彼女をぬらす月の滴

内山恭一

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模試の制限時間は長くないはずなのに、あかさはまだ空白が残っている答案用紙ではなく、じっとしているカーテンの白に気が向いていた。
もちろん、模擬試験よりカーテンを見る方が大事なわけはなく、考えるにはうってつけの風情のなさを見出していたからだった。
考えるのは、加織のこと。
来月に控えた期末テストに備えて机に向かっては見たものの、やはり加織のことが気になって仕方がないあかさだった。
今日の加織、まるで喪服を着てるみたいだった…。
上から下まで黒っぽいからと言って喪服ではないし、そもそも服には他に白いレースもあしらってあったし、服だけ見れば大人っぽくてかわいらしさがあった。
ただ、加織がまれに見せる素の表情がそう見せていたのだろうと今は思える。
なんて人間って複雑なんだろう。
テスト問題を解くよりはるかに難しいではないか。
真面目に授業でノートを取っているおかげで、最近の題目は何とかなりそうである一方、
それより前の睡眠学習に浸っていたころの範囲は目も当てられない。
当てにしていたひさきのノートは期待できないかもしれない。
そもそもひさきの風邪は大丈夫だろうか、とあちらも気になる。
明日にでも登校してくれば、範囲くらいは教えてあげられる。
その代わりにわからないところを教えてもらおうと、むしろ教えてもらうことの方が多いだろうことには目をつむっていて、あかさはいろいろと考えに忙しい。
設定した時間を過ぎ、携帯がアラーム音をけたたましく鳴らせる。
その音で自分が回答途中で練習問題をほったらかしにしていたことにようやく気付く。
「あーぁ」
ため息が漏れる。
もしこれが期末テストだったらと思うと、あかさは力強くシャーペンを握りしめるのだった。
あかさの嘆息はテストに向けたものだったか、加織に向けたものだか定かではない。
あかさは空欄のまま埋められなかった項目のように、頭も真っ白にしてみたくなる衝動にかられた。
臨むべき問題が多すぎる…。
シャーペンを荒々しく机に置くと、ベッドに飛び込んだ。
鈍く弾むバネに体が揺さぶられ心地いい。
布団に抱き付き顔をうずめるあかさは、水泳の時のように大きく息を止めてしばし、顔を上げるとため息交じりに息を吐く。
「どうしよう」
勉強は取り組めば何とかなる、はず、きっとそうだと信じたいが、人間関係は一筋縄ではいかないのだと悟るはめになった。
加織と彼氏の関係の余波に揉まれる加織と自分、というよりも自分だけだろう、言ってみれば片思いと同じなわけで、独りよがりに胸が苦しくなるように自分が持って行っているだけなのだ。
きっと、さばさばしたちかやなら、そんなものは気にするなというだろう。
ちかやが冷めた人間だと捉えているわけでなく、彼女の合理的で進歩的な考えは一貫していて、それを思うと、見方とかポジション次第で物事はどうとでもなるのだとあかさに教えてくれていた。
おそらくはバスケでのちかやのプレイスタイルは彼女そのままを映しているに違いないとあかさは思って、一度バスケをしてる彼女を実際に見てみたくなった。
見ても良くわからないかもしれないが、そういう意味で考えてみると、佐村はどうなのだろうかとあかさはイメージしてみた。
だが、頭に浮かぶのは加織のことばかりで、心の深層と表層が混じって混濁してきそうだ。
彼の日常の姿をきっかけにして、どう動くだろうか、何を考えるだろうか想像力をあおってみる。
最初の時に受けた印象と今は随分違っていて、男子にありがちなぶっきらぼうでそっけないという固定観念はすでに持っていない。
だったら、どんな人だろう?
身近な存在なのに、こうも思い描けないものだろうかと、ますます布団に頭を沈めた。
それはいい。
とにかく、今はやっぱり加織のことが気になっているんだ。
これをどうにかしないことには、気がおかしくなりそう。
加織と過ごす時間は楽しいものだったし、共に過ごした時間の長短は関係ない。
彼女とまたこれからもいろいろと楽しみたいし、一緒にいたい気持ちに揺らぎはない。
諦めるわけにはいかない。
静かな部屋に時計の秒針の音だけが響き、時を刻む。
加織のことであかさがテスト勉強をすっかり忘れてしまった頃、携帯が鳴りだしてあかさはアラームを切り忘れたのだろうかと、急にテストのことが頭をよぎって飛び起きた。
アラームではない、聞き馴染みのある音楽は友達からの着信を知らせていた。
表示を見て、息を飲むあかさ。
加織から、ではなく、佐村からだった。
今日番号を交換したばかりで、初めての電話をかけてくるとは思わなかった。
事前に電話すると電話してほしいくらいに、ドキッとしていた。
あかさは椅子に腰かけ、軽く息を吐いてから電話に出た。
「もしもし」
「霧村か?佐村だけど」
「うん、知ってる」
少し笑ってみせるあかさだが、実のところ全神経は耳に集中している。
「どうかした?」
「いや、別に。あいつ、どうしたかと思って」
「あいつって?」
「昼、話したじゃんかよ」
「加織のこと?」
「そう」
思いがけない佐村からの電話に自然な会話をしようとすればするほど、自分で気づくほどに不自然な受け答えをしてしまう。
「あいつはもう問題ないのか?」
何だ、私を心配しての電話じゃないの?
少しがっかりしている自分に気づいて、別にそんなことはない、と自身にうそぶく。
「前よりちょっとは良いように思うけど。どうだろうね」
雲の切れ間から暫時のぞいた太陽から届く光、それに重複して見えた加織の笑顔を思い出した。
鮮明なようで、ぼんやりとしたようで、見たことすら記憶があいまいで信じることが難しい。
「ふーん。じゃぁ良かったんじゃねえ?」
良かったのかもしれない。
少しだけでも加織の気持ちの変化に触れることができたのだ、それは進展と言えそうだ。
ただ、佐村の二者択一で、片方の答えを切り捨てたような物言いに、あかさは男と女の違いをそこかしこに感じて、それでも明快な答えを導き出そうとする彼との会話は楽しくもあった。
「良いんだか、悪いんだか」
「何だよ、それ」
「いや、こっちの話」
「ふーん」
奇妙な沈黙が二人の時間に流れ込む。
「それだけか?」
「それだけ」
また少し間があったが、今度は長くは感じない。
「何してた?今」
「筋トレ」
と、沈みがちな声のトーンを変えようと、とっさにあかさの口をついて出た。
佐村の反応は、
「マジで?」
と素っ頓狂な声である。
「ウソに決まってるじゃん。勉強」
「それも嘘か」
「いやいや、それは本当」
今は話を楽しめばいいと、あかさは笑った。
「期末テスト近いからね。そっちは?」
「俺も同じ。でももう眠い」
「何?眠気覚ましの電話なの」
気に留めることなく、佐村は、
「どうなったか気になったからだよ。単純に」
とムキになって答える。
それは一人ぼっちを感じていたあかさに嬉しい気遣いだった。
胸が熱いような、痺れるような感覚がたまらない。
「もう寝ちゃえば?」
「そりゃそうだけど…」
「目は覚めた?」
ありがとうと声を掛けるのはおかしいと、あかさは照れながらも声には感情を乗せないようにそう言って机の上のシャーペンを手に取った。
「あぁ、おかげで。じゃぁもうちょっと頑張るか」
「そうだね。私もやらないと」
「お前はやらないとやばいだろうしな」
「ちょっと…」
「じゃぁな。また明日」
「え?うん。じゃぁね」
呆気なく電話は終わった。
もっと話してみても良かったのにと後悔していたが、たった数分の電話だったがそれでも満足だった。
あかさはパジャマの襟元をパタパタとさせて火照りを冷ましながら、真っ暗な画面に戻った携帯を眺め、ふぅっと息をついた。
「よし!やろう」
あかさはシャーペンを握る手に力を入れて、今度はしっかりと問題に取り組む姿勢を見せた
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