彼女をぬらす月の滴

内山恭一

文字の大きさ
9 / 22

9

しおりを挟む
携帯からは予期せず呼び出し音ばかりが聞こえた。
あれだけ携帯ばかり触っていたのに、あかさからの着信は気が付かないはずがない。
心が折れてしまうに充分な事実なのだが、あかさはそれでもひるまなかった。
一旦切って、また呼び出す。
二回目だか、三回目だか、加織にリダイヤルしようとボタンを触っていると、「通話中」の文字と共に秒数がカウントされだしてあかさはぽかんとしたまま固まっていた。
繋がった、と理解するまでに数秒かかったろう。
「ごめん、加織」
「ごめん、あかさ」
謝罪に対して謝罪が返って来たことに戸惑うあかさ。
何だろうかと思考が深くなりかけて、しかし今は折角繋がった加織との細い糸を切らせるわけにいかない。
「体は何ともない?」
「もう何ともないよ」
電話口だからか、気持ち鼻声に聞こえるのは、早退の理由と関係あるのだろうか?
あかさは車の騒音が近くても加織の声を少しも聞き逃すまいと、携帯に耳をぴったりくっつけて、耳が痛いほど押し付けた。
「風邪?」
「ううん」
電話の加織は早退するまでの様子と違っていて、むしろ元気そうだと感じられる。
夜、暇なときにはいつも喋っている間柄で妙な間など気になったことなどなかったのに、今はそれに気付いてほしくてあかさは加織が続けるのを待った。
彼女からの電話なのだ、内容は良くとも悪くとも、ともかく伝えたいことがあるのだろう。
「病気じゃなくて。ちょっと辛かったから」
様子のおかしい最近の加織と違い、前のような落ち着いた雰囲気を取り戻しているようだが…。
「もう話はついた…、の?」
携帯を持つ手に幾許も無く汗をかいて、こんなことは今までなかったことなのにあかさは汗を握っていることに気づかなかった。
賭け、大博打だった。
それだけのリターンはあると踏んだからだ。
「何となく、ね」
やはり。
事態は進展を見せつつあるのだ。
「ねぇ、会って話しない?」
あかさはこれ以上顔を見ないで話を続ける自信がなくて、辛抱たまらず脈絡など無視して切り出した。
「いいけど…」
「良かった。近くまで来てるから」
「え?ちょっと待って」
「うん、もちろん。わかってる。近くに公園があるじゃない?そこで待ってる」
「うん、ごめん。そうしてくれる?すぐ行くから」
加織の家を訪れたのは一度きりでうろ覚えではあったが、動物の持つ帰巣本能が働いたのか、案外真っ直ぐここまで来られていた。
だが、単純な行程ではなかった。
道の風景を思い出しながら、その時の三人の会話も蘇って懐かしさに加え寂しさや辛さがまぜこぜになってあかさに襲い掛かってきて、一人で歩くことがこんなに怖いかとドキドキしながらだったのだから。
しかも、昼までの激しい雨のせいで出来た水溜りにはまってしまい、靴はずぶ濡れで足を踏みかえる時のじゅわっとした感触が気持ち悪い。
靴も靴下も脱ぎ捨てたい欲求が甚だしいが、あかさは我慢して歩く。
住宅街の一角の広々とした公園はすぐそこだ。
公園、そのフレーズがあかさに警鐘を鳴らせ、ぐるりと見回して不穏なものがないかを確認させた。
彫刻は街中にあって、こんなところにもあるのかと驚くほどひっそりと、かつ大胆に存在している。
特に公園には設置されている率が高いのだが、今、あかさにトリップは必要なかった。
話の腰を折られるわけにはいかないのだ。
大きな遊具が幾つもある割に子供の姿はなく、入口で数人が集まって静かに携帯ゲームをしているようであり、濡れた土が靴を汚すだけの静かな普通の公園である。
何もないことを確認したその直後、加織がやってくるのを耳が捉え、あかさは振り向いて手を上げた。
だが、どんな顔をして迎えればいいのかわからなかった。
それ以上に、全身真っ黒な服装に加織の笑顔を見て違和感を覚え、それどころではなくただ目を見開いて違和感の出所を探るのに懸命だった。
かつてのように加織らしい、人当たりの良かった頃の彼女の笑顔だった。
たった数日前まではそうだったのに、なんだか長い間忘れていたように久しさを感じているものの、だからこそやはりどこかがおかしい。
「ごめん」
「ううん。急に呼び出して、こっちこそごめん」
開口一番謝る加織の言葉を額面通りに受け取れず、あかさはその意味を問うべきか逡巡した。
やめておこう。
彼女の本意はどうあれ、今は久しぶりの彼女の笑顔を見られて、それだけでも固くなった筋肉がほぐれてふぅっと胸いっぱいに息を吸えるように安堵できることだと実感できていた。
こちらも笑顔を返したいところだが、心が晴れないままでは愛想笑いを返すのが精いっぱいで、加織にはお見通しだったろう。
湿った風が吹き抜けて、加織の髪がはらりと舞う。
慌てることなく、普段するように手で髪を整える加織。
いつもの髪型ではない、横になでつけた前髪がシックな服に相まって新鮮に見えた。
風に乗って彼女のつけたフレグランスが鼻腔を満たし、その香りは記憶にない。
それらもろもろ、あかさの興味を刺激したが、風すらも邪魔に感じてそれを避けるため、大きな遊具そばのベンチに加織を誘った。
大きく見上げるほどの滑り台で、先日のトリップを思い出すが滑り台とは似て非なるものであり、二十人くらいが一斉に滑り降りることができそうなくらいに横に広い。
その大きさのおかげで風が直接当たることはなくなった。
「けりがついたんだね?」
「うん…。ううん」
加織は首を縦に、横に振るのに忙しい。
予想を超えた反応に少々戸惑いを持って、
「え?」
と、あかさは奇妙に高い声を上げてしまう。
そんなあかさの声に軽く笑い声を上げる加織を見て、あかさは照れ笑いを浮かべた。
それもすぐに消えていく。
「話せるようになったの?」
「うん…」
加織が言った後に翻すことはあったものの、イエス、ノーを濁して誤魔化すことはこれまでなかった。
それなのに、今日の加織の言葉は濁って鈍い。
長いこと沈黙する加織に表情はなくなった。
「ごめん、やっぱりまだ無理」
「そうか」
それがただ一つ返せる言葉だった。
期待した分だけ失望は大きく、あかさまでうつむいてしまった。
「ひさきにも言えない?」
「言えない。言えるなら誰よりも二人に話したい…」
後半はもうつぶやきのようで、聞かせる意図はなかったのかもしれなかった。
心の重石は取れていないものの、肩の力が少し抜けた気がした。
あかさは心から熱望し、理解してほしいと、
「いつか言えるようになったら、言ってね」
加織の手を握ってあかさは言った。
一瞬微笑んだように見えた加織は、反対の手であかさが乗せた手を包み込み、
「友達だから、言えないの」
見つめあう加織とあかさ。
加織の目は真剣そのもので、あかさの両の目を交互にしっかりと見つめている。
彼女の言い方には曲がることのない芯があるのを感じた。
間違いなく、加織らしい、彼女なりの言葉だった。
「もう少し。決まったら言うから、絶対」
最後に透き通る笑顔で加織はあかさに背を向けた。
去っていく加織の足取りはしっかりとして、向かう先を明確にしているようだった。
あかさは立ち上がり、振り返ることなく消えていく彼女を見送った。
何か変わっただろうか?
加織に何か伝えられたろうか?
気負っていただけに脱力感がひどい。
よろけるようで足を踏ん張る。
あかさは一人残された公園で、靴下が濡れて発する音に不快な気分を味わっていた。
しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

妻からの手紙~18年の後悔を添えて~

Mio
ファンタジー
妻から手紙が来た。 妻が死んで18年目の今日。 息子の誕生日。 「お誕生日おめでとう、ルカ!愛してるわ。エミリア・シェラード」 息子は…17年前に死んだ。 手紙はもう一通あった。 俺はその手紙を読んで、一生分の後悔をした。 ------------------------------

主人公の恋敵として夫に処刑される王妃として転生した私は夫になる男との結婚を阻止します

白雪の雫
ファンタジー
突然ですが質問です。 あなたは【真実の愛】を信じますか? そう聞かれたら私は『いいえ!』『No!』と答える。 だって・・・そうでしょ? ジュリアーノ王太子の(名目上の)父親である若かりし頃の陛下曰く「私と彼女は真実の愛で結ばれている」という何が何だか訳の分からない理屈で、婚約者だった大臣の姫ではなく平民の女を妃にしたのよ!? それだけではない。 何と平民から王妃になった女は庭師と不倫して不義の子を儲け、その不義の子ことジュリアーノは陛下が側室にも成れない身分の低い女が産んだ息子のユーリアを後宮に入れて妃のように扱っているのよーーーっ!!! 私とジュリアーノの結婚は王太子の後見になって欲しいと陛下から土下座をされてまで請われたもの。 それなのに・・・ジュリアーノは私を後宮の片隅に追いやりユーリアと毎晩「アッー!」をしている。 しかも! ジュリアーノはユーリアと「アッー!」をするにしてもベルフィーネという存在が邪魔という理由だけで、正式な王太子妃である私を車裂きの刑にしやがるのよ!!! マジかーーーっ!!! 前世は腐女子であるが会社では働く女性向けの商品開発に携わっていた私は【夢色の恋人達】というBLゲームの、悪役と位置づけられている王太子妃のベルフィーネに転生していたのよーーーっ!!! 思い付きで書いたので、ガバガバ設定+矛盾がある+ご都合主義。 世界観、建築物や衣装等は古代ギリシャ・ローマ神話、古代バビロニアをベースにしたファンタジー、ベルフィーネの一人称は『私』と書いて『わたくし』です。

お飾りの妻として嫁いだけど、不要な妻は出ていきます

菻莅❝りんり❞
ファンタジー
貴族らしい貴族の両親に、売られるように愛人を本邸に住まわせている其なりの爵位のある貴族に嫁いだ。 嫁ぎ先で私は、お飾りの妻として別棟に押し込まれ、使用人も付けてもらえず、初夜もなし。 「居なくていいなら、出ていこう」 この先結婚はできなくなるけど、このまま一生涯過ごすよりまし

【完結】あなたに知られたくなかった

ここ
ファンタジー
セレナの幸せな生活はあっという間に消え去った。新しい継母と異母妹によって。 5歳まで令嬢として生きてきたセレナは6歳の今は、小さな手足で必死に下女見習いをしている。もう自分が令嬢だということは忘れていた。 そんなセレナに起きた奇跡とは?

どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~

さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」 あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。 弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。 弟とは凄く仲が良いの! それはそれはものすごく‥‥‥ 「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」 そんな関係のあたしたち。 でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥ 「うそっ! お腹が出て来てる!?」 お姉ちゃんの秘密の悩みです。

私が王子との結婚式の日に、妹に毒を盛られ、公衆の面前で辱められた。でも今、私は時を戻し、運命を変えに来た。

MayonakaTsuki
恋愛
王子との結婚式の日、私は最も信頼していた人物――自分の妹――に裏切られた。毒を盛られ、公開の場で辱められ、未来の王に拒絶され、私の人生は血と侮辱の中でそこで終わったかのように思えた。しかし、死が私を迎えたとき、不可能なことが起きた――私は同じ回廊で、祭壇の前で目を覚まし、あらゆる涙、嘘、そして一撃の記憶をそのまま覚えていた。今、二度目のチャンスを得た私は、ただ一つの使命を持つ――真実を突き止め、奪われたものを取り戻し、私を破滅させた者たちにその代償を払わせる。もはや、何も以前のままではない。何も許されない。

【完結】捨て去られた王妃は王宮で働く

ここ
ファンタジー
たしかに私は王妃になった。 5歳の頃に婚約が決まり、逃げようがなかった。完全なる政略結婚。 夫である国王陛下は、ハーレムで浮かれている。政務は王妃が行っていいらしい。私は仕事は得意だ。家臣たちが追いつけないほど、理解が早く、正確らしい。家臣たちは、王妃がいないと困るようになった。何とかしなければ…

愛された側妃と、愛されなかった正妃

編端みどり
恋愛
隣国から嫁いだ正妃は、夫に全く相手にされない。 夫が愛しているのは、美人で妖艶な側妃だけ。 連れて来た使用人はいつの間にか入れ替えられ、味方がいなくなり、全てを諦めていた正妃は、ある日側妃に子が産まれたと知った。自分の子として育てろと無茶振りをした国王と違い、産まれたばかりの赤ん坊は可愛らしかった。 正妃は、子育てを通じて強く逞しくなり、夫を切り捨てると決めた。 ※カクヨムさんにも掲載中 ※ 『※』があるところは、血の流れるシーンがあります ※センシティブな表現があります。血縁を重視している世界観のためです。このような考え方を肯定するものではありません。不快な表現があればご指摘下さい。

処理中です...