彼女がのぞむ月の向こう

内山恭一

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夕暮れ時のざわついた空気に満ちた通りを下るあかさとひさき。
今日がもし自由な日だったら、きっと、
「さきの部屋も見てみたい」
などと言って探ってみたいところだが、何とも残念なことに重大な任務が待っていて、その言葉は出せず仕舞い。
任務と言っても、パートの遅番で留守にしている母の代わりに宅配の荷物を受け取らないといけないだけだが。
いつなら大丈夫?という母の問いかけに、
「六時くらいなら居るんじゃない?」
と適当に言ってしまったのが失敗だった。
言った手前、留守にするわけにも行かない。
我ながらしおらしいと思うあかさだった。
幸いなことにバス停が坂を下りてすぐの所なので、こうしてひさきの見送りに来ている。
住宅街と言っても街自体の規模が小さいので、バスの便数は両手を挙げて便利だと賛同できるほど多くはない。
それでも一応は朝と晩の通勤時間帯だけは大して待たずに乗れる。
それに配達の車もおそらくこの道を上がってくるだろうし。
実際、すぐにバスはやってきた。
幾人か仕事帰りとおぼしき乗客が降りてくる。
「じゃぁまた明日」
「バイバイ」
手を振り、しばらくあかさはそれを見送った。
何気なく通りを見ていると、帰路をたどる人の中に見覚えのある姿を見つけた。
「咲ちゃん」
「あ、霧村さん」
手を小さく振って咲奈はあかさの元へ駆け寄ってくる。
「さき」に「咲」、よく考えたらひさきと咲奈は名前が似てる。
まぁ二人が会うこともないか。
あかさ達とは違う制服姿の彼女は同じマンションに住む顔見知り。
あかさは彼女をうらやましく、それはもうとてもうらやましく思っていた。
三階だから少しは眺めがよさそう?
違う。
進学校で通っている有名な高校に通っているからでもないし、学校に持って行ける鞄が自由だというところでもない。
単純に通学時間が五分かそこらだということ、それがうらやましかった。
楽そうだから、いかにもあかさらしい考えだとも言えない。
学生ならきっと誰もがうらやむだろうから。
咲奈と並んだところでまた今来た道をたどる。
脇を追い抜いていく自転車に乗る人も、途中で降りて押して上がる。
「部活、無いんだよね」
「ううん、あるよ」
「でも、強制じゃないでしょ?」
「あ、うん。希望者だけ」
「いい学校だよねぇ」
「そう?かもね…」
咲奈は苦笑しながら、鞄を肩にかけ直した。
参考書か教科書か、何にせよあかさのそれよりも重そうである。
「自転車で行った方が楽じゃない?」
前かごに鞄を乗せたら便利なのに、あかさはそう思ったが、
「学校、自転車置き場が広くないから。それに…」
と咲奈は前を行く自転車の人を指さす。
「まぁ、確かに」
あかさは神妙な面持ちでうなずいた。
本来なら通学に使ったであろう件の自転車、実はあかさが譲ったものである。
咲奈が引っ越してくるというその日、あかさは母の命により仕事の手伝いをさせられていた。
母がマンションの備品管理の仕事も任されている関係で、新たに入居する人にルールを教える必要があった。
あかさが手伝いを喜んで引き受けるわけもないが、拒否もしなかったのは、同い年の同性の高校生が来ると伝え聞いていたから。
その子には兄も居るそうだが、そっちはともかく、同じマンションで初めての同い年である。
ただの興味、好奇心からだったのだが、説明するのもほったらかしで、進学する高校のことだの、どこで友達と遊ぶだの、そんなことを尋ね合っていた。
兄妹そろって進学校とは、と驚いたのを覚えている。
その日は結局話に熱中してしまい咲奈の兄を一見する機会はなかったし、そいういえば今でもそれらしい姿を見かけたことがない。
兎にも角にも仲良くなったその流れの中で、自転車いるなら私のをあげるよ、となったわけである。
あかさには算段がすでにあった。
入学前からスカート丈が短くなるだろうことを想定して、距離的には通学に自転車が一番便利だと知っていたが、大人な女性としてはサドルの高い自転車は使いにくいよね、と考えていた。
まだまだ新しい自転車だが、あかさには無用だったわけである。
一方で、実際に使ってみて使いづらい環境だと実感した咲奈との間で、自転車は宙に浮いた存在なのだと今互いに悟った。
振り返りマンションに挟まれた坂道を見れば、彼女の通う学校の校舎までは見えないが、校庭の一部は見える。
勉強もうちょっと頑張れば良かった、とつくづく思うあかさは、隣の咲奈をちらりと見た。
背筋を伸ばし、しっかり前を見ている咲奈。
会ったときから礼儀正しい人だと感じていたが、会話でもある一定の間を空けて話すようで、何だろうか、遠くはないが一歩引いている立ち位置にいつもいるように思えてならない。
彼女にとってはまだ「霧村さん」であり、「あかさ」とは呼べないのかもしれない。
あるいは「咲ちゃん」と、ちゃん付けで呼ぶのはまずかったのかもしれないなどと思わなくもない。
出会って二ヶ月、その時間は相性によっては濃くも薄くもある。
咲奈にとって今の時間はどうだろう、あかさは考えて、止めた。
なるようになるよ。
たわいない会話を交わしながらエントランスに入るやいなや、咲奈はあかさの腕を取って応接用の奥まった場所にあるソファセットに引き込む。
あれ?
さっきの話はただの勘違い?
あかさは驚き顔のままでソファに座らされた。
「どしたの?」
互いの部屋に行ったこともない、行ったとしても眺望も部屋割りも大して変わらないのは知っているが、そんな二人の関係でありながら今こうして膝をつき合わせている。
いや、正確には隣に座っているのだが、その距離、間合いというか、もうぴったりくっついていると言っていい。
「実はね、変な話があるの、ばかばかしい話。あ、おもしろくないかも知れないけど」
咲奈は少し早口に話をした。
もう充分におもしろいんですけど、この展開。
あかさは驚きつつも笑顔になって、そう思っていた。
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