彼女がのぞむ月の向こう

内山恭一

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頬に伝わる風の、その次第に冷たくなる感覚は何時ぶりだろうと思い返していた。
ジーパン姿で自転車に乗るあかさは一路待ち合わせの場所へ急いでいた。
体を動かしていると頭が真っ白になるようで、ちょうど良い。
何度思い返しても咲奈の話は理解しがたいものだった。
地面から生まれる大きな真珠とか、ウェディングドレスとか、終いには真珠の鱗が飛び回るなんて…。
夢なんだから、何があってもおかしくない。
不可思議なのは当然だ。
だから夢の話だという時点で、経験者でもある聞き手としてはそうなのだと構えているのだ。
それでも、咲奈の話で一番不思議だったのが、何故私に言うのだろうか、ということ。
あかさは首をひねっては度々話を整理した。
自分と咲奈の関係も含めて、である。
だが、やはり答えは出ない。
自分ならどうだろう。
加織やひさきに言うだろうか?
考えるまでもない、もちろん言うだろう。
うーん、なら他は?
母親だろうか。
やはり言うだろう。
そして一蹴する。
夢の話だと。
自治会役員とかマンションの備品管理とか、いろいろ受けている都合、あかさにお鉢が回ってくることが多く、最近は少し間を取っているが、それでもやはり母が相談相手にふさわしいだろう。
しかし彼女は、
「誰にも。霧村さんに初めて言うの」
と、嘘をつく風でもない。
私に嘘をつく理由も無いだろうし。
母に言わない理由?
咲奈に友人が居ないようにも思えないし。
傍らを行き交う車の騒音に意識が捕らわれるわけでもないのに、また混乱し始めたあかさは、さらにペダルを踏む足に力を込めた。
端から見れば、力走である。
目的地まであと少し。
交差点の信号を渡り、やがて見えてきた。
冬も夏も一様に高木の生い茂る公園があり、そこの入り口に先ほどと同じ姿で立つひさきの姿があった。
息も絶え絶え、降りて大きく息を吸うあかさ。
咲奈の話を聞き終わっていないまま彼女と別れたのは、
「定期入れ忘れちゃったかも。心配だから見といて」
というひさきの電話を受けたから。
…。
「ちょっと待ってて」
あかさは咲奈にそう言うと自室を探りに戻った。
決して混乱した頭を冷やそうとしてのことではない。
純粋に友人の心配事を気にしてのことだ。
自室に戻ると、机のそばに知らない定期入れが目に入った。
キャラクターどころかロゴすらない、紺色の素っ気ない定期入れにひさきのイメージが似合わずに一瞬疑ったが、中には確かにひさきの最寄り駅の刻印があった。
しっかりしているのに、意外なところで抜けている。
それがあかさのひさきに対する印象だった。
すかさず携帯で、
「あったよ、今、家?」
「ううん、バス停降りて、近くの公園。良かった、あって」
とひさきが安堵しているのが聞き取れる。
「明日…」
「今から持ってってあげるよ」
互いに言いかけて、あかさが続けた。
今日聞きたいことがあったのに、聞きそびれてしまった。
加織の彼氏探索からテレビタレントの性格分析、最後はクラスの男子へターゲットを変遷し、ほとんどの時間をそれらに費やしてしまったせいで、肝心のゴールデンウィークの予定を話しそびれていたからだ。
「え、いい、いいよ。あるかどうか気になってただけだから。明日学校で…」
「明日使えないじゃん。」
「いいよ、一日くらい。大体歩いてもいける距離だし」
「話したいことあったし、今から持って行く。いい?」
「それなら。待ってるよ、ここで」
半ば強引であるが、あかさは気に留めない。
すぐに着替えて、
「あの公園なら十分くらいかな」
ジーパンをはきシャツを被る手が止まる。
「自転車無かったんだった」
言って、シャツに首を通し、目が輝く。
「咲ちゃん居た。ラッキー」
あわてて鍵を閉め、咲奈の元へ走る。
通路ですれ違う人とぶつかりそうになりながら、
「あぁ、すみません」
良かった、まだ居た。
一息ついて、まとめた髪をほどき両手でとかしながら、
「ごめん、急用ができちゃって」
こくこくとうなずく咲奈。
「いいよ、気にしないで」
「本当にごめん、それと…」
にこりとしたあかさに咲奈はきょとんとしている。
「自転車貸してくれない?」
…、とまぁ、おかげで今こうして想像よりも早くひさきの所に来られたわけだ。
いろいろな意味で咲奈のおかげ、ということになる。
汗はあまりかかない方だが、案外気温も暖かいのだろう、しっとりとしているのがわかる。
「早かったね」
そろそろ夕日も隠れるところで、鮮やかなグラデーションを残した空に、落ち着きなさいという気配を感じる。
自転車に跨ったまま、
「はい、これ」
とひさきに渡し、彼女は手触りを確かめ、まるで慈しむようにしてから胸ポケットにそれを仕舞った。
「ありがとう、助かるよ」
まだ息の荒さが残っているあかさの腕に手を添えた。
「でも急がなくても」
何故だか心がふんわり暖かい。
ひさきの家の、たぶんこの方向で合っているだろう方へ自転車を向けると、あかさは降りて歩みを促した。
「来週の連休なんだけどさぁ」
「ゴールデンウィークのこと?話って」
「そう」
「どこか行く予定?」
あかさは少し気合いを入れて言ったつもりだが、ひさきはいつもの笑顔をたたえて楽しそう。
「どこか遊びに行かない?買い物とか」
「そう言えばさっき話せなかったね」
と、ひさきもどうやら同じことを話したかったようだとわかり、二人して笑った。
ひさきは鞄を探って、何やらひらりと取り出し、あかさに見せると、
「今日さぁ、このチケットもらったんだけど」
片手で自転車を押しながら目の前に出された紙片を眺めることは難しく、あかさは止まってじいっと見た。
「ライブのチケット?」
「そう。美月にもらったの。しかも割とたくさん」
ざっくりとひさきに説明してもらい、大まかな内容はわかった。
あかさたちのクラスメイトである引野美月の、つきあっているんだかそうでないんだかわからない彼氏が、かけもちで始めたバンドの初ライブらしい。
他校の先輩で、もちろんひさきもあかさもその彼氏は見たことがない。
大筋であかさにはあまり興味を引かない内容だったが、ライブ自体には気を引かれることもあった。
「ちょっと座っていい?」
街灯が等間隔に並び、さらに多くの店舗から漏れる明かりで通りは明るい。
バス通りでもあり、多くの人で賑わってもおかしくはない時間であるが、地方都市では広い歩道に人影はまばらで、点在するベンチにもまた人影は見られない。
すでに何軒かシャッターが降りていて、また今一軒明かりが途切れる。
抜けた歯のように広がる暗く寂しいその空間に、彫刻を照らす明かりが間接照明になって照らしているベンチが浮かぶ。
そこに二人は腰を下ろした。
チケットを見ながら、あかさは美月のことを思い出す。
まだ一ヶ月足らずでどうこう決められる状況ではないが、何となく美月とあかさには隔たりがあった。
もちろん、あいさつも交わすし、あかさに気がかりな点もない。
ただ、空気で感じる、冷めた感じ。
あかさは決してグループを作って好き嫌いで相手をより分けるような性格ではない。
それでも、意図せず相手に合わせて自分も同じことをしてしまっているとはたと気づく時がある。
美月と面と向かうといつもそれを思う。
あかさとはそんな感じでもひさきとは仲が良いようで、談笑する姿は何度も見かけた。
ひさきにはクラスメイトの誰もが喋りかけるし、それだけにどうしても自分が対極にいるように思えてしまうのが悔しかった。
反面、クラス内で一緒にいる時間が一番長く、それこそ人気者を独占している気がして心躍る。
ひさきと美月の乗った天秤。
さぁどうしよう。
ひさきをハブとしてライブに行くのはおそらく自然に見えるが、美月にどんな顔で会えばよいだろう。
いや、喧嘩しているわけでもないし、仲が悪いと思っているわけでもない。
そもそもこのチケットを使うというのは、すでに美月のためでもあると言える。
日付はゴールデンウィークの中休み。
正確には表現がおかしい気もするが、ともかくカレンダーにある連休の赤文字に居心地悪そうにある黒い文字、平日である。
場所は駅前のライブハウス。
確か五十人くらいで一杯になるようなところだと聞いたことがある。
どんなところだろう。
「学校終わってからだね。行ってみない?」
「六時半?」
学生をターゲットにしているからだろうが、中途半端な時間に感じた。
一旦家に帰ってからならちょうど良い時間。
でも、面倒くさいから直接行くのもありかも、とあかさは考えた。
「クラスの男の子にも配っておいたから、来るのは知った人が多いかも」
男子の日々の光景が浮かぶが、誰も彼も少し不釣り合いに思った。
そんな中でも佐村が多く思い出されるのは単純に隣の席だから、ということでもないのかも知れない。
待って。
自分は友達と思っているし、わいわい喋るのが好きなだけで、それ以外に思うところはない、はず…。
あかさの思考は更に過去をたどる。
中学の時のこと、いつもの友達と遊んだ日々、独りよがりの恋愛と焦燥感。
数々の光景が楽しくも苦々しく、早送りのテレビコマーシャルのように発色豊かに間を置かず入れ替わるがごとく、頭を、時間を飛び越えて巡り巡る。
ふと、加織とまだ見ぬ彼氏の姿が、しかし肝心の顔だけ霞んで見えた。
そして、ついさっきまでの現実が虚実のように、内容はともかく咲奈のあの真剣な眼差しが浮かぶ。
あかさの頭はめまぐるしく働いたが、ある感覚で急ブレーキがかかった。
チケットを挟む指が違和感を脳に伝える。
じゃりりと、何だろう。
照明にやんわりと浮かぶチケット。
まるで砂のような異物感。
靴の中にある砂粒、ゆで卵を食べて殻が混じっていた時のような、小気味悪いような、そんな感覚があかさは捕らわれた。
顔を上げれば真っ黒な世界。
今居たはずのベンチも、ショーウインドウの明かりも、バスのうなる低音も、隣のひさきも全てが跡形無い暗闇。
あかさは座ったまま動けない。
あまりの不安感にすっかり腰をさらわれたかのよう。
目の端にきらめくふわりとした何かが見える。
自然とその姿を追っていく。
夢か妄想か、これが何であるにせよ、咲奈の顔が、あの真剣で心配げな顔が脳裏をかすめる。
彼女は言った。
「あれ以来、いろんなところで光る鱗を見かけるようになったの」
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