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あかさは濃紺の水面に揺れていた。
向き合って乗る二人乗りのボートだろうと思われた。
思われたというのは一度たりとも乗ったことはないし、そもそもじっくり見たことすらない。
それでもおかしなことには、これが普通の乗り物では存在するはずなのに、ここにないことには気づいていた。
操る術がここには見あたらなかったのである。
オールはないし、帆もない、動力源たり得る物体も、何も見あたらない。
あかさが座る小さく揺れる小舟の向こうには、ただ誰もいない空間だけがあった。
その上、はるか上空にはよどみなく真っ白に眩しい月が浮かんでいたが、これもまたおかしなことに見たことない巨大さでそこにあった。
夢だからか、不安感や孤独感はない。
判然としないが、妙に薄っぺらい月である。
風でも吹けば風鈴の短冊のごとくくるりくるりとしそうなものだが、優しく肌をなでるこの風では何も起こらないだろう。
もし、本当に強風でも吹こうものならきっとこの小舟もひっくり返るかも知れない。
思ってすぐ水面をのぞき込む。
月明かりが照り返して白と青に光る水面があるだけで、海かどうかわからない。
「どうしよう」
声も出るし、船の木の感触もある。
頭だってしっかりしてる。
だって、舟ってこんなに酔わないものなんだと考えているから。
おそらく水をなめれば塩辛さを感じることもできるはずだが、それは嫌。
大海原にぽつんと自分だけが存在することに恐怖は無い。
さも自らここに出向いているかのよう。
現実感の喪失。
ぴったりだと、あかさは思った。
少し肌寒い。
二の腕をさすって肩まで掌を滑らせると、まさにするりと指先が滑る。
あかさはそこでようやく自分が異国の服を着ていることに気づいた。
これは確か…。
ベトナムだったか、アオザイだ。
アオザイを身につけていた。
つるりとしてしとやかな肌触り。
かつて写真で見たときに思った、シルエットから推し量れるほどに窮屈さはなく、それどころか空気が抜けてやや寒い。
白に見えていたはずの色味は、月の光を受けて水色に輝いている。
まるで真珠のように。
とても美しく、今すぐ全身を眺めてみたいとわくわくしていた。
「でも、寒い」
そういえば、とあかさはおぼろげな記憶をたぐり寄せた。
光る鱗を見たように思ったけど…。
そう気がついた途端、遠く前方の、舟の形からすれば後方なのか、水面すれすれからキラキラした何かが見えた。
漁り火?
いつも使っているのに、今はコンタクトレンズをしていないらしく、ぼやけて見える。
目を細めてようやく見えそう、じぃっと睨み付ける。
キャンプファイア?
踊ってる?
柵の向こうの動物よろしくうろついているだけ?
身をかがめて、なるだけ近づこうと移動する。
不安定に揺れる度、ちゃぷんちゃぷんと鳴る。
しゃがんだまま船尾にしがみつく。
輝きはどんどん近づいてくる。
段々と形が見えてきた。
そう、あれだ。
滝のように流れ落ちる仕掛け花火。
その火が虹色で、しかもふわりと上から下、そして上に渦巻いているようだ。
それが見えた時点で形容し誤った気もするが、あかさは動じない。
もっと近づいてみたい。
と、手が滑って船底に転んだ。
小舟が振られて大きく揺れるものだから、ぐるりとあかさは仰向けで寝転がる形になった。
瞑った目を開けると、眼前には無数の花火、ではなく数多くの蝶が舞っていた。
虹色の鱗粉をまき散らしながら。
すぐさま上体を起こし、手を広げる。
あの輝きには熱さはない。
肌や服についても触れた感じもない。
捕まえようにも蝶は逃げるばかり。
水面はきらめき、宝石をばらまいたかのように煌びやかだ。
アオザイも様々に色を変え発光する。
舟の外も光で溢れているようで、まるで海の中にも月があるように、透き通る波の色は極上の青。
あかさは楽しんだ。
何故この状況にあってもそんな感情が出てくるのか理解に苦しむが、当のあかさはまるっきり子供のように、かつて自分が幼い頃に花火大会でみた大輪の花火を臨んだ時のように、ドキドキ感に満面の笑みをたたえていた。
端から見れば異様な光景であるのは疑いの余地はない。
普段の漆黒の闇に、どこまでも落ち込んでいきそうな海。
それだけでも充分に恐怖を覚えるに違いない。
しかし、あかさはそれとは別の、違和感を感じていた。
これは蝶じゃなくて、蛾。
突然音楽が鳴り出す。
あかさの笑顔が一時の間を空けて、じわりと消えていく。
「何だっけ、これ」
幼い頃の、すごく気に入っていたけどもう忘れてしまった、そんな感じの…。
そうじゃない。
聞きなじみの、最近好きで聞いているアーティストの曲だ。
すぐさま服のあちこちを探す。
目的のものが見つけられない。
今もぶるぶる震えているというのに、大体アオザイってポケットあるんだっけ?
はっとして立ち上がるあかさ。
ジーパンのお尻のポケットから携帯を取り出し、まじまじと見つめた。
「あれ?今何か…」
世界はかつてを取り戻していた。
先ほどまでの現実あるいは幻想の感覚が急に鈍く落ちていった。
バスの発車する時の重いエンジン音や、遠くで轟くジェット機のそれ。手の中で震える携帯。
バスから降りてきたスーツ姿の見知らぬ人たちが、あかさを一瞥して通り過ぎていく。
結構な音量で携帯が鳴り続けているのだから、当然だろう。
「お母さん?」
戸惑いながらも、ともかくボタンを押下して着信を受けるあかさ。
「あかさ、どこにいるの?」
「え、今…」
あかさは目の前の自転車や隣にたたずむひさきを見回し、まだよくわからない様子。
「朝、荷物受け取ってくれるって言ってたじゃない」
母の不機嫌な口調に、二つ返事で引き受けた、今朝のワンシーンがよみがえる。
「ごめん、完全に忘れてた」
「知ってる。咲奈さんが受けてくれてたんだから」
あきれ顔が目に浮かぶ。
「今から帰るよ」
「そうしなさい」
他にも言いたいことがありそうだ、母の言い方に含みがあるのは聞き取れた。
電話を切るとポケットにしまい、それから手にしていたはずのチケットがないことに気がつき、焦った。
たまたま足下に何枚か重なって落ちており、案外探す手間はなかった。
「ひさき?ごめん」
あかさはおそらく話の途中で寝てしまったと、そう思うことにした。
あまりに突飛すぎて、言い訳としては不適切だ。
ひさきだって信じないだろう。
もっとも、寝ようとしてそうなったわけでもないのだから、一番自分が信じられない。
だから、ひさきには寝ていたと知られるわけにはいかない。
肩に触れ、はっと気づいたような素振りのひさき。
「どうかした?」
この反応、もしかして思ったほど時間は経っていないのでは?
電話で中断されたため、話がどこまで進んでいたのか見当もつかない。
耳が少し赤い。
確かに少し肌寒い。
「寒いし、もう帰ろう。用事すっぽかしたから、お母さん怒ってるし」
手を広げて、おどけてみせるあかさ。
「うん、そうしよう。」
「また、明日」
「明日、加織も一緒に話そう」
「そうだね」
あかさはチケットをひさきに返して、
「じゃぁ明日」
「またね」
といつものひさきの笑顔で、勝手とは知りつつも許された気になっていた。
本当のことを言うべきだったろうか?
後味の悪さがあかさの後ろ髪を引かれるが、あの笑顔のおかげでうまくさよならできた。
向き合って乗る二人乗りのボートだろうと思われた。
思われたというのは一度たりとも乗ったことはないし、そもそもじっくり見たことすらない。
それでもおかしなことには、これが普通の乗り物では存在するはずなのに、ここにないことには気づいていた。
操る術がここには見あたらなかったのである。
オールはないし、帆もない、動力源たり得る物体も、何も見あたらない。
あかさが座る小さく揺れる小舟の向こうには、ただ誰もいない空間だけがあった。
その上、はるか上空にはよどみなく真っ白に眩しい月が浮かんでいたが、これもまたおかしなことに見たことない巨大さでそこにあった。
夢だからか、不安感や孤独感はない。
判然としないが、妙に薄っぺらい月である。
風でも吹けば風鈴の短冊のごとくくるりくるりとしそうなものだが、優しく肌をなでるこの風では何も起こらないだろう。
もし、本当に強風でも吹こうものならきっとこの小舟もひっくり返るかも知れない。
思ってすぐ水面をのぞき込む。
月明かりが照り返して白と青に光る水面があるだけで、海かどうかわからない。
「どうしよう」
声も出るし、船の木の感触もある。
頭だってしっかりしてる。
だって、舟ってこんなに酔わないものなんだと考えているから。
おそらく水をなめれば塩辛さを感じることもできるはずだが、それは嫌。
大海原にぽつんと自分だけが存在することに恐怖は無い。
さも自らここに出向いているかのよう。
現実感の喪失。
ぴったりだと、あかさは思った。
少し肌寒い。
二の腕をさすって肩まで掌を滑らせると、まさにするりと指先が滑る。
あかさはそこでようやく自分が異国の服を着ていることに気づいた。
これは確か…。
ベトナムだったか、アオザイだ。
アオザイを身につけていた。
つるりとしてしとやかな肌触り。
かつて写真で見たときに思った、シルエットから推し量れるほどに窮屈さはなく、それどころか空気が抜けてやや寒い。
白に見えていたはずの色味は、月の光を受けて水色に輝いている。
まるで真珠のように。
とても美しく、今すぐ全身を眺めてみたいとわくわくしていた。
「でも、寒い」
そういえば、とあかさはおぼろげな記憶をたぐり寄せた。
光る鱗を見たように思ったけど…。
そう気がついた途端、遠く前方の、舟の形からすれば後方なのか、水面すれすれからキラキラした何かが見えた。
漁り火?
いつも使っているのに、今はコンタクトレンズをしていないらしく、ぼやけて見える。
目を細めてようやく見えそう、じぃっと睨み付ける。
キャンプファイア?
踊ってる?
柵の向こうの動物よろしくうろついているだけ?
身をかがめて、なるだけ近づこうと移動する。
不安定に揺れる度、ちゃぷんちゃぷんと鳴る。
しゃがんだまま船尾にしがみつく。
輝きはどんどん近づいてくる。
段々と形が見えてきた。
そう、あれだ。
滝のように流れ落ちる仕掛け花火。
その火が虹色で、しかもふわりと上から下、そして上に渦巻いているようだ。
それが見えた時点で形容し誤った気もするが、あかさは動じない。
もっと近づいてみたい。
と、手が滑って船底に転んだ。
小舟が振られて大きく揺れるものだから、ぐるりとあかさは仰向けで寝転がる形になった。
瞑った目を開けると、眼前には無数の花火、ではなく数多くの蝶が舞っていた。
虹色の鱗粉をまき散らしながら。
すぐさま上体を起こし、手を広げる。
あの輝きには熱さはない。
肌や服についても触れた感じもない。
捕まえようにも蝶は逃げるばかり。
水面はきらめき、宝石をばらまいたかのように煌びやかだ。
アオザイも様々に色を変え発光する。
舟の外も光で溢れているようで、まるで海の中にも月があるように、透き通る波の色は極上の青。
あかさは楽しんだ。
何故この状況にあってもそんな感情が出てくるのか理解に苦しむが、当のあかさはまるっきり子供のように、かつて自分が幼い頃に花火大会でみた大輪の花火を臨んだ時のように、ドキドキ感に満面の笑みをたたえていた。
端から見れば異様な光景であるのは疑いの余地はない。
普段の漆黒の闇に、どこまでも落ち込んでいきそうな海。
それだけでも充分に恐怖を覚えるに違いない。
しかし、あかさはそれとは別の、違和感を感じていた。
これは蝶じゃなくて、蛾。
突然音楽が鳴り出す。
あかさの笑顔が一時の間を空けて、じわりと消えていく。
「何だっけ、これ」
幼い頃の、すごく気に入っていたけどもう忘れてしまった、そんな感じの…。
そうじゃない。
聞きなじみの、最近好きで聞いているアーティストの曲だ。
すぐさま服のあちこちを探す。
目的のものが見つけられない。
今もぶるぶる震えているというのに、大体アオザイってポケットあるんだっけ?
はっとして立ち上がるあかさ。
ジーパンのお尻のポケットから携帯を取り出し、まじまじと見つめた。
「あれ?今何か…」
世界はかつてを取り戻していた。
先ほどまでの現実あるいは幻想の感覚が急に鈍く落ちていった。
バスの発車する時の重いエンジン音や、遠くで轟くジェット機のそれ。手の中で震える携帯。
バスから降りてきたスーツ姿の見知らぬ人たちが、あかさを一瞥して通り過ぎていく。
結構な音量で携帯が鳴り続けているのだから、当然だろう。
「お母さん?」
戸惑いながらも、ともかくボタンを押下して着信を受けるあかさ。
「あかさ、どこにいるの?」
「え、今…」
あかさは目の前の自転車や隣にたたずむひさきを見回し、まだよくわからない様子。
「朝、荷物受け取ってくれるって言ってたじゃない」
母の不機嫌な口調に、二つ返事で引き受けた、今朝のワンシーンがよみがえる。
「ごめん、完全に忘れてた」
「知ってる。咲奈さんが受けてくれてたんだから」
あきれ顔が目に浮かぶ。
「今から帰るよ」
「そうしなさい」
他にも言いたいことがありそうだ、母の言い方に含みがあるのは聞き取れた。
電話を切るとポケットにしまい、それから手にしていたはずのチケットがないことに気がつき、焦った。
たまたま足下に何枚か重なって落ちており、案外探す手間はなかった。
「ひさき?ごめん」
あかさはおそらく話の途中で寝てしまったと、そう思うことにした。
あまりに突飛すぎて、言い訳としては不適切だ。
ひさきだって信じないだろう。
もっとも、寝ようとしてそうなったわけでもないのだから、一番自分が信じられない。
だから、ひさきには寝ていたと知られるわけにはいかない。
肩に触れ、はっと気づいたような素振りのひさき。
「どうかした?」
この反応、もしかして思ったほど時間は経っていないのでは?
電話で中断されたため、話がどこまで進んでいたのか見当もつかない。
耳が少し赤い。
確かに少し肌寒い。
「寒いし、もう帰ろう。用事すっぽかしたから、お母さん怒ってるし」
手を広げて、おどけてみせるあかさ。
「うん、そうしよう。」
「また、明日」
「明日、加織も一緒に話そう」
「そうだね」
あかさはチケットをひさきに返して、
「じゃぁ明日」
「またね」
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