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旦那様はもどかしいようです
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カーテンの開く音にギルバートは目を覚ました。差してくる朝陽の眩しさに目を細める。冬も終わりが近づき、太陽が見える日も多くなってきた。真っ白な雪が日光を反射して、窓の外はまだ朝も早いというのにかなり明るい。
「ギルバート様」
聞き慣れた声がして、まどろみの中の意識がはっきりとしていく。だがまだ眠い。起きる気分じゃない。早くカーテンを閉めてくれ。昨日は遅かったからまだ寝ていたい。
「ギルバート様、起きてください!」
チリンチリンと本来は主が侍従を呼ぶための鈴を耳元で強く鳴らされ、ギルバートは驚きに跳ね起きた。窓からの日差しに目を細め、にっこりと爽やかな笑みで顔を覗き込んでくるアルバストをついでに睨んだ。
「もっと穏やかに起こせないのか?」
「もちろん起こしましたとも。ギルバート様は全く反応してくださいませんでしたが」
「それでもこの起こし方はないだろう。心臓がまだバクバクしている」
はぁ、とギルバートは大きなため息をついた。幼馴染とはいえここまで無遠慮だっただろうか。見た目は老けたのに中身は全く変わっていない。
「無駄に目が冴えた」
文句の一つは言ってやらないと済まなかった。ギルバートはそのまま後ろに倒れ、大きな枕の中に沈み込んだ。もう一度寝れるかと言われればそうでないが、昨日は遅くまで本を読んでいたのでまだ寝転んでいたい気分だ。今日はもう少しベッドでゴロゴロしてから起き上がろう。
「そんなギルバート様にもっと目が覚める朗報です」
布団に潜り込み始めたギルバートの手を抑え、アルバストはとびっきりの笑みで窓際を指さした。眩しさに目をこすり、よく見るとそこには時計がかかっている。そしてその時間は――――
「それは朗報とは言わない! あと少しでヴィヴィアナとの食事の時間じゃないか!?」
先ほどよりも機敏な動きで跳ね起きると、素早くローブを脱ぎ捨てる。他の侍従たちが支度をしにやってきて、ベッドの縁に座り、まずは顔を洗う。侍従たちが持ってきてくれた底が深い皿にはぬるま湯が張られていて、覗き込むと随分と老けた自分が見えた。もうこの数か月で見慣れたが、それでも自分だけ違う世界にいるようで胸が痛む。そんな考えを振り払い、服を変え、寝癖を直した。骨折していた手は綺麗に折れていたそうでもうほぼ完治している。だが、足はまだかかるようで、松葉杖を使って移動をしている。
「全く、何度も起こしましたと申し上げましたでしょう?」
少し面白そうにアルバストは笑った。思えばこの十年後の世界に来てから間もないころ、アルバストはあまり笑うことがなかった。それで少し距離を感じていたのだが、最近は本来の幼馴染が戻ってきてくれたようで嬉しい。
やっと準備が終わると、松葉杖を受け取り、部屋を出た。流石にずっとギルバートの部屋で食事をするわけにはいかないので最近は食堂を使っている。
「お待ちしておりました」
通常よりも遅い歩みで食堂に到着すると、すでにヴィヴィアナが待っていた。慌てて用意をしたギルバートとは違い、きちんと朝起きて準備したであろうヴィヴィアナは豊かな金の髪を半分結い上げていた。いつも思うが、ヴィヴィアナは隙がない。まるで厳格でありながら優しかった姉のようだ。姉は自分に厳しく、常に規律を重んじる人ではあったが、ギルバートにはいつだって優しい人だった。風邪を引いたときは遅くまで看病してくれた。勉強が嫌なときは丁寧に教えてくれた。アルバストと喧嘩したときは二人の意見をきちんと聞いて叱ってくれた。……もう、会えることはないが。
ヴィヴィアナも姉のような印象を受ける。優しさに包み込まれてそのまま甘えてしまいたくなってしまうような。けれど、同時に怪我をしたギルバートの為に気を張っているような気もする。確かに精神的には年下ではあるが、そんなに頼りないように見えるだろうか? それとも彼女にとっての『旦那様』ではないギルバートに心を許したわけではないのだろうか? 少し、不安になった。
「旦那様、また手が止まっていらっしゃいますよ? 体調が悪いのですか?」
食事中につい考え事にぼーっとしてしまった。ギルバートは首を振ってそれを払い、フォークに刺さった野菜を口に運んだ。
「いや、昨日は遅くまで本を読んでいたからな」
「まぁ、勉強熱心ですわね。今はなにを学ばれているのですか?」
「主に国法だ。昔投げだした暗記を今になってするとは思わなかった」
「旦那様はやんちゃだったのですね。まさか授業から逃げたりしていたのですか?」
「…………それに関しては答えるつもりはない」
「ふふっ、その言い方ですと答えているも同然ですわ」
くすくすと上品にヴィヴィアナは笑った。その姿を見つめていると、後ろから侍女がやってきてなにか耳打ちをされたようだ。まぁ、と言って嬉しそうに手を合わせた。
「旦那様、今日はわたしの予定が空けられるようですの。ですから、一緒に勉強いたしませんか?」
「一緒に? だが、君には退屈じゃないか?」
「そんなことありませんわ。復習も大切です。――それに、久しぶりに一緒に過ごせるんですもの!」
春まであと少しだが、まるで花が咲いて舞っているかのように華やいでヴィヴィアナは笑った。最近よく見るヴィヴィアナは大人っぽい笑い方をしていたが、今のはとても愛らしくて全然印象が変わる。妹がいたことはないが、普段は大人の女性らしく振舞う彼女が時折甘えたり褒めてほしそうな表情をするとき、きっと妹がいたらこうであろうと思わせてくれる。とはいっても、勉強に関してはギルバートが習う側なのだが。いつも以上に頑張らねばと気合が入った。
朝食を終え、ギルバートはさっさと図書室に行くという指示を出した。だが、ヴィヴィアナには少し時間をおいてから部屋に迎えに行くと言ってある。それまで時間があった。
松葉杖を置いて、ソファに座りこむ。ふと、周りを見回すと、続きの扉が目に入った。それは夫婦が互いの部屋から寝室に行きかうためのものだ。もちろんギルバートが使った記憶はない。本来ならばあの扉の先にヴィヴィアナの部屋があるべきだろうが、彼女の部屋はこの部屋から少し行った家族が住む場所だ。なぜかと疑問に持ったことがないわけではなかったが、暇になると無性に気になってくる。ぱたぱたと忙しなく働く侍従を引き止めて問うた。
「なぜヴィヴィアナはあの部屋を使っていないんだ?」
「お、奥様の部屋のことですか…?」
侍従は視線をその部屋にやると、頭をすぐさま下げた。
「あそこは長いこと使っていなかったので閉ざしてしまったと聞いています。ヴィヴィアナ様が別の部屋を気に入られたこともあって、そのままにしてあるのです」
「そうか……」
なにか理由があったのだろうが、ヴィヴィアナが気に入った部屋があり、そこを使っているのならば別に気にすることはないだろう。まだやることがあるだろう侍従はそのまま下げた。
時計を見ると、ちょうどいい時間だった。ギルバートは松葉杖を使い、歩き始める。最初はぎこちなかったが、今では慣れてしまった。ヴィヴィアナと合流し、図書館へと向かう。
「すっかり雪も落ち着いてきましたわね」
「雪の乙女も今か今かと春の精霊の目覚めを待ち構えているだろう」
「ええ……」
短い会話を交わしながら、床に映った窓の影を踏んで廊下を進む。すると、一人の行儀見習いが通りがかった。見たところ荷物を運んでいるようだったが、ギルバートと目が合い、そのあとヴィヴィアナの姿を見るとそそくさとその場を去っていった。部屋に籠っているのでほとんど使用人に会うことはないが、会うたびになんだか遠巻きに避けられている気がする。だが、アルバストに十年間の話を聞いたところ『氷の伯爵』と呼ばれるほど冷たく厳しかったのだから、使用人たちも少し怯えているのかもしれない。それよりもそんな二つ名が付いていることが今は恥ずかしい。
のんびりと話しながら図書室に着くと、すぐにアルバストの授業が始まった。そしてそれが終わるとヴィヴィアナの文官だというソイニの授業も立て続けに受ける。ソイニは最近教鞭を振ってくれるようになったのだが、開口一番『馬鹿は嫌いです』と言って授業を始めた男だ。本当に馬鹿は嫌いなようで、ミスをするとすぐにこれくらいもできないのかと言われた。心が折られそうにもなったが、教え方は本当に分かりやすくて、みるみると勉学が身についていると実感できる。だがそれにしても初めてヴィヴィアナと授業を受けたが、彼女に対しては甘すぎではないだろうか? 少し計算が遅れていても、むしろ間違っていても流石ですねという言葉しか出てこなかった。贔屓が過ぎないだろうか? それが視線に出ていたのだろう。本来は貴方が身に着けていなければならないことですと言われてしまってぐうの音も出なかった。目を逸らして黙々と計算を続けるしかなかった。
「さて、あとは暗記ですが、僕は忙しいのであとは自分でやってください」
「ありがとう、ソイ」
「いえ、お嬢様は暗記に関しては全て覚えていらっしゃるので退屈になってしまいませんか?」
「旦那様と一緒だから大丈夫よ」
ソイニはわかりましたと心配そうに頷くと、本当に忙しいようでさっさと図書室から去っていった。残されたギルバートたちは一度昼食の休憩をすると、また戻ってきてソファに並ぶ。そしてヴィヴィアナは片手で抱えられない国法の分厚い本を手に取り、ギルバートに渡した。それを全部暗記するのは正直うんざりしてしまうが、覚えておかなければこの領地を治めるのに支障がある。少しため息が出た。
「ヴィヴィアナはこれを全て覚えているのか?」
「ええ。計算は苦手ですが、暗記だけは得意ですの。一、二度読めば大抵は覚えてしまいますわ」
疑うわけではなかったが、一枚目をめくって読み上げてみる。
「序章一節 神はおっしゃった」
「国は民の為に在ると。王は民の為に在ると。民は国の為に在らずと」
「二章四節」
「王は神殿を侵してはならぬ。神の代弁者たる神官は国を侵してはならぬ。神は民のためなれど、国の為に在らず。故に国は神の名をもってことを成してはならぬ」
他にも何節か聞いてみたが、一言一句間違えはなかった。ここまで来ると、もう称賛しか出てこない。
「……すごいな」
「ふふっ、数少ない特技ですもの。お褒めに預かり光栄ですわ」
「だが、僕がこれを覚えるのは……」
「記憶を失くす前は全て覚えてらしたんですもの。心配しなくても大丈夫ですわ。まずは全てを一読し、基本の序章一章と、領地を治めるのに必要な五章を覚えてみましょう? わたしも手伝います」
そう言ってヴィヴィアナは手伝ってくれた。彼女は法を理解しているというより、全て覚えているだけだったようで解説は出来なかった。だが、全てを網羅しているからこそ法同士のつながりが分かり、読み進めることは捗った。しかし、結局はギルバートが覚えなければならない。一人でぶつぶつと何度も読み返し始める。ヴィヴィアナは紅茶を入れたりとサポートしてくれた。
そして序章を全て覚えるまであと一節となったころ、ふと肩に重みを感じた。驚きに少し肩を震わせて首だけを動かすと、スーゥと小さく寝息を立てたヴィヴィアナが眠っていた。手にはギルバートが見たことのない本を開きかけで持っている。読んでいるうちにそのまま眠ってしまったのだろう。疲れているのだろうか。
春が近づき、領地の産業はこれから活発になる。ソイニが主導して指揮をしているそうだが、今の最終決定者はヴィヴィアナだ。毎日書類仕事で忙しいと聞いている。アルバストは春になれば少しずつ任せていきたいと言っていたが、なにもできない今がもどかしい。
「すまない……」
小さく呟くと、膝にクッションを置いてその上にゆっくり慎重にヴィヴィアナの頭を動かした。それでも起きる気配は全くなかった。よほど疲れているのだろう。
規則正しい呼吸音が二人だけの図書室によく響いた。窓の外を見ると白く輝いていた太陽は赤くじりじりと地平線に沈んでいる。陽が落ちるが早い時期とはいえ、時間がこんなに経っていたとは気づかなかった。
静かに眠るヴィヴィアナを眺める。思えばヴィヴィアナの寝ている姿をみるのは初めてだ。綺麗な顔立ちをしているので大人っぽく見えがちだが、眠ると子供のようで愛らしい。
十年後の世界に来て突然湧いて出てきた妻という存在。ずっと結婚を想像していた人でもないし、社交界で顔を見たこともなかった女性。彼女の印象といえば、ただひたすらに優しいことだった。きっと知っている人に忘れ去られるのは辛いことだろう。けれど彼女は悲嘆することなく支えてくれた。そしてこの冬の間で家族のような存在になった。妻だから家族なのは当たり前かもしれないが、それでも初めて会った時はギルバートにとっては他人同然だし、精神的には年上の女性だし、と戸惑うことばかりだった。けれど一人取り残されたこの寂しい世界の中で、何度も何度も世の理不尽に打ちのめされそうになった。なぜ家族は殺されなければならなかったのだろう。なぜ死ぬのはギルバートの家族ではなければいけなかったのだろう。……なぜ、自分は一緒に死ななかったのだろう。だから家族の下へ行きたいと、楽になりたいと、考えた。けれど彼女の優しさは本物で、ギルバートに生きていいのだと言ってくれる気がした。彼女だけがこの世界にギルバートを繋ぎとめてくれた。
――――僕は彼女になにができるだろう。
度々思うことだった。今、全て頼りきりになってしまっている。だから何かしてあげたい。この冬の間、屋敷の様子が少しおかしかったのは肌で感じている。アルバストは絶対になにか隠しているし、ヴィヴィアナは時折悲しそうな瞳をする。それに繋がりがあるのか、そしてそれがなんであるかは分からない。けれど自分が今のこの状況を変えられるならば、なにか行動したいと思った。それが記憶を取り戻すことだとしても。正直失った記憶を思い出したいかといわれれば、辛いことばかりだろうし怖くていやだ。だが、ヴィヴィアナの為ならば、思い出してもいい気がする。
亡くしてしまった家族にはなにもできなかった。だからせめて、ヴィヴィアナにはできる限りのことをしてあげたい。
「――――僕は君になにかしてあげたいんだ」
「ギルバート様」
聞き慣れた声がして、まどろみの中の意識がはっきりとしていく。だがまだ眠い。起きる気分じゃない。早くカーテンを閉めてくれ。昨日は遅かったからまだ寝ていたい。
「ギルバート様、起きてください!」
チリンチリンと本来は主が侍従を呼ぶための鈴を耳元で強く鳴らされ、ギルバートは驚きに跳ね起きた。窓からの日差しに目を細め、にっこりと爽やかな笑みで顔を覗き込んでくるアルバストをついでに睨んだ。
「もっと穏やかに起こせないのか?」
「もちろん起こしましたとも。ギルバート様は全く反応してくださいませんでしたが」
「それでもこの起こし方はないだろう。心臓がまだバクバクしている」
はぁ、とギルバートは大きなため息をついた。幼馴染とはいえここまで無遠慮だっただろうか。見た目は老けたのに中身は全く変わっていない。
「無駄に目が冴えた」
文句の一つは言ってやらないと済まなかった。ギルバートはそのまま後ろに倒れ、大きな枕の中に沈み込んだ。もう一度寝れるかと言われればそうでないが、昨日は遅くまで本を読んでいたのでまだ寝転んでいたい気分だ。今日はもう少しベッドでゴロゴロしてから起き上がろう。
「そんなギルバート様にもっと目が覚める朗報です」
布団に潜り込み始めたギルバートの手を抑え、アルバストはとびっきりの笑みで窓際を指さした。眩しさに目をこすり、よく見るとそこには時計がかかっている。そしてその時間は――――
「それは朗報とは言わない! あと少しでヴィヴィアナとの食事の時間じゃないか!?」
先ほどよりも機敏な動きで跳ね起きると、素早くローブを脱ぎ捨てる。他の侍従たちが支度をしにやってきて、ベッドの縁に座り、まずは顔を洗う。侍従たちが持ってきてくれた底が深い皿にはぬるま湯が張られていて、覗き込むと随分と老けた自分が見えた。もうこの数か月で見慣れたが、それでも自分だけ違う世界にいるようで胸が痛む。そんな考えを振り払い、服を変え、寝癖を直した。骨折していた手は綺麗に折れていたそうでもうほぼ完治している。だが、足はまだかかるようで、松葉杖を使って移動をしている。
「全く、何度も起こしましたと申し上げましたでしょう?」
少し面白そうにアルバストは笑った。思えばこの十年後の世界に来てから間もないころ、アルバストはあまり笑うことがなかった。それで少し距離を感じていたのだが、最近は本来の幼馴染が戻ってきてくれたようで嬉しい。
やっと準備が終わると、松葉杖を受け取り、部屋を出た。流石にずっとギルバートの部屋で食事をするわけにはいかないので最近は食堂を使っている。
「お待ちしておりました」
通常よりも遅い歩みで食堂に到着すると、すでにヴィヴィアナが待っていた。慌てて用意をしたギルバートとは違い、きちんと朝起きて準備したであろうヴィヴィアナは豊かな金の髪を半分結い上げていた。いつも思うが、ヴィヴィアナは隙がない。まるで厳格でありながら優しかった姉のようだ。姉は自分に厳しく、常に規律を重んじる人ではあったが、ギルバートにはいつだって優しい人だった。風邪を引いたときは遅くまで看病してくれた。勉強が嫌なときは丁寧に教えてくれた。アルバストと喧嘩したときは二人の意見をきちんと聞いて叱ってくれた。……もう、会えることはないが。
ヴィヴィアナも姉のような印象を受ける。優しさに包み込まれてそのまま甘えてしまいたくなってしまうような。けれど、同時に怪我をしたギルバートの為に気を張っているような気もする。確かに精神的には年下ではあるが、そんなに頼りないように見えるだろうか? それとも彼女にとっての『旦那様』ではないギルバートに心を許したわけではないのだろうか? 少し、不安になった。
「旦那様、また手が止まっていらっしゃいますよ? 体調が悪いのですか?」
食事中につい考え事にぼーっとしてしまった。ギルバートは首を振ってそれを払い、フォークに刺さった野菜を口に運んだ。
「いや、昨日は遅くまで本を読んでいたからな」
「まぁ、勉強熱心ですわね。今はなにを学ばれているのですか?」
「主に国法だ。昔投げだした暗記を今になってするとは思わなかった」
「旦那様はやんちゃだったのですね。まさか授業から逃げたりしていたのですか?」
「…………それに関しては答えるつもりはない」
「ふふっ、その言い方ですと答えているも同然ですわ」
くすくすと上品にヴィヴィアナは笑った。その姿を見つめていると、後ろから侍女がやってきてなにか耳打ちをされたようだ。まぁ、と言って嬉しそうに手を合わせた。
「旦那様、今日はわたしの予定が空けられるようですの。ですから、一緒に勉強いたしませんか?」
「一緒に? だが、君には退屈じゃないか?」
「そんなことありませんわ。復習も大切です。――それに、久しぶりに一緒に過ごせるんですもの!」
春まであと少しだが、まるで花が咲いて舞っているかのように華やいでヴィヴィアナは笑った。最近よく見るヴィヴィアナは大人っぽい笑い方をしていたが、今のはとても愛らしくて全然印象が変わる。妹がいたことはないが、普段は大人の女性らしく振舞う彼女が時折甘えたり褒めてほしそうな表情をするとき、きっと妹がいたらこうであろうと思わせてくれる。とはいっても、勉強に関してはギルバートが習う側なのだが。いつも以上に頑張らねばと気合が入った。
朝食を終え、ギルバートはさっさと図書室に行くという指示を出した。だが、ヴィヴィアナには少し時間をおいてから部屋に迎えに行くと言ってある。それまで時間があった。
松葉杖を置いて、ソファに座りこむ。ふと、周りを見回すと、続きの扉が目に入った。それは夫婦が互いの部屋から寝室に行きかうためのものだ。もちろんギルバートが使った記憶はない。本来ならばあの扉の先にヴィヴィアナの部屋があるべきだろうが、彼女の部屋はこの部屋から少し行った家族が住む場所だ。なぜかと疑問に持ったことがないわけではなかったが、暇になると無性に気になってくる。ぱたぱたと忙しなく働く侍従を引き止めて問うた。
「なぜヴィヴィアナはあの部屋を使っていないんだ?」
「お、奥様の部屋のことですか…?」
侍従は視線をその部屋にやると、頭をすぐさま下げた。
「あそこは長いこと使っていなかったので閉ざしてしまったと聞いています。ヴィヴィアナ様が別の部屋を気に入られたこともあって、そのままにしてあるのです」
「そうか……」
なにか理由があったのだろうが、ヴィヴィアナが気に入った部屋があり、そこを使っているのならば別に気にすることはないだろう。まだやることがあるだろう侍従はそのまま下げた。
時計を見ると、ちょうどいい時間だった。ギルバートは松葉杖を使い、歩き始める。最初はぎこちなかったが、今では慣れてしまった。ヴィヴィアナと合流し、図書館へと向かう。
「すっかり雪も落ち着いてきましたわね」
「雪の乙女も今か今かと春の精霊の目覚めを待ち構えているだろう」
「ええ……」
短い会話を交わしながら、床に映った窓の影を踏んで廊下を進む。すると、一人の行儀見習いが通りがかった。見たところ荷物を運んでいるようだったが、ギルバートと目が合い、そのあとヴィヴィアナの姿を見るとそそくさとその場を去っていった。部屋に籠っているのでほとんど使用人に会うことはないが、会うたびになんだか遠巻きに避けられている気がする。だが、アルバストに十年間の話を聞いたところ『氷の伯爵』と呼ばれるほど冷たく厳しかったのだから、使用人たちも少し怯えているのかもしれない。それよりもそんな二つ名が付いていることが今は恥ずかしい。
のんびりと話しながら図書室に着くと、すぐにアルバストの授業が始まった。そしてそれが終わるとヴィヴィアナの文官だというソイニの授業も立て続けに受ける。ソイニは最近教鞭を振ってくれるようになったのだが、開口一番『馬鹿は嫌いです』と言って授業を始めた男だ。本当に馬鹿は嫌いなようで、ミスをするとすぐにこれくらいもできないのかと言われた。心が折られそうにもなったが、教え方は本当に分かりやすくて、みるみると勉学が身についていると実感できる。だがそれにしても初めてヴィヴィアナと授業を受けたが、彼女に対しては甘すぎではないだろうか? 少し計算が遅れていても、むしろ間違っていても流石ですねという言葉しか出てこなかった。贔屓が過ぎないだろうか? それが視線に出ていたのだろう。本来は貴方が身に着けていなければならないことですと言われてしまってぐうの音も出なかった。目を逸らして黙々と計算を続けるしかなかった。
「さて、あとは暗記ですが、僕は忙しいのであとは自分でやってください」
「ありがとう、ソイ」
「いえ、お嬢様は暗記に関しては全て覚えていらっしゃるので退屈になってしまいませんか?」
「旦那様と一緒だから大丈夫よ」
ソイニはわかりましたと心配そうに頷くと、本当に忙しいようでさっさと図書室から去っていった。残されたギルバートたちは一度昼食の休憩をすると、また戻ってきてソファに並ぶ。そしてヴィヴィアナは片手で抱えられない国法の分厚い本を手に取り、ギルバートに渡した。それを全部暗記するのは正直うんざりしてしまうが、覚えておかなければこの領地を治めるのに支障がある。少しため息が出た。
「ヴィヴィアナはこれを全て覚えているのか?」
「ええ。計算は苦手ですが、暗記だけは得意ですの。一、二度読めば大抵は覚えてしまいますわ」
疑うわけではなかったが、一枚目をめくって読み上げてみる。
「序章一節 神はおっしゃった」
「国は民の為に在ると。王は民の為に在ると。民は国の為に在らずと」
「二章四節」
「王は神殿を侵してはならぬ。神の代弁者たる神官は国を侵してはならぬ。神は民のためなれど、国の為に在らず。故に国は神の名をもってことを成してはならぬ」
他にも何節か聞いてみたが、一言一句間違えはなかった。ここまで来ると、もう称賛しか出てこない。
「……すごいな」
「ふふっ、数少ない特技ですもの。お褒めに預かり光栄ですわ」
「だが、僕がこれを覚えるのは……」
「記憶を失くす前は全て覚えてらしたんですもの。心配しなくても大丈夫ですわ。まずは全てを一読し、基本の序章一章と、領地を治めるのに必要な五章を覚えてみましょう? わたしも手伝います」
そう言ってヴィヴィアナは手伝ってくれた。彼女は法を理解しているというより、全て覚えているだけだったようで解説は出来なかった。だが、全てを網羅しているからこそ法同士のつながりが分かり、読み進めることは捗った。しかし、結局はギルバートが覚えなければならない。一人でぶつぶつと何度も読み返し始める。ヴィヴィアナは紅茶を入れたりとサポートしてくれた。
そして序章を全て覚えるまであと一節となったころ、ふと肩に重みを感じた。驚きに少し肩を震わせて首だけを動かすと、スーゥと小さく寝息を立てたヴィヴィアナが眠っていた。手にはギルバートが見たことのない本を開きかけで持っている。読んでいるうちにそのまま眠ってしまったのだろう。疲れているのだろうか。
春が近づき、領地の産業はこれから活発になる。ソイニが主導して指揮をしているそうだが、今の最終決定者はヴィヴィアナだ。毎日書類仕事で忙しいと聞いている。アルバストは春になれば少しずつ任せていきたいと言っていたが、なにもできない今がもどかしい。
「すまない……」
小さく呟くと、膝にクッションを置いてその上にゆっくり慎重にヴィヴィアナの頭を動かした。それでも起きる気配は全くなかった。よほど疲れているのだろう。
規則正しい呼吸音が二人だけの図書室によく響いた。窓の外を見ると白く輝いていた太陽は赤くじりじりと地平線に沈んでいる。陽が落ちるが早い時期とはいえ、時間がこんなに経っていたとは気づかなかった。
静かに眠るヴィヴィアナを眺める。思えばヴィヴィアナの寝ている姿をみるのは初めてだ。綺麗な顔立ちをしているので大人っぽく見えがちだが、眠ると子供のようで愛らしい。
十年後の世界に来て突然湧いて出てきた妻という存在。ずっと結婚を想像していた人でもないし、社交界で顔を見たこともなかった女性。彼女の印象といえば、ただひたすらに優しいことだった。きっと知っている人に忘れ去られるのは辛いことだろう。けれど彼女は悲嘆することなく支えてくれた。そしてこの冬の間で家族のような存在になった。妻だから家族なのは当たり前かもしれないが、それでも初めて会った時はギルバートにとっては他人同然だし、精神的には年上の女性だし、と戸惑うことばかりだった。けれど一人取り残されたこの寂しい世界の中で、何度も何度も世の理不尽に打ちのめされそうになった。なぜ家族は殺されなければならなかったのだろう。なぜ死ぬのはギルバートの家族ではなければいけなかったのだろう。……なぜ、自分は一緒に死ななかったのだろう。だから家族の下へ行きたいと、楽になりたいと、考えた。けれど彼女の優しさは本物で、ギルバートに生きていいのだと言ってくれる気がした。彼女だけがこの世界にギルバートを繋ぎとめてくれた。
――――僕は彼女になにができるだろう。
度々思うことだった。今、全て頼りきりになってしまっている。だから何かしてあげたい。この冬の間、屋敷の様子が少しおかしかったのは肌で感じている。アルバストは絶対になにか隠しているし、ヴィヴィアナは時折悲しそうな瞳をする。それに繋がりがあるのか、そしてそれがなんであるかは分からない。けれど自分が今のこの状況を変えられるならば、なにか行動したいと思った。それが記憶を取り戻すことだとしても。正直失った記憶を思い出したいかといわれれば、辛いことばかりだろうし怖くていやだ。だが、ヴィヴィアナの為ならば、思い出してもいい気がする。
亡くしてしまった家族にはなにもできなかった。だからせめて、ヴィヴィアナにはできる限りのことをしてあげたい。
「――――僕は君になにかしてあげたいんだ」
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