彼女がいだく月の影

内山恭一

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失敗した、あかさはそう何度も心でつぶやいた。
ひさきの家まで行くのに徒歩という手段を選んだのは、何のことはない、ただの流れだったのだが、途中あまりの暑さに音を上げてバスという代替手段を選択し、遠くなるけれども大通りまで迂回しようということになり、だが結局運悪くバスがしばらく来ないという時刻表に愕然とした三人である。
あかさは、いつもと違う時間帯だということをすっかり忘れていた。
さらに、迂回したおかげで駅からも遠く、こうなると歩くしか方法がないわけであり、ただ単に歩く距離を伸ばしたに過ぎないという現実が三人の口数を減らすのだった。
夏に強いあかさだったが、それでも汗が一筋たらりと額を伝い落ちていくのがわかった。
まだ昼前というのに、こんなにも暑いとは…。
異常気象のせいだろうか。
毎年同じことを思うのだ、常態化すれば異も正に通る。
「あー、コンビニがある」
蝉の声が耳鳴りのように響いてその声の方が雑音のように聞こえるほど久しぶりの会話、その先にあるのはおそらく共通の渇望。
そう。
「かき氷食べたい」
「アイス…」
「ポテチー」
驚いてカンナを見る二人。
また一粒、汗がぽとりと頬をゆっくり伝って落ちる。
「冗談…、もちろん」
ハンカチで汗を抑えるカンナに暑苦しさを感じてしまう二人だった。
結局店内で充分涼んでからそれぞれかき氷を買って、再出発だと奮起する。
目的地はこの店からはほど近い。
想定外に長い道中だったが、頬張るかき氷のおいしさを一層引き立てるためのスパイスと思えばそれはそれで良い、気がする。
いや、スパイスにしては辛すぎる。
やっぱり次はバスが電車をチョイスしよう。
少なくなった道路の影を子供の影ふみよろしく見つけて辿る三人は、手近な公園でかき氷を口いっぱいに掻き込んだ。
「あー、しみる」
「おいしい」
「あ、それおいしそう。ちょっと頂戴」
あっという間に空き容器だけになるかつてのかき氷、そのおかげですっかり涼を取れ、あかさ達のいる東屋だけはなんだか気温が下がった気分である。
「そういえばさぁ」
加織が座りなおして問いかける。
「カンナの家はどこなんだっけ?」
「ここからなら、あと二十分くらいかな」
「なら割と近いんだね」
それなら距離的に言えばしおんの家と同じくらいか。
知った仲ではちかやが一番近いことになる。
だったら、ひさきが昔学校をかぜなどで休んだとしたら、プリントなどはちかやが届けたのかもしれない。
「学校は違うんでしょ?」
「中学?うん、校区が違うー」
話を聞けば、加織とカンナは意外と近所なのだと分かった。
ただ、川を隔てているために、異なる校区となっていた。
「思うんだけどー」
カンナが身を乗り出してあかさに顔を向け、
「同じクラスに近い人、いるんじゃない?」
カンナの疑問は全く持って普通に抱くものなのだろうが、あかさや加織にとっては意外なものだった。
そう言われればその通りである。
加織ならまだしも、あかさを指名して依頼するのは見当違い、ではなく、方向違いである。
ひさきと同じ校区出身もあかさが知っているだけでも数人いる。
わざわざ遠路はるばる、というほどでもないが、あかさとひさきの家は比較的に遠い。
渡すだけなら彼女たちに頼んでもよいはずであるが、おそらく担任はそれだけであかさを選んだわけではないだろう。
公園を過ぎるぬるい風に何かを感じたわけでもないが、担任と交わした言葉の一点一点がさぁさぁと風に乗って頭に浮かんでは消えていく。
あかさはもう一度鞄に収めたフォルダーを眺めると、電話をぽんぽんと叩いた。
期待していなかったが、やはりつながらない。
加織があかさの突飛な行動に、
「どうしたの?」
「置いてきてって頼まれたわけじゃないから」
「そうなの?」
加織には担任の話、ひいては自分がその時に感じた担任の奇妙な言い回しについて、何も言っていなかったと少々後悔した。
担任に乞われたのはひさきとの仲の良さが際立っていたという理由からで、担任教諭の手足として動くことを期待していたわけではなかったろう。
あかさが渡されたものと同じものがもう一部担任の手に残されていたのは、自らが届けることを考慮していたからであり、それを見せていたのも恐らくは察せられるようにとの遠回しの、言葉少なの担任らしい表現だったのかもしれないと今更ながら合点がいった。
それはつまり、連絡を取って話をしてみて、という一点に尽きるということだ。
だとすれば、入院しているわけでないのだから、もしかしたら想像以上の何かがひさきに降りかかっている。
そんな漠然とした恐怖にあかさは背筋を凍らせた。
ひさきの姿を思い出す。
その背後にはオーロラのように、それでいて美しいとは言いがたい漆黒の、暗闇のカーテンがひさきのあの笑顔と激しいコントラストを見せつけていて、自分の勝手なイメージにあかさは一人足がすくんだ。
しかし、何がひさきにあるというのだろう。
情報が少なすぎて、ネガティブなイメージばかりがわいてきて、あかさはそれを否定するのに忙しい。
もう一度電話をかけてみる。
何も変わらない。
加織が心配そうに、
「あかさ、とにかく行ってみようよ」
「どこへ?」
「家だって。忘れたの?」
「あ、うん。」
真顔になっていたことにやっと気づいたあかさは笑顔で繕ったが、うまくいったのだろうか?
「じゃー、行ってみよう」
軽い口調のカンナのいつもの言い方が、あかさは少しうれしかった。
カンナはぴょんと立ち上がり、あかさと加織の手を取って二人を立ち上がらせると、先頭を胸で風を切って歩き出す。
「で、どっち?」
ちらっと舌を出しておどけるカンナに、二人は笑顔をあふれさせた。
「知らないの?」
二人の突っ込みにたじろぐカンナの手を今度はあかさが引っ張って、
「こっち」
と歩き出した。
ほんの少し前に訪れたばかりのその家が目に入り、
「あれだよ」
とあかさは懐かしさに駆られてわずかに小走りになっていた。
あの時は加織のことが気になって仕方なかったが、今は後ろを笑顔でついてくる。
振り返ってみてはいないが、きっとそうだと自信があった。
でも今は、ひさきがどうなってしまったのかわからず、こんな小さな街からまるっきり消えてしまったという風に思えて、寂しさばかりが心を満たす。
何をしてあげられるのだろう。
話を聞いてあげることはできる。
内容によっては何か手伝うくらいはできるかもしれない。
思ってすぐあかさは否定する。
そうじゃない。
助けてあげたい。
かつてのあの可愛く愛しい笑顔のひさきに会いたい。
また加織と三人、くだらないことでもいいからたくさん話がしたい、そう思った。
助けるなんておこがましいだろうか。
でも自分にできることがあるなら、前に進まなければならない。
私が憧れる姉のように。
自分ができることはしたい。
どうせ私のことだ、後悔はする。
それはすることをしてからそのあとで存分に味わえばいい。
それだって私を大きくしてくれると信じている。
決意のあるあかさには以前と変わらない外観のひさきの家が大きく伸びて、自分に覆って襲い掛かるようだと感じた。
「ここ?」
キョロキョロする加織は、
「表札、出てないよ」
ちかやの話によれば確かにここのはずであり、質素な基調に清潔なたたずまいは見れば見るほどにそれらしく感じられる。
急に現実感にとらわれて、ほっとするあかさ。
豪邸ではないが、十二分に立派で大きな家屋である。
それだけに人の気配がないところが奇異に感じられるのは仕方ないところだろう。
以前プリントを入れておいたはずの郵便受けには、もうその形跡は見られない。
少なくとも家人には受け取ってもらえたのだろう。
ひさきと彼女の家族が住んでいるはずだが、なぜだかポカンとこの建屋だけ切り取られて存在しないようにも感じられる。
隣家に比べ新しく見えるからなのかもしれないが、どことなく、次元が異なるような気がしていた。
試しにインターホンの呼び出しボタンを押してみる。
案の定反応はない。
再度押下するが、むなしく響いているだけだった。
レースのカーテンがひかれた窓それぞれに視線を渡してみるが、何も動きはない。
しばらく様子をうかがっていたがこれ以上、ここでたたずんでいたところで何も動きはなさそうである。
「帰ろうか」
「そうだね」
「んー、残念」
あかさはフォルダーに入れられた書類の束を郵便受けに入れることはしなかった。
これは次にひさきに会ったときにきちんと手渡しする、そう心に決めていた。
何があの家であったのだろう。
ごく普通の家の風景に何か違うものを感じとろうと励んでみたが、ないところに煙は立ちはしないのであり、あたりの空気と同じくぬくもりを感じさせる風情があった。
あの家では何もなかったのかもしれない。
あかさたちは名残惜しそうに何度も振り返りながらもひさきの家を後にした。
「このまま帰るのー?」
「おなか空いたし、なんか食べる?」
「いいね」
「家がここから一番近い人?」
カンナが即両手をあげて、
「はーい」
というのを見て、あかさと加織は笑顔の最中に視線を交わした。
「今日はトリップなしね」
そう互いの目は言っていた。
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