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あかさは異様な手の冷たさに恐怖した。
血が通っていないんじゃないの?
わなわなと震えながら手があるであろう場所を見つめた。
そうだった、たった今まで冷たい缶を握っていたのだった。
冷たさの残る右手を動かしてみる。
反発する何物もなく、缶がどこにあるのか探してみるが、見つけられない。
闇が濃すぎるのだ。
靄がわずかな光に浮かび、体の動きで生じた空気の流れにその粒状性を感じる。
遠くのあの緑色の明りはなんだろうか、この場に違和感があるほどにまぶしい。
四角く発光して、その周囲だけは明るいが、そこに行けそうな気がしなかった。
何故だろう。
それより、どうしてここにいるのだろう?
加織が確か寄り添ってくれていたはず。
そういえば、何か声をかけてくれたような気もするが聞いていなかったことを詫びなければ。
加織の言葉が耳に入っても頭まで届かなかったのは、延々と思考が巡っていたから。
佐村のこと、舞綺亜のこと、写真のこと。
どうも、何かがおかしい。
明確に断言できないところが一番悩ましく、それが紐解けそうでじれったい。
何がおかしい?
本人に聞くのが一番早いのはわかっている。
だが、それができるほど関係が深いという自負はない。
恋愛に自負なんてそもそもおかしいし。
だから、その違和感だけでも解明しておきたかった。
ところで、ここはどこだろう。
公園のベンチに座って、風景は一変しているものの座ったままだ。
何ならここで冷静に物事を整理するのも悪くない。
嫌な空気に満ちているけど。
靄が息苦しく、重くよどんだ雰囲気が葬式の沈鬱なものに似ているようだが、どうしようかと考える余地は今のあかさにはなかった。
暗がりで、何の刺激もなく、思考は深く潜っていった。
他に付き合いのある彼女がいるとは聞いていない。
言っていないだけとも考えられるが、学校に部活、夜の電話と、彼のスケジュールを追ってみて彼女に会う時間はなさそうだ。
もちろん、時間は作るものだ、如何様にもなる。
あの写真は?
佐村の表情が意味深だ。
笑みの消失する過程途中という感じだ。
笑顔で抱き合うというのもおかしい気がするし、あの姿、Tシャツはラフすぎる。
そもそもあの距離で誰が写真を?
それになぜカンナが?
自分のクラスからでなく、何故隣のクラスから?
カンナが見せてくれたあの画像、クラスメイトがよく使うグループで共有するアプリ内の表示だった。
それは一目瞭然で、インターネットのように不特定多数が見られるものではない。
カンナが手を貸していると考えられないこともない。
加織やひさきと違う距離感は感じているし、知らせに来た時の顔も作っていたと言えなくもない。
それなら結構迫真の演技だ。
しかし、カンナと舞綺亜、あるいは美月の関係性が見えてこない。
彼女は佐村とあかさの関係を知っている。
どうだろう。
まだ本決まりではないにしろ、文化祭の自分たちのクラスの催しは有志参加の歌になりそうだ。
あれはもちろん、美月の言い出したこと。
あれが私へのあてつけなのは間違いない。
加織と私を誤認している。
迷惑な話。
何もないところに、煙を立てようというのだから。
自分の嫌な感情が心を支配しているようで、ネガティブなことばかりが頭をよぎる。
変なものだ。
そうしたいわけではないのに、そっちばかりに頭が働くのである。
グルグルめぐる思考の渦は洗濯機より激しく、潮流でうずまく鳴門の渦のようだ。
そこへぽんと一個のかけらが飛び出した。
カンナと一緒にいる友人、もちろん隣のクラスの子だ。
その子が時々廊下で美月と楽しげに話しているのを見たことがある。
あかさは光を見たような気がしたが、それは光というより、この暗闇より黒い暗部が覗いて見えた、そんな感じだった。
闇は深く濃いが、おかげで記憶を繋ぎ合わせる作業が容易になった。
暗闇に黒い稲妻が走る、そんな気がした。
あの写真を撮った人物、たぶん美月か。
加織、美月、舞綺亜、カンナと佐村。
いつもは決して考えも思いもしない負の感情が彼らの像に覆いかぶさり、塗りたくられる。
この闇の中、あかさはすっかり紛れて出てこられないとしてもそれでもいい、そう思った。ぬかるみに足を取られてつっぷしたまま、ずぶずぶと沈んでいくようだ。
何もかも黒く塗りつぶしてしまえ。
誰かがささやくようで、その声に従うことが幸福へ誘ってくれるように思える。
あかさの息が冷たく凍り、白く濁る。
黒魔術、あさかはそれにかかったのだ。
しかし、そんな時、急にフジのことを思い出した。
姉と話して逃げないと決めた、あの時のことを。
話せばよいのだ。
それがすべてだ。
本音はそれぞれの心にある。
誰も弱さをさらけ出したりはしないし、隠しもする。
だからこそ話さなければならない。
やって後悔するかもしれない、でもやらなければいつまでも納得できはしない。
あかさは光を見た気がした。
その光に動く影。
「どうしたんだい?」
誰もいない、勝手な思い込みだったとあかさはびくついた。
「誰?」
濃緑に鈍く光る靄の中、知った姿をあかさは見た。
「フジ?」
「怖くないのかい?」
トタトタと歩く姿は確かにフジである。
アンバランスだった姿は、靄のせいなのか、ことさら頭でっかちに見えて不思議だ。
「うん。もう決めたから」
「そうみたいだね」
やがてシルエットを見せたその姿はいつものフジのものだったが、声がわずかに重い気がした。
「ここはどこ?」
「君の夢」
「夢?これが」
「確かにそうだ」
「夢には見えない」
「僕にとってもね」
そりゃ誰だってそう思うでしょ。
あかさはやっと初めて立ち上がって、見回した。
靄の中なのは座っていたからで、立ってみると視界は澄んで見通せる。
何か動く姿がある。
そういえば、加織は?
よく見れば足元が見える程度に各所にランタンのようなものが置いてある。
暗がりを凝視する。
だが、何をどうみてもあれは加織には見えない。
おもちゃのおさるの人形よろしく、シンバルを手に変な格好をした大人の姿。
違う場所にもじっとしているが、白ずくめの大人が隠れている様子。
他にも何人かいそうな雰囲気である。
そのどれも目元はかすんで見えないが、見たことのない人たちなのは確信した。
口元は一様ににやついているようで、奇妙な光景だ。
今まで全く気にならなかったが、あの独特の気味の悪い音がずっと鳴り響いていた。
そこへ、ガラスが割れそうな音を立てて、あかさはたじろいだ。
また、ガシャンと音が響く。
次の瞬間、黒い何かがあかさに飛び込んで、あかさは手をついたものの激しくしりもちをついた。
「痛たた」
その黒い何かはあかさに巻き付いて、しかし良い匂いである。
この匂いって、もしかして。
「ぷふぁっ」
と短く、促音の用例のよう。
「加織?」
「あかさ?」
真ん前に加織の顔があって、ほっとするやら、びっくりするやら。
「大丈夫?」
加織の言葉の指す意味がこけたことだと勘違いしたあかさは、
「もちろん」
「それならいいけど」
加織は言葉よりもあかさの笑顔を見て、安心した様子だ。
「それにしても…。大きいね」
「何が?」
「あかさのここ」
と、加織はあかさの胸をむにゅっと押した。
「窒息するかと思った」
そんなわけない、という言葉より早く、手で胸を隠すあかさ。
目を凝らしてよくよく見れば、加織が前掛け姿の大人な服装に対して、あかさは幼少の幼稚園時代の遊び着を身に着けていた。
懐かしさから思い出に耽るより、遊び着にこんな大きなサイズもあるのかという驚きより、他の何より胸元がすうすうすることの方が気になって、胸元を開いて覗いてみる。
加織がさっき突っ込んだその胸元にはあるべきものがなかった。
あかさの声が部屋に反響する。
「なんで生なの」
世界は暗幕を払ったように、まぶしさに包まれた。
ぷはぁっと今度はあかさが大きく息を吸い込んだ。
じょろじょろと音がやけに近くから聞こえる。
しかもどうしてだか足が冷たい。
ひゃっと短く声をあげ、あかさの手から空き缶が転げ落ち高らかに音を立てる。
中を確かめるまでもないその甲高い音は中身が全部こぼれ落ちたことを宣言しており、その行き先が見事靴の中という惨事にあかさは直面した。
半分くらいは飲んでいたと思うが、もう半分はちゃぷちゃぷと革靴と靴下の隙間で足を動かすたびに揺れている。
「靴、脱いだら?」
加織が缶を拾って、捨てに走る。
「ごめん、ありがとう」
ワンテンポ遅れたため声が届いたかわからないが、言う通り靴を脱いですべて吐き出させた。
結構な量がこぼれ、乾いた土にシミだけ残して吸い込まれていった。
どうしたものか、気持ち悪いのでともかくつく下を脱いで、靴を手にして片足歩きで水道の蛇口へ向かう。
途中、何度もこけそうになって、
「洗うんだから、歩いて行ってもいいんじゃない?」
「そうだ」
まさにバランスを崩していたときに、すたっと足を出して大地を踏みしめる。
文字通り、大の字。
そんな光景を見て加織が笑い、あかさも笑った。
さっきよりも気持ちがいい、半分石混じりの砂を踏んで少々痛いのに。
足も靴も靴下も綺麗にびしょ濡れ。
それでも跳ねる水は光を返し、輝きをまとい、足先を伝い落ちる水はぐっと冷たい。
あかさはこんな目にあってしまったことより、自分を見つめる機会をくれたあの彫刻を蛇口を閉じながら見つめた。
暗くて、変な夢だった。
怖くなかったのは、きっと自分が大きくなっていたから。
幼稚園の時のあのお化け屋敷はどうだったのか、ほとんど覚えていない。
しかし、あの暗闇で驚かされたシンバルの音やシーツのお化けのことは今でもはっきり思い出せる。
それなのに、あの脅かそうとする大人の姿に、怖がらせるのはちょっとだけと言い訳してそうな笑顔が見えるようで、今はほのぼのしてしまう。
不思議。
でもやっぱり子供には十分怖いのね。
奇妙な顔のオブジェは夏の太陽の下、地面にくっきりと影を落とす。
佐村にとっては野球の応援団の叫ぶ姿に捉えられたのだろう。
他方、自分には過去の恐怖を味わい絶叫したことを思い出させたのだ。
こうも人によって感じ方が違うのか、それを体感したあかさだった。
それにしても、とあかさは夢から覚めた時に違和感にとらわれていた。
加織はあかさに自身の上履きを取り出して、
「これ、使って」
「いいの?ていうか、どうしたの、これ」
「洗うつもりで、持って帰ったから」
玄関で履き替えるそっけない上履きがこんな時に役立つとは思いもよらず、その単色で可愛さのかけらのない形状を足にはめたとき、つっかけスタイルで少々恥ずかしい。
でも、びしょ濡れのままの靴で帰るのは嫌だし、加織の気遣いもうれしいし。
「ありがとう。借りていい?」
「もちろん」
「几帳面だね」
「なんで?」
「私のは置きっぱなし。洗うなんて考えたことないし」
「あかさ菌が一杯付いてるかもよ」
「菌って…。ヨーグルトに入って良さそうじゃない?」
あかさの予想外の返しに加織は言葉をなくしたが、先ほどまでとは違うあかさを見られて、「やっぱりあかさって不思議」
と、ぽろりと本音が出てしまった。
たったあれだけの、短い時間でこんなに調子が変わるなんて。
「菌が?」
加織が笑うのを見て、あかさもつられた。
「そうだ。あかさの上履き、借りていい?」
「いいけど。持って帰ってないよ」
「知ってる」
しばらく二人で靴や靴下を持って帰られるようにごそごそやって、加織はあかさが乗るバスの停留所まで見送った。
血が通っていないんじゃないの?
わなわなと震えながら手があるであろう場所を見つめた。
そうだった、たった今まで冷たい缶を握っていたのだった。
冷たさの残る右手を動かしてみる。
反発する何物もなく、缶がどこにあるのか探してみるが、見つけられない。
闇が濃すぎるのだ。
靄がわずかな光に浮かび、体の動きで生じた空気の流れにその粒状性を感じる。
遠くのあの緑色の明りはなんだろうか、この場に違和感があるほどにまぶしい。
四角く発光して、その周囲だけは明るいが、そこに行けそうな気がしなかった。
何故だろう。
それより、どうしてここにいるのだろう?
加織が確か寄り添ってくれていたはず。
そういえば、何か声をかけてくれたような気もするが聞いていなかったことを詫びなければ。
加織の言葉が耳に入っても頭まで届かなかったのは、延々と思考が巡っていたから。
佐村のこと、舞綺亜のこと、写真のこと。
どうも、何かがおかしい。
明確に断言できないところが一番悩ましく、それが紐解けそうでじれったい。
何がおかしい?
本人に聞くのが一番早いのはわかっている。
だが、それができるほど関係が深いという自負はない。
恋愛に自負なんてそもそもおかしいし。
だから、その違和感だけでも解明しておきたかった。
ところで、ここはどこだろう。
公園のベンチに座って、風景は一変しているものの座ったままだ。
何ならここで冷静に物事を整理するのも悪くない。
嫌な空気に満ちているけど。
靄が息苦しく、重くよどんだ雰囲気が葬式の沈鬱なものに似ているようだが、どうしようかと考える余地は今のあかさにはなかった。
暗がりで、何の刺激もなく、思考は深く潜っていった。
他に付き合いのある彼女がいるとは聞いていない。
言っていないだけとも考えられるが、学校に部活、夜の電話と、彼のスケジュールを追ってみて彼女に会う時間はなさそうだ。
もちろん、時間は作るものだ、如何様にもなる。
あの写真は?
佐村の表情が意味深だ。
笑みの消失する過程途中という感じだ。
笑顔で抱き合うというのもおかしい気がするし、あの姿、Tシャツはラフすぎる。
そもそもあの距離で誰が写真を?
それになぜカンナが?
自分のクラスからでなく、何故隣のクラスから?
カンナが見せてくれたあの画像、クラスメイトがよく使うグループで共有するアプリ内の表示だった。
それは一目瞭然で、インターネットのように不特定多数が見られるものではない。
カンナが手を貸していると考えられないこともない。
加織やひさきと違う距離感は感じているし、知らせに来た時の顔も作っていたと言えなくもない。
それなら結構迫真の演技だ。
しかし、カンナと舞綺亜、あるいは美月の関係性が見えてこない。
彼女は佐村とあかさの関係を知っている。
どうだろう。
まだ本決まりではないにしろ、文化祭の自分たちのクラスの催しは有志参加の歌になりそうだ。
あれはもちろん、美月の言い出したこと。
あれが私へのあてつけなのは間違いない。
加織と私を誤認している。
迷惑な話。
何もないところに、煙を立てようというのだから。
自分の嫌な感情が心を支配しているようで、ネガティブなことばかりが頭をよぎる。
変なものだ。
そうしたいわけではないのに、そっちばかりに頭が働くのである。
グルグルめぐる思考の渦は洗濯機より激しく、潮流でうずまく鳴門の渦のようだ。
そこへぽんと一個のかけらが飛び出した。
カンナと一緒にいる友人、もちろん隣のクラスの子だ。
その子が時々廊下で美月と楽しげに話しているのを見たことがある。
あかさは光を見たような気がしたが、それは光というより、この暗闇より黒い暗部が覗いて見えた、そんな感じだった。
闇は深く濃いが、おかげで記憶を繋ぎ合わせる作業が容易になった。
暗闇に黒い稲妻が走る、そんな気がした。
あの写真を撮った人物、たぶん美月か。
加織、美月、舞綺亜、カンナと佐村。
いつもは決して考えも思いもしない負の感情が彼らの像に覆いかぶさり、塗りたくられる。
この闇の中、あかさはすっかり紛れて出てこられないとしてもそれでもいい、そう思った。ぬかるみに足を取られてつっぷしたまま、ずぶずぶと沈んでいくようだ。
何もかも黒く塗りつぶしてしまえ。
誰かがささやくようで、その声に従うことが幸福へ誘ってくれるように思える。
あかさの息が冷たく凍り、白く濁る。
黒魔術、あさかはそれにかかったのだ。
しかし、そんな時、急にフジのことを思い出した。
姉と話して逃げないと決めた、あの時のことを。
話せばよいのだ。
それがすべてだ。
本音はそれぞれの心にある。
誰も弱さをさらけ出したりはしないし、隠しもする。
だからこそ話さなければならない。
やって後悔するかもしれない、でもやらなければいつまでも納得できはしない。
あかさは光を見た気がした。
その光に動く影。
「どうしたんだい?」
誰もいない、勝手な思い込みだったとあかさはびくついた。
「誰?」
濃緑に鈍く光る靄の中、知った姿をあかさは見た。
「フジ?」
「怖くないのかい?」
トタトタと歩く姿は確かにフジである。
アンバランスだった姿は、靄のせいなのか、ことさら頭でっかちに見えて不思議だ。
「うん。もう決めたから」
「そうみたいだね」
やがてシルエットを見せたその姿はいつものフジのものだったが、声がわずかに重い気がした。
「ここはどこ?」
「君の夢」
「夢?これが」
「確かにそうだ」
「夢には見えない」
「僕にとってもね」
そりゃ誰だってそう思うでしょ。
あかさはやっと初めて立ち上がって、見回した。
靄の中なのは座っていたからで、立ってみると視界は澄んで見通せる。
何か動く姿がある。
そういえば、加織は?
よく見れば足元が見える程度に各所にランタンのようなものが置いてある。
暗がりを凝視する。
だが、何をどうみてもあれは加織には見えない。
おもちゃのおさるの人形よろしく、シンバルを手に変な格好をした大人の姿。
違う場所にもじっとしているが、白ずくめの大人が隠れている様子。
他にも何人かいそうな雰囲気である。
そのどれも目元はかすんで見えないが、見たことのない人たちなのは確信した。
口元は一様ににやついているようで、奇妙な光景だ。
今まで全く気にならなかったが、あの独特の気味の悪い音がずっと鳴り響いていた。
そこへ、ガラスが割れそうな音を立てて、あかさはたじろいだ。
また、ガシャンと音が響く。
次の瞬間、黒い何かがあかさに飛び込んで、あかさは手をついたものの激しくしりもちをついた。
「痛たた」
その黒い何かはあかさに巻き付いて、しかし良い匂いである。
この匂いって、もしかして。
「ぷふぁっ」
と短く、促音の用例のよう。
「加織?」
「あかさ?」
真ん前に加織の顔があって、ほっとするやら、びっくりするやら。
「大丈夫?」
加織の言葉の指す意味がこけたことだと勘違いしたあかさは、
「もちろん」
「それならいいけど」
加織は言葉よりもあかさの笑顔を見て、安心した様子だ。
「それにしても…。大きいね」
「何が?」
「あかさのここ」
と、加織はあかさの胸をむにゅっと押した。
「窒息するかと思った」
そんなわけない、という言葉より早く、手で胸を隠すあかさ。
目を凝らしてよくよく見れば、加織が前掛け姿の大人な服装に対して、あかさは幼少の幼稚園時代の遊び着を身に着けていた。
懐かしさから思い出に耽るより、遊び着にこんな大きなサイズもあるのかという驚きより、他の何より胸元がすうすうすることの方が気になって、胸元を開いて覗いてみる。
加織がさっき突っ込んだその胸元にはあるべきものがなかった。
あかさの声が部屋に反響する。
「なんで生なの」
世界は暗幕を払ったように、まぶしさに包まれた。
ぷはぁっと今度はあかさが大きく息を吸い込んだ。
じょろじょろと音がやけに近くから聞こえる。
しかもどうしてだか足が冷たい。
ひゃっと短く声をあげ、あかさの手から空き缶が転げ落ち高らかに音を立てる。
中を確かめるまでもないその甲高い音は中身が全部こぼれ落ちたことを宣言しており、その行き先が見事靴の中という惨事にあかさは直面した。
半分くらいは飲んでいたと思うが、もう半分はちゃぷちゃぷと革靴と靴下の隙間で足を動かすたびに揺れている。
「靴、脱いだら?」
加織が缶を拾って、捨てに走る。
「ごめん、ありがとう」
ワンテンポ遅れたため声が届いたかわからないが、言う通り靴を脱いですべて吐き出させた。
結構な量がこぼれ、乾いた土にシミだけ残して吸い込まれていった。
どうしたものか、気持ち悪いのでともかくつく下を脱いで、靴を手にして片足歩きで水道の蛇口へ向かう。
途中、何度もこけそうになって、
「洗うんだから、歩いて行ってもいいんじゃない?」
「そうだ」
まさにバランスを崩していたときに、すたっと足を出して大地を踏みしめる。
文字通り、大の字。
そんな光景を見て加織が笑い、あかさも笑った。
さっきよりも気持ちがいい、半分石混じりの砂を踏んで少々痛いのに。
足も靴も靴下も綺麗にびしょ濡れ。
それでも跳ねる水は光を返し、輝きをまとい、足先を伝い落ちる水はぐっと冷たい。
あかさはこんな目にあってしまったことより、自分を見つめる機会をくれたあの彫刻を蛇口を閉じながら見つめた。
暗くて、変な夢だった。
怖くなかったのは、きっと自分が大きくなっていたから。
幼稚園の時のあのお化け屋敷はどうだったのか、ほとんど覚えていない。
しかし、あの暗闇で驚かされたシンバルの音やシーツのお化けのことは今でもはっきり思い出せる。
それなのに、あの脅かそうとする大人の姿に、怖がらせるのはちょっとだけと言い訳してそうな笑顔が見えるようで、今はほのぼのしてしまう。
不思議。
でもやっぱり子供には十分怖いのね。
奇妙な顔のオブジェは夏の太陽の下、地面にくっきりと影を落とす。
佐村にとっては野球の応援団の叫ぶ姿に捉えられたのだろう。
他方、自分には過去の恐怖を味わい絶叫したことを思い出させたのだ。
こうも人によって感じ方が違うのか、それを体感したあかさだった。
それにしても、とあかさは夢から覚めた時に違和感にとらわれていた。
加織はあかさに自身の上履きを取り出して、
「これ、使って」
「いいの?ていうか、どうしたの、これ」
「洗うつもりで、持って帰ったから」
玄関で履き替えるそっけない上履きがこんな時に役立つとは思いもよらず、その単色で可愛さのかけらのない形状を足にはめたとき、つっかけスタイルで少々恥ずかしい。
でも、びしょ濡れのままの靴で帰るのは嫌だし、加織の気遣いもうれしいし。
「ありがとう。借りていい?」
「もちろん」
「几帳面だね」
「なんで?」
「私のは置きっぱなし。洗うなんて考えたことないし」
「あかさ菌が一杯付いてるかもよ」
「菌って…。ヨーグルトに入って良さそうじゃない?」
あかさの予想外の返しに加織は言葉をなくしたが、先ほどまでとは違うあかさを見られて、「やっぱりあかさって不思議」
と、ぽろりと本音が出てしまった。
たったあれだけの、短い時間でこんなに調子が変わるなんて。
「菌が?」
加織が笑うのを見て、あかさもつられた。
「そうだ。あかさの上履き、借りていい?」
「いいけど。持って帰ってないよ」
「知ってる」
しばらく二人で靴や靴下を持って帰られるようにごそごそやって、加織はあかさが乗るバスの停留所まで見送った。
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