ?
プイッと一応は怒って見せるあかさであるものの、ちかやがこんなことで懲りないのは身をもって知っている。
これは一つの通過儀礼であり、欧米人のハグであり、ちかやに言わせると挨拶に過ぎない。
「もう!」
ようやく顔のほてりが収まりかけて、あかさはこれ以上言っても無駄と、あきれ顔のまま話を変えることにした。
「今日は練習終わりなの?」
「うん、そう。バスケのことだよね?終わり」
と、悪びれる様子もなく、隣に並ぶと楽し気に答えた。
話なんか変えられない…。
大きくため息をついて、
「なんでいつも私だけなのよ」
「え?何が」
ちかやの本気か演技かわからない表情に、あかさは毎度困惑する。
「あの…。その…、モミモミよ!」
「しおんに?何で」
さも当然といわんばかりの真顔で質問に質問で返されて、あかさは頭を抱え絶句した。
「なんでしおんにはあの挨拶をしないわけ?」
皮肉たっぷりに呆れて見せたあかさだが、ちかやには通用しないと悟るはめになった。
「だって、しおんには何もないんだから」
ドン、ドン、と太鼓が鳴るように傘が音を出して、無数の雨滴がちかやの肩を濡らした。
ギクリとしてあかさとちかやが立ち止まると、その背後から近づく影が一つ。
雨が傘を打つ音がどこかスリリングである。
「やばい」
それ以上振り返りもせず、傘を置いて行かずに全力で走りだすちかやの後ろ姿に野生の本能を感じる。
二度も雨に濡れてるんですけど?ちかや…。
「いつからいたの?」
「モミモミの辺りから」
自分の傘を開こうかと思うより早く、しおんの傘があかさの頭上にかぶさった。
声音からの想像通り、しおんは怒った表情を見せていて、あかさはちかやを恨めしく目で追った。
「どうしたらそんなに…、なるの」
今度は真顔になっていて、あかさは引きつった笑顔をするのが精いっぱいだった。
「ちかやだってたいして無いくせに」
と、聞こえるような聞こえないようなつぶやきをまだ口からこぼしていて、怒られているのはちかやのはずが、何故だか当てこすられた気分になる。
ちかやはしおんの家の玄関先で待っているのだろう、すっかり姿が見えない。
もうあと少しでしおん宅であるが、何だろうかこの緊張感は…。
ちかやは割とわかりやすい性格であるのに対して、まだしおんがどんな人物像なのかつかめない。
勉強ができるような感じは二人からあまり感じないのだが、通う学校の印象からすればあかさよりは良いのだろうと推測している。
ちなみに、比べる相手があかさというのがそもそも間違っていて、それは卑下するでなく明晰に自身でも理解できているし、悔しくも恥ずかしくもないと気に留めない。
少なくとも、しおんはペラペラと饒舌に喋り捲るようなタイプではなく、熟考してから話を始めているように見えた。
その点は小説を書く彼女らしいと合点がいくことでもあり、少し間がずれている感じは特徴として悪くないのだが、感情の起伏が激しいくせに表情が案外ストレートではないこともままあって、あかさは気難しさを感じている。
ツインテールであり、可愛い顔立ちとあって、仲良くなってから知るそのギャップが魅力と言えばその通りである。
まだ、何やらぶつくさと呪文のように唱えるしおんを見て苦笑するあかさは、流れていく雨雲を見上げて、
「今日は止みそうもないね」
「そうだね」
と、存外話すといつものしおんに戻っていて、あかさはまた驚いてしまう。
ホッと胸をなでおろし、ようやく自分のペースを取り戻すと笑顔が自然とわいて来た。
「迎えに来てくれたの?」
「さっきまで買い物に出てたから、そのついでに」
あかさを驚かせようと企んで、その実驚いたのだが、その張本人がしおんに驚かされてしまうという結末に、あかさは面白い関係性を見た気がした。
もちろん、部外者として、あるいは話のネタとして聞く分には面白いのであり、(傍から見ているなら)という注釈つきである。
バスの乗客や運転手に顔を覚えられていないか、急に心配になるあかさ。
「最近偏ってるよね、トリップ」
「やっぱり?そう思う」
「お菓子の国かゲームの世界ばっかり。悪くはないんだけど、立て続けだとちょっと、ね」
「原因はあいつだね」
しおんの目線の先にはちかやの姿があった。
悪びれる様子はなく、至ってにこやかで二人が来るのを待っている。
「遅いぞ、もう」
茶目っ気たっぷりのちかやに、
「自分のせいでしょ」
しおんはどうやらもう怒ってはいないらしく、いつものように二人を部屋へ引き入れた。
ここ数回は梅雨の走りの雨模様でトリップせずに、しおんの部屋に集まって話してばかりいる。
それはそれで楽しいし、自分の願望は相も変わらず見えてこなくとも、二人の夢を垣間見ることができるトリップは、あかさにとっても存分に楽しめるものだった。
もちろん観察だけでなく、二人の知らないところでトリップの監視役を密命としているあかさにとっては、やはり二人のことをもっともっと知っておきたい気持ちもあって、最近のように好奇心に従って話があっちこっちに膨らんでいく時間はありがたかった。
二人はトリップしたいのだろうとあかさは考えているのだが、わざわざ雨に濡れて歩き回るのは気が引けるし、意外にもトリップにこだわる風でもなくさっぱりとした反応を見せる。
「お菓子買って来たよ。お茶入れてくる」
「やったー」
「て、ちかや。手ぶらに見えるんだけど」
「何か持ってくるって、胸張ってたよね。そういえば」
笑顔のまま動きが固まるちかや。
汗でもかいていそうな場面であるが、
「忘れた」
と、上目づかいで可愛い子ぶる。
そんな姿を初めて見るあかさはドキッとして、まだまだ知らないことばかりで楽しくなって笑い声を上げた。
苦笑してしおんが部屋を出ようとしたその背に、
「できればケーキがいいなぁ」
忘れた時点で引いておけばいいのに、しおんの買い物袋の形状から察するにそれはないだろうと、しおんの顔色を窺った。
しおんは足を止め、振り返るや腰に手を当てて、
「あると思ってたの?」
「うん」
屈託のない、幼稚園か小学生低学年のようなニンマリとした顔つきのちかやの受け答え。
一悶着ありそうな予感に臆すことない二人のやり取りは、やはり時間をかけて培われた仲の良さがあることを知らしめた。
しおんの呆れ顔はお母さんが駄々をこねる子に向けるそれだとあかさはまた笑った。
「どこにあるの?教えて」
「隣のお店にいっぱいあるじゃん」
「そのお金はどこにあるの?」
ペロッとわずか舌を出しておどけるちかやを他所に、しおんは踵を返して消えていく。
やはり二人といると面白くて楽しくて、もっといろんなことを知りたい欲求がふつふつとわいてくるのだった。
今のやり取りすらなかったことのように、しおんの買い物袋からお菓子を取り出しポンポン開けていく。
自分が出資したわけでないのに全く潔い。
感心しながらあかさも自分が持ちよったお菓子を真似してどんどん開ける。
前回もそうだったが、ちかやはあかさとしおんのお菓子の山に便乗しきってる状態である。
お小遣い、何に使ってるんだろう?
きっと食べ物だろうけど、と自問自答でちかやを見る顔がほころんでしまうのは、ちかやの魅力に他ならない。
運動しているからだろうけど、筋肉質というわけでもないし、痩身とは言わないがすらりとして気になる体である。
「どうかした?」
と、ポリポリともうすでに口に何か入れているちかや。
「はやっ」
「お腹空いちゃって。いくら食べても足らない感じ」
と、再度お菓子を口にする。
「昔っから?」
「何が?」
「お菓子…。いや、バスケは?」
「中二から。その時はヘルプで出ただけで、本格的には三年になってからかな」
「練習、きついんじゃない?」
「まぁね、それなり。楽しいからさ。でもやっぱきついのかな。食べても間に合わないって感じ」
あっけらかんとして大変そうに全く思えないが、きっと本当はすごい練習量なのだろうと察した。
それよりもちかやの頑張りに感服せずにはおれないあかさだった。
「だから、トリップする先は食べ物が多いんだね」
えへへ、と褒められたわけでもないのに照れるちかや。
「あとゲームね。」
「そんなに好きなの?」
あかさは友達同士で携帯で遊ぶことはあるが、加織は興味を持っていないようだし、ひさきはそもそもそれができない携帯なので、そんな関係でむしろ疎いくらいだった。
「息抜きね。何にも考えないからさ」
「そんなものかな」
「私はね。だからたぶん私のトリップ…」
「そう、ちかやのせいだね」
言葉を遮り、しおんが堂々の入場を、ではなく、カップを乗せたトレイを手に慎重さの伝わる動きでやってくる。
しおんとしては、初回以降一切自らの描いた小説の世界に出会えていないのが面白くないのかも知れない。
「でも楽しそうじゃんか」
「うん、まぁそう」
と、コロリと表情を変えて笑うしおん。
実際あの特別な世界を共有できるという事、さらには人の夢の世界を味わうというのは、あかさだけでなくしおんにも楽しいことなのだと思えた。
今思い出しても嬉しくなるようなあの味覚と食感。
子供のころに憧れた牛乳風呂を得る、もうそれを今は求めはしないのだが、当時をもってしてもそれ以上の格別な体験だ。
ケーキのお風呂というと違和感が甚だしいが、ちかやにすればそれくらいに喜悦に富んだ感覚。
お菓子の国というのがぴったりくるのである。
三人がそれを思い出しているのだろう、奇妙な沈黙が場を支配した。
「他の人の夢も見てみたい、よね?」
多少の違いはあれど必ず誰かが口にする台詞だった。
虜。
複雑に絡み合う互いの世界。
絡んだ糸をほぐしていく一見するだけでは単純で、しかしそこには人の思考が蜘蛛の巣のように美しく模様を描く。
その魅力に囚われるなという方が難しい。
だが、あかさはいつも慎むように念を押していた。
何が起こるか、まだ全てが分かっているわけでない、そんな気がしていた。
そこに何の考えもなしに、他人を誘いこみ、もし何かあってからでは困るだけでは済まないはずだ。
出口の見えない迷宮に裸で乗り込むのは、少し後ずさって俯瞰してみてみれば、いかにも危うい行為である。
あかさと目が合ったちかやは、
「わかってるって。ちょっと言ってみただけ」
と、口直しとばかりに違うお菓子に手を伸ばす。
そもそもどうすればトリップできるようになるのか、まだわかっていない。
自分たちのことを考える場も設けたが、共通項に乏しく偶然としか思えなかった。
あの世界の住人である思念の塊、フジに問うてもわからないというばかりで、またカピバラも同じらしかった。
棒だか杖だかなんて言えばいいか困る、しおんはタクトだと言い切る思念。
変な話で、そんなものが喋ること自体不可思議で可笑しなことなのだが、その彼あるいは彼女もまた同様に知らなかった。
「そういえばさぁ」
しおんが丸めて仕舞った紙、質感からするとポスターだろうか、大き目の筒を取り出して続けた。
「こういうの、あるんだって」
サラリと広げられたその紙には、話の見えてこないイベント告知の情報が載っていて、
「何?アニメファンなの」
確かにその広告ポスターは見かけたことのあるアニメキャラとそれに関する情報が掲載されており、展示物のイベント告知らしいそれは、しかしすでに終了している日付を記していた。
慌ててしおんが、
「違う。コレクターじゃないから」
と否定する。
そう言われれば皴一つなく、綺麗に大切に保管してあるようだ。
「そうじゃなくて。ここ、ここを見て」
しおんが焦って指さすそこには会場の地図が描かれていた。
「湖面ホール?」
「知ってるけど…」
街に暮らす人なら、「あぁ、あそこね」とピンとくるほどのイベント会場である。
「ここ、よく見て」
「彫刻展示室?」
小さく記載されていて、流し見るだけでは見逃してしまうほどであるものの、確かにそう書かれていた。
「これが、何?」
覗き込むあかさとちかやは顔を見合わせた。
「室よ。し、つ」
なるほどと言わんばかりの、納得したという顔を上げる二人。
「二人とも、この街の住民じゃないの?」
全くの盲点だったが、野外彫刻を標榜していることからして、屋外ばかりと思い込んでいた。
眉を読まずとも得意満面、腕組するしおんに、ちかやは動じることなく、
「最近知ったんでしょ」
しおんはニコリとして、
「せいかーい。これ見るまで、気づかなかった」
はしゃぐやり取りであかさも楽しくて仕方ない。
やっぱりこの二人と会えて良かったと、笑みがこぼれた。
「今、やってるの?展示」
「そうみたいだよ。で、どう?」
やや沈黙があって、まるで行きたくないかのようにも思える間だが、耳を澄まして雨音を聞き取ろうとしていたのだった。
来る時と同じくらいの雨の強さを感じ取り、それは気おくれするに値しない。
あの湖のある公園、その湖の畔にあり、方角でいうとここからはあかさは家方面へ逆戻りすることになるが、
「行ってみようか」
パリッと軽く砕ける音を立ててちかやが菓子を口にしながらそう言うと、もう流れは決まったようだった。
今日は何だろうとわくわくするし、ぞくぞくもする。
それはあかさだけではないと顔を見ればわかった。
きっとすぐに出発することになるだろう。
折角入れてくれた紅茶に口もつけずに行くことになり、焦りがちに口にして少しやけどしてしまうあかさに、
「猫舌?」
「おもしろニャンコだし」
「うん、猫だね」
悶えて喋られないあかさをネタに好き勝手に話す二人。
カップは湯気を上げて楽しげに喋りながら支度した三人を見送った。
顔から火が出そう。
バスを降りるところを狙ってくるかも、という万に一つ、億に一つの予測はしたものの流石にそんな所でしないだろうと、そう思い込んでいた自分自身にも怒っていた。
いくらなんでも、恥ずかしい。
あかさはちかやを叱るよりもまずはバス停から離れることを優先して走り、その姿はきっと逃げるようだったに違いない。
そして今、こうして雨が降る中傘もささずにちかやに説教しているのである。
昼過ぎでバスを利用している客が少なかったのが不幸中の幸いだが、もう自然とそう考えている時点でちかやに負けているとあかさは気づいていない。
傘を差そうと手を上げた矢先だった。
手を上げた途端、
「うにぃ!」
と耳にする人たちも表現に困る声を上げるあかさ。
背後から伸びる両手が脇をすり抜け、あかさの胸を揉みしだく。
こんな突飛な「挨拶」をするのはちかやしかおらず、くすぐったさに身もだえし、脇に力が籠ってしまうとますます彼女の思う壺だった。
あの声、あのタイミング、ホントに恥ずかしい…。
だから、どんなにちかやの進撃を防ぐ確率を上げようと努力しても、一撃でもくらわされるとその威力は強大なわけで、撃退率を上げようとちかやの声を聞けば脇を締めるとか、待ち合わせでは壁を背にしておくとか、様々に奮闘しようが、ちかやが「挨拶」を成し遂げれば彼女は満足し、逆にあかさは徒労に力が抜けてしまう。
結果、完全防備は幻想に過ぎないのだと悟り、ちかやの好きにさせるというのも一つの対抗手段でもあるが、どうしても反応を見せてしまうのは女の性である。
もちろん、鼻から好きにさせるつもりは毛頭ない。
「ごめんって」
あかさが濡れないようにちかやが傘をかしげて後をついて行く。
声だけでちかやが楽しそうだというのがわかる。
もしかして、ちかやの性って男のそれ?
プイッと一応は怒って見せるあかさであるものの、ちかやがこんなことで懲りないのは身をもって知っている。
これは一つの通過儀礼であり、欧米人のハグであり、ちかやに言わせると挨拶に過ぎない。
「もう!」
ようやく顔のほてりが収まりかけて、あかさはこれ以上言っても無駄と、あきれ顔のまま話を変えることにした。
「今日は練習終わりなの?」
「うん、そう。バスケのことだよね?終わり」
と、悪びれる様子もなく、隣に並ぶと楽し気に答えた。
話なんか変えられない…。
大きくため息をついて、
「なんでいつも私だけなのよ」
「え?何が」
ちかやの本気か演技かわからない表情に、あかさは毎度困惑する。
「あの…。その…、モミモミよ!」
「しおんに?何で」
さも当然といわんばかりの真顔で質問に質問で返されて、あかさは頭を抱え絶句した。
「なんでしおんにはあの挨拶をしないわけ?」
皮肉たっぷりに呆れて見せたあかさだが、ちかやには通用しないと悟るはめになった。
「だって、しおんには何もないんだから」
ドン、ドン、と太鼓が鳴るように傘が音を出して、無数の雨滴がちかやの肩を濡らした。
ギクリとしてあかさとちかやが立ち止まると、その背後から近づく影が一つ。
雨が傘を打つ音がどこかスリリングである。
「やばい」
それ以上振り返りもせず、傘を置いて行かずに全力で走りだすちかやの後ろ姿に野生の本能を感じる。
二度も雨に濡れてるんですけど?ちかや…。
「いつからいたの?」
「モミモミの辺りから」
自分の傘を開こうかと思うより早く、しおんの傘があかさの頭上にかぶさった。
声音からの想像通り、しおんは怒った表情を見せていて、あかさはちかやを恨めしく目で追った。
「どうしたらそんなに…、なるの」
今度は真顔になっていて、あかさは引きつった笑顔をするのが精いっぱいだった。
「ちかやだってたいして無いくせに」
と、聞こえるような聞こえないようなつぶやきをまだ口からこぼしていて、怒られているのはちかやのはずが、何故だか当てこすられた気分になる。
ちかやはしおんの家の玄関先で待っているのだろう、すっかり姿が見えない。
もうあと少しでしおん宅であるが、何だろうかこの緊張感は…。
ちかやは割とわかりやすい性格であるのに対して、まだしおんがどんな人物像なのかつかめない。
勉強ができるような感じは二人からあまり感じないのだが、通う学校の印象からすればあかさよりは良いのだろうと推測している。
ちなみに、比べる相手があかさというのがそもそも間違っていて、それは卑下するでなく明晰に自身でも理解できているし、悔しくも恥ずかしくもないと気に留めない。
少なくとも、しおんはペラペラと饒舌に喋り捲るようなタイプではなく、熟考してから話を始めているように見えた。
その点は小説を書く彼女らしいと合点がいくことでもあり、少し間がずれている感じは特徴として悪くないのだが、感情の起伏が激しいくせに表情が案外ストレートではないこともままあって、あかさは気難しさを感じている。
ツインテールであり、可愛い顔立ちとあって、仲良くなってから知るそのギャップが魅力と言えばその通りである。
まだ、何やらぶつくさと呪文のように唱えるしおんを見て苦笑するあかさは、流れていく雨雲を見上げて、
「今日は止みそうもないね」
「そうだね」
と、存外話すといつものしおんに戻っていて、あかさはまた驚いてしまう。
ホッと胸をなでおろし、ようやく自分のペースを取り戻すと笑顔が自然とわいて来た。
「迎えに来てくれたの?」
「さっきまで買い物に出てたから、そのついでに」
あかさを驚かせようと企んで、その実驚いたのだが、その張本人がしおんに驚かされてしまうという結末に、あかさは面白い関係性を見た気がした。
もちろん、部外者として、あるいは話のネタとして聞く分には面白いのであり、(傍から見ているなら)という注釈つきである。
バスの乗客や運転手に顔を覚えられていないか、急に心配になるあかさ。
「最近偏ってるよね、トリップ」
「やっぱり?そう思う」
「お菓子の国かゲームの世界ばっかり。悪くはないんだけど、立て続けだとちょっと、ね」
「原因はあいつだね」
しおんの目線の先にはちかやの姿があった。
悪びれる様子はなく、至ってにこやかで二人が来るのを待っている。
「遅いぞ、もう」
茶目っ気たっぷりのちかやに、
「自分のせいでしょ」
しおんはどうやらもう怒ってはいないらしく、いつものように二人を部屋へ引き入れた。
ここ数回は梅雨の走りの雨模様でトリップせずに、しおんの部屋に集まって話してばかりいる。
それはそれで楽しいし、自分の願望は相も変わらず見えてこなくとも、二人の夢を垣間見ることができるトリップは、あかさにとっても存分に楽しめるものだった。
もちろん観察だけでなく、二人の知らないところでトリップの監視役を密命としているあかさにとっては、やはり二人のことをもっともっと知っておきたい気持ちもあって、最近のように好奇心に従って話があっちこっちに膨らんでいく時間はありがたかった。
二人はトリップしたいのだろうとあかさは考えているのだが、わざわざ雨に濡れて歩き回るのは気が引けるし、意外にもトリップにこだわる風でもなくさっぱりとした反応を見せる。
「お菓子買って来たよ。お茶入れてくる」
「やったー」
「て、ちかや。手ぶらに見えるんだけど」
「何か持ってくるって、胸張ってたよね。そういえば」
笑顔のまま動きが固まるちかや。
汗でもかいていそうな場面であるが、
「忘れた」
と、上目づかいで可愛い子ぶる。
そんな姿を初めて見るあかさはドキッとして、まだまだ知らないことばかりで楽しくなって笑い声を上げた。
苦笑してしおんが部屋を出ようとしたその背に、
「できればケーキがいいなぁ」
忘れた時点で引いておけばいいのに、しおんの買い物袋の形状から察するにそれはないだろうと、しおんの顔色を窺った。
しおんは足を止め、振り返るや腰に手を当てて、
「あると思ってたの?」
「うん」
屈託のない、幼稚園か小学生低学年のようなニンマリとした顔つきのちかやの受け答え。
一悶着ありそうな予感に臆すことない二人のやり取りは、やはり時間をかけて培われた仲の良さがあることを知らしめた。
しおんの呆れ顔はお母さんが駄々をこねる子に向けるそれだとあかさはまた笑った。
「どこにあるの?教えて」
「隣のお店にいっぱいあるじゃん」
「そのお金はどこにあるの?」
ペロッとわずか舌を出しておどけるちかやを他所に、しおんは踵を返して消えていく。
やはり二人といると面白くて楽しくて、もっといろんなことを知りたい欲求がふつふつとわいてくるのだった。
今のやり取りすらなかったことのように、しおんの買い物袋からお菓子を取り出しポンポン開けていく。
自分が出資したわけでないのに全く潔い。
感心しながらあかさも自分が持ちよったお菓子を真似してどんどん開ける。
前回もそうだったが、ちかやはあかさとしおんのお菓子の山に便乗しきってる状態である。
お小遣い、何に使ってるんだろう?
きっと食べ物だろうけど、と自問自答でちかやを見る顔がほころんでしまうのは、ちかやの魅力に他ならない。
運動しているからだろうけど、筋肉質というわけでもないし、痩身とは言わないがすらりとして気になる体である。
「どうかした?」
と、ポリポリともうすでに口に何か入れているちかや。
「はやっ」
「お腹空いちゃって。いくら食べても足らない感じ」
と、再度お菓子を口にする。
「昔っから?」
「何が?」
「お菓子…。いや、バスケは?」
「中二から。その時はヘルプで出ただけで、本格的には三年になってからかな」
「練習、きついんじゃない?」
「まぁね、それなり。楽しいからさ。でもやっぱきついのかな。食べても間に合わないって感じ」
あっけらかんとして大変そうに全く思えないが、きっと本当はすごい練習量なのだろうと察した。
それよりもちかやの頑張りに感服せずにはおれないあかさだった。
「だから、トリップする先は食べ物が多いんだね」
えへへ、と褒められたわけでもないのに照れるちかや。
「あとゲームね。」
「そんなに好きなの?」
あかさは友達同士で携帯で遊ぶことはあるが、加織は興味を持っていないようだし、ひさきはそもそもそれができない携帯なので、そんな関係でむしろ疎いくらいだった。
「息抜きね。何にも考えないからさ」
「そんなものかな」
「私はね。だからたぶん私のトリップ…」
「そう、ちかやのせいだね」
言葉を遮り、しおんが堂々の入場を、ではなく、カップを乗せたトレイを手に慎重さの伝わる動きでやってくる。
しおんとしては、初回以降一切自らの描いた小説の世界に出会えていないのが面白くないのかも知れない。
「でも楽しそうじゃんか」
「うん、まぁそう」
と、コロリと表情を変えて笑うしおん。
実際あの特別な世界を共有できるという事、さらには人の夢の世界を味わうというのは、あかさだけでなくしおんにも楽しいことなのだと思えた。
今思い出しても嬉しくなるようなあの味覚と食感。
子供のころに憧れた牛乳風呂を得る、もうそれを今は求めはしないのだが、当時をもってしてもそれ以上の格別な体験だ。
ケーキのお風呂というと違和感が甚だしいが、ちかやにすればそれくらいに喜悦に富んだ感覚。
お菓子の国というのがぴったりくるのである。
三人がそれを思い出しているのだろう、奇妙な沈黙が場を支配した。
「他の人の夢も見てみたい、よね?」
多少の違いはあれど必ず誰かが口にする台詞だった。
虜。
複雑に絡み合う互いの世界。
絡んだ糸をほぐしていく一見するだけでは単純で、しかしそこには人の思考が蜘蛛の巣のように美しく模様を描く。
その魅力に囚われるなという方が難しい。
だが、あかさはいつも慎むように念を押していた。
何が起こるか、まだ全てが分かっているわけでない、そんな気がしていた。
そこに何の考えもなしに、他人を誘いこみ、もし何かあってからでは困るだけでは済まないはずだ。
出口の見えない迷宮に裸で乗り込むのは、少し後ずさって俯瞰してみてみれば、いかにも危うい行為である。
あかさと目が合ったちかやは、
「わかってるって。ちょっと言ってみただけ」
と、口直しとばかりに違うお菓子に手を伸ばす。
そもそもどうすればトリップできるようになるのか、まだわかっていない。
自分たちのことを考える場も設けたが、共通項に乏しく偶然としか思えなかった。
あの世界の住人である思念の塊、フジに問うてもわからないというばかりで、またカピバラも同じらしかった。
棒だか杖だかなんて言えばいいか困る、しおんはタクトだと言い切る思念。
変な話で、そんなものが喋ること自体不可思議で可笑しなことなのだが、その彼あるいは彼女もまた同様に知らなかった。
「そういえばさぁ」
しおんが丸めて仕舞った紙、質感からするとポスターだろうか、大き目の筒を取り出して続けた。
「こういうの、あるんだって」
サラリと広げられたその紙には、話の見えてこないイベント告知の情報が載っていて、
「何?アニメファンなの」
確かにその広告ポスターは見かけたことのあるアニメキャラとそれに関する情報が掲載されており、展示物のイベント告知らしいそれは、しかしすでに終了している日付を記していた。
慌ててしおんが、
「違う。コレクターじゃないから」
と否定する。
そう言われれば皴一つなく、綺麗に大切に保管してあるようだ。
「そうじゃなくて。ここ、ここを見て」
しおんが焦って指さすそこには会場の地図が描かれていた。
「湖面ホール?」
「知ってるけど…」
街に暮らす人なら、「あぁ、あそこね」とピンとくるほどのイベント会場である。
「ここ、よく見て」
「彫刻展示室?」
小さく記載されていて、流し見るだけでは見逃してしまうほどであるものの、確かにそう書かれていた。
「これが、何?」
覗き込むあかさとちかやは顔を見合わせた。
「室よ。し、つ」
なるほどと言わんばかりの、納得したという顔を上げる二人。
「二人とも、この街の住民じゃないの?」
全くの盲点だったが、野外彫刻を標榜していることからして、屋外ばかりと思い込んでいた。
眉を読まずとも得意満面、腕組するしおんに、ちかやは動じることなく、
「最近知ったんでしょ」
しおんはニコリとして、
「せいかーい。これ見るまで、気づかなかった」
はしゃぐやり取りであかさも楽しくて仕方ない。
やっぱりこの二人と会えて良かったと、笑みがこぼれた。
「今、やってるの?展示」
「そうみたいだよ。で、どう?」
やや沈黙があって、まるで行きたくないかのようにも思える間だが、耳を澄まして雨音を聞き取ろうとしていたのだった。
来る時と同じくらいの雨の強さを感じ取り、それは気おくれするに値しない。
あの湖のある公園、その湖の畔にあり、方角でいうとここからはあかさは家方面へ逆戻りすることになるが、
「行ってみようか」
パリッと軽く砕ける音を立ててちかやが菓子を口にしながらそう言うと、もう流れは決まったようだった。
今日は何だろうとわくわくするし、ぞくぞくもする。
それはあかさだけではないと顔を見ればわかった。
きっとすぐに出発することになるだろう。
折角入れてくれた紅茶に口もつけずに行くことになり、焦りがちに口にして少しやけどしてしまうあかさに、
「猫舌?」
「おもしろニャンコだし」
「うん、猫だね」
悶えて喋られないあかさをネタに好き勝手に話す二人。
カップは湯気を上げて楽しげに喋りながら支度した三人を見送った。
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