彼女をぬらす月の滴

内山恭一

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家からならそう遠くない距離なのに、一旦街の中心から向かうとなると、思いのほか遠いことに気づかされる。
電車なら駅三つ分くらいのはずだが、三人はバスか電車か、降りてから歩くことを考えてバスに揺られていた。
乗客は多くないものの、各停留所に停まるほどには利用客があったようでこれが通学時なら時間を長く感じるものだが、三人はしおんの携帯を見てわいわいと楽しそうだった。
「ねぇ、これはいつ?」
「三年最後の試合だから、半年前だっけ?」
「そうそう。このころ足が超痛かったんだよ」
「なんで?筋肉痛」
「成長痛じゃないかって先生が言ってたけど。膝が痛くてさ」
「そんなのがあるんだ」
「でもね、調べたんだけど多分違う。膝の使い過ぎなだけの関節痛」
「スポーツマンっぽいね」
「おばあちゃんじゃない?」
「別人みたい」
「こら。いくらなんでもそこまでは…」
「そうじゃなくて、髪の長さのこと」
「あぁ、そうか。今だからわかるけど、結構重かった」
ボーイッシュな今とは真逆に見える写真のちかやは、ロングヘアを束ねて顔つきもやや幼さがあって、まるっきりおとなしそうに見える。
バスが少しきついカーブを幾つも迎え、あかさたちも体を大きく揺らしたが、会話に障ることはなかった。
「なんで切っちゃったの?」
ギュッと音を立て、ちかやが椅子の背にもたれて伸びをしながら、
「何となく、かな」
「何となくでこんなに切っちゃう?恋愛とか」
しおんがぐっと身を乗り出して、捕食前の動物のごとき目の鋭さがあった。
「違うって、本当に意味はないよ。重かったし、早く切ればよかった」
「そんなものかな」
「理由をつけるなら、試合に負けたからってことになるかな」
今度はちかやが真顔で、しかしそれは一瞬そう見えたに過ぎず、
「他の写真は?」
「あんまり撮ってないよ。隠れてこっそり撮るんだから、これが精いっぱい」
「そうなんだ。あ、待って。これは?」
「ん?これは、いつだっけ」
「中二かな」
あかさたちが覗き込むその画像には、真剣な眼差しでバスケの試合に没頭するちかやの、まだ緊張感あふれる姿がそこにあった。
それにしても、しおんとちかやの仲の良さといったら特別で、親友という言葉だけでは片づけられないように思える。
決して写真はしおんが言うように少ない枚数ではないし、その全てにちかやが写っている。
しおんの持つ携帯電話はまだ新しく、おそらく何度か買い換えただろうに。
交差点の大きなカーブに揺られ、車内アナウンスが耳に届き、すかさずちかやが壁のボタンを押した。
外を見れば変わらぬ雨模様で、ガラスに無数の水玉がついては筋を作って落ちていく。
曇ってしまって見え辛いが、濃い灰色の空の下、観覧車が遠くに見えた。
公園は湖を囲うようにしてあり、その大半は歩道と林であり、彫刻のある芝生面だけでなく、動物園、遊園地など規模は小さいながら一か所にまとまって充実しており、次の停留所である湖面ホールはそれらから橋を挟んで反対側の若干離れた場所にある。
バスはゆっくりと止まると、電子音と共にドアが開き三人は傘をさしてならんだ。
他に乗降客はない。
四時くらいだというのに夕闇迫る時刻のように暗く、さっきまでと違って雨らしい降り方になっていた。
水溜りを避け、あかさたちは蛇のように一列になって足元を気にしながら進む。
この天気では仕方ないが他に人の姿はほとんどなく、広い駐車場に車も少なく、通り抜けるには好都合だった。
それはもちろんトリップするにも好都合なわけで、あかさはそれを期待していた。
白くて背の低い建物が目前に迫る。
ガラス張りのエントランスにはわずかに人影が見えた。
こんなに降るなら可愛いレインブーツでも履いてくるんだったと、傘をたたんで室内を見回すあかさ。
案の定、屋内に人影はまばらである。
この展示室は無料開放らしく、観覧客の多くはおそらく雨宿りのついでなのではないかと思われた。
「こんな感じの場所なんだっけ?」
「知らない。たぶん来たことないし」
「私、初めてかも」
あかさとちかやが目新しさから隅々まで視線を飛ばす中、しおんが、
「こっちだよ」
と進む先、ガラス張りの一角に目的の彫刻展示室があった。
晴れた日なら賑やかだろう広いスペースに存在感溢れる彫刻群が居並び、特に一見して遊具のようなオブジェは枯れた色彩をまとい、モノクロームの写真のような得も言われぬ空気を漂わせていた。
三人は散りながら、交りながら室内をそぞろ歩く。
様々な彫刻を前にして、あかさは現実味のないフジの丸い顔を思い出していた。
フジが言うように、彫刻を目にすれば確かに何だかの情感に触れることがあり、それは人さまざまであり、それぞれが五感に感じ生きてきたからこそであり、フジの言葉には真実味があった。
しかし別の考えも浮かぶ。
トリップするのは私たち学生という共通項目があるのだから、学校でも良いようにも思える。
クラスの皆が自分のように夢を見ることなく授業中に寝てばかりになったところで、しかし思念にはなんのメリットもないだろうと、想像してほくそ笑んだ。
感情を伴わないから、トリップ自体ありえないのだろうが。
オブジェを挟んで向かい合うちかやに、
「どうかした?」
「いや、何でもない」
「なんか楽しそうだった」
じろりとちかやが目を向けて、あかさは自分が笑みを浮かべていたことに気づかされ、慌てて口を押えた。
「あかさ。今日のグロス、綺麗だね」
「ふぁわ」
そこに存在を認めていないがためにそんなしおんの言葉に不意を突かれ、弓なりにのけぞってしまうあかさ。
突然のことに目が泳ぎ、
「何のこと?」
「グロスのこと。照明が当たってすごくきれい」
と、しおんの視線を唇に感じようやく意味を理解した。
口紅のことか。
担任といい、ひさきといい、しおんまで。
女だから気づくことができるちょっとした違い。
気づいてもらえるのは嬉しいが、あまりに突然すぎて困惑してばかりのあかさだった。
というか、以前しおんに駄目出しされたからこそ極力化粧っ気を控えているつもりなのだが、今日は反対にそれを褒められるとは思わず、あかさは彫刻よりもはるかに難解なしおんに複雑な表情を見せていた。
それを見たしおんもまた戸惑っている様子で、
「何かあった?心配事でもあるの」
大きく手を揺らして否定するあかさは、いつもの笑顔のつもりが引きつっていたらしく、誤魔化そうと話を逸らした。
「どれが良さそうだった?」
うーん、と一様にうなる三人を見れば、きっと他の客からは熱心な姿に映ったことだろう。実際、他の人とは決定的に彫刻に対する見方が違うのだ。
だが、今も雨が降り続く空と同じように今日はちかやもしおんもどんよりとしてさえない表情をしていた。
「何とも言えない。何も思い浮かばなかったもん」
ちかや、それはきっと今お腹が満ちているからだよ、と言ってしまいそうになるあかさは、「ちかやはいつもお菓子ばっかでしょ?」
と、しおんが代弁して驚く。
「うん、その通り」
ちかやはしおんに指を差して、あっけらかんとして言った。
本当に考え付かないものの、それを困りごととは思っていないと顔に書いてある。
「じゃぁ、しおんは?」
「これと言って…。それに感じた印象と夢の内容に繋がりがあるとは思えないし」
「確かにね。トリップしてから誰の世界かわかるって感じだもんねぇ」
「そうそう。昔のこととか、深層心理とか、そんなのが関係ある感じ」
「そっか」
と、じとっとした眼差しでしおんはそう言ったちかやを見つめた。
「ちかやだけじゃん。好き勝手にできるの」
「好き勝手って…」
声が消えていくのは、あかさまで一緒になってうなずいているのを見たからで、それはちかやをじりりと後ずさりさせた。
実際そうなのだから仕方ない話ではある。
「で、でも一番目を引くのはこれかな」
話をそらす気満々で、その意図がだだ漏れだったものの、事実最初に見たあのオブジェの前へ向かう三人の足並みはそろっていた。
「どうなるか、わかんないけど…」
「それはいつもだよ、ね?」
「うん、行ってみよう!」
三人はオブジェを前に休憩できる長椅子に腰掛けようとし、その前にすっと手を結び合った。
いろいろと考えも性格も違う三人ではあるが、ためらいなく手を握り合える関係はともに頼もしく、何より嬉しいことだった。
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