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あかさはぼんやり輝く街並みの中にぽつんと一人立っていた。
一人というと語弊があるようで、周りには所々に親しく寄り添っているカップルの姿があって、一人だけで居るのはあかさだけだった。
夜霧がゆっくり漂って、そこはまるでヨーロッパの街角のようだ。
建築様式に明るくないあかさには、そこはヨーロッパとしか表現できないが、建物も、街灯も、街路樹さえも異国情緒に溢れていて、だが人々の顔はどうみても日本人のそれで、どうも奇妙な感じがする。
奇妙…。
「そうだ」
視線を浴びて、口をはたくように手で押さえるあかさは、ともかく手近な背の低い建物にこけながら走った。
陰に身を隠すと、弾ける鼓動を抑えた。
かさかさと何か葉っぱが体に触れる。
首に触れる蔦の葉に目をやると、壁一面覆っていて、露が手に触れて流れて落ちた。
「またトリップしたんだ、私」
確か最後は…。
電話中だったはずだ。
しおんと目があって…。
「しおん?」
周りにも、さっきまでいた場所に目をこらしても、しおんらしき姿は見あたらない。
「どこだろう」
最早あかさに目をやるカップルなど居ない。
思い切って歩き出すと、ぐるりと辺りを見回した。
やはりしおんの姿はどこにもない。
そうだ、とあかさは気づく。
ちかやの時も一緒にいたのに、トリップの最初はバラバラになっていたし、しおんとも一緒の時は散り散りだった。
ここもやはり別の場所にいるに違いなかった。
しかし、どこだろう。
どこにいようと、最初は紛れもなく何度も不安感を味わう。
背の高い建物の整然と並ぶ数々の大きな窓から明かりがこぼれる。
一階ですら高い位置にあるので中は見えないが、人のいる気配があって、きっとそこには日々の営みがあるのだと感じた。
漏れる光が霧に反射して遠くまでは見通せない中、ゆっくりと散策することにした。
視界が頼りないので、靴の石畳をたたくカツカツと乾いた音だけが現実感に溢れている。
あかさが読んだしおんの小説はこれとは全く異なるイメージだったと、改めて思い出す。
別の話なのかも知れない、あるいは前回のように世界観が違うだけかもしれない。
今は前に進むしかない。
やがて少しだけ霧が浅くなった場所に出た。
柵が整然とする向こうに、街の印象と同じオレンジ色をした照明と、鮮明なイルミネーションにより輪郭が見て取れる舟が流れていく。
川か、海か。
小舟と言えなくても決して大きくはない舟で、そこには人々が楽しそうに話し込んでいたり、ただじっと寄り添っていたりする光景があって、あかさの憧れるイメージだった。
もしあそこに自分が居るなら隣にいるのは誰だろう。
つい考えたくなるが、思いつきで叶えたくないとも思った。
それなのに、佐村の顔が頭をよぎる。
好きなんだろうか、彼のことを。
そうじゃない。
夢の時のように、しおんの小説に触発されただけだ。
相手はまだ顔のない相手。
まだまだよく知らない隣の席の男子ではない。
舟の作った波が岸辺に辺り水音がチャプチャプと心地良い。
とても自分には似つかわしくないが、夜の海を唯見つめるのも悪くないのかも、とあかさは今度試してみようと考えた。
とりわけしおんにはイメージと違うと言われそうだが。
あかさは苦笑した。
「どこに行ったのかと想ったよ」
急に背後から近づく靴音と声。
振り返るとそこには佐村の顔をした、とは言えない全く別の印象の男性がこちらを向いている。
「どうしたの?突然」
怒っている風でなく、ただ不安と心配とが入り交じった声音である。
帽子を被っていて表情は読めないが、口元は優しそうである。
少しひげが濃いけど。
それはあくまで好みの問題である。
「さぁ、行こうよ」
あかさの腕を取る男性はやさしく、しかし強く引いて連れて行こうとする。
「どこに行くの?」
「え?君が見たいって言っていたのに。忘れた?」
「え、ううん」
言って、後から素直に問えば良かったと思ったあかさはまたこけそうにつんのめる。
少し高いヒールを履いているらしく、
「もうちょっとゆっくり、ね?楽しもうよ」
と男性に声を掛けた。
自分の口から出たのかと疑いたくなる台詞だが、
「あ、ごめん」
と、少し弾んだ声がおかしくて、あかさはクスリと笑った。
「ううん、歩きたいから」
ブーツに軽い花柄のワンピース、その上に落ち着いた色合いの暖かいジャケット。
自分には着こなせなさそうな服装だ。
一方の男性も渋いニット帽に革のジャケットで、ぱりっとして格好良い。
色合いからしてたぶん秋の装い。
「ねぇ、まだ遠い?」
「もうちょっとのはずだよ。よく見えないけど」
と、指さす先に宙に浮いた白い円が滲んで見えた。
月だろう。
あそこに行くのだろうか?
霧も深いし、何だか幻想的である。
思案するあかさは手を握られてドキリとして、
「じゃぁ行こう」
と、時間を気にする男性の腕時計に目がとまった。
どこかで見覚えがある。
手のぬくもりが肌寒い空気にあって一点ろうそくを灯したみたいに感じられる。
胸がキュンとする。
過日の想いがよみがえる。
あの頭の中いっぱいの、他に考える余地のない幸福の感覚。
同じ恋はきっとできないだろうし、しないと思っていても、あの甘く切ない感情の源泉はきっとかわらずあり続ける。
月に導かれるように二人は足早に進む。
すでに幾人もの恋人たちを濃い霧の中にあってもぶつからずに追い越した。
少し汗ばんできた。
もう一度時計に目をやる男性は、
「始まるよ」
と、振り返りもせず立ち止まる。
よくよく見てみればそぐ目の前には数え切れないほどたくさんの恋人たちで溢れかえっていて、皆空を仰いでいる。
耳をつんざく高音に続いて遙か上空でひらく光の華。
お腹にずしんと響く轟音。
これは何度も経験がある、花火だ。
だが、この臨場感たっぷりに見えるのは、人垣のすぐ向こうから発射しているせいだ。
何発も緩急を付けて上がり続ける花火に、あかさは少しふらついて、男性がすかさず腰を支えてくれた。
その力強さは、倒れたとしてもきっと支え続けてくれそうな、安心感があった。
霧に隠れてはっきりとは見えない花火は、炎の一片を無数に散らして霧に虹色の輝きを埋める。
光る度、周囲全てが花火の色に染まる。
きっと自分が見たかったのはこれなのだと思ったあかさは、霧ではっきりとしないこの空でも幸せを感じていた。
いや、幸せなのだろうと考えていたに過ぎない。
そして気がつく。
誰だった?
この大切な人は誰だったろう。
きっと見たことある人なのだ。
そんな程度なのに、恋愛が成立するはずがないし、私はただ状況を楽しんでいるに過ぎない。
そんなの馬鹿げている。
汗が乾いて体が芯から冷えてきた。
今ここにいる自分が別人に見えた瞬間だった。
「誰?」
頷きこちらを見るその顔は滲んでよく見えない。
やけに顔の周りだけ霧が濃いような。
顔が変わった?
「佐村だよ、忘れるなよ」
そういう男性は佐村の顔のように見えた。
柔和な笑顔の男性は反面力強くあかさの肩を抱き寄せて、ズキンと強烈に弾く鼓動に腰が砕けそうになる。
こんなシーン、私の希望?夢?
あかさの目には花火の散らす光が稲光のように違って見えた。
途端、男性の肩越しに霧が押し出されるように消えていくのが見え、代わりに闇夜が光を飲み込んで広がっていく。
黒いインクが紙の全てを染めてしまうがごとく、その染料の発生源はどうやら自分らしい。
「誰?」
と腕で押し離れるあかさに戸惑いを見せるかと思っていたが、あかさの行動にうなだれるだけだった。
こうなるかもしれないと知っていたかのようにただ佇んでいるように見える。
「君という人間がわからない」
顔を上げた男性は、人のものではなかった。
この場には絶対に不釣り合いな、あのぽよんとして可笑しくも可愛らしい頭でっかニャンコの顔が男性のそのあるべき場所に乗っている。
戦慄を覚える。
肩に乗っているのではなく、頭がすげ変わっている。
これがテーマパークでたくさんの人々と楽しさを共有する場所なら笑える姿だが、心底気持ち悪い。
尻込みしそうになるあかさだったが、胸を張り顔を上げた。
この強気が嘘でも、嘘だとばれたとしても、強くいたいとあかさは望んだ。
「どうして楽しまないの?」
ニャンコは佐村の声のままで語りかけるが、声に感情はなく、本当に佐村のそれなのかもう興味すらなかった。
「楽しむ?何を」
「すべてだよ、君の望み」
「望み?」
「あるでしょ?」
考えを巡らせるあかさだが、その質問に明確に応じられない。
何かが浮かんでは消え、また浮かぶがそれら全てが虚構だった。
自分の奥底からの欲望は見あたらない。
人生観も、恋愛すら、何も見つけられない。
そうだ。
そうなのだ。
姉の残した壁一面の写真に入っている自分。
写真のあの場面のように、どれを取っても私はいつも姉のそばにいて、姉の夢を見て歓喜していた。
ちかやの正直でまっすぐな生き様は私にはこれっぽっちもない。
しおんのように夢を形にする能力も持ち合わせていない。
自分が心から渇望する花道はどこにも存在しない。
悲しくないのに涙をこぼしそうになって、ぐっと耐える。
「ない」
男性の体が霧のように消え、ニャンコの頭が着地する。
「この世界はあなたが作ったもの?」
猫にあなたというのはおかしいかな、でも人みたいに喋ってるし。
「そう」
うなずけばきっとあの猫のことだ、バランスを崩してこちらに走り出してしまうだろう、だから声だけで返事をしたのだとあかさは考えた。
自分が冷静に物事を観察し推し量ろうとしていること、そしてそれができていることに気づいた。
相手は何者だか知れないが、少なくとも姿形は自分の生み出したものなのだ。
臆することはない。
そう思うと、隙あらばざわつこうとする心に平静を保てていた。
「楽しませて何がしたいの?あなたの望みは」
一歩ずつ間合いを確かめて、猫は猫さながらにこちらに向かってくる。
虚勢ついでに、腰を落として猫に視線を合わせた。
「一緒にいたい。それだけ」
いつしか声は誰ともわからない人のものに変わっていた。
嫌な感じはしないし、違和感もない。
それはもしかしたらこの猫の本来の声なのかも、それはそれでおかしな考えだが、そう思った。
「一緒にいたいって?何のため」
「僕たちは想いの塊。人にもあらゆる生物にも触れず、干渉されもしない」
足下で目を合わている猫は可愛かった。
言っていることは難解で、まるでしおんを思い出す。
「でも感情だけは触れられる。だから関わってみたかったんだ」
人知を超越した存在というやつね。
聞きたいことは山ほどあるのに、混乱していて一向に考えがまとまらない。
「友達になりたいってこと?」
相手がそんなことを言っているとは思えないのに、そう問いかけた自分の口が他人のそれのようだ。
大きな頭を膝にすり寄せる猫に、少し躊躇するあかさだったが、手を伸ばし頭をなでた。
縮尺は可笑しいが、まさしく猫の毛のもつ手触りだ。
不意にざわめきが耳に届いて、あかさは顔を上げた。
おそらくさっきまで花火を見ていた恋人たちだろう、何も光を発さなくなった空を背にそれぞれの方向へ歩いて霧に消えていく。
街灯も建物もそこから溢れる光も、人の気配もさっきと同じようだ。
どこか少し違って見えたが気のせいだろう。
そう、あかさの恋人であるはずの男性はもちろん姿はなかった。
それが今、頭をなでられ喜んでいるだろう猫になっている。
あるいはかつて夢に出た猫が喋るとこうなのかもね、とすら思えてくる。
私の唯一無二の存在。
立ち上がり、周囲を見渡す。
闇は何時無くなったのだろう。
さっきよりぐんと世界が広がったような気がする。
「ここはどこ?」
「わからない。でも君の生み出した世界なんだ」
そう言われてもやはりピンと来ない。
こんな場所、見たことも聞いたこともないと思うけど…。
「本当に私の夢?」
「そう、君の世界」
一つはっきりした、ここはしおんの小説の中ではないということ。
「しおんはどこにいるの?」
夜の街に響き渡る程に大きな声に、自分が一番驚いた。
「こっちにおいで」
走り出す猫に急いでついて行くあかさ。
例によってトタトタトタと頼りない短い足を何度も繰り出し進む猫。
その猫の後ろ姿を見て、あかさに笑顔が戻った。
方向の制御やブレーキが下手な猫なのだ。
サポートしてあげよう。
何でも知っている、自分の夢なんだから。
「名前は?何て呼べばいい」
「名前は決めてない。呼んだこと無いでしょ?好きに呼べばいい」
前向きに喋るのであかさは聞き取りづらく、
「何て言ったの?」
「好きに呼んで」
「フジって呼ぶの?」
端から見ればかみ合わない不毛なやりとりに思えるが、あかさにはそう聞こえたし、それで充分だった。
実際猫は黒に白抜きの富士額の模様だったから。
並木を過ぎ、端を渡り、街を抜ける。
延々と続く道を軽く跳ねながら走る一人と一匹。
足に痛みはない。
楽しい、とあかさは感じていた。
何がそう感じさせているのかはわからない。
ずっと混乱して、もう少しで理解できそうなのに、そこまで到達できないでもがいていたけれど、それは別にして楽しかった。
他人にはきっと呆れさせてしまう。
でも共感できる友人が居る。
ちかやにしおん、それにフジも友人になれるかもしれない。
こんな体験は普通じゃできないのだと思うと、走っているだけで楽しかった。
霧が光り出し、あかさとフジはその中を走り続けた。
一人というと語弊があるようで、周りには所々に親しく寄り添っているカップルの姿があって、一人だけで居るのはあかさだけだった。
夜霧がゆっくり漂って、そこはまるでヨーロッパの街角のようだ。
建築様式に明るくないあかさには、そこはヨーロッパとしか表現できないが、建物も、街灯も、街路樹さえも異国情緒に溢れていて、だが人々の顔はどうみても日本人のそれで、どうも奇妙な感じがする。
奇妙…。
「そうだ」
視線を浴びて、口をはたくように手で押さえるあかさは、ともかく手近な背の低い建物にこけながら走った。
陰に身を隠すと、弾ける鼓動を抑えた。
かさかさと何か葉っぱが体に触れる。
首に触れる蔦の葉に目をやると、壁一面覆っていて、露が手に触れて流れて落ちた。
「またトリップしたんだ、私」
確か最後は…。
電話中だったはずだ。
しおんと目があって…。
「しおん?」
周りにも、さっきまでいた場所に目をこらしても、しおんらしき姿は見あたらない。
「どこだろう」
最早あかさに目をやるカップルなど居ない。
思い切って歩き出すと、ぐるりと辺りを見回した。
やはりしおんの姿はどこにもない。
そうだ、とあかさは気づく。
ちかやの時も一緒にいたのに、トリップの最初はバラバラになっていたし、しおんとも一緒の時は散り散りだった。
ここもやはり別の場所にいるに違いなかった。
しかし、どこだろう。
どこにいようと、最初は紛れもなく何度も不安感を味わう。
背の高い建物の整然と並ぶ数々の大きな窓から明かりがこぼれる。
一階ですら高い位置にあるので中は見えないが、人のいる気配があって、きっとそこには日々の営みがあるのだと感じた。
漏れる光が霧に反射して遠くまでは見通せない中、ゆっくりと散策することにした。
視界が頼りないので、靴の石畳をたたくカツカツと乾いた音だけが現実感に溢れている。
あかさが読んだしおんの小説はこれとは全く異なるイメージだったと、改めて思い出す。
別の話なのかも知れない、あるいは前回のように世界観が違うだけかもしれない。
今は前に進むしかない。
やがて少しだけ霧が浅くなった場所に出た。
柵が整然とする向こうに、街の印象と同じオレンジ色をした照明と、鮮明なイルミネーションにより輪郭が見て取れる舟が流れていく。
川か、海か。
小舟と言えなくても決して大きくはない舟で、そこには人々が楽しそうに話し込んでいたり、ただじっと寄り添っていたりする光景があって、あかさの憧れるイメージだった。
もしあそこに自分が居るなら隣にいるのは誰だろう。
つい考えたくなるが、思いつきで叶えたくないとも思った。
それなのに、佐村の顔が頭をよぎる。
好きなんだろうか、彼のことを。
そうじゃない。
夢の時のように、しおんの小説に触発されただけだ。
相手はまだ顔のない相手。
まだまだよく知らない隣の席の男子ではない。
舟の作った波が岸辺に辺り水音がチャプチャプと心地良い。
とても自分には似つかわしくないが、夜の海を唯見つめるのも悪くないのかも、とあかさは今度試してみようと考えた。
とりわけしおんにはイメージと違うと言われそうだが。
あかさは苦笑した。
「どこに行ったのかと想ったよ」
急に背後から近づく靴音と声。
振り返るとそこには佐村の顔をした、とは言えない全く別の印象の男性がこちらを向いている。
「どうしたの?突然」
怒っている風でなく、ただ不安と心配とが入り交じった声音である。
帽子を被っていて表情は読めないが、口元は優しそうである。
少しひげが濃いけど。
それはあくまで好みの問題である。
「さぁ、行こうよ」
あかさの腕を取る男性はやさしく、しかし強く引いて連れて行こうとする。
「どこに行くの?」
「え?君が見たいって言っていたのに。忘れた?」
「え、ううん」
言って、後から素直に問えば良かったと思ったあかさはまたこけそうにつんのめる。
少し高いヒールを履いているらしく、
「もうちょっとゆっくり、ね?楽しもうよ」
と男性に声を掛けた。
自分の口から出たのかと疑いたくなる台詞だが、
「あ、ごめん」
と、少し弾んだ声がおかしくて、あかさはクスリと笑った。
「ううん、歩きたいから」
ブーツに軽い花柄のワンピース、その上に落ち着いた色合いの暖かいジャケット。
自分には着こなせなさそうな服装だ。
一方の男性も渋いニット帽に革のジャケットで、ぱりっとして格好良い。
色合いからしてたぶん秋の装い。
「ねぇ、まだ遠い?」
「もうちょっとのはずだよ。よく見えないけど」
と、指さす先に宙に浮いた白い円が滲んで見えた。
月だろう。
あそこに行くのだろうか?
霧も深いし、何だか幻想的である。
思案するあかさは手を握られてドキリとして、
「じゃぁ行こう」
と、時間を気にする男性の腕時計に目がとまった。
どこかで見覚えがある。
手のぬくもりが肌寒い空気にあって一点ろうそくを灯したみたいに感じられる。
胸がキュンとする。
過日の想いがよみがえる。
あの頭の中いっぱいの、他に考える余地のない幸福の感覚。
同じ恋はきっとできないだろうし、しないと思っていても、あの甘く切ない感情の源泉はきっとかわらずあり続ける。
月に導かれるように二人は足早に進む。
すでに幾人もの恋人たちを濃い霧の中にあってもぶつからずに追い越した。
少し汗ばんできた。
もう一度時計に目をやる男性は、
「始まるよ」
と、振り返りもせず立ち止まる。
よくよく見てみればそぐ目の前には数え切れないほどたくさんの恋人たちで溢れかえっていて、皆空を仰いでいる。
耳をつんざく高音に続いて遙か上空でひらく光の華。
お腹にずしんと響く轟音。
これは何度も経験がある、花火だ。
だが、この臨場感たっぷりに見えるのは、人垣のすぐ向こうから発射しているせいだ。
何発も緩急を付けて上がり続ける花火に、あかさは少しふらついて、男性がすかさず腰を支えてくれた。
その力強さは、倒れたとしてもきっと支え続けてくれそうな、安心感があった。
霧に隠れてはっきりとは見えない花火は、炎の一片を無数に散らして霧に虹色の輝きを埋める。
光る度、周囲全てが花火の色に染まる。
きっと自分が見たかったのはこれなのだと思ったあかさは、霧ではっきりとしないこの空でも幸せを感じていた。
いや、幸せなのだろうと考えていたに過ぎない。
そして気がつく。
誰だった?
この大切な人は誰だったろう。
きっと見たことある人なのだ。
そんな程度なのに、恋愛が成立するはずがないし、私はただ状況を楽しんでいるに過ぎない。
そんなの馬鹿げている。
汗が乾いて体が芯から冷えてきた。
今ここにいる自分が別人に見えた瞬間だった。
「誰?」
頷きこちらを見るその顔は滲んでよく見えない。
やけに顔の周りだけ霧が濃いような。
顔が変わった?
「佐村だよ、忘れるなよ」
そういう男性は佐村の顔のように見えた。
柔和な笑顔の男性は反面力強くあかさの肩を抱き寄せて、ズキンと強烈に弾く鼓動に腰が砕けそうになる。
こんなシーン、私の希望?夢?
あかさの目には花火の散らす光が稲光のように違って見えた。
途端、男性の肩越しに霧が押し出されるように消えていくのが見え、代わりに闇夜が光を飲み込んで広がっていく。
黒いインクが紙の全てを染めてしまうがごとく、その染料の発生源はどうやら自分らしい。
「誰?」
と腕で押し離れるあかさに戸惑いを見せるかと思っていたが、あかさの行動にうなだれるだけだった。
こうなるかもしれないと知っていたかのようにただ佇んでいるように見える。
「君という人間がわからない」
顔を上げた男性は、人のものではなかった。
この場には絶対に不釣り合いな、あのぽよんとして可笑しくも可愛らしい頭でっかニャンコの顔が男性のそのあるべき場所に乗っている。
戦慄を覚える。
肩に乗っているのではなく、頭がすげ変わっている。
これがテーマパークでたくさんの人々と楽しさを共有する場所なら笑える姿だが、心底気持ち悪い。
尻込みしそうになるあかさだったが、胸を張り顔を上げた。
この強気が嘘でも、嘘だとばれたとしても、強くいたいとあかさは望んだ。
「どうして楽しまないの?」
ニャンコは佐村の声のままで語りかけるが、声に感情はなく、本当に佐村のそれなのかもう興味すらなかった。
「楽しむ?何を」
「すべてだよ、君の望み」
「望み?」
「あるでしょ?」
考えを巡らせるあかさだが、その質問に明確に応じられない。
何かが浮かんでは消え、また浮かぶがそれら全てが虚構だった。
自分の奥底からの欲望は見あたらない。
人生観も、恋愛すら、何も見つけられない。
そうだ。
そうなのだ。
姉の残した壁一面の写真に入っている自分。
写真のあの場面のように、どれを取っても私はいつも姉のそばにいて、姉の夢を見て歓喜していた。
ちかやの正直でまっすぐな生き様は私にはこれっぽっちもない。
しおんのように夢を形にする能力も持ち合わせていない。
自分が心から渇望する花道はどこにも存在しない。
悲しくないのに涙をこぼしそうになって、ぐっと耐える。
「ない」
男性の体が霧のように消え、ニャンコの頭が着地する。
「この世界はあなたが作ったもの?」
猫にあなたというのはおかしいかな、でも人みたいに喋ってるし。
「そう」
うなずけばきっとあの猫のことだ、バランスを崩してこちらに走り出してしまうだろう、だから声だけで返事をしたのだとあかさは考えた。
自分が冷静に物事を観察し推し量ろうとしていること、そしてそれができていることに気づいた。
相手は何者だか知れないが、少なくとも姿形は自分の生み出したものなのだ。
臆することはない。
そう思うと、隙あらばざわつこうとする心に平静を保てていた。
「楽しませて何がしたいの?あなたの望みは」
一歩ずつ間合いを確かめて、猫は猫さながらにこちらに向かってくる。
虚勢ついでに、腰を落として猫に視線を合わせた。
「一緒にいたい。それだけ」
いつしか声は誰ともわからない人のものに変わっていた。
嫌な感じはしないし、違和感もない。
それはもしかしたらこの猫の本来の声なのかも、それはそれでおかしな考えだが、そう思った。
「一緒にいたいって?何のため」
「僕たちは想いの塊。人にもあらゆる生物にも触れず、干渉されもしない」
足下で目を合わている猫は可愛かった。
言っていることは難解で、まるでしおんを思い出す。
「でも感情だけは触れられる。だから関わってみたかったんだ」
人知を超越した存在というやつね。
聞きたいことは山ほどあるのに、混乱していて一向に考えがまとまらない。
「友達になりたいってこと?」
相手がそんなことを言っているとは思えないのに、そう問いかけた自分の口が他人のそれのようだ。
大きな頭を膝にすり寄せる猫に、少し躊躇するあかさだったが、手を伸ばし頭をなでた。
縮尺は可笑しいが、まさしく猫の毛のもつ手触りだ。
不意にざわめきが耳に届いて、あかさは顔を上げた。
おそらくさっきまで花火を見ていた恋人たちだろう、何も光を発さなくなった空を背にそれぞれの方向へ歩いて霧に消えていく。
街灯も建物もそこから溢れる光も、人の気配もさっきと同じようだ。
どこか少し違って見えたが気のせいだろう。
そう、あかさの恋人であるはずの男性はもちろん姿はなかった。
それが今、頭をなでられ喜んでいるだろう猫になっている。
あるいはかつて夢に出た猫が喋るとこうなのかもね、とすら思えてくる。
私の唯一無二の存在。
立ち上がり、周囲を見渡す。
闇は何時無くなったのだろう。
さっきよりぐんと世界が広がったような気がする。
「ここはどこ?」
「わからない。でも君の生み出した世界なんだ」
そう言われてもやはりピンと来ない。
こんな場所、見たことも聞いたこともないと思うけど…。
「本当に私の夢?」
「そう、君の世界」
一つはっきりした、ここはしおんの小説の中ではないということ。
「しおんはどこにいるの?」
夜の街に響き渡る程に大きな声に、自分が一番驚いた。
「こっちにおいで」
走り出す猫に急いでついて行くあかさ。
例によってトタトタトタと頼りない短い足を何度も繰り出し進む猫。
その猫の後ろ姿を見て、あかさに笑顔が戻った。
方向の制御やブレーキが下手な猫なのだ。
サポートしてあげよう。
何でも知っている、自分の夢なんだから。
「名前は?何て呼べばいい」
「名前は決めてない。呼んだこと無いでしょ?好きに呼べばいい」
前向きに喋るのであかさは聞き取りづらく、
「何て言ったの?」
「好きに呼んで」
「フジって呼ぶの?」
端から見ればかみ合わない不毛なやりとりに思えるが、あかさにはそう聞こえたし、それで充分だった。
実際猫は黒に白抜きの富士額の模様だったから。
並木を過ぎ、端を渡り、街を抜ける。
延々と続く道を軽く跳ねながら走る一人と一匹。
足に痛みはない。
楽しい、とあかさは感じていた。
何がそう感じさせているのかはわからない。
ずっと混乱して、もう少しで理解できそうなのに、そこまで到達できないでもがいていたけれど、それは別にして楽しかった。
他人にはきっと呆れさせてしまう。
でも共感できる友人が居る。
ちかやにしおん、それにフジも友人になれるかもしれない。
こんな体験は普通じゃできないのだと思うと、走っているだけで楽しかった。
霧が光り出し、あかさとフジはその中を走り続けた。
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