彼女をぬらす月の滴

内山恭一

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携帯からは予期せず呼び出し音ばかりが聞こえた。
あれだけ携帯ばかり触っていたのに、あかさからの着信は気が付かないはずがない。
心が折れてしまうに充分な事実なのだが、あかさはそれでもひるまなかった。
一旦切って、また呼び出す。
二回目だか、三回目だか、加織にリダイヤルしようとボタンを触っていると、「通話中」の文字と共に秒数がカウントされだしてあかさはぽかんとしたまま固まっていた。
繋がった、と理解するまでに数秒かかったろう。
「ごめん、加織」
「ごめん、あかさ」
謝罪に対して謝罪が返って来たことに戸惑うあかさ。
何だろうかと思考が深くなりかけて、しかし今は折角繋がった加織との細い糸を切らせるわけにいかない。
「体は何ともない?」
「もう何ともないよ」
電話口だからか、気持ち鼻声に聞こえるのは、早退の理由と関係あるのだろうか?
あかさは車の騒音が近くても加織の声を少しも聞き逃すまいと、携帯に耳をぴったりくっつけて、耳が痛いほど押し付けた。
「風邪?」
「ううん」
電話の加織は早退するまでの様子と違っていて、むしろ元気そうだと感じられる。
夜、暇なときにはいつも喋っている間柄で妙な間など気になったことなどなかったのに、今はそれに気付いてほしくてあかさは加織が続けるのを待った。
彼女からの電話なのだ、内容は良くとも悪くとも、ともかく伝えたいことがあるのだろう。
「病気じゃなくて。ちょっと辛かったから」
様子のおかしい最近の加織と違い、前のような落ち着いた雰囲気を取り戻しているようだが…。
「もう話はついた…、の?」
携帯を持つ手に幾許も無く汗をかいて、こんなことは今までなかったことなのにあかさは汗を握っていることに気づかなかった。
賭け、大博打だった。
それだけのリターンはあると踏んだからだ。
「何となく、ね」
やはり。
事態は進展を見せつつあるのだ。
「ねぇ、会って話しない?」
あかさはこれ以上顔を見ないで話を続ける自信がなくて、辛抱たまらず脈絡など無視して切り出した。
「いいけど…」
「良かった。近くまで来てるから」
「え?ちょっと待って」
「うん、もちろん。わかってる。近くに公園があるじゃない?そこで待ってる」
「うん、ごめん。そうしてくれる?すぐ行くから」
加織の家を訪れたのは一度きりでうろ覚えではあったが、動物の持つ帰巣本能が働いたのか、案外真っ直ぐここまで来られていた。
だが、単純な行程ではなかった。
道の風景を思い出しながら、その時の三人の会話も蘇って懐かしさに加え寂しさや辛さがまぜこぜになってあかさに襲い掛かってきて、一人で歩くことがこんなに怖いかとドキドキしながらだったのだから。
しかも、昼までの激しい雨のせいで出来た水溜りにはまってしまい、靴はずぶ濡れで足を踏みかえる時のじゅわっとした感触が気持ち悪い。
靴も靴下も脱ぎ捨てたい欲求が甚だしいが、あかさは我慢して歩く。
住宅街の一角の広々とした公園はすぐそこだ。
公園、そのフレーズがあかさに警鐘を鳴らせ、ぐるりと見回して不穏なものがないかを確認させた。
彫刻は街中にあって、こんなところにもあるのかと驚くほどひっそりと、かつ大胆に存在している。
特に公園には設置されている率が高いのだが、今、あかさにトリップは必要なかった。
話の腰を折られるわけにはいかないのだ。
大きな遊具が幾つもある割に子供の姿はなく、入口で数人が集まって静かに携帯ゲームをしているようであり、濡れた土が靴を汚すだけの静かな普通の公園である。
何もないことを確認したその直後、加織がやってくるのを耳が捉え、あかさは振り向いて手を上げた。
だが、どんな顔をして迎えればいいのかわからなかった。
それ以上に、全身真っ黒な服装に加織の笑顔を見て違和感を覚え、それどころではなくただ目を見開いて違和感の出所を探るのに懸命だった。
かつてのように加織らしい、人当たりの良かった頃の彼女の笑顔だった。
たった数日前まではそうだったのに、なんだか長い間忘れていたように久しさを感じているものの、だからこそやはりどこかがおかしい。
「ごめん」
「ううん。急に呼び出して、こっちこそごめん」
開口一番謝る加織の言葉を額面通りに受け取れず、あかさはその意味を問うべきか逡巡した。
やめておこう。
彼女の本意はどうあれ、今は久しぶりの彼女の笑顔を見られて、それだけでも固くなった筋肉がほぐれてふぅっと胸いっぱいに息を吸えるように安堵できることだと実感できていた。
こちらも笑顔を返したいところだが、心が晴れないままでは愛想笑いを返すのが精いっぱいで、加織にはお見通しだったろう。
湿った風が吹き抜けて、加織の髪がはらりと舞う。
慌てることなく、普段するように手で髪を整える加織。
いつもの髪型ではない、横になでつけた前髪がシックな服に相まって新鮮に見えた。
風に乗って彼女のつけたフレグランスが鼻腔を満たし、その香りは記憶にない。
それらもろもろ、あかさの興味を刺激したが、風すらも邪魔に感じてそれを避けるため、大きな遊具そばのベンチに加織を誘った。
大きく見上げるほどの滑り台で、先日のトリップを思い出すが滑り台とは似て非なるものであり、二十人くらいが一斉に滑り降りることができそうなくらいに横に広い。
その大きさのおかげで風が直接当たることはなくなった。
「けりがついたんだね?」
「うん…。ううん」
加織は首を縦に、横に振るのに忙しい。
予想を超えた反応に少々戸惑いを持って、
「え?」
と、あかさは奇妙に高い声を上げてしまう。
そんなあかさの声に軽く笑い声を上げる加織を見て、あかさは照れ笑いを浮かべた。
それもすぐに消えていく。
「話せるようになったの?」
「うん…」
加織が言った後に翻すことはあったものの、イエス、ノーを濁して誤魔化すことはこれまでなかった。
それなのに、今日の加織の言葉は濁って鈍い。
長いこと沈黙する加織に表情はなくなった。
「ごめん、やっぱりまだ無理」
「そうか」
それがただ一つ返せる言葉だった。
期待した分だけ失望は大きく、あかさまでうつむいてしまった。
「ひさきにも言えない?」
「言えない。言えるなら誰よりも二人に話したい…」
後半はもうつぶやきのようで、聞かせる意図はなかったのかもしれなかった。
心の重石は取れていないものの、肩の力が少し抜けた気がした。
あかさは心から熱望し、理解してほしいと、
「いつか言えるようになったら、言ってね」
加織の手を握ってあかさは言った。
一瞬微笑んだように見えた加織は、反対の手であかさが乗せた手を包み込み、
「友達だから、言えないの」
見つめあう加織とあかさ。
加織の目は真剣そのもので、あかさの両の目を交互にしっかりと見つめている。
彼女の言い方には曲がることのない芯があるのを感じた。
間違いなく、加織らしい、彼女なりの言葉だった。
「もう少し。決まったら言うから、絶対」
最後に透き通る笑顔で加織はあかさに背を向けた。
去っていく加織の足取りはしっかりとして、向かう先を明確にしているようだった。
あかさは立ち上がり、振り返ることなく消えていく彼女を見送った。
何か変わっただろうか?
加織に何か伝えられたろうか?
気負っていただけに脱力感がひどい。
よろけるようで足を踏ん張る。
あかさは一人残された公園で、靴下が濡れて発する音に不快な気分を味わっていた。
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