彼女をぬらす月の滴

内山恭一

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「じゃぁ、これはあいつの夢なのか?」
「多分、そう」
「ふーん」
わかっているのかそうでないのか、それ自体わからない曖昧な、生返事である。
しかしそれは仕方のないことだ。
突然にこの世界にトリップしたばかりで、あかさたちのように幾許と知れない知識を共有しているわけではない。
それなのにこうしてついてきているのは、凄い勇気のいることに思えた。
知った人間がいる、今回の佐村にしてみればあかさが一緒にいるという安心感が拒絶を生まなかったのかもしれない。
一方、加織はこの世界をすでにどっぷりと浸るほど受け入れているように思えて仕方ない。
それは、彼女自身が望んだ形であり、夢や希望で満たされた感覚に酔いしれているのであり、現実感に過ぎるあかさを見て逃げたりはしないだろうからだ。
あの時、加織はあかさの名前を呼んだのだ。
聞き間違いかもしれない可能性はあったが、そう決め込んでいた。
この世界の創造主が加織ではない可能性が頭の隅っこに小さくなって消えかかっているほどに、それはもう盲信と言えるほどあかさは信じ込んでいた。
もちろん鳥であるあかさではなく、佐村の背中のあかさを見て、名を呼んだ。
だがそうだとすると…。
疑念は頭の片隅どころではなくこの霧のように深くあかさの頭を濁していた。
何故に加織にはそれが見えたのだろうか、と。
それに逃げる理由は何だろうか?
見当がつかないあかさには、答えを知る術が一つしか残されていない。
加織と話をすること、それこそが唯一なのだ。
それ故にこうしてまた霧の上に上がって来たのだ。
最初と同じ風景。
上空に厚い雲があり、重たそうに空に蓋をしている。
見つめていると錯視とばかりに雲が霧に見えてくる。
ゆったりと呼吸しているかのように動いて変化し続ける。
今、それをこうして間近に見ていることは超常的であり、やはり夢なのだ。
加織にとっては全てが夢心地なのかもしれない、とあかさは彼女を慮った。
自分が加織に必要とされていない現実を鋭く喉元に突きつけられて自在に動くことが叶わず、そんな悲しさに苛まれているあかさと対極の位置に加織がいる、そんな風に思えてくる。
やや足手まとい的存在の佐村が一緒なのはそんなあかさにはせめてもの救いであり、彼のおかげで喉を貫こうとするナイフの切っ先ですら掴んで振り解けそうなほどに心強かった。
しかし、いまだに本物の佐村なのだろうかと疑わなくもない。
もし、彼が夢であるならと思うと、悪寒を禁じ得ない。
あかさの姿をした思念の存在は目に見えているし、フジを背に感じてもいるが、この世界の全ては完璧すぎてアンバランスで、幼いころにぬいぐるみを抱きしめた時のように全身全霊をもってそれを受け入れることはあかさにはできなかった。
「佐村君?」
「なんだ?」
「私の誕生日、知ってる?」
夢なら知っているはず。
「知らない。話したことないだろ?」
答えを聞いたところで、佐村は知らないはずであることがそもそも夢の前提にあるとすれば、この質問自体無意味だったとあかさは悟る。
「いつなんだよ」
「いいよ、また今度ね」
「自分から話しといてそれはないだろ?」
「佐村君はいつなの?」
「一月、一月二日。すごいだろ」
妙に具体的で、リアルである。
何が凄いのか理解に苦しむところも。
ともかく、何を言って何を聞こうが、今この世界では解決しないのだとあかさは諦めることにしたのだが、
「で、いつだよ。霧村は?」
「だから、今度」
「なんで隠すんだよ」
「隠してなんかないって。夏だから、もうじきなの」
と、今度は佐村から顔を背け、
「フジ、まだなの?」
「そろそろ見えてくる、ほら」
眼下の霧が急速に薄くなり、堀に囲まれた島のような場所が現れてきた。
緑の深い場所に直線が目立ち、どこなのかわからなくともそこが人によって作られた場所なのは明白だった。
翼は風を切って、その人工物目がけて降りていく。
遠くからえもいわれぬ鳥だか動物だかの鳴き声が響いて耳に届く。
風は無く、聞こえる音はそれだけだ。
二週ほど旋回し、佐村が止まりやすそうな石積みを見つけてバサバサと降り立つ。
高い場所から見えるその風景に何度と繰り返し首を振る。
密林であり、南国であり、どう形容すれば良いのか迷っているあかさに、
「どこだろうな、ここ」
「私たちの街じゃないのは確実ね」
「そりゃそうだろう?ここが学校だったら猿とか普通にやってきそうだぞ」
今回は佐村も分からない様子である。
あかさたちの居る場所は石でできた建物の屋根のようで、茶色く苔むしていて、随所に崩落した箇所が目立ち、いかにも遺跡といった趣である。
地面を見れば積まれた固く重そうな石が朽ちるように欠けていて、その間から木の根っこが逞しくのびていて自然の力をまざまざと見せつけられる。
数十年どころではない、長い年月をかけて今に至った時間の重みが目の前に広がっている。
「アンコールワット、だよ」
聞き馴染みのある声。
振り向けば知らない間に、隣の棟に茶色いあの鳥が立っていた。
「加織?」
「あかさだよね?」
「うん」
と、頷いて見せる。
「佐村君、でしょ?」
加織の声は楽しげで、あの明るい表情の加織を思い出すあかさ。
予想した通り、加織は世界を楽しんでいる。
あかさは一歩踏み出そうとすると同時に、ふと小石につまずいたようにつんのめった。
何もないのに、どうして?
それよりも…。
「どうして逃げるの?加織」
「だって、こんなところに居るとは思わなくて」
「それは私も同じだよ」
「だって私の夢なのに」
「だったらここもそうなの?」
「そう」
加織は僅かずつ雲が晴れてきた空を眺めて、
「行きたい場所に自由に行けるって、すごくない?」
上ずった声で佐村にも分かるほど、加織は上機嫌だった。
「タージマハルや、アンコールワットって、それが加織の夢?」
「うん。いつか自分の目で見てみたいって、ずっと思ってた」
全ては加織の夢、希望の形なのだ。
それをあかさは今まで少したりとも加織の口から聞いたことは無かった。
深い間柄と思っていたのはあかさの思い上がりだったと知り悲しさにうなだれた。
「他にもベトナムやインド、チベットとか。たくさん行ったかな」
笑い交りに喋る加織の表情は見えないが、今まで一度たりとも味わったことのない熱を感じた。
狂気と言っていい。
恐ろしくも自らの夢に拘泥し、絶え間なく快楽を求める。
加織が見せたことのない一面だった。
しかし、それは自分ももちろんのこと、ちかややしおんもそうなり得ることだったわけであり、足がすくむ思いだった。
「そんなにたくさんの場所を飛んできたの?」
「ふふ。そうだよ」
彼女の笑みを想像して、笑顔の向こうに隠れる瞳の色にあかさは身震いした。
「おい、大丈夫か?霧村」
佐村にすら、あかさの怯えが伝わっていた。
佐村はまだこの世界のことを知らないからこそ、敏感で居られた。
普通じゃない。
きっと本当にずっと夢を見続けているのだ。
もう随分と前のことのようだが、あの彫刻前で眠りこけていた加織は、携帯が鳴って震えていようがお構いなしに、この世界から出ようとしなかったということだ。
彼女は現実に戻ることを拒んでいる、あかさの直感はそう告げていた。
頼り切っている。
信じ切っているのだ。
私やひさきにそれをできずに、夢の世界に。
加織が学校で普段通りを演じられたのは、ずっと何かから逃げ続けている偏った心の均衡が、夢のおかげでバランスを取れるようになったからだ。
「この世界が何なのか、知っているの?」
問うているあかさですらまだ答えを知らない、漠然としか理解できていない質問に、
「ちょっとくらいは、ね」
そう聞いてもあかさは驚きはしなかった。
「加織の友人はどこ?」
思念を知っている。
確信があった。
「友人になろうと誘われたでしょ?」
「ほら、そこに居る」
「どこ?」
「見えないの?あれが」
あかさと佐村はキョロキョロするが、何の変化も見つけられない。
加織が笑い、それがあかさには嘲笑に聞こえる。
「真昼に鳥目?あんなに大きい鳥が見つけられないの?」
最後まで加織の言葉を聞かなくとも、思念の姿を見つけることができた。
何しろ、あかさたちの居る場所が急速に陰り、それが何故なのか見上げて、理解し、戦慄したのだから。
大きいという表現では足りない、胴は象よりも太く、背は麒麟より高い、巨大な鳥が隣の屋根に掴まって止まっていた。
鷲掴みの足の爪はそれだけでも巨大で、開かれたくちばしは足元の加織を飲み込まんばかりである。
バスみたい。
鳥を乗り物で形容するのは愚かであるが、あかさには他に鳥の大きさを言い表すにふさわしいものが思い浮かんでこなかった。
フジはほとんど大きさが変わっていないと思う。
ちかやのカピバラは以前のように肩に乗せられる大きさではなくなった。
しおんのタクトは…、いまいちぱっとしないので除外するとして、ちかやの思念ですらその程度なのに、どれ程までに喜楽を極めればここまで思念が大きくなるのだろうか。
あかさは絶句して、加織の苦痛を推し量っていた。
そして願った。
助けたい。
鳥の影に隠されてしまう前、雲がない快晴の空だった。
それなのに、強い光の筋が束のように集まってあかさを照らす。
「帰ろう、加織」
あかさは目がくらむことなく、真剣な眼差しで加織を見つめた。
人として、気持ちが伝わるはずと、加織の目を見つめ続けた。
首をかしげる鳥の瞳がうつろであり、感情のない目を向けられている気分に陥りそうになるのをこらえて、あかさは、
「加織を助けたい」
と、やはり動きは見られない。
加織の思念がそっぽを向いて、鉤爪に粉砕されてわずか舞う石粉が降り落ちる、たったそれだけだ。
あかさは虚しさに足をすくわれないよう、お腹の底から出せる限りの大声で叫んだ。
「だから、私に話してよ!」
悲しかったのは事実だ。
拭いようのない自分の感情なのだから。
だが、泣こうとは思わなかった。
事の重大さはあの異様に巨大な鳥を見れば一目瞭然であり、私が泣ける立場ではないのだ。
それなのに、涙がポロリポロリと目からこぼれる感覚に胸が痛む。
「あかさ…」
加織の頭上の大きな鳥がさらに巨大な翼を広げ、羽ばたく。
風が吹き荒れ、飛ばされまいと必死のあかさの目が輝く光の粒を幾つも見た。
何とも言えない美しい七色の光。
羽から鱗粉を出す蝶のように、鳥は光をもってあかさたち三人を包みこみ、世界は光に呑まれて消えた。
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