彼女をぬらす月の滴

内山恭一

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あかさは揺れる車内で携帯を出して、時刻を確かめる。
約束の時間が過ぎ、待ち合わせの場所に来ない待ち人を期待し、むなしく時間ばかり費やしていた。
昼前の約束からもう二時間は経っていた。
もちろん、あかさ以外にも似たように待っている人がいて彼らが去っていく姿をただ指をくわえて待っていたわけではない。
電話もしたし、念のため家にも確認の電話をしたのだ。
「朝から出かけてるみたい。携帯電話持って行ってるはずだけど。連絡つかない?本人から連絡させようか?」
加織の母の気遣いは嬉しかったが、断っておいた。
私からだけでなく、誰からの電話にも出られないだろうから。
あかさにはまだ少しばかり加織に対する疑念があった。
トリップし続けて、また現実逃避に走っているのではないか。
それならば携帯に出ない理由も、待ち合わせをすっぽかす理由も、納得できる。
あかさが初動を起こしたのは約束の時間の十五分後である。
しかし、実際には探すのに手間取っていて、今こうしてバスに揺られているのも徒労かも知れないと、携帯の画面から車窓の風景に視線を移した。
ため息で窓が曇って、すぐ消える。
じっとしてはいられない。
加織は確かに、
「明日、必ず話す」
そう、言った。
昨晩の暗い夜道、ふらつく彼女を家まで送る途中、彼女の口から聞いた。
自発的だったし、聞き間違いだったわけでもないし、何より、普段の彼女なら約束をしてそれが守れそうにない時に一言も伝えずすっぽかすことはなかった。
もう彼女にとって現状はとっくに普通ではないのだ。
夢の虜。
現実逃避し、快楽に溺れ、沈んでいく。
それは彼女の思念の姿を見て、一目でわかった。
異常な巨体を持ち合わせている鳥は、彼女のクマのできた笑顔と隣り合わせで離れずに、二律背反ともとれる回避不能な現実なのだ。
そう理解していたから、待ち合わせの場所にわざわざ人気のないシャッター通りを選んだのだった。
かつて賑わっていたろう商店街のそこなら彫刻はないだろうと踏んでいて、時間がたっぷりあったおかげでその発想が正しかったと、端から端まで歩いて確認できたのだから間違いない。
逆に、その場所のせいで加織がどこか来る途中に彫刻、夢、いや、欲求に遭遇してしまうかもしれないという選択肢を盲目的に消し去っていたあかさに、探す範囲を広めてしまうという副作用をもたらした。
街中の通りや公園は探しつくした、と思う。
今までも、こんなところにも、とびっくりするようなところに散らばって彫刻が点在していることを経験し、その数の多さに知らない場所がもっとあってもおかしくない。
だが、知らない以上は探しようがないわけで、こうして残された選択肢である彫刻が多くある公園に向かっているのである。
野外彫刻展と銘打つ、湖そばのあの公園である。
大きく連続するカーブに体を揺さぶられ、やがて観覧車が見えてきた。
到着のブレーキを待たずあかさは腰を浮かせて、ドアが開くと同時に車外に飛び出た。
まだ梅雨明け宣言はなかったはずだが、目が眩むほどの快晴である。
こんな梅雨の中休みの日には、外でぶらぶら散策をしても悪くない。
もちろん友達と共に、である。
とはいっても、本当はテスト勉強をしないといろいろと危ないのは肌の感覚でわかっている。
それに、大切な友達である加織が居ないのはつまらないし、そもそも加織をこちら側の現実に連れてこなければあかさ自身の勉強も手につかないだろうと理解している。
白紙の答案用紙が思い出され、担任の顔もつられて思い出した。
荻野はそれをどう思うかわからないが、言い訳でなく本心からのことで、かつてのように一緒に笑っていたいと、それを切に願って止まないあかさの目は真剣そのもの。
その眼は進む先を鋭く見つめ、公園のゲートをくぐり、人を避けながら走った。
天気が良い昼下がりで、休日をのんびり過ごす雰囲気の中に人出は多く、颯爽とはいかずなかなか走り辛い。
ランニングには不釣り合いなスカートをたなびかせて走るあかさは、一人この空気に浮いていた。
なりふり構わず走り、すぐに広大な芝生の丘にたどり着いた。
多くの彫刻があり、それらを縫いながら多くの見物客が自分たちの時間を満喫していた。はぁはぁと、息が上がる。
どうも最近走ってばかりいるように感じてしまうあかさだが、それは事実だった。
喘ぐ口元にはらりと髪がくっついて、
「束ねてくればよかった」
と、鼓動を抑えるためにゆっくりと髪をほぐしながら背を伸ばす。
見回してみるが、それらしい姿はどこにも見当たらない。
やっとのことで心臓が穏やかになると、一人浮いた存在でいるのは耐えられず、今度は歩いて客を演じた。
もちろんわずか早足ではある。
一旦高台まで上がって一望したものの彫刻と芝と輝く湖面ばかりが目について、また降りて今度は湖沿いを探して歩く。
トリップするならベンチのある場所と気づいたからだ。
「もしかしたら、ここでもないのかな」
一抹の不安が頭をよぎって、思いがそのまま口をついて出た。
この公園以外でどこかあるだろうか?
あかさの鼓動はやや早まった。
人を探すのがこんなに大変だとは、思いもしない。
じっとりと汗ばむのはまだ湿気が強いからか。
その汗もピタッと止まったようだった。
足も、わずかに開いたままの口も、瞳孔の動きすら止まったように、一点に意識が吸い込まれ、再び鼓動が力強くあかさの体を打ち震えさせた。
「加織」
長く続く藤棚の下、強い日差しとのコントラストでなかなか目が慣れないが、ぱっと見てあれが加織だと直感した。
安堵から笑みを浮かべて近寄るあかさは、
「加織?」
と声を掛けるが、加織はうつむいたまま顔を上げない。
立ったままでは表情はうかがい知れないと、しゃがむあかさは驚いた。
眠っている。
それはおそらくトリップしているからだろうと、推測の範疇だった。
それではなく、あかさの驚きは涙を流していることに対してのものだった。
あの曇天の空の下で話をした時と似た黒い服を身に着けて、その佇まいはまるで葬送のようで見ていて物悲しい。
加織の肩をやさしく揺するあかさ。
ぱっと顔を上げる加織と目が合って、鼓動が殊更早くなった。
トリップしてたと思ったのに…。
彼女のクマを作っていた目は泣きはらしたものだった。
「大丈夫?加織」
「うん、ごめん」
と涙に気づいて指で拭う加織は、
「もしかして、探してくれた?」
「当たり前でしょ。すっぽかされたんだから」
あかさは彼女の隣に腰掛けて、少し怒った口調になる。
故意にそうした。
何しろ本心は、無事加織を見つけられたこと、トリップしてただろうにすぐに現実に戻ってこれたこと、それらに安心していたからだ。
「本当に、ごめん」
悲しそうだが、その浮かべた笑顔は昨日までとどこか違っていた。
たった僅かの間、その一瞬、あかさはさっと閃いた。
明日話すと彼女が言ったその理由。
あかさの自宅周辺にやけに詳しかったこと、そして、今ここにいる理由。
それに謎の彼氏の存在が結びついて、導き出される涙のわけ。
全てがつながった。
「別れたの?」
静かに、しかししっかりと深く頷いて見せる加織。
知らない加織の一面を見ている。
しかもこの一週間程の間に、そんな一面を二つ三つと見てきた。
大人っぽく見えていた加織に人知れずこんな女の子らしい面があるなんて、思いもよらない。
トリップがあったからこそなのだ。
堰を切ったように守って来た外面が崩れる、あかさはそう感じた。
しかし、その感情はそもそも加織が持ち合わせていた当然のもの。
勝手にあかさが、周りが彼女を大人に見ていただけなのだった。
どうにかしてこのか弱い少女をやさしく包んであげたいと欲情するのに、あかさは何もできずにいることが悔しくて唇を噛む。
見つめるだけのあかさは、
「話してくれる?」
「うん」
幼い子に諭すように、あかさは視線を合わせ寄り添った。
和やかな公園の雰囲気に、しばしの沈黙が二人を異世界に誘うようだった。
加織の心は決まっている、とあかさには見えた。
だからとにかく彼女が話せるまで待とうと、静かに彼女を見つける。
不意のことにあかさはビクッとして驚く。
あかさの携帯が鳴ったのである。
放っておこうにも音がうるさく、周囲の耳目も集めそうだ。
「いいよ、電話でしょ?出て」
加織の表情は穏やかだ。
あかさは促されるまま、
「もしもし、どうかした?」
急いでいたから発信相手が誰なのかは声で知れた。
「今、何してるの?」
ちかやだった。
「今、ちょっと忙しいの。何か急用?」
ちらっと加織の顔を盗み見て小声になるあかさに、
「隣に誰かいるの?」
「友達。今、大切な話してるんだから。で、何なの?」
「トリップしないんだったっけ?」
「だから、昨日言ったじゃん。今日は無理だって」
「いやぁ、もしかしたら、と思ってさぁ」
ちかやのいつもの調子にあかさまで引っ張られそうになるのを堪えていたあかさは、また急に世界が変わるのを感じて、思わずとっさに叫んだ。
「場所、変えとけば良かった!」
その声は遅きに失し、夢の空間に轟いていた。
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