彼女をぬらす月の滴

内山恭一

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雲の上だった。
霧かもしれないとは思わなかった。
踏んでも抜けたりしない、定冠詞を付けてもいいくらいの夢の雲。
食べてみたい、乗ってみたい、誰か覗いているかもしれない、子供ならきっとそう思うだろう夢の世界に、あかさは立っていた。
足を擦ればじりりと砂を踏む感覚があり、おそらくは砂利の地面が広がっているのだろうが、あかさはそのことは黙殺し考えなかったことにした。
太陽がやけに眩しくてあかさは目を薄目にして、手で庇を作る。
背が頭上よりはるか高い大理石の石柱が雲からにょきっと突き出てそれらが整然と並び、さながら雲の宮殿という表現がぴったりである。
しっとりとした風に乗って、綺麗な声が耳に届いた。
歌だった。
静かな始まりの旋律はのびやかに高音へ変化し、ビブラートに心が痺れるようだった。
聞いたことのないその歌声は、水のように透き通り、花の香りのように心地よい。
落ち着く気分の中、あかさはこの世界のことをじっくり考えている。
考えようとしていた。
決して聞き入っているのではない、とはあかさの言葉であるが、しかしその様子は完全なる聴衆の姿である。
目が一向に慣れることは無く、薄目でぼんやりとしか見えない。
階段状になって少し小高い場所があり、そこから声は届いているようだった。
いつかちかやと並び座っていたあの噴水のように、透明感のある歌は階段を流れ落ち、あかさの元へ、そしてより後ろへと流れていくように感じられた。
きっと平坦だろう地面だが、念には念を入れて慎重に一歩一歩歩いて近づく。
声が少し力強く聞こえるほどになったころ、階段の上、人の姿が見えた。
あかさはその声の持ち主に驚き、目を離せなくなってしまう。
足が止まる。
加織だった。
普段の声とは全く違う、魅力的なやさしさと心震わす力強さを持っている。
身に着けた純白のドレスは美しく、彼女はとても楽し気で、その笑顔がまた花を添えているようだ。
あの髪型…。
あかさは記憶を掘り返す。
一枚一枚写真を手に取って見るかのよう。
あのライブの日、説得しようと公園で話した日、そして今。
学校はもとより休日でもいじることのないまっすぐな黒髪を斜めになでつけて、大人っぽい彼女にとてもよく似合っていた。
うっとりとするあかさの腕の中でもぞもぞと動くフジに、
「ねぇ、この世界にいること」
と言って、少し間がある。
フジは黙って耳をぴくぴくさせるだけだ。
間が必要だった。
聞くのが怖いことだったからだ。
「この世界に居続ける事はできるの?」
加織がその答えだと本当は知っていた。
それすらもフジは承知していたからか、何も言わずに振り返り目を合わせただけである。
そう、答えは聞くまでもない。
彼女は望み、実行した。
「あなたたちがそうさせたんじゃなくて?」
「依存心が強ければそうなる、のかもしれないね」
「フジにはわからない?」
「君にそんな気持ちはないからね」
「したくてしたわけじゃないってこと?」
だが、フジは前を向き直し、あかさもそれ以上は聞かなかった。
無心でいるはずが悪寒が走り、あかさはおもわずギュッと目を閉じる。
瞼に力がこもって、フジを抱く手も痺れるほどだ。
それを何とか振り解くため、大きく息をして、胸いっぱいに加織の歌声を吸い込んでみる。目を開いたとき、石柱の一本の先端に加織のあの鳥が止まっているのが見えた。
加織を見つめているのだろうか。
この世界と昨日まで彼女がいた世界と、これほどに鳥の大きさは異なっている。
あかさは涙がこぼれて、初めて自分が泣いていることに気づく。
悲しくて流す涙ではない。
もう何も心配しなくていいんだ。
泣きたいのは加織の方なのだという堤防がずっとあかさの瞼にあって涙を止めていたが、声に体が共鳴するたびに、一筋一筋と頬を流れて落ちていく。
歌を途中で止める加織を、彼女のことが気になるのにあかさは直視できない。
あかさは顔をそむけた。
恥ずかしさに悶える。
今度は加織があかさのもとへ近づいて来た。
「ねぇ、あかさ」
耳はまだ熱かったが、やっと涙をこらえることに成功した頃、あかさを見つめていた加織が話の続きをする。
「私は歌が好き。自分が歌うのが好き」
笑顔のままで、何かを思い出したかのように、加織の頬を涙が濡らす。
違う、思い出したのだ。
歌への思いと、彼への想いを。
また、あかさの知らない加織の一面だ。
「中学の文化祭で私がボーカルで、バンドをやったの。一回だけ。クラスで知らない人は居なかったから。どこでどうなったのか知らないけど、私の話を聞いた彼がバンドに誘ってくれた」
淡々と、表情はない。
「でも、一回だけの約束だったし、面白そうだからやっただけで。バンドには興味がわかなかった。最初は断ったけど」
加織は一つ息をついて、あかさは息を飲んだ。
にこりとして、いかにも楽しそうにあかさに微笑みかけた。
「楽しかった。彼は教えるのが上手くて、一緒にいるときはいつも優しかった」
宮殿は白く明るいままなのに、加織の表情が曇ると気持ち陰ったように見える。
「美月じゃないけど、付き合ってる気になってた、一人で。高校生になってからも彼の家にしょっちゅう通った。でも訊いたの、我慢できなくったから」
あかさは真っ直ぐに加織と視線を合わせて離さないつもりだったが、加織はその瞬間視線を落とし、
「私でも、美月でもない、他の人だった」
息苦しいとあかさは思った。
ここまで話を聞いて、絡んだ糸の端っこに自分がつながっていると感じたからだ。
もう核心に辿りつきたい。
その先が楽園の花園だろうが、崖下の岩場だろうが、我慢できない。
「私に言ってくれても良かったよ」
と、あかさは固唾をのんで、フジを抱く手に力がこもる。
「美月は彼と付き合ってる人が同じ学校の、同じクラスにいるってことを知っていた」
フジの毛がふわふわとして心が安らぐような感触のはずが、とげとげしてちくりとするように感じられてならない。
ただ、もつれた糸がほぐれて一本の糸へ撚られていくようで、ただただ安堵した。
そして、霧のように濃い霞があかさの心を満たしていく。
美月のあの顔、態度。
嫌なのに、考えるほどに鮮明に彼女のことばかり思い出せてしまう自分が悲しかった。
それでも、この状況が崖下だったとは思わず、もちろん楽園でもなく、この美しい幻想の世界でもなく、現実の世界に踏ん張って立つあかさの目の前にある事実なのだと冷静だった。
「美月はたぶん、知らない彼女のことをあかさだと思ってたんだと思う。私との関係は普通だったから」
遠回しであるが自分が原因だと言いたいのだ。
その気遣いが心に棘として刺さるのは、彼女がすべきことを知っていて、でもそれをしなかったからでもある。
涙があふれてきそうになるが、もう自分のために泣いても良い、そう思った。
「私はあかさと一緒に居たい、本当に。でも」
言葉は途切れ途切れで、涙をとめどなく流し、両の手をぎゅっと握る加織。
「許して、あかさ」
加織があかさに近づいて行く。
あかさの目は滲んでいたが確かに加織の目を捉えて離さないものの、頭の中では加織や美月のことで脳が膨張しそうだ。
それだけにとどまらず、ひさきや佐村、他のクラスメイトに加え、隣のクラスの友達と過ごした三か月程度の、文字にすればたった三か月でしかない、その間の記憶が乱れて溢れかえる。
目の前で立ち尽くすあかさに、意識を見ない加織は、
「私をぶって、思いっきり」
うつむいて、身構える加織。
そう、彼女の言うようにしてあげないと。
あかさは迷った。
誰に手を上げろと?
話してくれなかった加織?
あんな態度を見せた美月?
それとも、自分?
混乱して、考えが答えを見ず、そして脱力した。
フジが落ちる。
この世界は確かに幻想だけど、私の、私たちの現実なんだ!
手を上げようと、しかしその手は加織の力のこもった拳に向かった。
加織の鳥、赦しを乞いうつむく加織、それを見て誰かの責任とは思えなかった。
「もっと早く、話して。ね?」
加織が涙で腫れた顔を上げる。
「友達でしょ。私たち」
「これからも?」
「うん。ずっと」
加織が強くあかさを抱いて、あかさの肩を涙で濡らす。
あかさも同じで、心が結びついているかのよう。
私たちの距離がこんなに近いなんて、夢みたい。
夢心地でふわふわして、雲が揺れているみたいにあかさは感じた。
虹の粉が下の方から舞い上がり、二人を包み込んでいく。
肩ごしに見える光。
涙はもう流れなかった。
優しい光、あかさは加織の髪を虹色に染める光を見てそう思った。
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