彼女がいだく月の影

内山恭一

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「あかさ?」
加織は暗闇の中、何かしら動きはないかと目を凝らしていたが、ぴたっと張り付いたその黒色にたまらず名を呼んだ。
思ったよりも小さい声で、その声音は自分でも驚くほどおののいているのが分かった。
あかさと座ったベンチに向かってわざわざ叫んでいるかのような、少なからず心乱される落ち着かない顔つきの彫刻に気づかなかいわけはない。
トリップすることもあり得るだろうとは感じていた。
だが、あんな状態のあかさを放っておくわけにはいかないではないか。
初めて見るあかさの反応の無さに、きっと自分も少し前までああだったのだと気づかされて、余計に心配である。
加織にはあかさのようなタイプはまだよくつかめない不思議な存在だったが、傍で見てきた恋愛の経緯を知ったうえであの表情の無さはよほどのことと胸が痛んだ。
まだ、自分をかぶせて見せてしまうことが悔しい。
ともかく、あの時は助けてくれたし、今度は私の番だと思う。
とは思うものの、一方的な友情の押しつけ、そんな独善的な正義感でいても、腰は引けるというもの。
今までのトリップとは根本的に違うような耳にツーンとする空気を全身で感じて、怯えるなという方が無理なほど陰湿なのだ。
生ぬるいのが余計寒気を誘う。
お化け屋敷でかかるありがちなあの音が遠くで静かに流れる中、真っ暗な空間に一人きりでいるのは、ここがたぶん脅かされる場所であると分かった今、若干気が緩みはするが、障害物や方向感覚、それどころか足場すらわからない状況におかれていることを理解してしまった方がはるか恐ろしかった。
ただのお化け屋敷なら怖いということはそれほどではないし、怖がりに行くのであれば存分に楽しめるというものである。
しかし、ここにあるのは、暗黒であり、恐怖であり、孤独である。
私を驚かしに来る誰かすらもおそらくは目が見えないはずで、遊戯施設としては破たんしているとしか思えない。
こんなの絶対普通じゃない。
不意の転倒でけがするだろうし、逃げるどころか動くこともままならない。
そんな場所にただひとり。
足を浮かせずすり足でゆっくり前に進む。
二歩三歩と重ねても、幸いにも何もないようだ。
手が空を切る。
変なぬるっとしたようなものでなく、できれば壁にたどり着きたい。
変な姿勢で、加織はすっかり疲れてきた。
もう一度名を呼びたかったが、何か得体のしれないものが来やしないかと声が出ない。
おどろおどろしいあの音、子供の時は確かに怖さを感じさせたが、今は目が効かないことの方がよほど恐ろしい。
だが、音の反響や大きさからして、こことは隔絶された部屋だとわかる。
つまり、驚かせる何かはここではなく、その部屋の向こう側にあるということだった。
それがわかったところで何も進展はないところが、今回のテスト結果よろしく詰めが甘いという感じなのである。
そうだ、自分の思念がいたんだ。
いいこと思い出したと歓喜した加織だが、それはぬか喜びと気づく。
あの鳥、ぴーちゃんと名付けているが、鳥だけに夜目はきかないだろうと。
あーあ、なんで鳥なんだろう。
もちろん、自分から出たものなのは理解している。
かつて小鳥を飼ったこともうっすらながら覚えている。
その時はどうしても籠の中から出してあげたくて、何度か部屋から飛び出して探し回る羽目になり、そのたびに叱られたものだ。
小鳥の容姿はいまいちなのに、叱られたその光景はいやになるほど鮮明に思い出せる。
あの鳥の、真っ黒な瞳を見るにつけ、羽を伸ばしてあげたい、空を自由に飛び回らせてあげたいと思わずにおれなかった。
そんなこと思っていなかったかもしれない。
勝手な思い込み。
だが、やがてそれが自分と重なって、籠が、鳥が、飼うことがいやになって、とうとう放してあげた。
今ならそれが独善であることはよくわかる。
餌の取り方、仲間とのコミュニケーション方法とか、生まれてから一度も教えたことなどない。
親との接触もなかった、はずだ。
あの姿を消していった空はもしかしたらここと同じ暗い闇で、私はその闇に輝くはずの月を、親の代わりに指し示してあげることができたのかもしれない。
今になって、急に鳥のその後が気になってしまい、罪が頭をもたげた。
心苦しさが心を満たす。
そうじゃない、今は違うでしょ。
机の引き出しを掃除して久しぶりに見つけた思い出の品のように、加織は記憶をたどって
あかさを久しぶりに思い出した。
あかさを見つけないと。
助けたい。
友達を、私を助けてくれた友達を。
加織は固く絡まった暗闇が少しほぐれてきた気がした。
私にできることは、ある。
自分は勉強が得意ではないが、昔から人間観察が好きで、洞察力は自然と身について人と付き合ってきた。
場合によっては近づきもするし、離れもするが、決して冷めているわけでない。
TPOで臨機応変、ただそれだけのこと。
人との間合いは十人十色で、それぞれに距離を合わせることができた。
美月とも舞綺亜とも、他のクラスメイトともうまくやれている。
ひさきの場合は人徳というのか、もう近くにいるだけで考えようという気がなえるほどに彼女の存在が自然で心地よく、そんな人は初めてだった。
元カレ、いや、ただの共通の趣味の男友達というべきのその彼も加織には予想できない相手ではあった。
不思議、言い換えれば魅力的な存在。
それが彼、彼女たちだ。
あかさも、魅力的だ。
それに自分にどこか似ている気もする。
気がするだけかもしれない。
何しろ、自分よりよほど弾けているのにさわやかで、時に女子らしい。
一度だけ見た、彼と一緒に楽しそうに話す女性の姿が鮮明に瞼に映える。
スカートをたなびかせバイクに腰掛けたヘルメット姿の女性、その人と話す彼もすごく楽しそうだった。
塞がったはずの傷がうずくように、ズキンと胸が痛む。
傷が癒えるのは自分の問題でもう過去のことだが、あの時血がまだ溢れ垂れる傷を見てくれたのはあかさだった。
そんな彼女を助けることはかなうだろうか?
それはわからない。
でも何かしてあげられるはずだ。
彼女はそれを必要としている?
暗闇は視覚のみならず思考すら混沌とさせた。
それを払うように手を伸ばしては掴み、音の方ににじり寄ることしばし、ようやく何かに触れた。
固い何かに触れるたび、ガシャンガシャンと大きな音がした。
何だろうか、暗闇だと感覚は鋭敏になるが視覚を頼りにこれまで生きてきたのだから見当もつかない。
別の何か、一段凹んだ部分がある。
それを掴んで動かそうとするが、ガタゴトと騒がしいだけで何もない。
だが、確かに音はこの向こうのような気がする。
と、思った次の瞬間、加織は激しい衝撃音と息苦しさを一気に味わった。
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