彼女がのぞむ月の向こう

内山恭一

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あかさはほんの数時間前まで咲奈の言葉を信じていなかった。
真に受けて、信じられる理由も無い。
夢として受け入れることは容易だが。
咲奈が近しい間柄だとあの夢の話を言いづらいという気持ちは理解できて、すこしほっとしている。
それはおそらく気を許ているということの裏返しのように思えたからだ。
反面、おもしろい体験であり、あそこまで怯えるほどのことでもないように思った。
彼女と私の見た世界はきっと全く違うものだったのだろう。
何かが違う。
しかし、それが何なのかわからない。
はっきり今わかることは、おそらく咲奈の追体験をしたと言うこと。
絶対の自信があるわけではないが、こんな体験をする、突然に眠りに落ちるという不可解な現象に自分が見舞われると言うことを、しかも内容は違うものの部分的に他人と夢を共有するなんて、病気か夢でしかない。
そんな伝染病みたいな病気があるとも思えないし。
唐突に眠ってしまうという病気があると彼女は言っていたが、それだろうか。
ともかく彼女に会わなければならない。
報告と謝罪、それと感謝。
どうも自分と入れ違いで来た荷物を咲奈が代わりに受け取って、しかもエントランスで待っていてくれていたそうだ。
もう、心から頭が下がる思いである。
礼を言いに彼女宅に行ったときには入れ違いで塾に行っていて、合うことはかなわなかった。
感謝にはもう一つ意味があって、彼女のおかげでいつものようにねちねち怒られることがなかったからだ。
会えなかったし、だから話もできなかったわけだが、その代わり、応対してくれた彼女の兄をようやく見ることができたのは収穫だったので、それはそれで満足だった。
彼の利発そうなものの言い回しに、異性の新しい魅力を覚えた。
話をしてみたい、そう思っていた。
それにしても…。
あかさは回顧した。
何故にアオザイ?
思い当たる節がある、といえるほどの因縁があるならすっきりするが、実際には薄ぼんやりとした記憶しかない。
中学卒業の時、仲の良い友達で集まってのお別れパーティ。
一人が大きな邸宅に住んでいて、そこを使わせてもらったときのこと。
内容はただのおしゃべり会にプレゼント交換くらいのもの。
しみじみした空気は一瞬たりとも無かったうえ、当然お酒も華やかな花の類もおいしそうな料理の数々があるわけもなく、本当にただの集まりという感じで終始した。
それはそれで楽しい時間だったのは事実だが、せめて衣装くらいはこだわって良かったかな、と。
「ドレスコードって言うんだっけ?」
「私たちだったら、コスプレパーティになるんじゃない?」
そんな話で盛り上がっている際、スーツだ、チャイナ服だ、アイドルグループの衣装だの、そんな中の一人がアオザイが好きだと言っていた。
後にも先にもそれだけだ、記憶に残るのは。
あとで調べてみてどういうものか初めて知ったのだ。
確かにすらりとして綺麗だと思ったのを今でも覚えている。
私には少し胸がきつかったが…。
そう言えば、あの舟の形もよくよく思い出せば細長くて、ヴェネチアのゴンドラと言うより、東南アジア風だった。
教科書に載っていたあれだ。
一つ、唸るあかさ。
静かに時を刻む秒針の音が響く。
時計はそろそろ九時半を迎えようとしていた。
咲奈が彼女の兄と一緒にランニングに出かける時間。
今日も彼女は走るのだろうか。
勉強の息抜きに兄が走る。
もともと陸上選手だったそうだが、勉学に切り替えて大学を目指すためあと一年の追い込み中。
それでも体力作りのランニングは欠かさず毎日行っているのだが、転居を機に咲奈もつきあわされていると言っていた。
足手まといなのを気にしていた。
この場所から彼女たちが走る公園は、足が速ければ五分くらいのものだろうか。
少しばかり坂が面倒なので、あかさはその公園に行くことは滅多にない。
しかし、走る人たちには絶好の場所。
整備された歩道があり、もちろん車も入らない。
木々は深く緑も濃いが、湖に面した回遊できるその歩道はぐるりと一周するのにちょうどいいらしい。
咲奈の足で三十分とちょっと。
咲奈の兄ならきっともっと早いだろう。
会いに行ってみようか、咲奈に。
ふと頭をよぎったが、その言葉以上にあかさの腰は重かった。
例え今日私が経験したことを話しても、咲奈は素直に信じるだろうか?
馬鹿にして。
そう思うんじゃない?
試しに話してみた相手がすぐに似たような経験をする、そんなこと夢の内容以上に信じられない。
咲奈自身、ただの夢の話につきあっていただけ、話半分に聞いていたのだから。
他の誰もが夢だと、白昼夢だよともっともな理由をつけて処理する話なのだ。
体感しないと理解できない、やけにリアルな感覚。
あかさは机の上にほっぽり出された自転車の鍵を見つめた。
自転車なら行ってもいいか。
しかし、また咲奈のことを、彼女の反応を考えて、止めた。
ふぅ、と一つため息。
あかさはまた鍵を眺める。
咲奈の話の前、自転車を二人で共有しようと決めた。
咲奈は辞退しかけていたが、あかさが強行して決めたのだ。
だから合い鍵の一つは咲奈が持っている。
もう一つは咲奈にこうして返ってきている。
その鍵を渡されたときのことが急に思い出された。
受け取った掌に感じた、砂のような感じ。
粉でもついているのかと見てみたが、特に変哲もないただの鍵がそこにあるだけだった。
入浴後で残っているはずもないが、あかさは手のひらをまじまじと見た。
視線が宙を舞い、天井をぼうっと見つめる。
まぶたを閉じなくとも、服や舟の感触、空を切る指の間に感じる風、今もあの感じははっきりと思い出せる。
刻む秒針の音があかさに何かを思い出させたようで、ばっとベッドから飛び起きる。
しまった。
課題が残ってた。
しかも割とたくさん。
咲奈に合うという計画は時間的に余裕がない。
もはや迷いはない。
頭を切り換え机に向かうあかさは、自分の明日の課題を設定した。
ゴールデンウィークの予定、明日には決めとかないと。
カレンダーをちらりと見て、ペンを手にした。
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