彼女をぬらす月の滴

内山恭一

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翌日以降、校内で加織と顔を合わせてじっくり話す機会はほとんど失われていて、残すは昼休みだけなのだが、話ができると期待した今日に限って加織は調子を崩して、昼前に早退した。
あんなに人と接するのが好きそうだった彼女が、クラスメイトの誰とも話さず、あかさたちとすら目もあわさないのだから人が変わってしまったように感じられた。
そんな普通ではない加織の様子に幾人かの友達は変化に気づいているようで、あかさはそのことを問われても何も言えない自分が悲しかった。
訊ねられる毎に、重ねられる辛さに耐えていかなければならない。
あそこまで接触を拒む原因を作ったのは、時期的に考えれば自分であることは疑いなくあさはかだったかもしれないと、あかさはそう断罪していた。
きっと少し前までの自分たち三人なら何でも笑って話せただろうに、と今はあかさだけ一人ぼっちである。
あかさは彫刻のように動かず、前の席の空いた椅子をぼんやり眺めている。
ひさきは風邪で朝から学校を休んでいた。
ため息が彼女の背中に届こうものなら振り向いて何も聞かないはずはないのに…。
授業の終わりを告げるチャイムが鳴り、本来ならランチタイム突入で騒々しいはずなのだが、あかさにはチャイムの音も、ガタガタと一斉に音を立てる椅子の騒々しさも耳に入らない。
今が何時で、これから何をするんだったろうか?
湿気た匂いだけあかさの感覚に現実感をもたらしていた。
不意に肩を叩かれたあかさは、頬杖をついた手から顎を上げた拍子にシャーペンを落としてしまった。
「あ、悪い」
佐村に呼ばれたらしく、彼は床に落ちたシャーペンを拾い上げあかさの開かれたままの教科書の上に置いた。
「昼だぞ」
「うん。そっか」
と、反射的に返事をしていた。
おかげでようやく現実に戻れたようで、急激に笑い声や走る足音など昼の情景を感じることができた。
あれ?何かが違う。
「お昼は?」
いつもなら学食に向かって一直線のはずの佐村であり、あかさたちが昼食の準備を終えるころには姿を見ないのに、お弁当の匂いが漂っている教室にいて急ぐ風でもない。
「購買行かないの?今日は買ってきたとか」
「行くよ、当然。飯ないからな」
「急いだ方がいいんじゃない?」
と、遅ればせながら机の上を片づけを始めるあかさに、
「今日も食いに行くんだろう?」
と佐村が人差し指を立てて言う意味がわからず、理解するのに少し時間がかかった。
「あ、屋上?どうしようかな、今日は…」
お弁当はある。
食欲はほどほどだ。
でも肝心のひさきと加織が居ない。
こんなに寂しいことは入学して以来初めてだ。
ん?何で雨降りに三人で屋上に行くことを知ってる?
「行くんだな?」
「え?たぶんね」
鞄からお弁当を出すあかさの元から唐突に佐村は走り去った。
ほとんどの男子の姿が消え、教室は女子会のごとき雰囲気で、身の置き場に困ったあかさは教室を後にした。
今日も降り続いている空のように、あかさの心も鉛色で重苦しい。
普段なら気にならなかった階段も足が重く、途中で引き返そうかと思うほどだった。
かといって他に場所を思いつきそうにもなく、もちろん教室に戻ることなどありえない。
加織がただの病欠なら他の子たちに混ざるのだが、後ろめたさを誤魔化しきれそうにない。
やっとのことでたどり着いた屋上ドアそばのベンチはあかさの心象風景のようだった。
叩きつける雨でガラス越しの景色など望むべくもない。
ドアを僅かでも開けることもままならない調子である。
ドシンとベンチに一人腰掛けるあかさは、ガラスにくっついては流れ落ちる雨粒の果てを思いながら、抱えた弁当箱を開けることなく窓をぼんやり眺めた。
フワッと瞬間明るくなる感覚。
雷かと思って見つめる窓ガラスにその気配はなく、見れば天井の照明がチラついているのだった。
その周期は遅く、眠たくなるほどに変化はない。
以前雨の日にここを見つけたときは小躍りして喜んだのに、今この空間は湿気くさいだけの沈鬱な場所に見えてしまう。
どれくらいボーっとしていたのだろうか、ぐらりとベンチが揺らいであかさは雷でも落ちたのかと目を見開いて驚いた。
「すごい雨だな」
隣に佐村の姿があった。
いつもならひさきが居て、その向こうに加織が居るはずの場所である。
「え?どうしたの」
予期せぬ隣人の姿に戸惑うあかさだったが、それ以前までの空気と少し変化があった気がしてきて、頭は真っ白なままなのに無性に佐村と話をしてみたくなった。
「最近、なんか変だろ」
ズバリと心中ど真ん中をいの一番に言う佐村にしおんの姿が重なる。
彼女だったら、あるいはもっと核心をついてくるかもしれないが、佐村の男っぽい物言いに、うろたえると同時に嬉しさも感じる。
もしかしたらしおんがただ男らしいだけという事になるのかもしれない、とは今は考えまい。
パンの包装を大雑把に破ってかぶりつく佐村と目が合って、彼に感情が伝わったら恥ずかしいと正面を向いて目だけ向け続ける。
「何があったんだ?」
もぐもぐと食べながら言うものだから聞き取り辛くて、そむけた顔をまた彼に向けた。
何も考えてなさそうな仕草に、あかさは不思議にも笑みがこぼれて、
「何て言った?」
「最近元気ないなって思って」
佐村が咀嚼するのと同じく、あかさは彼の籠った声を咀嚼していた。
「私じゃないよ、加織の方」
「そうか?お前が元気ないように見えるぞ」
佐村にお前と呼ばれるのは初めてではない気がするが、何故だかほんわかとして温かいものを感じた。
心配してきてくれたのだ、わざわざこんなところまで…。
あかさはこみ上げる笑顔を殺さず、素直に顔に出してみた。
「そう、それがお前らしいよ」
「いつもの私を知らないでしょ?」
「まぁな」
もう一口、最後のパンのかけらを口に突っ込んで、ジワリと笑顔を見せる佐村の一連の動きがあかさをますますホッとさせた。
「怒ってるかもよ」
眉を上げてそれらしくして見せるあかさに対して、
「そうかもな」
と、佐村はわざとブルブルと震えて見せる。
「何よ」
「何だよ」
二人から小さく短いが笑い声が上がる。
「て、凄い勢いだね。食べるの」
すでに二個のパンを平らげた佐村は、
「いつものパンがなくて」
「いつも何食べてるの?」
「腹にガツンと来るやつ」
「そんなのがある?見たことないけど」
「買いに行ったことないだろ?」
「うん、行ったこと無い」
「行ってみろよ。いろいろあるから」
「そうだね。今度そうしてみるよ」
雨の音、照明の点滅、湿気の匂い、さっきまで感じていたことがもうすっかり佐村に気が向いて、いろいろと思う中でも群を抜いて楽しさが心を満たしていた。
しかし、佐村は間を読まないというか、読めないというか、
「何があったんだ?」
と、ごみとなった袋を手のひらで握りながら言った。
「ううん、別に」
フーンと、佐村は納得していない様子で、もちろんその反応はあかさの顔を見れば正しいものだった。
気持ちは嬉しいが、これはあくまで私の問題、というより加織と私の問題なのだ。
そう、ついさっき加織に私が思ったこと、そのまま…。
「バスケでさぁ」
「うん?」
膝に肘を置いて前かがみになって話し出す佐村に、何のことだろうかと聞き入るあかさは佐村の横顔を見る。
「仲間にパスを出すだろ?」
真剣な顔つきで、何かを伝えたいのだろうとあかさからも笑顔が消えた。
「目で合図したり、手や体の動きだったり、コミュニケーションをとるんだ」
バスケットボールのことはよく知らないが、ボールをチームで回すことくらいはなんとなくわかるし、知らなくてもそれは意味が分かる。
「まだ俺はうまくできないけど」
何の話だろうか。
手を握ったり緩めたり、その度に彼の腕の筋肉が筋張って、自分とは違う人間なのだと目で確かめ、彼の言葉のパス回しだって少し身を引いて考えてみると、そもそも男と女では考え方も違うのかもしれないと、同じ人であるのに不思議に思えて仕方ない。
「バスケじゃないときも、仲間と一緒にいて、そいつのことをよく知っておかないとうまくいかない」
「そうかもね」
私は君のことがまだよくわからないもん。
「何でも話して仲良くなって。意見の合わないときもあるけど、それは仕方ないよな。別の人間なんだから、当たり前」
話の先が読めないあかさは、佐村の手と自分の手を見比べていた。
話を聞いていないわけでなく、彼との違いに興味がわいてきていたからだ。
子供と大人ほどに大きさが違うわけでないのに、こんなにも力強さが違うものかと、華奢にも見える細い指、その動きに視線が引き寄せられていた。
「他人が集まってチームを形成するんだから、一人が元気なくても他が元気ならいいって思うじゃん。でも、意外と気が移るんだよ」
「移り気ってこと?」
耳から入った言葉をぶつ切りにして単語を発し、言った後で不真面目だったかと佐村の表情が気になったが、
「違うって」
コミカルに指を振る佐村。
真剣な話の中で急な変化をつける、そんな彼のおどけた姿を見てあかさは笑みをこぼした。
佐村も笑顔になって軽く笑って、背もたれに寄りかかり背を伸ばした。
あかさは不自然にならないように気を付けながら顔を背け、潤んでいた目を擦ってごまかしながら、もしかしたらもっと前から潤んでいたのかもしれないと思って少し恥ずかしい気分になる。
「違うか」
あかさはそう言って、深く息をついた。
隣ではまた真顔になりつつある佐村がいて、話をつづけた。
「勝とうとする気持ちがみんなに伝わっていくんだ」
私は何に勝てば良いの?
「元気も相手に伝わる。だからお前がまず元気じゃないといけないと思うんだ」
ただの隣の席の、ただのスポーツマンの、ただのクラスメイトの男子が、あかさの目には別の存在に映った。
大人びた雰囲気を醸して、いつもの何て事のない話をするだけの彼とは違って見えた。
話の中身だけ聞いてしまえば押しつけがましい、大人が言いそうなことだと思えただろうに、どうしてか、あかさは膝上の弁当箱が作りたてのように温かく感じ、その感覚を確かめようと手で包むようにした。
点滅していた照明はいつの間にかしっかりと灯っていた。
雨音と静寂が混在して、時が止まったよう。
「とか言って、監督の話をパクっちゃった」
茶化して言う佐村ははにかんで、しかしあかさにはそれを素直に聞き入れることはできなかった。
きっと、彼自身の言葉なんだ。
「何よ、それ。いい話だったのに」
「へへ。それより、弁当食べないのか?」
言われた途端、なんだかお腹が空いていることに気づき、俄然食欲が沸いてくる。
「もちろん食べる。ねぇ、それだけで足りるの?」
「足らない、だろうな。いつものがなかったからな」
何度も聞かされると、佐村がいつも選んでいるそのパンがどんなものなのか気になって仕方ないが、何にせよ今は、
「どれか食べる?」
あかさは弁当箱のふたを開けて佐村に勧めた。
迷うことなく指でつまんで口に放り込む彼に、
「手で食べるの?その手、どうするのよ」
「大丈夫、舐めるから」
「やだ、それ」
「いや、冗談だって」
一緒になって食べたお弁当は思ったよりおいしくて、食べにくる度に匂う彼の男っぽさをあさかはいつしか楽しんでいた。
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